オスマンは“王宮”から届けられた一冊の本を見つめながら、ボンヤリと髭をよっていた。
古びた皮革の装丁がなされた表紙はボロボロで、触っただけでも破れてしまいそうな本である。色褪せた羊皮紙のページは、色褪せて茶色くくすんでいる。
オスマンは「ふむ」と呟きながら、ページをめくる。そこには何も書かれていない。おおよそ300ページほどあるだろうその本は、どこまで捲っても、白紙なのである。
「これが“トリステイン王家”に伝わる、“始祖の祈祷書”か……」
6,000年前、“始祖ブリミル”が神に祈りを捧げた際に詠み上げた“呪文”が記されていると伝承には遺っているのだが、それにしては“呪文”の“ルーン”どころか、文字さえも記載されていないのである。
「紛い物じゃないのかの?」
オスマンは、胡散臭げにその本を眺める。
偽物……この手の伝説の品にはよくあることだといえるだろ。それが証拠に、1冊しかないはずの“始祖の祈祷書”は、各地に存在している。金持ちの“貴族”、寺院の司祭、各国の“王室”……どれも自分“始祖の祈祷書”が本物だと主張しているのである。本物か偽物かわからぬ、それらを集めただけで図書館ができるといわれているくらいであるのだから。
「しかし、紛い物にしても、酷い出来じゃ。文字さえ書かれておらぬではないか」
オスマンは、各地で何度か“始祖の祈祷書”を見たことがあった。“ルーン文字”が踊り、祈祷書の体裁を整えていた。しかし、この本には文字1つ見当たらない。これではいくらなんでも、詐欺ではないかと思えてしまうほどである。
その時ノックの音が鳴る。
オスマンは、(秘書を雇わねばならぬな)と思いながら、来室を促した。
「鍵はかかっておらぬ。入って来なさい」
扉が開いて、1人のスレンダーな少女が入って来た。桃色がかったブロンドの髪に、大粒の鳶色の瞳の少女ルイズである。
「わたしをお呼びと聞いたものですから……」
ルイズは言った。
オスマンは両手を広げて立ち上がり、この小さな来訪者を歓迎した。そして、改めて、先日のルイズの労を労った。
「おお、ミス・ヴァリエール。旅の疲れは癒せたかな? 思い返すだけで、辛かろう。だがしかし、お主たちの活躍で同盟が無事締結され、“トリステイン”の危機は去ったのじゃ」
優しい声で、オスマンは言った。
「そして、来月には“ゲルマニア”で、無事王女と、“ゲルマニア”皇帝との結婚式が執り行われることが決定した。君たちのおかげじゃ。胸を張りなさい」
それを聞いて、ルイズは少しばかり悲しそうな表情を浮かべる。
幼馴染のアンリエッタは、政治の道具として、好きでもない皇帝と結婚するのである。同盟のためには仕方がないとはいえ、ルイズはアンリエッタの悲しそうな笑みを思い出すと、胸が締め付けられるような錯覚を覚えるのであった。
ルイズは黙って頭を下げた。
オスマンは、しばらくジッと黙ってルイズを見詰めたが、思い出したように手に持った“始祖の祈祷書”をルイズに差し出した。
「これは?」
ルイズは、怪訝な表情を浮かべその本を見つめた。
「“始祖の祈祷書”じゃ」
「“始祖の祈祷書”? これが?」
“王室”に伝わる、伝説の書物。国宝のはずのそれをオスマンが持っていることに、ルイズは疑問を覚えた。
「“トリステイン王室”の伝統で、“王族”の結婚式の際には“貴族”より選ばれし巫女を用意せねばならんのじゃ。選ばれた巫女は、この“始祖の祈祷書”を手に、四季の詔を詠み上げる慣わしになっておる」
「は、はぁ」
ルイズは、そこまで宮中の作法に詳しくはなかったので、気のない返事をした。
「そして姫は、その女に、ミス・ヴァリエール、そなたを指名したのじゃ」
「姫さまが?」
「その通りじゃ。巫女は、式の前より、この“始祖の祈祷書”を肌身離さず持ち歩き、読み上げる詔を考えねばならぬ」
「えええ!? 詔をわたしが考えるんですか?」
「そうじゃ。もちろん、草案は宮中の連中が推敲するじゃろうが……伝統というのは、面倒なもんじゃのう。だがな、姫はミス・ヴァリエール、そなたを指名したのじゃ。これは大変に名誉なことじゃぞ。“王族”の式に立ち会い、詔を 読み上げるなど、一生に1度あるかないかじゃからな」
ルイズはキッと顔を上げた。
「理解りました。謹んで拝命いたします」
ルイズはオスマンの手から、“始祖の祈祷書”を受け取った。
オスマンは目を細めて、ルイズを見つめた。
「快く引き受けてくれるか。良かった良かった。姫も喜ぶじゃろうて」
その日の夕方。
才人は風呂の用意をしていた。
“トリステイン魔法学院”に、風呂はある。大理石で出来た、“ローマ”式の風呂のような造りをした風呂である。プールのように広く大きく、香水が混じった湯が張られ、天国気分との話であったが、もちろん俺たちは入ることはできない。そこには“貴族”しか入ることが許されていないのだから。
“学院”内で働く“平民”用の風呂もあるにはあるのだが、“貴族”のそれに比べると、かなり見劣りするモノなのである。“平民”用の共同風呂は、掘っ立て小屋のような造りをしたサウナ風呂である。焼いた石が詰められた暖炉の隣に腰かけ、汗を流し、十分に身体が温まったら、外に出て水を浴び、汗を流す。そういう風呂なのだから。
そんな風呂だということもあって、俺たちは1日入っただけで嫌になってしまった。“日本”で育ったということもあって、やはり風呂釜にたっぷりと湯を張り、そこに浸かるのが1番だろうと思うのである。
そう思い困った才人が、コック長のマルトーに頼み込み、古い大釜を1つ貰い、今に至るのである。
五右衛門風呂の要領で、釜の下に薪を焚べ、蓋を沈めて底板にして入るのだ。
その五右衛門風呂は、“ヴェストリの広場”の隅っこに設えていた。この広場は、人があまり来ないということもあって、都合が良いのであった。
日が陰り、2つの月が薄っすらと姿を見せて来た。
湯が湧いたので、バッと服を脱ぎ捨て、才人は蓋を踏みながら大釜に浸かった。
「あー、好い湯だな、こりゃ」
才人はタオルを頭に乗せ、鼻歌を歌う。
大釜の横の壁に立てかけたデルフリンガーが、才人に声を掛けた。
「良い気分みてえだね」
「ああ、良い気分だ。セイヴァーも誘えば良かったかな……」
「ところで相棒、この前のなんてあの娘っ子を手篭めにしなかったんだね?」
才人は、生暖かい視線で、デルフリンガーを見つめた。
「その目はやめてくれ。気味悪いよ相棒」
「なあ“伝説の剣”」
「如何にも俺は“伝説の剣”だが、どうしたね?」
「お前は6,000年も生きて来て、誰かを守ろうとか、大事に思ったことは、なかったのか?」
デルフリンガーは軽く震えた。
「守るのは俺じゃねえ。俺を握った奴が、誰かを守るのさ」
「可哀想な奴だなあ……」
才人は心底同情する声で言った。
「可哀想なもんかね。逆に気楽で良いや」
「そっか。ところでお前は、なんか覚えていないのか? その“ガンダールヴ”のこと。どんな格好してたのとか、いったい、どんなことをしてたのかとか……」
才人は持ち前の好奇心を発揮させて、デルフリンガーに尋ねた。
「覚えてね」
「あらま」
「なにぶん大昔のことでな。まあ、セイヴァーが一緒にいたことだけは覚えてるが……それより、相棒、誰か来たみてえだぜ」
月に照らされ、人影が現れた。
「誰?」
才人が声を掛けると、人影はビクッ! として、持っていたなにかを取り落とした。ガチャーン! と月夜に陶器の何かが割れる音が響き渡る。
「わわわ、やっちゃった……また、怒られちゃう……くすん」
その声で、才人は暗がりから現れた人物に気が付いた。
「シエスタ!?」
月明かりに照らされて姿を見せたのは、“アルヴィーズの食堂”で働く、メイドのシエスタだった。
仕事が終わったばかりなのであろう、いつものメイド服であったが、頭のカチューシャを外している。肩の上で切り揃えられた黒髪が、艶やかに光っている。
シエスタはしゃがむと、落っこちた何かを一生懸命に拾っていた。
「な、なにやってるの?」
才人が声をかけると、シエスタは振り向いた。
「あ! あのっ! その! あれです! とても珍しい品が手に入ったので、サイトさん達にご馳走しようと思って! 今日、厨房で飲ませて上げようと思ったんですけどおいでにならないから! わあ!」
慌てた様子で、シエスタは言った。
シエスタの隣にはお盆がある。そこにはティーポットとカップが載っていた。
どうやら彼女は声を掛けられた拍子に驚いて、カップ1個を落として割ってしまったらしい。
「ご馳走さま?」
風呂釜に浸かりながら、才人は言った。
シエスタは、才人が素っ裸であることに気付いたらしい。少し恥ずかし気に目を逸らした。
「そうです。東方、“ロバ・アル・カリイエ”から選ばれた珍しい品物とか。お茶っていうんです」
「お茶ぁ?」
才人にとってそんなモノ、珍しくもなんともない代物であった。
シエスタは、ティーポットから、割れなかったカップに注ぐと彼に差し出した。
「ありがとう」
才人はそれを口に運んだ。
お茶の良い香りが鼻孔を擽る。“日本”で飲むことができる緑茶とさほど変わらない味がしたが、少し違う。だが、上手く言葉にすることができなかった。
才人は、思わず目頭を拭った。
「ど、どうなさいました!? 大丈夫ですか!?」
シエスタが、風呂釜に身を乗り出す。
「い、いや、ちょっと懐かしかっただけだから。平気だよ。うん」
才人はそう言って再び、カップを口に運ぶ。お風呂でお茶なんて妙な組み合わせだろうが、どちらも才人を郷愁に浸らせるには十分なモノであった。
「懐かしい? そっか、サイトさんは、東方のご出身なんですね」
シエスタははにかんだ笑みを見せる。
「ま、まあそんな感じかな。でも、よく俺がここにいるのがわかったね」
才人がそう言うと、シエスタは顔を赤らめた。
「え、えと、その。たまにここで、こうやってお湯に浸かっているのを見てたもんですから……」
「覗いてたの?」
才人がキョトンとした声で言うと、シエスタは慌てて首を横に振った。
「いえ、その、そういう訳じゃ!」
釜の周りには溢れたお湯でぬかるんでいたので、慌てた拍子にシエスタは足を滑らせ、わっ、と驚きの声を上げて釜の中に滑り落ちた。
シエスタの悲鳴が、ドボーンと釜の中に飛び込む音で掻き消された。
「大丈夫?」
才人は呆然として尋ねた。
「だ、大丈夫ですけど……わーん、ビショビショだぁ……」
ビショ濡れのシエスタが、お湯から顔を出した。
メイド服が濡れて、悲惨なことになってしまっている。
シエスタは、顔を赤らめて下を向いた。
才人は慌てた。
「ご、ごめん! つってもこれお風呂だし!」
「い、いえ、その、すいませんっ!」
謝りつつも、シエスタは風呂から出ようとしない。
才人も、こうなったらと開き直ることにした様子を見せる。
「うふふ」
メイド服のまま、大釜に浸かってシエスタは笑った。笑う状況ではないのだが、笑った。
「ど、どうしたの?」
才人は水面下を見つめたが、暗いのでお湯の中は見えないのだった。
「いえ、でも、気持ち好いですね。これがサイトさん達の国のお風呂なんですか?」
才人は安心した様子を見せながら答えた。
「そうだよ。普通は服を着ながら入ったりはしないけど」
「あら? そうなんですか? でも、考えてみればそうですよね。じゃあ、脱ぎます」
「はい?」
才人は目を丸くしてシエスタに尋ねた。
「今、なんとおっしゃいました?」
シエスタは、しばらく恥ずかしそうにモジモジしていたが、なぜか開き直ったらしい。唇を軽く噛んだ後、決心したように才人を見詰めた。
「脱ぎます、と言ったんです」
「あの、シエスタさん? 僕、男なんですけど……?」
才人は唖然として、尋ねた。
「大丈夫です。サイトさんが、襲ったりするような人じゃないこと、知ってますから」
才人は首肯いた。
「いや、まあ、そりゃそんなことはしないけど……」
「ですよね。わたしもこのお風呂にちゃんと入ってみたいんです。気持ち好いし」
そして、え? と才人が見守る中、シエスタはお湯から出ると服を脱ぎ始めた。
才人は慌てて目を逸らした。
「ま。まずいよ! シエスタ! ちょっと! やっぱまずいって!」
と言いつつも、「やめて」とは言えないのが、才人の、男としての弱いところであり、本音であった。
「で、でも、ビショビショだし……このまま帰ったら部屋長に怒られちゃう。火で乾かせばすぐに乾くと思うし」
大人しそうではあるのだが、どうやら彼女は一旦決めると大胆になるタイプのようである。
彼女は、ポンポンブラウスのボタンやスカートのホックを外して行く。実に、気持ちの良い脱ぎっぷりだといえるだろう。
シエスタは脱いだメイド服や下着を、薪を使って火の側に干した。それから、再びお湯の中へと入る。
「うわあ! 気持ち好い! あの共同のサウナ風呂も良いけど、こうやってお湯に浸かるのも気持ち好いですね! “貴族”の人たちが入っているお風呂みたい。そうですね、羨ましいならこうやって自分で造れば良いんだわ。サイトさんは頭が良いですね」
「そ、そんなことないけど」
才人は顔を背けながら答えた。
横に裸の女の子がいるというだけで、才人はのぼせて倒れそうになってしまいそうになった。
シエスタは、はにかんだ笑みを浮かべて言った。
「そんなに照れないでください。わたしも照れるじゃないですか。こっち向いても大丈夫ですよ。ほら、ちゃんと胸は腕で隠してますから……それに、水の中は暗くて見えないから平気ですよ」
才人は喜び半分、戸惑い半分の気持ちで前を向いた。
シエスタは、才人の前にチョコンと座ってお湯に浸かっている。
暗いおかげだろうか、確かに水面の下の肢体は見えない。
だが、才人は彼女を見て息を呑んだ。 なにせ、暗がりの中のシエスタは、黒髪が濡れ、艶やかに光っているのである。
彼女には、ルイズやアンリエッタとは違う、野に咲く可憐な花のような魅力があり、大きな黒い瞳は親しみやすさを演出しており、低めの鼻も愛嬌があって可愛らしいといえるだろう。
「ねえ、サイトさん達の国ってどんなところなんですか?」
「俺の国?」
「うん。聞かせてくださいな」
シエスタが身を乗り出して、無邪気に訊いて来る。
「え、えっと! 月が1つで、魔法使いがいなくって、そんでもって、電気はスイッチで消して、空を飛ぶ時は飛行機が飛んで……」
才人がしどろもどろにそう言うと、シエスタは頬を膨らませた。
「嫌だわ。月が2つだの、魔法使いがいないだの、わたしをからかってるんでしょう? 村娘だと思って、馬鹿にしてるんですね」
「からかってなんかないよ!」
才人は、(ホントのことを言ったら混乱させるだけだろうな。なにせ、異世界からやって来たことを知ってるのは、今のところルイズとシオン、セイヴァー、オスマン氏と、姫さまだけだし)と思った。
「じゃあ、ちゃんとホントのこと言ってくださいな」
シエスタは、才人を上目遣いで見つめた。
そんなシエスタの黒い髪と瞳は、才人に懐かしい“日本”の女子を思い出させた。もちろん、顔の造りは“日本人”のそれとは違う。だが、素朴で懐かしい感じの魅力を放っている、と彼に感じさせた。
「そ、そうだな……食生活が違うかな」
才人は当たり障りのないだろう範囲で、“日本”のことを話した。
シエスタは目を輝かせて、その話に聞き入った。
しばらく経つと、シエスタは胸を押さえて立ち上がった。
才人は慌てて目を逸らす。
横を向いている才人の側で、シエスタは乾いた服を身に着け、彼へとペコリと礼をした。
「ありがとうございます。とても楽しかったです。このお風呂も素敵だし、サイトさんの話も素敵でしたわ」
シエスタは嬉しそうに言った。
「また聞かせてくれますか?」
才人は首肯いた。
シエスタはそれから、頬を染めて俯くと、はにかんだように指を弄りながら言った。
「えっとね? お話も、お風呂も素敵だけど、1番素敵なのは……」
「シエスタ?」
「貴男、かも……」
「な、なんですとッ!?」
シエスタは小走りに駆けて行った。
才人はその異国の少女らしい本気か冗談かわからないベタな台詞と、長湯の所為でグッと上せて、大釜にグッタリと寄り添った。
湯から上がって、才人がルイズの部屋に戻ると、ルイズはベッドの上でなにかをやっていた。
才人の姿を見ると、慌ててそれを本で隠した。その隠されたそれは。古ぼけたボロボロの大きい本であった。
才人は雑念を振り払いながら、洗濯に向かうために洗濯物の入った籠に近寄った。お風呂の残り湯を利用して洗濯すると、指が冷たくないというのが理由である。
しかし、そこは空っぽであった。
「ルイズ、洗濯物はどうした?」
才人が尋ねると、ルイズは首を振った。
「もう、洗った」
「洗ったってお前……」
そして才人はルイズを見て、ウッ! とびっくりした。
なんとルイズは、才人がお風呂に行く前に部屋に脱いで行った彼のナイロンパーカーを着用しているのである。
才人は、ここ最近五右衛門風呂を造ってからは、そこに行く際には、お風呂に入ると身体が熱くなるといった理由から、そのナイロンパーカーを脱いで、Tシャツだけになって行くのである。
ルイズは、恐らく下着の上に直に着ているのだろう。袖も丈もブカブカなので、見様によっては妙なワンピース姿にも見える。
「お前、なんで俺の一張羅着てんだよ!?」
才人がそう訊ねると、ルイズは口元をナイロンパーカーの中に埋めた。
ルイズは、頬を染めて言った。
「だって……洗濯したら、着るのなくなちゃったんだもん」
「あるじゃん! いっぱい!」
才人はクローゼットを開けた。
そこには、ルイズは“貴族”だということもあって、高価そうなドレスやらを始めとした服が沢山入っており、並んでいる。
「だって、それは余所行きの服だもん」
ルイズはベッドに正座して、拗ねたような口調で言った。
「普段着あるじゃん」
才人は地味目のワンピースを手に取った。
「そんなの着たくないもん」
「でも、俺それしかないのよ。返してよ」
しかし、ルイズは脱ごうとしない。それどころか、立てた指でシーツを捏ね繰り回している。
「これって、軽くて着心地が好いわね。なにでできてるの?」
どうやら彼女は、着心地が好いという理由で着ているらしい。
「ナイロン」
「ないろん?」
「俺の世界にはそういう生地があるんだよ。石油から作るんだ」
「せきゆ?」
「海の底にプランクトンが溜まって、長年かけて、油になるんだ。その油で作るんだ」
「ぷらんくとん?」
ルイズはキョトンとした目付きで、子供みたいに才人の言葉をオウム返しした。
パーカーに顔の下半分が隠れているということもあって、どのような表情を浮かべているのかわかり難い。
才人は、(ちょっと可愛いじゃねえかこいつ)と思い、そして、今までのルイズからは、考えられない行為ということもあって自分で洗濯したことに対して感心と同時に恐怖を覚えた。
才人は「頬も赤いし、流石に熱があるんじゃねえか? 病気じゃないだろうな?」と心配をし、それを確かめるためにルイズへと近付く。
才人が近寄ると、ルイズはビクッ! と震えた。そして、う……と唸った。
才人は(そんなに嫌うなよ)と思いながらルイズの肩を捕まえ、額を近付けると、ルイズは身体を強張らせつつも、大人しく目を瞑った。
「熱はないみたいだな」
才人がそう言ってくっ付けた額を離すと、ルイズは拳をギュッと握り締めた。
才人が「どうした?」と尋ねると、ルイズはプイッと後ろを向いて、ゴソゴソと布団に潜り込んだ。
才人が「おい」と突くと、ルイズは「寝る」と言って、黙ってしまう。
才人は(まあ、熱はないみたいだし、放っとくか)と思って藁束の中に潜り込んだ。
そのままジッとしていると、彼へと向けて枕が飛んで行く。
「なんなんですか?」
才人が尋ねると、「今投げた枕持って来なさい。ベッドで寝て良いって言ってるじゃない。馬鹿」と拗ねた声でルイズは答えた。
才人は「どしたんだろう?」と思いながら、彼女のベッドに潜り込んだ。
ルイズはモゾモゾと布団の中で動いていたが、その内部に大人しくなった。
ルイズの部屋の窓の外ではタバサのシルフィードがプカプカと浮いていた。その上には、例によってキュルケとタバサの姿がある。
タバサは月明かりを頼りに本を読んでおり、キュルケは窓の隙間からルイズの部屋の様子をジッと見つめていた。
キュルケはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「なによー、ホントに仲良くなってるじゃないの」
キュルケの頭には、“アルビオン”から帰るシルフィードの上で頬を染めて才人に寄り添っていたルイズの顔が浮かび上がった。その時のルイズは、満更でもなさそうであったのである。
「まったく、あたしだって、そりゃ、本気じゃないわよ? でもねー、あそこまであたしのアプローチ拒まれると、ついつい気になっちゃうのよね」
ついこの前まで、彼女の求愛を拒んだ男はいなかったのである。それがキュルケの自慢であった。いや、本当はそんなこともないのだが、キュルケは良くも悪くも、自分に都合の悪いことは直ぐに忘れてしまう
キュルケはいらついているのであった。
才人が、先ほど“平民”の娘と一緒にお風呂に入っていたのを見ていたのである。
彼女のプライドがガサガサと揺らぐ。ルイズに負け、“平民”の娘にまで負けたのでは、“微熱”の二文字が揺らいでしまうと感じているのであった。
それに、ルイズが才人になびいているのであれば是が非でも奪い取らねばならないと、彼女のプライドと血がそう思わせた。ラ・ヴァリエールから恋人を奪うのは、これフォン・ツェルプストーの伝統なのであるからして。
「うーん、陰謀策謀は得意じゃないけど、少しは作戦練ろうかしら? ねえタバサ」
タバサは本を閉じて、キュルケを指さして言った。
「嫉妬」
キュルケは頬を染めた。
それから、キュルケはタバサの首を絞めてガシガシと振った。
「い、言ってくれるじゃないの! 嫉妬じゃないわよ! あたしが嫉妬なんかする訳ないじゃない! ゲーム! これは恋のゲームなのよ!」
それでもタバサは堪えず、同じ台詞を繰り返した。
「嫉妬」
時間は遡り、才人が五右衛門風呂に入り始めた頃。
シオンと俺は、彼女の自室の中で“魔術”や“聖杯戦争”などについてのことを話していた。
「良いか? “聖杯戦争”には7体の“サーヴァント”が“召喚”される」
「うん。それは何度も聞いたから覚えてるよ」
「それは結構。その“サーヴァント”には“クラス”という役割があてがわれる」
「“クラス”?」
「そうだ。基本的には、“セイバー”、“ランサー”、“アーチャー”、“ライダー”、“アサシン”、“キャスター”、“バーサーカー”の7つ」
「なんとなくだけど、どういった“クラス”かわかるよ。“セイバー”は剣士、“ランサー”は槍兵、“アーチャー”は弓兵、“ライダー”は騎乗兵、“アサシン”は暗殺者、“キャスター”は“メイジ”、“バーサーカー”は狂戦士だね?」
「正解だ。“クラス”はそれぞれの生前の行いや逸話などから、適正が判断されあてがわれる。“セイバー”であれば剣を扱うのが得意だった、といった具合にね」
シオンはうんうんと相槌を打った。
「“ランサー”は槍兵、基本的に槍を扱うことに長けた、なおかつ俊敏性などが高い存在があてがわれる。“アーチャー”は弓の扱いが上手い存在で、中には何かを撃つことや投げることが得意だったりする存在が選ばれることもある。“ライダー”は何かに乗る逸話がある存在だな。“アサシン”は基本的に暗殺者が、成功失敗問わず、なる。“キャスター”は“メイジ”を始めとした“魔法”や“魔術”の扱いに長けた者。“バーサーカー”は過去に狂ったことのある存在や狂うような振る舞いなどをした存在がなる。大半の“バーサーカー”は理性を失っているけど、一部理性的な“バーサーカー”もいるがね」
首肯いていた彼女だが、そこで疑問符を頭の上に浮かべ、首を傾げて訊いて来た。
「なら、セイヴァーは? セイヴァーはどうなの?」
「そうだな。先ほど言った通り、7つは基本的な“クラス”だ。そして、他にも“エクストラクラス”が存在する」
シオンは興味津々といった風な視線を向けて来る。
「“アヴェンジャー”、“セイヴァー”、“ルーラー”、“シールダー”、“ウォッチャー”、“フェイカー”、“アルターエゴ”、“ムーンキャンサー”、“ゲートキーパー”、“ガンナー”、“ファニーヴァンプ”……」
つらつらと俺は存在するだろう“サーヴァント”の“クラス”を述べて行く。
「それって一体どんな逸話とかでその“クラス”になるの?」
「簡単に説明できる限りのモノだけだが……“アヴェンジャー”は復讐者。生前に何かを恨むだけの理由がある存在、恨む資格があると思われている存在、何かを恨んでいた存在が適正を持つといった具合にだな……」
俺の説明を真面目に聴くシオンの目は爛々と輝いているのがわかる。
「“セイヴァー”は、その……まあ、例外中の例外と言って良い“クラス”だから、なあ……説明し辛いな。まあ、簡単に言えば、過去に世界を救ったことのある存在、とかかな」
「なら、セイヴァーは世界を救ったの!?」
驚きの声を上げて目を輝かせるシオンに、俺は申し訳ない気持ちになってしまう。なにせ、過去――前世では仕事などまったくせず、引き篭もり、親の脛を齧っているだけだったのだから。
「いや、なに……その……俺は、例外中の例外という奴だな……」
俺は頬をポリポリと掻きながら、途切れ途切れ口にした。なにせ、今の俺はまったく別の“エクストラクラス”であり、“クラススキル”や“宝具”などの効果で“セイヴァー”の“クラス”を名乗っているだけなのだから。
シオンは疑う様子を見せず、俺の言葉に首肯いてくれた。
「アンリエッタ姫殿下の前でも言ったが、近いうちに“聖杯戦争”が起こる可能性が多いにありうる」
「うん」
「詰まり、殺し合いが始まるんだ。もしかすると、戦争に紛れて、“サーヴァント”とその主がお前を殺しにかかって来るかもしれない」
その言葉に、ただシオンは静かに首肯くだけである。
覚悟は既に出来ている。そんな表情を彼女は浮かべている。
「でも、できるなら殺し合わずに話し合いでどうにかしたいな……」
「そうだな。出来るならそれが1番だ。俺の持つ“宝具”を使用して運が良ければ、どうにかなるかもしれない。が、それはとても難しいだろうな……」
俺のその言葉に、シオンはハッとした顔で俺へと尋ねる。
「そう言えば、セイヴァーの“宝具”ってどんなモノなの?」
「それはまだ言えないな。“宝具”とは“サーヴァント”の代名詞とでも言って良いモノだ。俺の場合は、知られていないから問題はなに1つないだろうが、それでも今教えることはできない」
「もしかして、ケチ?」
「そうじゃない。今言ったが、“サーヴァント”の代名詞だ。それを元に弱点を見出される可能性は多いにありえるからな……それに、シオン。もし、お前が“魅了”などを使われて訊かれたら答えてしまうかもしれない」
「そんなことないよ」
「いや、その可能性は十分にありえるのが“聖杯戦争”だ。場合によっては、直接“マスター”を殺しにかかる者もいるくらいだしな」
その言葉に、シオンはなにかを考える仕草を取り、言った。
「でも、セイヴァーが守ってくれるでしょ?」
俺は、そんなシオンの言葉に思わず苦笑し、強く首肯いた。
「むろん、そうするつもりだとも。“サーヴァント”は“マスター”が戦う剣であり、それと同時に“マスター”を守る盾でもあるからな」
互いに笑い合う。大いに笑った。
「で、だ。確認なんだが……」
「なに、セイヴァー?」
「“聖杯戦争”は“万能の願望器”である“聖杯”を奪い合うモノだ。それで、君の願いを確認しておこうと思ってね」
「私の、願い……」
俺の言葉を聞いて、シオンは深々と考え始めた。うーんと唸りただひたすらに思考を続けるシオンだが、答えは出ない様子である。
「わからない……今浮かぶとすれば、世界平和、そして皆が平穏に暮らせるようにってくらいかな……」
どうにか捻り出しただろう願いは、あまりにも単純なモノで、ごく一般的なモノであった。そして、とても難しいモノでもあった。
「ふむ、そうか……」
俺はそう反応を返す。
今の彼女の言葉には嘘偽りなどは一切ないだろう。が、深層心理などではなにか別の願いというモノを持ってもいるだろう。
そもそも“聖杯”というモノは、“強い願いを持つ存在”、“魔力を持ち、扱える存在”といった2つ以上の条件に見合った存在に“令呪”を与え、“サーヴァント”を“召喚”する資格を与えるのだから。
そういったこともあり、彼女の奥底にはなにかがあるはずだろう。いや、その願いは本心から来るモノであることは、俺には手に取るように理解できた。
だが、彼女が“マスター”として選ばれた理由は、“聖杯”によるモノだけではない。
「“聖杯戦争”が始まれば、この日常は簡単に崩れてしまうだろうな」
「うん。それでも」
「もしかすると、彼女たちと敵対する可能性だって大いにありえる」
「そんなこと……」
シオンの日常の中にいる友人。幼馴染である彼女にもまた、“令呪”が宿っている。
“聖杯戦争”が始まれば、どうなってしまうかは明白だが、一応シオンには覚悟をして貰う必要があった。
「ルイズに限ってそんなことはないよ。だって、あの娘、とても優しいから」
「そうだな。彼女たちはとても優しく強い。まるで物語のヒーローやヒロインのようにね」
「それって、セイヴァーがこの前言ってた“原作”って奴に関係してる?」
「さて、どうだろうな?」
俺はティーポットからカップへと、お茶を注ぎ、シオンへと差し出す。
シオンは「ありがとう」と言って、それをチビチビと飲み、一息吐いた。
「あのね、セイヴァー」
「ん?」
「あの時、お兄さまを救けられなかった時、ホントは貴男に対して好くない思いを持ってたかもしれない……どうして救けてくれないの? って」
「それは当たり前だ、思って当然のことだ……」
「でもね、救けたくても救けられないんじゃ? とも思ったの」
「それまたどうして?」
「貴男はこの世界に似た世界のことを識っている。この世界の行く末を識っている。識りすぎている。だから、下手に手を出して滅茶苦茶にしたくないんじゃないかって……手を出してもまた別の問題が起きるかもしれないから、とか……?」
今の俺には、シオンの言う通りこの世界の、この先に起きるであろうことは手に取るようにわかる。識っている。同時に、どう動けばどうなるのか、どうなってしまうのかもまた理解できていた。
俺という存在がいる所為もあり、この世界は常に危うい状態におかれているのである。少し強い風が吹けば細いロープから落ちてしまう、軽く息を吹きかけるだけで消えてしまうような酷く弱々しい火。
だが、“英霊”ないし人間問わず、見ようとしても、視界に入っていようとも、まったく気付かないことだってある。総てを知りながらも、総てを識り理解出来ているかどうかは別であり、無意識下で見ないようにしていることだってあるのだから。
「…………」
俺とシオンは目を瞑った。