待ってよ、私のヒーロー! 作:ののみや
「ひっ」
家の奥からは悲鳴と泣き声が聞こえてきて、わたしは隣にいるお母さんのズボンを掴んだ。
「お、お母さん……」
「大丈夫よ」
お母さんはわたしを抱き上げて、優しく頭を撫でてくれる。大丈夫じゃないよ。ぜったいおじさん怒るよ。立っているだけでも怖い焦ちゃんのお父さんは、怒るともっと怖いの。
帰りたい。でも、帰りたくない。相反する気持ちを抱え込んでお母さんに強く抱きつく。
「止めてください! まだ五つですよ……!」
女の人の声。焦ちゃんのお母さんだ。焦ったような声が耳に届いて、続いて聞こえてきたのは乾いた音。
「もう五つだ! 邪魔をするな!」
「お母さん!」
おじさんの怒鳴り声と、おばさんの短い悲鳴。焦ちゃんの声がはっきりと聞こえてきた部屋の引き戸が勢いよく開けられる。
「なぁにやってんのよ、万年二位のヒーローさんがさ」
「また貴様か……」
呆れ顔を浮かべたお母さんを見たおじさんは、眉根をぴくりと動かせて正面から睨みつけている。おじさんの足元ではおばさんがうずくまっていて、焦ちゃんは大きな目からぽろぽろと涙を流しながらお腹を押さえていた。何があったかは一目瞭然で、胸が締め付けられる。
「不法侵入もいい加減にしろ」
「失礼なこと言わないでよね。ちゃんと冷さんにお邪魔するって言っておいたわ。まあ、心の中でだけど」
「それは伝えたことにはならん!」
「声でかっ! 娘が怖がるから止めてって言ってるでしょ!」
軽口を叩くお母さんにおじさんは言い返し、さらにお母さんが言い返す。お母さんの軽口におじさんが突っかかる流れはいつものことだけど、今日は何かが違った。それはお父さんがいないからなのか、それともこの状況だからなのか。
焦ちゃんに個性が発現してから、焦ちゃんもおばさんもあまり外に出なくなった。反対に、今まではあまり家にいなかったおじさんはよく家に帰るようになっていた。初めて見る光景にわたしは硬直したまま動くことが出来なくて、焦ちゃんに伸ばしたくても届かない腕でお母さんにしがみついていた。
「頭でも冷やしてきなさいよ!」
その言葉と共に、言い争いはぱたりと止んだ。おじさんの姿も消えている。
「三分ってところかしらね」
お母さんが呟いた。おばさんがお母さんの顔をしげしげと眺めているのに気づいて、にっこりと笑う。わたしが大好きな力強いお母さんの笑顔だ。
「お邪魔してるわ、冷さん」
「いらっしゃい、ハルさん。……すみません、お見苦しいところを見せてしまって……」
「見苦しいのも暑苦しいのも炎司くんだけよ」
おばさんは苦笑しながら、側に来て心配そうに見つめている焦ちゃんの頭を撫でた。
「道瑠ちゃんも怖かったでしょう、ごめんね」
「こっ、こわくなかった、です……」
お母さんに降ろしてもらって、首を横に振った。わたしを振り返ったおばさんは浮かない顔をしている。焦ちゃんの顔には涙の痕が残っていて、頬に触れると少し冷たかった。安心してほしくて私は笑おうとしたけど、きっと変な顔になっていたんだろう。つらいのは焦ちゃんだったのに、焦ちゃんの方が心配そうな顔をしていた。
「今日はお土産があるの!」
じゃーんと言いながらお母さんが見せたのはお父さん特製の塩豆大福。
「でも……」
おばさんはチラチラと入り口を見て返事に困っている。
「光移ぃいい! どこだ!!」
「ひぃっ!」
「わあ。もう帰ってきた」
怒り心頭のおじさんが叫んだ。姿も見えないのに肩が跳ねて動けなくなる。
ギシギシと大きな音を立てて進んできて、開いたままの引き戸からおじさんが姿を見せた。
「早いねえ。また記録更新したんじゃない?」
「ふざけるな! 毎度変なところに飛ばしおって」
「なんで濡れてるの? もしかして池に落ちた?」
「そんなわけがあるか! それに濡れてなどいない! もう乾いているだろう!!」
「なんだ、じゃあちゃんと池に瞬間移動できてたんだ! よかった~」
「貴様……っ!!」
おじさんはお母さんを睨んだ。鋭い瞳は苛立ちと強い怒りを湛えていて、わたしはおじさんと目が合うと泣きそうになる。お母さんの後ろに隠れていると、おじさんは何も言わなかったけどため息をついた。燃え盛っていた髭の炎が徐々に落ち着いていく。それでもやっぱり怖いけど。
「いつまで居座る気だ。焦凍はまだ訓練が残っている」
「……訓練自体を否定するつもりはないけど、限度ってものがあるでしょう。見なさい、この子たちを。とてもヒーローがさせていい顔じゃないわ」
お母さんはまっすぐにおじさんを見つめる。
「もっとゆっくり見守っていてもいいんじゃないの?」
「
「
お母さんはさらに強い視線でおじさんを見つめる。ほどなくすると、ぶつかっていた視線がおじさんが逸らしたことによって途切れる。
「用が済んだらさっさと帰るんだな」
「はいはい」
おじさんの横顔を見ながらお母さんは首をすくめた。扉に隠れて姿が見えなくなった後、足音が遠ざかっていく。
「炎司くんの分は台所に置いてあるからねー」
そう声を掛けても返事は帰って来なくて、足音はそのまま聞こえなくなっていった。
「……ありがとうございました」
「お礼なら私じゃなくて友和さんに言ってあげて。冷さんに会いたがっていたわ」
お母さんに支えられながらおばさんは立ち上がる。その横顔は少しやつれているように見えて、綺麗だった髪の毛もパサついていた。
「……また今度伺わせてもらいますね」
「来なかったら連れ出しに来ちゃうかも。私が!」
暗い空気を払拭するように大げさに身振りを交えて言ったお母さんを見て、おばさんはくすくすと笑った。その顔を見てほっとした。
「そうだ、今オールマイトの特番やってるんじゃなかったかしら?」
「オールマイト!?」
真っ先に反応したのは焦ちゃんだ。それを期待して言っていたのだろう。おじさんはオールマイトをすごく敵視しているから、普段見せてもらえないのだと焦ちゃんは言っていた。
興味津々という表情の焦ちゃんに、お母さんはにかっと笑う。
「付けちゃおっか。魔除けになるかも」
「ま、魔除け……」
まよけってどういうことなんだろう。おばさんはきょとんと口を開けていて、少しするとまた小さく笑った。
「しょうちゃん、立てる?」
「平気だよ、このくらい……」
いつも手を引いてくれるのは焦ちゃんだった。しゃがんだままの焦ちゃんに差し出すわたしの手を握った焦ちゃんの手は、なんだかとても小さく感じられた。
「しょうちゃんはオールマイトが好きだね」
「うん! かっこいいし、オールマイトがいると皆安心するんだ」
テレビの中でインタビューに答える平和の象徴を見た焦ちゃんは興奮気味だ。瞳がキラキラしている。
「ふふ、焦凍くんは将来ヒーローになりたいのね」
「う……」
焦ちゃんはおばさんを気にしたように振り返って、答えづらそうにしていた。
「道瑠は……?」
「わ、わたし?」
オールマイトみたいになりたいんじゃないの? その疑問は、気が進まないような焦ちゃんにはなんとなく言えなくて、話題の矛先を向けられて、内容を理解するのが一瞬遅れた。
「わたしは……やだよ」
ワンピースの裾を強く握って、視線を下げたまま答えた。
「なりたく、ないよ。こわいもん……」
どうしようもない本音だった。じわりと涙がにじんできて、お母さんはわたしの頭をそっと抱き寄せた。
「ううっ、ごめんなさい。おかあさん……」
「もう、こんなことで泣かないの!」
ぽろぽろこぼれてくる涙をぬぐって、お母さんはくしゃくしゃになるまで私の頭を撫でていた。
お母さんのことも、お母さんの個性も大好きだ。どこにだって行けるような気がするから。でも、ヒーローとして活躍する姿はいつも液晶越しで。手が届かないところで戦っている母の姿がかっこよくて、ヒーローとして人を助けている背中が誇らしくて。側にいてくれないことが少しだけ辛かった。
「選択肢はヒーローだけじゃないわ。道瑠がなりたいものになってくれることが私は幸せなんだから。冷さんもそうよね?」
「ふふ、そうですね」
すんと鼻を鳴らして顔を上げると、おばさんが優しい顔をして焦ちゃんを抱きしめていた。
「焦凍。お前はなりたい自分になっていいんだよ」
その声は、今もよく覚えている。
「そうだ! 焦凍くんにおばさんがとっておきの必殺技を教えてあげるわ」
「必殺技?」
「泣いてる女の子をすぐに泣き止ませる方法よ!」
お母さんは無邪気に笑った。焦ちゃんは首を傾げていて、私もびっくりして泣き止んでしまった。これがそうなのかな。でもあんまり必殺技って感じじゃないよ。お母さんに目で訴えていると、違うわよと言ってわたしの頬を拭った。
「いい? "キミの可愛い顔が見たいんだ"って言うのよ。焦凍くんなら、泣いてる子だけじゃなくて怒ってる子もきっと笑顔にさせられるわ」
「は、ハルさん……」
おばさんが眉を八の字にしている。これは苦笑いだ。なんでそれで泣き止むのかは分からなかったけど、隣に座る焦ちゃんもよく分かってなさそうだったから、それでもいいやと思えた。
「僕は……皆を安心させられるヒーローになりたい。道瑠も、お母さんも……泣かせずに済むヒーローに……」
そうまっすぐに言った焦ちゃんの手を握る。あたたかい手も、つめたい手も大好きだ。どっちも焦ちゃんの手だから。
いつも焦ちゃんはわたしの手を引いてくれた。私も安心しきっていた。でも、それだけじゃだめだ。強くなりたい。せめて、その背中を支えられるように。
「私も、焦ちゃんを守れるくらい強くなるよ」
その言葉を最後に、わたしも、しょうちゃんの姿も消えていく。いつの間にか雄英の制服を着た焦ちゃんが立っていて、同じくらいだった筈の身長は頭一個分くらい差が開いていた。
顔は見えないけど、拳を固く握って何かを言おうと口を開いている。でも声は届かない。耳を澄ますように瞳を閉じても聞こえてこなくて、そして再び目を開けて視線を戻すと、体操服を着た焦ちゃんが私の正面に立っている。
「お待たせしました! 続きましては……こいつらだー!」
入場のアナウンスに続いて、大きな歓声が上がる。でも、今は不思議と怖くなかった。音は届いているし、観客の多さも見えているのに。なんだか落ち着いている。さっきまで震えていた足で、今はまっすぐに立てていた。
「成績の割に冴えねえ顔だな! ヒーロー科、光移道瑠!」
ひどいなあ、率直すぎる紹介だ。
「二位、一位と強すぎるよキミ! 同じくヒーロー科、轟焦凍!」
私の後にステージに上がってきた焦ちゃんの表情は前髪に隠れていてよく見えない。その視線の先に何があるのか、私にはもう分からない。でも、今正面に立っているのは私だよ。自然と手に力が籠った。
きっと私たちの戦いは持久戦にはならない。開始直後から全力で攻める。だから、私のことを見て。
試合まで秒読み開始。戦いの火蓋は切られた。