ハッと意識が覚醒し、光に慣れていないために目がうまく開けず、しばらくまばゆい光にうんうんと唸る。目が光に慣れ、目を開くと目の前にはジロジロと自分を見る男。白い服。ボタンには桜と錨のマーク。初めて見るのにその人が提督である、と脳が認識した。そして彼女は口を開いた。
「初めまして、鈴谷だよ」
「ああ、知ってる。チッ、また大和じゃねえのか…あーあ、資材損しちまったなぁ」
つまらなさそうな目で見てくること。そしてこの言い方で自分が期待されておらず、望まれた建造ではないことがわかった。カチンときたが、それよりもその隣で申し訳なさそうに目を伏せている小さな艦娘が気になった。
「あ、そう。まあいいけど。で、鈴谷は何すればいいの?」
「やる気があっていいことだなぁ。そうだな、お前にはひとついい仕事をやるよ。目ぇ閉じろ」
そう言われて素直に目を閉じた。閉じてしまった。すると目に何か感触が。
「ちょ、ちょっと何すんの!?」
「うるせえ。移動するんだけど艦娘にも極秘の場所を通るんだよ。いいって言われるまで外すんじゃねえぞ」
「なにそれ意味わかんないし」
「提督様に口答えすんな。艦娘は黙って提督の言うこと聞いてりゃいいんだ。お前にぴったりの役目があるんだからよぉ。ま、前の鈴谷で試したことあるからどんな感じかもわかるしな」
意味が分からないが、冷たく威圧的な言葉で言われたために鈴谷はビクッと体をこわばらせた。そうして何だかヌメヌメする何かに手を引かれ、段差で躓きそうになってまたカチンときたが、怖くて何もできなかった。椅子のようなものに座らされる。ブロロロロ…と何か音がしてガクンと軽い衝撃が伝わり、わけもわからないまま、どれくらい経ったかもわからない。段差を下ろされ、シュルリと目隠しを外された。
「何…ここ」
目を開くとそこは色とりどりのネオンや看板が光る場所。ピンク色や黄色に赤色の派手な文字が並ぶ。
「お前の持ち場だ。ま、しっかり稼げよ。提督が喜ぶぜェ」
「ま、待ってよ。何ここ!?鎮守府じゃないじゃん!」
「そうだよ。お前の居場所は泊地にはねえ。お前は今日からここで生活するんだ。体は大事にしろよ?お前の体は商品なんだからな」
「意味わかんないし!やだ!鈴谷帰りたい!」
「うるせえ!!!てめえに拒否する権利なんざねえんだよ!!!!!」
「ひっ!」
大声で人間に怒鳴られ、縮み上がる。なんで?なんでいきなりこんなことになって怒られてるの?鈴谷は恐怖とわけのわからない状況に混乱して泣きそうになる。
「おい、早く連れてけ」
「へい。オラ、来い」
また何かヌメヌメする手に引っ張られて中へと引っ張り込まれた。中は赤や金やで派手で、自分と同じ女の子の声が聞こえる。
「いやあああ!!!!」
「やだああああ!!!やだあああああああ!!!」
壁越しに聞こえてくる声は悲鳴と絶叫だ。「静かにしろ!!!」と提督や今手を引いて歩いているような人間の怒号も聞こえる。もうだめだ。怖い。怖すぎる。
「かわいそうになぁ。お前はここで一生搾取される生活だよ」
「は、は…?」
男がドアを開けるとひぃ!!と言う声がいくつか聞こえた。
「オラ、新しい仲間だ。鈴谷よかったなぁ。かわいい妹ができたぞ。双子だな!ハハハハ!おい、お前はここで生活だ。呼ばれたらちゃんと来いよ」
ドン!と突き飛ばされ、前のめりに転ぶ。ドアは閉められ、開きそうもない。何でこんなことになってんの?深海棲艦と戦って…海を守る役目を果たして…。
「ここに来たら何も考えない方がいいよ」
ポンと肩を叩かれて振り向くと自分がいた。
「す、鈴谷!?」
「そうだよ。あたしも鈴谷。あんたも鈴谷。お互い鈴谷同士仲良くしようよ」
「ね、ねえ、ここは何なの!?」
「ここは艦娘を集めて人間を悦ばせる場所…あいつに目隠しされてここに来たね?ここに来たら逃げられない。あんたもあたしと同じ。人間にいいようにされるだけの毎日だよ…」
「いいようにされるって…何?」
「そこから覗いてみたらいいじゃん?あいつらはどういうものかを初めての子に見せるためにって言ってる。言っちゃえばお前もああなるぞって言いたいんだよ」
カーテンが閉まっている場所を指さした。鈴谷はおそるおそるカーテンをそっと開けた。目を疑う光景だった。裸の男と…
「う、うえっ…」
吐き気を催した。なんで?艦娘は海を深海棲艦から守るために生まれた存在じゃないの?何も勉強もしていないけど、それだけは刻まれている。だが、目の前の現実はどうだ。こんなの…。
「あんたもああなるんだよ」
「い、いや…」
「おい鈴谷!呼ばれたぞ!出ろ!」
「ひっ!」
「あんたじゃないよ。あたしだ。はーい」
「ま、待って、置いてかないで!」
「ちゃっちゃと済ませてくるよ。行かなきゃよけいひどいからさ」
そうしてもう1人の鈴谷は出ていき、自分だけになった。逃げられない。自分も明日には…。
「うああああああ!!!やだああああ!!!」
大泣きするしかなかった。泣いても解決もしないのだが…それしか鈴谷は成す術がなかった。
……
「あー、ずいぶんと大泣きしたみたいだねぇ」
しばらくして鈴谷が帰ってきた。衣服は乱れ、首には赤いアザがいっぱい。髪もぼさぼさだ。
「あー、きも。あのおっさんマジでいつも来てはきもいんだからなぁ。あんなきもいのと誰が恋人になるかっての」
念入りに洗面台で歯を磨いて、うがいもくどいくらいして。髪をとかして、ようやく鈴谷の前に座った。
「あー、昔のあたしってこんなんだったんだなー」
「え、ええ…」
「あはは。いつかここを出られるって夢見て、髪型変えたり、化粧したり。なんてーかもう疲れちゃったからさ。そっかー」
どこか悲しそうに、けど嬉しそうに見ていた。
「あんたはあたしみたいに汚れちゃだめだよ。呼び出されたらあたしが全部行く。大丈夫。艦娘の数が多くてあいつらも覚えないし。だからさ、あんたを何とかここから逃がしてあげる」
「えっ!?」
「ちょっち厳しいけどね。あんたはこんなとこであたしみたいにならずに、ちゃーんと艦娘の鈴谷としてがんばってほしいって思うし。何とか頑張ってみるよ」
それから、先輩鈴谷はとにかく後輩鈴谷が指名されないように自分が先立って逆指名に行った。特に後輩鈴谷を選びそうな男は全部。そして後輩鈴谷が指名された時は大急ぎで後輩鈴谷の服を借り、髪の毛もウィッグをつけたり、化粧もしないで化け、おどおどと恐怖に打ちひしがれたフリをして。
「やだ!何するの!?こわい、連れて行かないで!!」
「ヒヒヒ、初々しいねぇ。いいぞ!その顔だ!その顔がそそる!」
時には首を絞められたり、ひどく鞭を打たれた痕をつけたまま疲れた顔をして帰ってくる。でも後輩鈴谷を見てウインクをし、ピースをしてみせて大丈夫と言う。全然大丈夫なんかじゃない。
日に日に先輩鈴谷の顔は疲れていった。
「ね、ねえ…もういいよ…私もちゃんと『お勤め』するからさ…」
「絶対ダメ。あんたにはきれいなまま外へ出てもらうから。こんなとこでさ、こんな腐ったところで汚れて外へ出たくないじゃん?あたしはもうダメだけど、あんたはきれいなままじゃん、まだ。そりゃあちょっとあいつらに揉まれたりとかしたけど、本番はまだっしょ。だから、あたしが頑張って、ぜーったい!あんたを外へ出す!」
「でもどうやって…?厳重すぎて出れないじゃん…」
「チャンスはあるよ」
「どうすんの?倒れでもしてみる?」
「無理だね。艦娘だし、病院へは連れて行けない。バレたらやばいらしいからね。ま、一発でバレてくれりゃ全員助かるんだけどさ」
「じゃあダメじゃん…」
「諦めたら終わりだって!チャンスはきっとある!」
前向きな先輩鈴谷と後ろ向きな後輩鈴谷。毎日のように先輩鈴谷はチャンスがあると説き伏せる。後輩鈴谷は建造されてからすぐに怖い目、酷い目にばかり遭遇しているのでもはや希望すら得られない現状に心が折れている。それよりもずっと酷い目にあってる彼女の方が心を折らずに抜け出せると信じている。
汚され、痛い目にも遭わされ…。なのになぜ自分を庇い続けるのか。
「あたしにできないことをきっとできると思うから。ここを出て、ちゃんと逃げ切って、ちゃんと艦娘、『重巡 鈴谷』として輝いてほしいな。そんで、うーんとあんなクソ野郎な提督じゃなくて、ちゃんとした提督に褒めてもらって、うーんと頑張ってほしいから。あたしは、もうこんなだし」
「あんたも一緒に出ようよ!一緒に頑張ろうよ!」
「はは、優しいね。その優しさ、忘れんじゃないよ」
「オウ、随分と楽しそうじゃねえか。オラ、お前ら2人指名だ。さっさと行け」
「……チッ」
「………!?」
「あ?そっちのやつぁ顔色が悪りぃなぁ?」
「そうなの!だからちょっち休ませてくんない?あー、本番はあたしが頑張るからさ」
「ハッ、まあ見学でいいんじゃねえか?あの客、おめえに骨抜きにされてっからな。いいとこの社長が聞いて呆れるぜ」
「助かりまーす。さ、行くよ」
先輩鈴谷が汚されるところをマジマジと見てしまった。気分が本当に悪い。
「やー、ごめんごめん。で、さ、周り見た?」
「え…?」うっぷ」
「あーあーあー、まず吐いといで。そりゃあ好きモンじゃなきゃあんなとこじっと見ててとか言われて見てたら気分も悪くなるかー」
飲み物しか飲んでないが、飲んだものを全て吐き出した。自分もいずれはこうなるんだ。そうなった時を考えると、さらに何も出ないのにゲーゲー言って便器にへばりついた。吐いたものと一緒に、また先輩鈴谷の希望も吐いてトイレに流れていった。そんな気がした。
「あははは!大変だねぇ、若い子は」
「う、うっさい…」
「ふふふ。その様子じゃ周りは見えてないね」
「人…人が出入りするとこ…あった…」
「お、ちゃんと見てんじゃーん。そうだよ。あそこから出て、逃げることができたらあんたの勝ち」
「負け…たら?」
「あたしと一緒、堕ちるだけ」
「………」
「でも、やってみなきゃ一生勝ちはこない。ここは秘密にしたいからそう人はいない。艦娘はみんな建造されてすぐにここに連れてこられてからのアレだからさ。みんな反抗することもない。で、あたしは稼ぎ頭だからここにいる。あんたはあたしのやってることを全部叩き込まれたら別の艦娘と一緒のとこに行く。そうなったらもう逃げられない」
「じゃ、じゃあもう…すぐ…?」
「やるっきゃない。チャンスは…一回。あのおっさん、3日後にまた来る。玄関まで来させるように呼んでって言っておいたでしょ?そんで、一気にあんたを外へ出すようにするから。そしたら…走って。とにかく走って。あいつらはあんたを捕まえないとヤバいから、全力で追いかけてくるよ。捕まったら終わり。捕まりそうになったら助けてってすぐ叫ぶんだよ。すぐそこで捕まったら無理だけどさ…」
先輩鈴谷の言うことを真剣に首を振る。指示は簡単だ。逃げろ。走れ。大きな人がいっぱいいそうなところを逃げろ。捕まりそうになったら大声で「助けて」と叫べ。自分のことだけを考えて、あとは何も考えるな。
「いい?やれるね?あたしのことは気にしないで。いいね」
「でも、それじゃ…」
「もうあたしのこと考えてる。それじゃダメなんだってば。あたしはもうここでしか生きていけない。だから、あんたにあたしの希望も、夢も、全部託すんだ。だから、絶対に逃げ切って。そのためには、あんたはあんたのことだけを考えて」
「………うん!」
「よし!頼んだよ!でも、気づかれたらだめだからね」
後輩鈴谷に抱きつき、頭を撫で、ありったけの思いを託す。自分ができなかったこと。やりたかったこと。全てを。
………
「おい、おめえ何を言った?鈴谷ちゃん2人が玄関まで来てくれないと嫌だって喚いてうるせえぞ、あの常連。クソが、上客じゃなけりゃつまみ出したのによ」
「どうすんの?つまみ出す?」
「できるか。一回で100万近くサービスだって落としてくんだぞ、いいから行け。変なこと企んでたらタダじゃおかねえぞ」
鈴谷たちのすぐ後ろをついて歩く男。感づかれたか?いや、まだ確信してはいない。いつものように振る舞え。ここで感づかれたら終わりなんだ。いつものように歩く。後ろでかわいい妹のような子が服をしっかり掴んで歩いている、例えば、自分が建造したての熊野なんかを連れて鎮守府を歩けたら。そんな毎日、楽しかったろうな。そんなことを考えているとフッと笑えた。
「おおおおおおお!!!鈴谷ちゅわん!!!鈴谷ちゃんが2人もいるなんてほんと幸せだなぁ!」
手を広げて鈴谷2人を歓迎する男。汗をかき、汗臭い。加齢臭もひどい。太っていて汚い顔。こんなやつにこの子を汚されてたまるか。
「おじさーん!鈴谷会いたかったー!また今日もかわいがってねー!」
鈴谷2人が駆け出す。そしてそのまま先輩鈴谷が男に飛びつき………突き飛ばした。
「プギィ!!!」
思い切り突き飛ばしたためにそのまま後ろへ吹き飛び、ドアが思い切り開いた。入り口にいた門番もうおっ!とよろけてこけた。
「走って!!!」
その言葉に後輩鈴谷は弾け飛ぶかのように走り出した!先輩鈴谷も立ち上がり、外へ走り出そうとしたところを後ろから来た男に取り押さえられた。激しく抵抗すると、門番の男もまず先輩鈴谷を押さえようとする。
「バカ!何してやがる!あっちだ!あっちを捕まえろ!!!ヤバい!!!!」
「待てゴラアアアアアア!!!!!」
後ろから自分に向けて怒号が聞こえる。心臓が止まりそう。止まっている場合じゃない。動け!心臓も足も!!!
「いいよ。そのまま…走って……夢を叶えて……」
「おめえやりやがったな!クソが!!!おめえはもう逃げられると思うなよ!!」
バーカ。あたしはどうなってもいいんだよ。そう心の中で呟いて思い切りバカにしてやった。いい気味だ。先輩鈴谷は髪を強く引っ張られ、いつもの部屋へ怒鳴られながら連れていかれながらもずっと玄関の方を見て笑っていた。
………
「待てやゴラァ!!!!」
「はぁっ!はぁっ!」
狭い路地をひたすらに走る。道なんかわからない。それでも、煌々と光る方向へと向けて走る。この鈴谷の勘はとても正しく、その光の差す方向こそが、本当に鈴谷を光へと導くための光であった。何ともまあ逃げ足は速い。しかし男もなかなかの健脚で足が速く、気を抜けば追い付かれそうであった。
光が強くなり、バッと路地を抜けるとそこは華やかな大通り。わぁ?!とかきゃっ!と人とぶつかりそうになるが気にしていられない。うお!と後ろで声が聞こえ、どけ!!!と言う声が続いた。パッと後ろを見ると鈴谷がぶつかりそうになった人と追ってきた男が衝突しそうになり、その弾みでよろけたらしい。
距離が開いたのだが鈴谷は前だけを見て走れと言う先輩鈴谷の言いつけ通り、とにかく前だけを見て走る。
細い所に入って撒こうとするな。人がいっぱいいるところを走れ。とにかく大きな道を前だけを見て走れ。鈴谷はそれを必死に守りながら走った。まだ切り札の「助けて」と言う声は出さない。必殺のようであり、これのせいで居場所がばれてしまったり、艦娘だからと捕まえてしまう人間がいるかもしれないと言うこと。諸刃の剣だ。本当にどうしようもなくなった時だけ叫べ。その言いつけも守っている。
もう心臓と肺が痛い。足は何度ももつれて転びそうになる。転んだら死よりも辛いことが待っている。声が聞こえなくなったことも知らず、鈴谷はさらに人の多い大通りを駆ける。道行く人々はなんだなんだと奇異と好奇の視線が集まる。それでも黒の山をかき分け、人混みに紛れて鈴谷は夜の繁華街のどこかに消えた。
………
「あっ!」
ドシャ!とついに足がもつれた弾みで転んだ。膝をすりむいて赤い血が出てきたがそんな余裕はない。立ち上がって走りだそうとしたが、足が震えてうまく走れない。息も大きく切れて、自分の心臓の鼓動が耳に響くくらい早鐘を打っている。これ以上走ったらやばいよ。そんなふうに言っているようだった。
「ぐっ…!」
とにかく離れなきゃ…。歩くスピードになりながらもとにかく何かに導かれるように足を動かした。のどからも血の匂いがするような気がする。くっついて不快だ。後ろを振り返る。自分を追いかけているような人間の姿は見当たらない。横を見れば鉄の塊のような何かがすごいスピードで走って行く。これに乗れば…いや、それはやめておこう、と直感で悟った。前もこんな速いだろう何かに乗せられてあそこへ連れていかれた。なら、また連れていかれるかもしれない。ダメだ。やっぱり自分の足が頼りだ。
擦りむいた足は痛いし、膝がプルプルしているし、胸は痛いし、泣きたい。泣いちゃだめだ。あの人がせっかくチャンスをくれたんだ。だから、そのチャンスをつかみ取って私はあの人にやったよって言いたいから。空からは何やら白く冷たいものが落ちてきていた。
………
「いった……いったいしぃ…」
足が痛い。足の裏がもうズルズルになってきていた。無理もない。何せはだしだ。空から落ちてくる白いものの勢いが増し、冷たいのと痛いので歩くのも限界に近づいていた。血が出ている。しかし、路面が濡れているので足跡や血痕は残らないのが幸いか。
「もう…やだ…」
弱音を吐く。追われる恐怖。どこまで行けばいいのかもわからない焦燥感。誰も助けてくれない孤独。街頭の明かりだけを頼りに、もう限外が近い足を動かして鈴谷はそれでも。あの人が背中を押してくれている気がして歩いた。
もうどれくらい歩いたかわからない。ついには足の痛みも限界に達し、何時間も走り、歩き続けた鈴谷の体は悲鳴をあげていた。いかに艦娘と言えど、艤装がなければ人間の年相応のチカラしか発揮できない。体力も燃料があって尽きるまでずっと一定速で走れるわけでもない。傷の回復もそう早くない。倒れ込むかのように木の階段のような場所にへたり込んだ。もう、動けない。
誰も助けてくれなかった。その怒りが胸を締め付ける。じわじわと。
何でこうなったの?何で鈴谷がこんな目に?海に出て、深海棲艦と戦って、勝って、提督にうーんと褒めてもらって。そんな毎日じゃなくてなんで変なところに連れていかれて変なことしてるところで働けとか言われて男に追いかけられてこんな痛い辛い思いをしなけりゃならないのか。悲しみよりかは段々と怒りのほうがこみ上げてきて、どす黒い何かがジワジワと心を侵食する。
ギュウ…と左胸に拳をあてて強く押し込んでいると、一際、夜明けの太陽のような眩い光が鈴谷を襲った。ああ、もうだめだ。見つかった。私はこれで連れていかれるんだ。と余計にどす黒いものが侵食した。しかし、その明るい何かはブロロロと音を立て、逸れていく。すぐ近くに停まったかと思うと、中から人間が現れた。やっぱりダメか…。なら、あの人が言ってた言葉を言って、もう楽になろう。ふらつく足で立ち上がった。
「おはようございます。お嬢さん、開店時間には全くと言っていいほど早いですよ。訳あり、のようですね」
「ねえ、おじさん」
「はい」
「私のこと、買ってくれない?」
寒さからだろうか。恐怖からだろうか。体に雪を積もらせた彼女は震える声でそう言った。
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朝にぴったりのピアノジャズがかかった車内。暖房は食材のためにかけず、しかしコートなどは運転姿勢が崩れるので着たくない。寒いが寒さには強い。朝の市場で今日の店の食材を買い込み、今日はどんな日替わりメニューにしようか。どんな料理を提供しようかと考えながら家に帰るために車を走らせていた。
喫茶、そしてナイトバー「ルーチェ」のマスター、安城宗春。彼はバーを終え、全てを片づけ、夜遅くに床につく。その睡眠時間ごくわずかでその生活習慣を聞いた梅や竹美は「早死にするぞ」と口を酸っぱくして言っているのだが「じじいは目が早く覚めてしまうものなんですよ」と笑って元気だと伝えた。とは言え、上質な食材はこの源、茂、徳三の店で仕入れてくれるので早起きはたまにしかしない。たまたま今日は市場に顔を出しただけである。
マスターはジャズの曲に合わせて口笛を吹き、軽快に車を走らせる。海沿いの道を走り、海から昇ってくるくる朝日を見るのが毎日の楽しみだ。もう1つの楽しみ、年始以来、顔を見せない玲司と艦娘を見ることができない今、彼の唯一の楽しみである。しかし今日はあいにくの曇天。それどころか珍しく雪が降り、路面を濡らしている。積もりそうな雪ですね。と思った。家に近づくにつれ、雪は強くなり、歩道はうっすらと白くなってきた。
「今日は温かい料理。ふむ、源君のところで上等なちくわを買って…茂君のところで牛すじとひき肉を買って…徳三君のところでキャベツを買い…ロールキャベツにしておでん…バーでおでんとはなかなかおもしろいものですね」
過去に出した際は随分と好評だった。注文のお酒もカクテルやワインではなく、焼酎や日本酒が飛ぶように出た。あれはおもしろかった。バーと言う型枠に囚われず、自由にやりたいものを提供する。それが「ルーチェ」のモットー。なのでおでんは採用。あとは牛すじのどて煮などもいいですね、と寒い雪の夜に合う料理がほいほいと思いついた。
やがて家に着いた際、入り口の階段のところに座り込む何者かがいた。すぐさま、ただ事ではないと察知した。何せ髪の色が人とは違う。彼女は鈴谷だ。賑やかで、ちょっといたずらにお色気を出しては失敗し、なぜか自分が怒られていたな。さて、また瑞鶴さんのように玲司君とケンカしたのか?いや違う。そう、マスターは考えた。
車を車庫に放り込み、荷物はそのままで外へ出て彼女を見る。彼女は頭と肩、へたり込んでいるであろう足に雪が積もっており、長時間ここに座っていたことが伺える。艤装はない。そのせいか寒さに打ちひしがれ、唇は紫色で。自分を見て怯えているように見える。
マスターは彼女を怖がらせないようにちょっとおどけて言って見せた。
「おはようございます。お嬢さん、開店時間には全くと言っていいほど早いですよ。訳あり、のようですね」
「ねえ、おじさん」
「はい」
「私のこと、買ってくれない?」
寒さからだろうか。恐怖からだろうか。体に雪を積もらせた彼女は震える声でそう言った。
さて、新章が始まり、鈴谷が横須賀に着任する前の話となります。彼女の建造されてからの生活は過酷なものでした。鈴谷はこのおじさん(安城ことマスター)との出会いでどうなってしまうのか?
そして、玲司の艦娘でもないとわかってしまったマスターは鈴谷をどうするのでしょうか?
次回をお待ちいただけますと幸いです。
いつものことですが、新章第一話(142話)のとおり、鈴谷は幸せにします。
それでは、また。