十分に体を温め、汚れも大淀の協力もあって流れ落ちた。やはり、玲司が来て初めて風呂に入る許可が出た時のように、吹雪の体も汚れがひどい。そして、村雨や時雨のようなひどい傷…いや、これは火傷の痕のようだ。熱湯をかけられれば船とは違い熱い。熱湯をかけられ、のたうち回ることが楽しいのか笑ってかけてきたと言う。
結局ひどくかゆくなったり痛かったりと眠れない夜を幾度も過ごし、落ち着いたころにはドックに入ろうが消えない痕が残った。
(お前みたいな不細工にはお似合いだな)
そういわれ、部屋に篭って泣いたっけか…。そんなことを言っていると、川内が素っ裸で突然立ち上がり「ちょっとそこの提督ぶっ殺してくる」と言って消えて大淀と吹雪で大騒ぎしたり。
大淀から借りた寝間着は少し大きく、肩から胸、腹にかけての火傷痕がちらちら見えるのが気になる。…こんな醜い体じゃあ…。と吹雪はがっくり肩を落としていた。
「それでは提督にご挨拶に行きましょうか。今は7時ですから、もう食堂にいらっしゃるでしょう。…さあ、行きましょう」
「は、はい…」
開口一番何を言われるのかがとても気になる…。しかし、それでも艦娘である以上、司令官は絶対である。そう刷り込まれた吹雪は従うしかないのだ。
……
「吹雪を元の提督に返す気はない。あの子は俺が引き取ってここで面倒を見る。見たか?おやっさん。あの火傷みたいな痕。あれはわざとつけられて、入渠をほったらかしにされた痕だ。あんなもん見ちまったらじゃあさよならなんて言えるか」
玲司はボロボロの吹雪を見た時に、肩から胸などの広範囲に渡る妙なアザと言うか痕を見逃さなかった。火傷のような痕。それは村雨や時雨のように入渠を長いこと放っておかれたせいだ。きっと安久野のように酷いことをされていたに違ないと総一郎に迫る。
「しかしだ、艦娘は何があっても所属している鎮守府や泊地に戻すのが決まりだ。それを無理やり動かせば、もう軍規どころの話じゃなくなる。事情をはっきりさせねば私にもどうにも…」
「それについてはさっき吹雪に聞いたよ。お、たらこのおにぎりおいし。さすが兄さんの焼いたたらこだよね」
いつの間にか川内が川内と吹雪のために握ったおにぎりを手に話しかけてきた。熱湯をかけられたことによる火傷の痕が肩から胸、腹の広範囲。背中はむち打ちでもされたような痕が数か所。吹雪の制服では見えないところにしっかりと刻まれていたようだ。
「あたしもそっちに戻すの反対。戻すって言うならあたし、父さんと縁切る。兄さんのとこでのーんびりする」
「川内、待ってくれ…その条件は…」
総一郎が苦虫を嚙み潰したような顔で川内を見る。川内の目は本気であり、そして本当に怒っている。
「あたしマジで怒ってるんだかんね。本当なら宿毛湾の提督ぶっ殺しに行きたいもん。騒ぎになるなって今おにぎり食べたら冷静になったんだけど。でも、あの子をそこに返すくらいなら、きっと拾う前に沈めてあげたほうが悩まなくて済んだのかもね。兄さん。あの子をお願いしてもいい?」
「ああ、もちろん。うちは大歓迎だよ」
川内の攻撃と玲司の頑として聞かない態度に総一郎はため息をついた。
「そうだなぁ。川内が様子を見に行った時には誰もいなかった。と言えば吹雪君は轟沈したことになるね。そう報告を宿毛湾の提督に伝え、横須賀鎮守府では建造を行ったと言う報告書をもらうとするかな。そうすれば、宿毛湾の吹雪君は残念ながら轟沈した。そしてたまたま横須賀鎮守府では駆逐艦吹雪君の建造に成功した。こうすれば帳尻は合うね」
「おやっさん…」
「んん?ああ、すまない。今日は寝ていないからかな、大きな独り言が出てしまったよ。今のは聞かなかったことにしておくれ」
「えー…お父さんヘッタクソ…でも、まあいいじゃん!」
「ははは…くれぐれも内密にね…玲司も」
「ああ、わかった。じゃあ一眠りしたら建造成功報告書を大本営に送らなきゃな」
「うむ、そうしてくれたまえ」
二人してニヤリと悪い笑みを浮かべていた。川内はやれやれと肩をすくめる。
「提督、お待たせ致しました。吹雪さんの修理、完了いたしました」
「ああ、大淀。ありがとう。さて、いらっしゃい吹雪。今日からお前はうちの鎮守府に所属になる。このことは、うちの鎮守府と古井司令長官だけの内緒事だ。絶対に外では言わないようにな。あくまで建造で生まれた吹雪ってことで、よろしくな」
「えっ!?は、はい…」
突然の言葉に声が裏返る。大淀から聞いていたことと話が違う。大淀をチラリと見ると大淀も驚きの口を隠すように手で覆って驚いている。どうやら大淀も全くの予想外の事のようだ。
「て、提督。そのようなことが見つかったら提督が罰せられてしまいます!た、確かに吹雪さんはここにいたほうが良いとは思いますが…」
「みんなが話さなきゃそれでいい。吹雪の意思次第だけどな。帰りたいと言うなら仕方ないけど帰すしかない。どうだ、吹雪?突然めちゃくちゃ言ってるとは思うけど、うちに残る気はないか?」
「え?あ、あう…」
突然の出来事に頭が真っ白になる。しかし、恐ろしい現実しか知らない吹雪にはここの鎮守府に残ったとしても…何をされるかがわからないために、二つ返事ではいと言うことは躊躇われた。
その態度に玲司は信用されていないな、と思った。無理もない。きっとここであったような出来事が容易に想像できた。人間を信じられなくなる。いや、恐怖することは当たり前だった。
「吹雪さん、提督を信じてはいただけないでしょうか…。お風呂でもお話しましたけど、本当に私たちのことを思ってくださっているのです」
吹雪は恐怖と混乱で足が震えている。玲司はこのままではきっと萎縮し、宿毛湾に帰ってしまうのではないか、と内心焦っていた。帰してしまったら今度は取り返しがつかないだろう。けれど、それは言葉で言っても信じてもらえない。八方塞がり…。まさにそんな言葉がぴったりだった。
「しれ~か~ん!おはよぉ~!!」
「しれーかん!おはよー!!」
「おはようございます…」
そうして悩んでいると両足に衝撃と、スッと手を取られた。後ろから文月、皐月、霰がやってきたようで、文月と皐月が足に絡みつき、霰がスッと手を握ってきた。文月は満面の笑みで、ちょっと頬ずりもしていた。玲司は悩み事は忘れて笑顔で空いた手で三人を撫でていく。
「おはよう、文月、皐月、霰。今日も元気だな!歯は磨いたか?」
「ちゃんとやったもーん!お水が冷たかったけど、ボクちゃんとしっかり顔も洗ったよ!」
「文月も~。ちゃんとお顔ばしゃばしゃしたよ~」
「霰も…やりました」
「そっか!偉いなぁ。じゃあ今日の焼きたらこ、一個増やしてあげような」
「わー、やったー!ボク、司令官の焼いたたらこ大好き!」
「ありがとうね~♪」
「やった…」
吹雪は夢を見ているかのような光景を見ていた。司令官に飛びつくなんて発想がまず思いつかない。それでいて、頭を撫でてもらって…司令官も笑って。みんな幸せそうだった。大淀もクスクスと笑っていた。戸惑っているとさらに駆逐艦がやってくる。
「しれー!おはようございます!えへへっ」
「おっはようございます!」
「おはようございます」
「おはようございますっぽーい!雪風ちゃんずるいっぽーい!夕立も…ぽーい!!」
司令官に群がる駆逐艦。それを吹雪は羨ましげに眺めていた。
(いいな…私も…そんなこと…したいな…)
「ん?君は吹雪だよね?僕は時雨だよ。救助艦かな?……その首の痕…」
「あっ!」
時雨に火傷を指摘されて慌てて隠す。パジャマがだぼだぼでうまく隠せないが…。
「もう、時雨。女の子にそれをいきなり言っちゃだめだよねぇ。私は村雨。よろしくね!」
明るく挨拶をしてくる村雨という駆逐艦。吹雪は見た。顔の左半分の大きな傷痕を。時雨もちらりと傷痕が見える。おそらく、大きい。
「あ、私の顔のことなら気にしないでね。ふふっ、これを治してくれたの、提督なんだー。目も潰れちゃってたのを魔法みたいにパーッと治してくれたの!」
「うん、僕も。本当ならこの足、使い物にならないはずだったんだけど…。だから、提督には感謝してるんだ。僕のも見るかい?ほら」
皆に見えないように服をたくし上げ、背中を吹雪に見せる。大きな傷痕が背中にはっきりと残っていた。時雨が言うには前の提督により、傷を放置された結果だという。前の提督の時ははっきり言ってみんな地獄だった、と村雨と口をそろえて言う。
「でも、今の提督はほんとに優しいんだよ。私の顔見ても気持ち悪いとかそんな風に思ってないって言ってくれたし、みんなに優しいし。雪風ちゃんがあんなに提督に懐いてるんだもん」
「吹雪も…提督に酷い目に遭わされたんだよね。なら、信用できないと思うのはわかるよ。でも…ちょっとずつでいいから提督を信用してほしい。いきなり全部信用しろとは言わないからさ…」
「おはよう、時雨、村雨。ん、吹雪との挨拶はできたか?」
「提督、おはよう。うん。いろいろとね」
「そそ、いろいろとでーす!」
「…そうか。んじゃまあ、北上達も来たしご飯にしますか」
「あ、あの…司令官…様」
「様はいらないよ、吹雪」
「あ、あう…し、司令官…私…弱いし…背も小さいし…でも、一生懸命頑張りたい…です。だから、私も…ここにいたい…です」
涙を目に溜めながらもじもじと吹雪が言う。あちらへ戻っても何をされるかわからない。また沈みに行かされるかもしれない。ここなら、あれほど駆逐艦に懐かれているし、巡洋艦の人も気さくに話しかけていたリとすごく温かい雰囲気のここなら、自分もやっていけるかもしれない…。何より生きたかった。だから川内の手を取ったんだ。
死に戻るためならあそこで手は払いのけていた。少し、信じてみよう。
スッと吹雪の目線に玲司も屈む。目線を合わせての会話は他の駆逐艦にもよくやること。そして、そっと頭に手を置く。一瞬ビクッと身を震わせる吹雪だが、頭をやさしく撫でられる感触に、ボロボロと涙が溢れる。人から優しさをもらうのは初めてで。嬉しくて、驚いて何が何だかわからない感情が涙になってあふれ出す。
「うっ…ひぐっしれえかん…しれえ、かん…あっ…わあああああん!!」
大きな声で泣き出した吹雪。そっと抱き寄せて頭を撫で、背中をポンポンと優しく叩く。その二人を、食堂にいたみんなが優しく見つめていた。
……
朝食。吹雪が初めて食べる白いご飯。しっかり焼いたたらこ。味噌汁。卵焼き。どれもが初めてで、おいしいと言う感覚を覚えて。また泣いていた。みんなももりもりとご飯を食べ進める。
全員でごちそうさまをした後、玲司が立ち上がる。
「あー、ちょっと報告な。まあ見ての通り、新しく吹雪がうちに加わることになった。しばらく不安もあるだろうから、みんなで寝てあげてくれ。寝間着とかは…すまん、誰か貸してあげてくれ。
それからもう一つ。川内からの報告だ。ここにやってきた安久野だが。海に出て逃走を図ろうとしたが、深海棲艦に襲われ、魚雷にやられてしまったようだ」
その言葉に大きなどよめきがあがった。この鎮守府を地獄へと変貌させた男の死の報告。それは…。
「へえ、死んだんだ。よかったじゃん。もうこれでここはあいつに怯えなくて。よかった…じゃん。な、なんだよ。ざまあみろ。な、なんだ。魚雷でくたばったんなら…あたしが魚雷ぶち込んでやったのに…。へ、へへ…大井っち…やったよ…みんな、やったよ…。あいつ…あいつ、くたばりやがった!!!」
途中から大粒の涙を流して大声を出す北上。北上も混乱しているのだ。姉妹を沈められ、さらには自分も汚され。そして奴のせいで死神と呼ばれた毎日。いっそ殺してほしいとまで思った地獄の日々。憎しみ。悲しみ。怒り。この感情を鍋にぶち込んで強火で一気に煮詰めたらこんな恐ろしい感情になり、感想が出るのか。自分でも嫌になり、泣いた。
それでも。それでも、もう怯えなくていい。それは横須賀の艦娘のほとんどが思うことだ。ようやく解放された。
「北上…お前…」
雪風が北上を抱きしめる。北上も雪風を抱きしめ、声を殺して泣いていた。
「雪風…雪風ぇ…」
「はい。雪風はここです。…今いる皆さんで、頑張りましょう。雪風も…お守りします」
小さな体の雪風だが、心は大きく広い。北上の感情を受け止めることができるだけの余裕が今はある。それはもっと大きな支えがいるから。その人がいてくれれば絶対大丈夫だから。雪風は北上の頭を、自分がいつも司令官にやってもらうように撫でる。ぎこちない。けれど優しさがありありと伝わってくる。
玲司はその様子を目を細めてみていた。その苦しさはきっと北上と雪風にしかわからないだろうから。
「さて、横須賀鎮守府は年末年始の休業に入りました。また出撃や遠征、演習もなし。みんな、それぞれゆっくり過ごしてくれ」
「提督。そろそろお休みになってください。お体が心配です」
「おう、そうする。んじゃ大淀。お前もちゃんと寝ろよ」
「三条提督。私も帰って休むとするよ。ここにいては迷惑になるからね」
「しっかりね、玲司君。また来た時にはもっと甘えさせてくれると嬉しいわ」
「あ、ああ…ありがと姉ちゃん。川内もな。司令長官、横須賀のこと、いろいろ無理な協力を言いましたが」
「何、気にしなくていい。せめてもの償いだ。しっかり私がやっておくから、君はここのケアを全力で頼むよ」
「はっ!」
玲司が敬礼をすると総一郎も敬礼で返す。龍驤が苦い笑顔で手を振っていた。次はないと本気で脅されたようだ。今回は無罪放免。明石の必死の説得に陸奥が折れたようだ。明石には足を向けて眠れなくなった。
総一郎達を見送って、玲司は眠りについた。と言っても、夕方まで眠るわけでもなく昼過ぎには起きていた。翔鶴達が気になってすぐ起きてしまったのだ。
……
翔鶴と瑞鶴の部屋をノックすると瑞鶴が勢いよくドアを開けた。
「提督さん。おはよ。ちゃんと寝た?」
「ああ、3時間ばかし。瑞鶴は寝れたか?」
「12時間くらい薬飲んだからぐっすり。寝すぎて頭が痛いよ…。上がって。翔鶴姉が提督さんに会いたいって」
「そうか。じゃあ、失礼するよ」
部屋に入るとベッドから雪の降る外をボーッと見る翔鶴の姿があった。その姿はつい最近の元気そうな翔鶴の表情ではなく、出会った頃のような危なげな雰囲気を醸し出していた。翔鶴、と名を呼ぶと。ゆっくりとこちらを向き、笑った。
「あ、提督…。すみません、このようにベッドからで…」
「いや、いいよ。そのままでいい。翔鶴と瑞鶴。参ってるところで悪いんだけど…奴についての話だ。すまん、だが、一応言っておかないといけない」
奴。まぎれもなく安久野のことだろう。翔鶴の手がブルブルと震えている。だからあまり言いたくなかったのだが、言っておかねばならないと思った。
「奴は…死んだよ」
「えっ!?そ、それほんと!?」
「ああ、マジだよ。海に逃げたはいいけど、深海棲艦に襲われて魚雷で跡形もなく…らしい」
「じゃ、じゃあもう…」
「そう。ここに二度と現れることはない。もう、終わりだ」
その言葉にぴたりと翔鶴の震えが止まった。瑞鶴はへたりこんだ。
「やった…やったよ、翔鶴姉!いなくなったんだ…!私たち、本当にもう怯えないで済むんだよ!やった…やったー!」
「そう…そう…なのね…。私たち…やっと。やっと…」
顔を手で覆って震える翔鶴。泣きながら喜んで翔鶴を抱きしめる瑞鶴。いなくなっても、逃げてもまたやって来るかもしれない恐怖がまだあった。しかし、死んだとなれば二度とない。少しだけ気持ちが楽になったような気がする。しかし、それだけではいかないのだ。
「提督さん。ちょっと席を外すね。翔鶴姉とお話してて」
「ん?いいのか?あれなら俺も外出るけど…」
「いいからいいから!じゃ、ごゆっくり!」
…何だかすごく強引に二人きりにされたような。そんな気がしなくもない。翔鶴の表情は暗い。赤く目を腫らせて玲司を見る。
「提督…。申し訳ありません…。このように心の弱い艦娘など…きっとお荷物になりますよね…」
「何を言ってるんだ翔鶴…?」
「明け方に目が覚めてしまって…。そこから瑞鶴を起こさないようにずっと…震えていました。さっき、少し弓を持とうと思ったら…やっぱりあの人の、か、顔が浮かんで…」
「いい。しばらく何もしなくていい…。とりあえず、またしばらくは何もしなくていいようにした。ゆっくり、休んでくれ。心も。体も。今はしっかり休めよう。落ち着いたら買い物にも行こうな」
「はい…楽しみにしています…。提督…私、提督…いえ、玲司さんが、新しい提督でよかった…」
そう言うと翔鶴は玲司の頬に手をやる。そして、じっと玲司の目を見つめ、虚ろな目ではなく。はっきりとした目で口を開く。
「玲司さん。私たちを見捨てないでくださいますか?私を…私を見捨てないでください。どうか、お願いします…。私…玲司さんにまで見捨てられたら…もう…。重い女と思われるかもしれません。ですが、今は貴方に依存しないと心が壊れてしまいそうで…。だからお願いします。見捨てないで…」
ぽろぽろとまた泣き出した翔鶴。わずか一ヶ月。新しく変わった環境。あれほど誰かの悲鳴や泣き声が聞こえてきた鎮守府はなく、皆が笑顔で楽しい毎日。きゃーと言う悲鳴は悲鳴と言うのには程遠く、駆逐艦の楽しそうな声。こんな日が来るなどとは思ってはいなかった。
それを変えてくれた玲司に彼女の心は依存していった。刃物で襲ってしまったにもかかわらず…。
「あれは追い詰められた翔鶴の感情が爆発したんだな。俺も翔鶴を追い討ちをかける行動を取ってしまった。すまなかった」
この言葉で許してくれ、さらには自分も非を詫びた。優しさに触れたことがない翔鶴はたくさんのことが未知の体験だった。演習の時も玲司のために勝ちたかった。玲司の喜ぶ顔が見たかった。
「見捨てるもんか。みんなも。瑞鶴も。翔鶴も。見捨てない。俺が生きている限り。俺はお前たちを見捨てない」
玲司は強い眼差しで翔鶴を見つめながら言う。その決意は決して変わらない。かつての仲間たちとの約束を。2年逃げてしまったが、果たす時がきた。玲司も翔鶴の頬に手を当てて誓った。
「ああ…あったかい…」
空いていた左手を玲司の手に乗せて目を閉じ、笑っていた。安らかな表情で。その翔鶴はとても美しい、と思った。
「ありがとうございます。玲司さん。私…今はこうさせてください…」
「お、おい…」
玲司の胸に頭をよせる。その行動に玲司が狼狽えるが、そんなものはお構いなしの翔鶴。
「そろそろ瑞鶴が戻ってきそうですね…名残惜しいですが、今日はこれで…。名取さんの様子も見に行かれるのでしょう?」
「あ、ああ。そう、だな」
「玲司さん…。お買い物は瑞鶴と扶桑さんとも一緒に行きたいです。やっぱり二人は…恥ずかしいですから…」
「そっか。わかった。じゃああと吹雪が新たに着任したから、吹雪もいいかな」
「はい。はやく良くなって行きたいです。楽しみにしていますね…」
「ん。じゃあ、瑞鶴には名取のとこに行ったって伝えてくれ。じゃあ、行くな」
頬から手を離そうとしたときだ。翔鶴が両手で玲司の右手を取り、そして顔を近づけ…手の甲に柔らかな感触が…。
「しょ、しょうか、く…!?」
「………」
翔鶴は耳まで真っ赤にして目を伏せた。玲司はそのまま硬直する。無言の数十秒。
翔鶴の心臓は爆発しそうなくらいバクバクと鳴っていた。
「ただいまー。もうお話終わった?ちょっと二人きりにしてあげようって気を遣ってあげたんだけどーって…翔鶴姉…?」
「ひゃい!?な、なんでもないわよ、ずいかく。なんでもないわ」
「翔鶴姉、顔が真っ赤だよ?て、提督さん?ちょっと、翔鶴姉に何したのよ!?」
「は、はあ!?俺は何もしてないぞ!じゃ、じゃあ俺は名取のとこにも行くから!翔鶴、お大事にな!」
「あ、こらー!逃げるな!って、逃げ足はっや!ったくもう!…ふっふーん?翔鶴姉やるじゃない!」
「ず、瑞鶴?も、もう!もう!!!」
「あははは!翔鶴姉かわいいなー!」
からかう瑞鶴とさらに顔を真っ赤にして手をぶんぶんさせて怒る翔鶴。いつもの調子が戻ってきた二人。まだまだではあるが、少しずつ春に近づくように。傷だらけの彼女たちはその心をゆっくりと癒していくのだった。
おや?翔鶴の様子が…?