“ロマリア連合国”。
“ハルケギニア”で最古の国の1つに数えられ……短く“皇国”と呼ばれる事が多いこの国は、“ガリア王国”真南の“アウソーニャ半島”に位置する都市国家連合合体である。
“始祖ブリミル”の弟子の1人、“聖フォルサテ”を祖王とする、“ロマリア都市王国”は、当初、“アウソーニャ半島”の一都市国家に過ぎなかった。しかし、その聖なる国との自負が拡大を要求したのであろう、次々と周り の都市国家群を併呑して行ったのであった。
“大王ジュリオ・チェーザレ”の時代には遂に半島を飛び出し、“ガリア”の半分を占領したこともあった。
だが……そんな大王の時代は、当然長くは続かなかった。
“ガリア”の地を追い出された後、併合された都市国家群は、何度も独立、併合を繰り返したのである。そして幾度もの戦の結果、“ロマリア”を頂点とする連合制を敷くことになったのであった。
そのためだろう、各都市国家はそれぞれ独歩の気風が高く、特に外交戦略に於いて必ずしも“ロマリア”の意向に沿うという訳ではなかった。そういった意味では、全く生い立ちは違うが、“ハルケギニア”北方の“帝政ゲルマニア”に似ているということができだろう。
“ハルケギニア”の列強国に比して国力に於いて劣っている“ロマリア”の都市国家群は、自分達の存在意義を、“ハルケギニア”で広く信仰される“ブリミル教”の中心地である、という点に強く求めるようになったのであった。
“ロマリア”は“始祖ブリミル”の没した地である。祖王、“聖フォルサテ”は、墓守としてその地に王国を築いたのであった。
その子孫達は、その歴史的事実を最大限に利用し、都市“ロマリア”こそが“聖地”に次ぐ神聖なる場所であると、自分達の首都を規定をしたのであった。
その結果、“ロマリア都市国家連合”は皇国となり、その地には巨大な寺院――“フォルサテ大聖堂”が建設されたのである。代々の王達は、教皇と呼ばれるようになり、全ての聖職者、及び信者の頂点に立つことになったのであった。
「……全く、いつ来てもこの国は建前と本音があからさまですこと」
“トリステイン”女王アンリエッタは、馬車の窓から覗く、“ロマリア”の街並みを眺めて言った。
時は“ウル”の月、“
“魔法学院”では、ティファニアの編入と正体などで大騒ぎになっている頃である。
“宗教都市ロマリア”は、“ハルケギニア”各地の神官達が、光溢れた土地、とその存在を神聖化している。そこかしこにキラキラと光る御仕着せに身を包んだ神官達が歩き、敬虔な信者達がニコヤカに挨拶を交わし合っている。
街には笑いと豊かさが溢れて、自らを、「神の僕足る民の下僕」と呼び習わす教皇聖下の元に、神官達が敬虔なる“ブリミル教徒”を正しく導こうとしている。
そんな理想郷とでもいえるここ、“アウソーニャ半島”の一角に存在していると、生まれた街や村を滅多に出ることのない“ハルケギニア”の民は信じ込まされているのだが……。
「在りと汎ゆる土地から雪崩れ込んで来た平民達が、好き放題に振る舞っているではありませんか。理想郷、と言うより、まるで貧民窟の見本市のようですわ」
溜息混じりに、アンリエッタは呟いた。
通りには、“ハルケギニア”中から流れて来た信者達が、“救世マルティアス騎士団”の配るスープの鍋に列をなしている。彼等はこの街に辿り着いたは良いが、仕事もなく、することもなく、着る物も食事もままならないのである。
その信者達の後ろには、“イオニア会”の物らしい、石柱を何本も重ねたような豪華な寺院がそびえ立ち、着飾った神官達が談笑しながら門を潜っている。
アンリエッタはそれ等を見て、「“新教徒”達が、実戦教義、を唱えるも致し方ないことね」と独り言ちた。
市民達が一杯のスープに事欠く有様であるのに関わらず、神官達は着飾り散々に贅沢を愉しんでいるのだから……。
昔、幼い頃にこの街を訪れたアンリエッタは、このようなことなどには気付くことはなかった。居並ぶ各宗派の豪勢な寺院に夢中になり、輝くステンドグラスや、大きな宗教彫刻の織りなす至高ともいえる芸術に目を見張らせたモノだったのだが……。
ふと、アンリエッタが視線をズラすと、眼の前の席に腰掛けて居心地悪そうに見をすくませている “銃士隊” 隊長アニエスの姿が見えた。
「どうしたのです? 隊長殿」
「いえ……慣れぬ格好なモノですから……」
アニエスは、いつもの鎖帷子の代わりに、貴婦人が纏うようなドレスに身を包んでいた。そのような格好をしていることで、凛々しい顔立ちと相まって、何処ぞの名家の御嬢様であるかのようにも見える。
だが……アニエスから放たれる武人としての目の光が、そんな優しい雰囲気を打ち消してしまっていた。
鋭く研がれた無骨な剣が宝石で飾られた鞘に収まっているかのような……そういったチグハグな印象を与える銃士隊長を見詰め、アンリエッタは微笑んだ。
「御似合いですよ」
「御からかいになりませぬよう」
憮然とした声で、アニエスが呟く。
「私の使い方を御間違えですぞ。こんなピラピラした服を着るために、“ロマリア”くんだりまで来た訳ではありませぬ」
「私には秘書が必要なのです。護衛もこなせる、有能な秘書が……」
「剣を振るしか能のない、こんな私に、秘書など務まりませぬ」
「近衛隊長というモノは、剣や指揮杖を振るだけが仕事ではないのですよ。時と場合に応じてやんごとない身分の御方や、賓客を相手にすることもあるのです。一通りの作法は身に着けて頂かねば、私が困ってしまいます」
アンリエッタは、澄ました顔で答えた。
それでもアニエスは、どうにも納得の行かない様子を見せる。
「マザリーニ枢機卿はどうなされたのです? 本来なら、宰相のあの方が御伴すべきでは……」
「彼以外に、私の留守を頼める方がおりますか?」
アニエスは、「まあ、そうですが……」と呟きながら、軽くなった腰を不安げに見詰めた。
「しかし、どうにも剣や拳銃を身に着けていないと、不安で落ち着きませぬ」
「仕方ありませぬ。それがこの国の作法のようですから」
アニエス達護衛の銃士達は、“都市ロマリア”の門を潜った際に、剣を外したのである。馬車に積んだり行李に入れる分には構わないのだが、この“宗教都市”での武器の携帯は許可されないのである。“ロマリア”ならではの特殊な作法であるといえるだろう。アンリエッタも、いつも持ち歩く“水晶杖”を鞄に収めていた。
「これでは、万一の場合、陛下を御守することができませぬ」
不満げにそう呟くアニエスに、アンリエッタは窓の外を指し示した。
そこには、“聖獣ユニコーン”に跨り、白いローブを羽織った騎士隊がいた。馬車の左右に控え、厳重に国賓の一行を護衛しているのである。
彼等の首には、銀の“聖具”が掛かっている。“始祖”が手を広げた形のそのシンボルは、彼等が羽織ったローブの胸部分にも、大きく銀糸で縫い込まれている。
「“ロマリア聖堂騎士団”が、私達を守ってくれていますわ」
彼等は、この“宗教都市”で唯一武装を許されている、“ロマリア”の精鋭中の精鋭騎士団である。
“ロマリア聖堂騎士”……それぞれの宗派毎ごとに構成される国家騎士団は、その忠誠度を以て、“ハルケギニア”各列強の騎士団と明確に区別されているのである。
彼等はまさに、教皇と信仰のためならば、死ぬまで、戦うのである。その白き衣は、敬虔なる“ブリミル教徒”にとっては光の象徴であり、異教徒達にとってはまさに恐怖の象徴であるといえるだろう。死ぬことを恐れない敵ほど厄介なモノはないのだから。
アニエスは、僅かに眉を顰め、表情を曇らせて呟いた。
「彼等が、“新教徒”の私まで命を賭して守るとは想えませぬな」
アンリエッタは、アニエスの自嘲を含んだ言葉にも動じず、「神は、多少の教義の違いなどには目を瞑ってくれますわ」と、“ロマリア”の神官達が聞けば卒倒してしまうであろう言葉を平然と言って退けた。
“トリステイン”女王の馬車の後ろには、アンリエッタ個人の秘書官や、政治家や“貴族”を乗せた一行がいている。選り抜きの“魔法衛士”達が、各馬車には配属されている。
アンリエッタ達は、とある式典に出席するために、“フネ”で太洋の上を通って遥々この“ロマリア”まで遣って来たのであった。その招待状は、ティファニアを迎えに才人達を送り出した後、入れ違いにアンリエッタの元へと届いたのである。結果、“アルビオン”からティファニアを連れて帰って来た才人達とは擦れ違うかたちになってしまった。
“ガリア”上空を通れば快速船で3日の距離であるが、アンリエッタはきな臭くなりつつある“ガリア”との関係を危惧した。そのため、大きく迂回する太洋上の航路を選択したのである。結果、到着までに1週間も経かってしまった。
だが……その式典は20日後に行われる予定になっている。
「では御言葉に甘え、秘書として御訊ねしますが……」
「どうぞ」
「どうして式典に先立って、20日も早くやって来たのです?」
「式典出席は表向きの理由。私達は、これから秘密の折衝するのです」
「教皇聖下と……ですか?」
「他に誰と?」
アニエスは、何か考え込むように下を向いた。
「どうしたのです? 隊長殿」
心配するような声でアンリエッタに問われ、アニエスは顔を上げた。
「……いえ、何でもありません。詰まらぬ質問、失礼いたしました」
“ロマリア”は、周りを城壁で囲まれた古い都市である。古代に造られた石畳の街道が、整然とした街並みの間を縫っている。発展と縮小を繰り返した結果、乱雑な雰囲気が漂う“トリスタニア”や“ガリア”の“首都リュティス”と違い、綺麗な白い石壁の街並みが何処までも続いている。病的なほどに無垢な印象を与える清潔感が漂っているのである。
「実に綺麗な街ですな」
アニエスが気を取り直すように、“ロマリア”の街に対しての感想を述べた。
アンリエッタは答えずに、不安気に指の先を弄り始めた。
式典に先立っての、御忍びの行幸故に、馬車の御者台の横には、何の旗も翻っていない。ただ、“聖堂騎士”の護衛と馬車の立派さなどから、やんごとない身分の方だろうと当たりを付けた市民達が立ち止まって振り返る。
そのうちに“トリステイン使節団”の3台の馬車は、太い大通りに出た。
通りの向こうに、6本の大きな塔が見えて来る。真ん中に1本、巨大な塔。それを囲むようにして、五芒星の形を取るように他の塔が配置されている。
その塔の形は、“トリステイン魔法学院”に似ている。それもそのはずであり、この“宗教国家ロマリア”を象徴するこの建築物をモチーフにして、“魔法学院”は建設されたのだから。
馬車の左右前後に控えた“聖堂騎士”達は、門が近付くと一斉に前進した。門の左右に、一糸乱れぬ見事な動きで整列すると、腰に提げた“聖具”を模した“杖”を掲げる。陽光に“杖”が煌めき、銀の鎖飾りのように壮麗な門構えの大聖堂を彩った。
「……着いたようですわね」
アンリエッタが呟く。
窓から僅かに顔を出し、アニエスが溜息を吐いた。
「あれが“
似ているのは形だけであり、“ロマリア大聖堂”の塔の高さなどはそれぞれ5割増しほどもある。
白い御仕着せに身を包んだ衛兵達がアプローチに並び、門を潜った女王の馬車に、両手を胸の前で交差させる神官式の礼を取る。ここでは万事が、宗教行事として執り行われるのである。
しかし……到着したというのにも関わらず、馬車のドアを開けに来る神官も“貴族”もいない。
馬車寄せに並んだ衛兵達は、礼を取ったまま身動き1つしないのである。
どうしたことか、とアンリエッタが思案していると、玄関前に勢揃いした聖歌隊が、指揮者の杖の元に荘厳な賛美歌を唄い始めた。
御忍びの女王を歓迎するための、“ロマリア”流れの持てなしらしいことが理解る。
「馬車の中で、1曲聞かせる積りですかな?」
アニエスが呟いた。
声変わり前であろう少年達の清らかな歌声は、長旅で疲れたアンリエッタの心と身体を、静かに癒やして行く。
アンリエッタは、(自分を労っての演出なら、聖エイジス32世も相当なモノね)と想った。
歌が終わると、指揮者の少年が振り向いた。
白み掛かった金髪の、美しい少年である。
「……“月目”?」
指揮者の少年の左右の瞳が色が違うのである。
オッドアイ……“ハルケギニア”では“月目”と呼ばれ、縁起が悪い、もしくは縁起が良いとされている。
アンリエッタは、そんな少年を目にして、(聖歌隊の指揮者を務めるとは……余程の事情が在るのかしら?)と想いながらも、聖歌隊の持てなしを労うために、窓から左手を差し出した。
指揮者の少年は、右腕を身体の斜めに横切らせ、アンリエッタへと礼を奉じて寄越し、そのままの格好で近付く。まるで、“貴族”は軍人、もしくはそれ等の関係者であるかのような仕草である。
少年はそれから恭しく、宝石でも扱うかのようにアンリエッタの左手を取り、唇を近付けた。
「ようこそ“ロマリア”へ。御出迎え役の、ジュリオ・チェーザレと申します」
果たしてそれは、“アルビオン”で110,000の軍勢を迎え討つ2人を見送ったジュリオであった。
その優雅で気品在るといえる仕草に心打たれたアンリエッタは、馬車の中からジュリオへと声を掛けた。
「貴男は神官ですね?」
「然様で御座います。陛下」
「それなのに、まるで“貴族”のような立ちい振る舞いですわ。いえ、けなしている訳ではありません」
ジュリオはニッコリと笑みを浮かべた。
「ずっと軍人のような生活をしていたものですから。先立っての戦の折は、一武人として陛下の軍の末席を汚しておりました」
「まあ、そうでしたの」
アンリエッタの顔に、暗い影が一瞬よぎる。想い出したくない哀しい記憶を押し込め、アンリエッタは言葉を続けた。
「御礼を申し上げますわ。辛い戦いでした。御苦労なさったでしょうね」
「有り難い御言葉、痛み入ります。では、こちらに入らして下さいませ。話が主陛下が御待ちで御座います」
ジュリオは馬車の扉を開けると、アンリエッタの手を取った。
アニエスもその後に続く。
各馬車から降りて来た使節団の一行も、それぞれやって来た出迎え役の“ロマリア政府”の役人達と挨拶を交わした。
彼等に手を振り、アンリエッタはアニスだけを連れて、ジュリオの案内で先に進む。
大聖堂へと足を踏み入れた時……アンリエッタは聖エイジス32世の招待状を想い出した。
――“式典の20日程前に入国され足し。神の奇跡を御見せします”。
アンリエッタは、(神の奇跡とは一体何だろう?)と期待と不安が入り混じり……震えた。
玄関から大聖堂に入ると、明かり窓に嵌め込まれたステンドグラス越しからの陽光が、7色の光となって、アンリエッタとアニエスの2人を包み迎え入れる。
アンリエッタがふと、「……綺麗」と感想を漏らす、とジュリオは微笑んだ。
アンリエッタ達が更に大聖堂の奥へと進むと、彼女等2人にとって驚くべき光景が広がっていた。
ここに来る途中の道で見掛けたような貧民達が集まり、毛布に包まって天井を見詰めているのである。大聖堂の1階は、まさに救貧院といった様相を呈している。
「彼等は?」
アンリエッタが尋ねると、ジュリオは答えた。
「戦で荒廃した“アルビオン”からやって来た難民達です。帰郷する手続きが完了するまでの間、ここを1時の滞在所として開放しております」
「教皇聖下の御差配ですの?」
「勿論です。シオン女王陛下との会合の結果でもあります」
聖堂議会の反撥も強っかただろうこと、“ロマリア”の象徴といえる大聖堂をこのように開放して難民を受け入れている、教皇ヴィットーリオの仕事に、アンリエッタは感心した。
独り言のように、ジュリオは言った。
「残念ながら、“ロマリア”は全く、彼等が信じてやって来たような、“光の国”ではありません。世界は矛盾に満ちています。教皇聖下はその矛盾を、何とか解きほぐそうとされているのです」
“ロマリア”教皇、聖エイジス23世は、執務室で会談中とのことであった。
アンリエッタとアニエスは外の謁見待合室で、しばしの時間を過ごした。だが、ジュリオという話の上手なホストが隣に控えているということもあり、退屈することはなかった。
30分ほどもすると、扉が開いて中から子供達が現れたために、アンリエッタとアニエスの2人は驚いた。
あまり上等とは言い難いが、子供達は皆きちんと手入れされている服に身を包んでいるのである。
「聖下、有難う御座いました」
年長と思しき少年が頭を下げると、周りの子供達もそれにならい一斉に頭を下げる。子供達は踵を返すと、ドアの側にいるのが“トリステイン”女王であるということにも気付かず、笑いながら駆け去った。
「俺、聖下に、“覚えが良い”って褒められちゃった」
「私も! 私も!」
呆気に取られて、アンリエッタとアニエスはその様子を見守っていた。
そんな2人に、ジュリオは促す。
「では、中へ。我が主が御待ちで御座います」
教皇の謁見室は、雑然としていた。神官の最高権威である教皇の執務室……というよりは、街の図書館か大学の教授の部屋であるといえる様子で在る。壁面にはギッシリと本棚が並び、数々の蔵書が並んでいるのが見える。目に付くタイトルを見るに、宗教書ばかりが並んでいるという訳ではないこともまた判るだろう。その殆どは、歴史書であった。戦史関係の書物が多いのである。博物誌もまた同様に多い。戯曲に小説……滑稽本などの類もまたある。そして大振りな机の上にも、乱雑に同じ拍子の本が積み上げられている。最近、“ロマリア”の“宗教庁”が発行した“真訳・始祖の祈祷書”であった。“始祖”の偉業が記された、聖なる書であるといえるだろう。
その真訳・始祖の祈祷書”を片付けている、髪の長い20歳ほどの男性がいた。
アンリエッタとアニエスは、一瞬、その男性を召使か何かと勘違いしてしまった。だが……その端正で美しい横顔を目にした瞬間、ハッ、とした。
「……教皇聖下」
ジュリオのその声で、教皇聖エイジス23世こと、ヴィットーリオ・セレヴァレは振り向いた。
「これはこれはアンリエッタ殿。少々御待ち頂きたい。今直ぐに御持てなしの準備をしますから……」
笑うような声で、ジュリオが尋ねた。
「聖下、御言葉ですが、アンリエッタ女王陛下が“トリステイン”から御出になられたのですよ?」
「理解っています。理解っていますよジュリオ。だがね、私は彼等にこの時間、文字と算数を教える約束をしていたのだよ」
遥々ここまで1国の女王を呼び付けて置きながら、待たせるということに驚かされるが……その理由が街の子供達に文字と算数を教えるためであったという理由に、アンリエッタは「無礼」と怒るよりも先ず呆然としてしまった。
線の細い、一種異常な位の美しさを誇るヴィットーリオを見詰め……(一体、この“ロマリア”教皇はどういう人物なのかしら?)とアンリエッタは悩んだ。
この前の、突然の“トリステイン”来訪といい、破天荒な人物であるというアンリエッタが抱いた印象や人物像に間違いはないようである。
「片付けなど、召使にやらせれば良いではありませんか」
手をヒラヒラ振りながら苦笑を浮かべて、ジュリオが言った。臣下の者にしては、随分と馴れ馴れしいといえる態度である。
“トリステイン”や“ガリア”では、自分の主にこのような態度を取る家来はあまりいない。
そういったことにも、アンリエッタとアニエスの2人は驚いた。
「他の者に任せる訳にはいきませんよ。本の整理というモノは、自分でやらないといけません。じゃないと、何処に仕舞ったのか判らなくなり、読みたくなった時に困りますからね」
そんな物言いをする教皇が可笑しく思え、アンリエッタはふと笑みを漏らした。
本を片付け終わった教皇は、そこでやっと女王の一行へと目を向けた。
「遠路遥々、ようこそ入らしてくださいました」
見る者全てを魅了せずにはいられないであろう、そんな笑みをヴィットーリオは浮かべた。未だ20を幾つか超えたばかりであるというのに、その目には年を経た聖者だけが持つといえる慈“愛”の光が瞬いていることが判る。
そんなヴィットーリオを前に、アンリエッタは(この若さで教皇の座に就くからには、どれだけの才能と努力が必要なのかしら? そのどちらも、十分過ぎるほど持っているに違いないわね。でなければ、教皇の帽子は冠れない。一体、この教皇はどれだけの才を……持っているの?)と想い、彼の掲げた理想のみならず、それ等を知りたくなった。
だからこそアンリエッタは、政務で息も吐けぬ“トリステイン”をわざわざ出て、この遠く離れた“ロマリア”くんだりまでやって来たのである。
「聖下の思し召しですもの。敬虔なる“ブリミル教徒”として、取りも直さず、駆け付けて参りました」
深々とアンリエッタは頭を垂れた。
公式の席で、アンリエッタの上座に腰掛けることができる人は3人しかいあにといえるだろう。“ガリア”王ジョゼフと……このヴィットーリオ、そして“アルビオン”女王シオンの3人である。したが4って、低頭も作法に適っていた。
「頭を御上げ下さい。なに、貴女の御国の宰相殿が譲ってくれた帽子です。かしこまる必要は何処にもありません」
サラッと、ヴィットーリオは口にした。
それは事実であるといえるだろう。“ロマリア”から派遣されたかたちの“トリステイン”宰相、マザリーニ枢機卿は、次期教皇と目された人物であったのだ。しかし、3年前の教皇選出会議による、“ロマリア”からの帰国要請を、マザリーニは断ったのである。それが故、「“
マザリーニのその内心は、女王であるアンリエッタも知らない。マザリーニも、その理由は決して話さないのだから。
「マザリーニ殿は、本当に良くして下さいます。では聖下、御言葉に甘え、質問を御許し願えますか?」
「なんなりと」
アンリエッタは、後ろに控えるアニエスを、チラッと見詰めた。早速話題が訪問の核心に触れるために、人払いを、と考えたのである。
しかし、ヴィットーリオは首を横に振る。
「いえ……護衛隊長殿にも臨席願いましょう。どう遣ら、この方は何かを御存知の御様子ですから」
アンリエッタはアニエスをチラッと見詰めた。
アニエスはかしこまり、わずかに頬を染める。
そんな“銃士隊”隊長の姿を見るのが初めてであるため、アンリエッタは驚いた。
アンリエッタは、(質問を許されたは良いが、さて、何から切り出したモノか……)と思案する。
すると、「この国の矛盾には気付かれましたか?」とヴィットーリオは、逆にアンリエッタへと質問をした。
アンリエッタは、ハッとした表情を浮かべたが、直ぐに真顔に戻り、首肯く。
「はい」
「御覧の通りです。恥ずかしながら、“光溢れる国”など、何処にもありません。パンにこと欠く民がいる一方、各会の神官、修道士達は思うままの生活をしています。信仰が地に堕ちたこの世界では、誰もが目先の利益に汲々としている」
「御言葉ですが、聖下の御威光をもってして……」
「やっております。これでも、私は頑張っているのですよ。主だった各宗派の荘園を取り上げ、大聖堂の直轄にいたしました。それぞれの寺院には救貧院の設営を義務付け、一定の貧民を受け入れるよう、触れを出しました。免税の自由市を造り、安い値段でパンが手に入るよう、差配しております。その結果、“新教徒教皇”と私を揶揄する輩も少なくありません。全く馬鹿な言い草です! “新教徒”などと名乗る異端共は、ただ自分が大きな分前に預かりたい、“レコン・キスタ”と変わらぬ連中ではありませんか」
頑張っている。それは嘘ではないだろう。
アンリエッタは、大聖堂にいた貧民達や、先程のここから出て来た子供達を想い出した。
「この私は、孤児院から御引き立てを頂いたのです」
ジュリオが、誇らしげな声で言った。
ヴィットーリオは首肯くと、言葉を続けた。
「だが、それが限界です。無理に神官達からこれ以上の権益を取り上げようとすれば……内乱になります。“ブリミル教徒”同士が、御互いの血を求め合う結果になる。私は、私を教皇にした人々から、今度はこの帽子を取り上げられることになるでしょうね。人は自分の持ち物が……どれだけ正当な理由があろうとも……召し上げられることを好みません。そして私は、人同士がこれ以上争うことに我慢できないのです。貴賎や教義の違いによって相争うこと……これ以上に愚かしいことがあるでしょうか? 人は皆、神の御子なのですから」
アンリエッタは、その通りだと思ったために首肯いた。
ヴィットーリオは両手を広げた。
「何故、斯の様に信仰心が地に堕ちたのか? 神官達が、神を現世の利益を貪るための口実にするようになったのは何故なのか?」
悔しげな声で、ヴィットーリオは言った。ヴィットーリオの肩が震え出す。まるで己の無力さを、痛みで紛らわすかのように、彼は強く唇を噛んだ。
「……力がないからなのです」
「力……」
「ええ。私は、以前貴女とシオン陛下に御逢いした際に言いました。力が必要なのです、と。我等の信仰の強さを、おごった指導者達に見せ付けねばなりません。つまらぬ政争や戦に明け暮れる“貴族”や神官達に、真の神の力を見せねばなりません」
「……“エルフ”から、“聖地”を取り返すことによって?」
そうです、とヴィットーリオは首肯いた。
「神の奇跡によって、“
「神の奇跡……」
アンリエッタとアニエスは息を呑んだ。
先立ってアンリエッタが貰った手紙の末尾の一文が、彼女の脳裏に蘇った。
ヴィットーリオは、つい、と後ろを向くと、1つの本棚に向き直った。それから、せいっ! と顔に似合わぬ掛け声を上げて、指を掛け、それをズラそうとし始めた。しかし、どうにも力が足りず、本棚が動かない。ペロッと舌を出し、愛嬌のある仕草でジュリオに首肯く。
「ジュリオ。手伝ってください」
「最初からそう仰ってくだされば良いモノを」
「何事も、自ら行わないと気が済まないのです」
2人はニコヤカに微笑み合うと、本棚に力を込めてズラし始めた。
ズズズズズ、と重たい音と共に現れたのは……。
壁に埋め込まれた、大きな鏡であった。高さは2“メイル”、幅は1“メイル”ほどの楕円形の形をしている。
「これが、奇跡なのですか?」
アンリエッタが尋ねると、ヴィットーリオは首を横に振る。
「いえ……私の使える奇跡は、手に触れることができません。だが、奇跡とは触れずとも目に見えるモノではあらねばなりませんからね」
ヴィットーリオは、「私の“聖杖”を」、とジュリオを促す。
“聖具”を模した“杖”を、テーブルに置かれた傍らの小箱から取り出し、ジュリオは恭しくヴィットーリオに捧げた。
それを手にしたヴィットーリオは、低く、祈るような声で“呪文”を唱えた。
アンリエッタとアニエスが今まで耳にしたことのない、美しい、賛美歌のような透き通った調べである。
「“ユル・イル・クォーケン・シル・マリ”……」
聖者が、神に捧げる祈りのようでもあるといえるだろう。
どれだけの時間が過ぎたのか、アンリエッタとアニエスには判らなかった。随分と長い時間のようにも、2人には想えた。
だが、実際には5分ほどであろう。
“呪文”が完成すると、ヴィットーリオは緩やかに、祝福を与えるように優しく。“杖”を鏡に向けて振り下ろす。
アンリエッタとアニエスがジッと見詰めて居ると……鏡が光り出した。
光が唐突に掻き消え……鏡に何やら映り始めた。
今、この部屋のモノではない映像である。
その光景を目にして、アンリエッタとアニエスは呻きを漏らした。
「……これは」
生まれてよりこの方、1番の驚愕がアンリエッタとアニエスを包んだ。
満足げな声で、ヴィットーリオは呟く。
「これが“始祖の系統”……“虚無”です」
「“虚無”」
「古代……“
「聖下……では、貴男は」
アンリエッタは、震えながらヴィットーリオを見詰めた。
「そうです。アンリエッタ殿。神の僕たる民の下僕になることを運命付けられた私に、神はこの“
「おお……聖下。聖下」
アンリエッタは、神々しいともいえるヴィットーリオから放たれる輝きに打たれ、思わず跪いた。
「我々は、集まらねばなりません。多くの祈りによって、更に大きな奇跡を呼ぶために」