臓物ぶちまけて死にかけの侍を勇者として召喚してしまった件について 作:トロ
周囲を美しい緑に囲まれ、実りのころになれば自然の恵みが沢山とれる小さな王国の王都、その城下町は常に賑わっており、そこに住む誰もが穏やかな時間を過ごしている。長い歴史を持ちながら手入れが行き届いた城から覗く景色は、温かい光に満ち溢れたものであった。
そこは幸福の土台の上に作り上げられた楽園のような世界。
その国の姫であるアン・サルソンにとってはそれが世界の全てであり、彼女は生まれた頃より幸福を享受し、幸福こそが普通という恵まれた世界で成長してきていた。
そんな彼女は、毎日変わることもなく、だが何度繰り返そうが飽きることなんてまるでない日々を満喫していた。
朝は国王である優しくて威厳のある父と、美しく聡明で何よりも愛情に溢れた母と共に食事をする。朝から元気なアンのことを両親はいつも可愛がっており、両親から受ける愛情を感じられるこの一時は、一日の始まりを告げる大事な時間だ。
それから王族として必要な勉学に励むが、家庭教師の先生はいつもアンの手を取って導いてくれるような素晴らしい先生であり、決して苦痛に感じたことはなかった。勉学の他にも、無理を言って剣の稽古を少しだけ。お姫様がはしたないですよと言いつつも、丁寧に教えてくれる先生のことがアンは大好きだった。
だけど、お昼だけは少し特別。怒られたり困らせたりするのはわかっているけれど、アンは隙を見つけては兵士の詰所に行って、年上の騎士達の鍛錬する姿を眺めたり、一緒にお昼をこっそり食べたりする。先生に見つかると王族としてそういうのはいけないと怒られるが、アンはこの優しい世界を守るために日夜鍛錬に明け暮れる騎士達が好きだったし、騎士達も純粋無垢な好意を向けてくる彼女のためにいっそう鍛錬に励んでいた。それが分かっているから先生も本気で怒るわけにもいかず、毎度困らせているのだが、アンは懲りずに何度も兵士の詰所に通っていた。
そして夜はまた父と母と共に今日一日のことを沢山話すのだ。アンが話す一日の出来事を、二人はどんなに疲れていても笑顔で聞いてくれて、自分のお話で笑顔になってくれるのがアンにはとても嬉しかった。
そんな日々が毎日続くのが、アンの世界だった。世界は幸福で完結されており、たまのトラブルも振り返ってみれば笑い飛ばせる昔話になるような、そういった日常の繰り返し。
それが終わったのはまさに一瞬のことであった。
「お父様! お母様!」
「姫! こちらに早く!」
「いや! お父様とお母様が!」
アンの目の前で、生まれた時からの幸福の証、白色の美しい城が紅蓮に染まっている。
城下町もまた、燃え広がる炎によって儚くも消えていた。
それは幸福の終わり。いつまでも続くと思っていた少女幻想は、その目の外より襲ってきた邪悪によって蹂躙されていた。
「いや! いやぁぁぁぁぁ!」
喚き散らすアンを片腕に抱きしめながら、城より落ち延びた騎士は憤怒と悲痛でぐしゃぐしゃになった顔を鉄仮面の内側に隠し、敵国の追手から逃れるべく城下町を走り抜ける。
その周囲を取り囲む騎士達も気持ちは同じだった。残された手勢は十にも届かず、抵抗も出来ずに逃げるしか出来ない敗戦の兵は、馬を鞭打ち守るべき城に背を向けて走る。
本来なら彼らも城と運命を共にするつもりだった。
だがそれを止めたのは彼らの王。国の至宝である姫だけでも逃そうと騎士達に命じたから。
「う、うぅ……どうして! どうしてこんな!」
しかし騎士達の内心を知ろうが知るまいが、アンは叫ばずにはいられなかった。ここに残っていれば、敵国に捕縛された父と母と同じ末路を辿るかもしれないと分かっていても。
分かっていながら、吐き出される絶望は止まらなかった。
「こんなのいや……」
紅蓮に染まる街並みとは裏腹に、アンは震えるくらいの冷たさを感じていた。
温かいのが奪われていく。
何もかも奪われていく。
抱き締めていた幸せが多いほど、喪失の絶望が色濃く体を貫くのだ。
「冷たいのは、嫌なの……」
か細く漏れる声すらも、ヘドロのように広がり続ける紅蓮に飲まれ、虚しく散るばかり。
アンは知らなかったことだが、近年、周辺国家に覇を唱えていた帝国による他国への侵略は留まることを知らず、中小国家の一つでしかないアンの国は、その侵略の片手間程度の扱いで滅ぼされることになった。
果たして紅蓮に飲み込まれた祖国を見て彼女は何を思ったのだろうか。
城より眺められる幸せの象徴が食い尽くされ、生ごみのように踏みにじられる様は何を彼女に与えたのか。
いや、手にしたものなどそれこそ何もないという実感だけか。
少なくとも彼女は家族を、国を失った。
だが彼女が奪われたのはそれだけではないのだ。
「逃がすな! 一人も逃がすな!」
「くっ……もう追手が」
城下町をあと少しで抜けるといったところで、待ち構えていた兵士達が、闘争しようとする騎士達へ弓矢を構え、警告も無しに放った。
避ける隙もなく降り注ぐ矢の雨は、僅かな手勢しかない騎士達を葬るには十分以上。しかし彼らの意地か、アンを抱く騎士を守るように前に割り込んだ三人の騎士によって、殆どの矢がアンに届くことはなかった。
だがどれだけ意地を見せようが限界はある。一身に矢を受けた前の騎士の一人が力尽きたその隙を縫う形で走った矢は、迫る絶望を唖然と見ることしか出来なかったアンの額から頬まで一直線に走り抜け、その右目から光を奪い去ってしまった。
「ぎゃあああああああああ!」
「姫!? クソ……! クソぉぉぉぉぉ!」
最早、騎士達に残されたのは姫を守るという王命だけだった。
だがそれすらも守れない。
国の至宝を守れずに、その片目から永遠に光を奪わせるという愚かを許してしまった。
その絶望は如何程だろう。堪え切れずに罵詈雑言を吐き出して、騎士達は滾る怒りをそのままに、矢が幾ら突き刺さろうが怯むことなく眼前の兵の群れに飛び込んだ。
その後のことをアンは知らない。
ただ、痛みに呻く中、彼女を最後まで守っていた騎士が馬を降りて、紅蓮に消えていくところだけを最後に、アンの意識は闇に沈んでしまった。
気付けば、彼女は森の中に居た。
「……お父様、お母様」
彼女が乗っていた馬は既に息絶えていた。その拍子に背中から放り出されたアンは、未だ血を流す眼を抑えながらゆっくりと立ち上がる。
夜の闇はアンの小さな体を痛めつける。がくがくと震える身体、纏わりつく冷気は貪るようにアンの体温を奪い去る。
寒かった。
泣きたいくらい、寒かった。
「寒いの……冷たいの……」
零れる声に返ってくる言葉はない。
何も無かった。
全てを奪われて、少女に残されたのは何も無いという虚無感と――
いつまでも眼に残る、紅蓮の光景。
「嫌……嫌……こんなのもう嫌……」
左目から涙を。
右目からは血涙を。
滴る液体を地面に落とし、アンはいつまでも視界からぬぐえない光景から目を逸らそうと瞼を閉じる。
だが紅蓮は消えない。
熱さを奪い冷たさを与える熱量がいつまでも消えない。
「熱いのは、要らない」
アンは倒れ伏す馬に突き立った矢を一本引き抜く。
躊躇いは無かった。矢じりを自分の顔に向けると、ただ網膜に焼き付いた紅蓮を消すためだけに、最後に残った光すら自らの手で消し去る。
「もう、冷たくは、なりたくないの……」
両目に走る痛みよりも、暗黒に閉ざされた視界からもたらされる虚無に、アンはようやく安堵の笑みを浮かべることが出来たのだった。
そして、少女は光を失った。
そんな彼女に残されたものなんて何もない。
そして、何もないからこそ、何もかも消し去ろうとした。
アンに残された行動理念はそれだけだ。
復讐心でもない。ましてや義憤でもなく、ただ、たまに来るフラッシュバックを消し去るために、あらゆる熱を消し去るだけの哀れなる少女に成り果ててしまった。
ただ幸せしか知らなかった彼女が幸せを奪われたことで、何もかも無くなったという事実は、つまるところ残された記憶以外何もないという存在に彼女を作り上げただけ。
ただそれだけならば良かっただろう。
それだけならば、亡国の姫はその悲劇的な物語の迎える結末のまま、悲惨な最期を迎えるだけに終わったはずだ。
しかし、何もかも失った少女は、盲目というハンデを得たことにより武の極地へと目覚める。
何故、という疑問に意味はない。
その過程にだって、それこそ意味は存在しない。
天才というのはそういった存在だ。天才が天才性を発揮する切っ掛けなど、常人には計り知れぬことであり、一万人に一人どころか、千年に一人という才覚は、全てを失って覚醒した。
恐るべきは、いつも見ていた騎士の鍛錬風景と、先生から受けた基礎の手ほどきだけを頼りに、その武を練り上げたことにある。
天賦の才すら凡夫に落とす天才は、そうして一年も経たずに達人の境地を超える。
そして、虚無という形になった亡国の姫君は、有象無象関係なく、ありとあらゆる存在を無に帰す化け物へと変化した。
アン・サルソン。幸福より虚無に落ちただけの哀れなる少女。
未だ十五になったばかりの歳で修羅に至る才覚を手にした天才。
こと才覚という一点だけならば、宗司はおろか修羅外道と恐れられる狂気すら上回るものを秘めていた。
だがそれでも彼女には一つだけ足りないものがあった。
それは強敵。
一騎当千すら雑魚としてしまう彼女に比肩、凌駕するほどの強敵。
そう、『完結』して然るべきだった才覚は、己を引き上げる存在が居なかったために、虚無という形を是としながら、未だ感情豊かな当たり前の人間であり続けた。
過去の記憶に苛まれるだけの哀れな姫君でしかなかったはずだった。
しかし。
それも、もう終わり。
(死んじゃうの?)
スローモーションで流れる身体。裂かれた胸より迸る流血の軌跡を他人事のように感じ取りながら、アンは静かに自分がここで死ぬということを理解した。
嫌だなぁという気持ちはあった。
全てを無にしたいと思いながら、その実まだ己が無に帰ることだけは嫌だった。
全くもって己の度し難さに辟易してしまう。
でもそれも終わり。
終わりなのだ。
(死んじゃうんだ、私)
一騎当千で構成された軍勢ですら、自分を追い詰め、死の間際に至らせながら、決して明確なまでの死の気配を与えてはくれなかったというのに。
宗司。
宗司と名乗ったこの男。
この男は、たった一人で自分の死にまで刃を届かせた。
(この人、温かいなぁ)
無にし切れない熱を持った男。その熱は例えるなら、冷たすぎる鋼鉄の内側に込められた熱気に似ていた。
鋭く、固く、淫らで、狂おしい。
目は見えなくても、強いことが、温かいことがわかる。
世界が全て暗闇に覆われて、それでも体に纏わりつく熱をひたすらに無くし続けた日々で、唯一奪い取ることも出来ず、逆にこちらの熱を奪ってしまった男。
そんな男に斬られてしまった。
仕方がないと思える程に、己を終わらせる一閃に魅せられた。
感じたのは尊敬か。
あるいは畏怖か。
少なくとも、好意はないなぁ。
(やっと、終われる)
いずれにせよ、その一閃は冷たいだけの少女を終わらせるに至る。
斬撃の刹那、傷口よりこぼれる命の熱を覚え、アンは安堵した。
祖国と家族を失ってからは、死んでいるだけの人生だったと思う。
その人生も、何処とも知れぬ土地で、聞きなれぬ名前の男に斬り捨てられて終わり。
なんてことはない。己もまた、意味の無い生涯を綴っていたというだけの話。
強かった。その強さは異次元的で、最早アンでは逆立ちしても勝ちの目が見えなくて、だからこの男になら殺されてもいいかなと思えるほど。
そして終わりの間近、宗司への心からの賞賛と、人生の幕切れへと至る安堵に身を包まれ、アンは静かに本当の虚無へと沈んでいき――
ぞぷりと、深淵が指先に触れたのを感じた。
それこそが最悪の切っ掛けとなる。
(ここが、おわり?)
それは死を受け入れたアンをして困惑してしまうようなことだった。
終わると悟ったその刹那。
終わる場所に至ったその瞬間。
ここより先が存在しない世界へ、アン・サルソンは『到達してしまった』。
「あ?」
宗司は、アンの変化に気付いて素っ頓狂な声をあげた。
変質は一瞬だった。奈落に手が触れた瞬間、アンは己が立つべき場所の存在を明確に悟り、己が体現すべき『解答』をつかみ取ったのだ。
ならば、死すらも、意味は無く。
「ここが、私の終わり」
刹那、開かないはずの目がぎょろりと開く。
その視線と交差した時、宗司をもってして怖気が走る体を抑えることが出来なかった。
それは奈落だった。
光を灯さぬのではなく、光を飲み込み消してしまう暗黒物質の如き眼だった。
決してそれは、アンの目が物理的に機能していないからというわけではない。
その漆黒は、もっと根源的な暗黒だった。
例えるなら、腐臭を放つ粘着質な黒色の何かを瞳の形に固めたような気持ち悪さと、瞳の形に加工した宝石のような美しさがその瞳には内包されていた。
まさしく虚無。
色濃くではなく、あらゆる色を飲み干す純粋なる黒。
汚泥たる美麗。
美しき腐敗物。
矛盾する評価を強引に成立させるそれを見て――。
『君を、斬る』
あの
「ッ!?」
本能の赴くまま、宗司は全力で飛び退いた。そして、着地と同時に片膝をついて苦痛に顔を歪める。
抑えた胸部からは、熱血があふれ出していた。
「ッ……捉えられたか」
まるで意趣返しとばかりに先程斬ったところと同じ部位が裂かれている。袈裟に斬られた宗司だったが、それでも飛び退くのが辛うじて間に合ったおかげで、何とか重傷程度で済んだ。
致命傷ではない。そのことが御の字と思える程、アンが今放った槍の煌めきは驚嘆に値した。
アンは天高く伸ばした槍をそのままに、半ばから折れた槍のほうを投げ捨てた。
同時に、アンが纏っていた鎧が剥がれるようにして外れ、地面へと落ちる。勝手に外れたように見えるそれは、よく見れば留め具の部分が鋭利な何かで切り裂かれた跡があった。
――俺を斬った一瞬で、自分の鎧まで斬り捨てたのか。
戦慄するより他はない。宗司は内心に浮かんだ恐怖を飲み込みつつ、ゆっくりと立ち上がりながらアンを睨んだ。
素肌に直接着た鎖帷子と皮のズボンのみの姿となったアンは、見えるはずのない眼で宗司の瞳を見返している。
事実、彼女の目は今も暗黒に閉ざされたままだ。しかし、暗黒という視界が彼女にとって正しいなら、暗黒の中で視線を合わせることも当たり前のことであった。
当然だ。
だって、全ては無なのだから。
何も見えないというのは当たり前で、そこに視線を合わせることだって当たり前。
それだけの話だ。
そう思う少女の思考は、常軌を逸している。
だが最早、理解の外にある常識が、彼女にとって当たり前と化していた。
「そっか、私は、終わったのね。斬り捨てられて、終わったのだわ」
語る言葉は変わらない。
だがそこに込められた意志が全く感じられないというのが恐ろしかった。
先程までのは、言ってしまえば少女らしい我儘な感情が少しだけだが見えていて、虚無のような在り方の中に、確かな感情の起伏が何度も浮かび上がっていた、
だというのに。
今や、少女の言葉には何も無い。
狂おしいくらい、少女からは何も感じられなかった。
「くくっ、死に際で開眼とは……ふざけるなよ」
宗司は歓喜と恐怖、二つの思いで震える指先に力を込めつつ悪態をつく。
「無が全てなの」
アンは、否、かつてアンと呼ばれていた人間が、周囲の全てを飲み込むような眼差しで宗司を見た。
それがどういった存在なのかを宗司は知っている。
かつて、宗司は『終わった』人間に出会ったことがあるから。だから、宗司が会った男とは別の場所ではあるものの、今のアンがあの男と同じく『終わった』ということを理解する。
「意味は無いの。もう、何もかも、意味が無いと分かったの」
その姿は、踏みにじられた生ごみのように見るに堪えぬ醜き様で、吐き気をもよおし、今すぐにでも目を背けたくなる程、不気味で歪で気持ち悪い。
「だって全ては無に帰るから」
しかし、月光に映える少女の姿は目を奪われる程美しく、娼婦の如き艶めかしい色気と、赤子のような愛おしさを覚える気持ち良さがあった。
成立しない感情を成立させる、あり得ない矛盾存在。
手にした答えを体現するだけの存在は、こうも矛盾を孕めるのか。
気持ち悪さと気持ち良さを差し置いて、その矛盾が宗司には恐ろしくて堪らなかった。
「……お主、それは一体――」
それは人間の終わり。無限の可能性を秘めた人間を極めた果ての姿。
これが真実だ。
スキル。
魔術。
ステータス。
ありとあらゆる手段を用いて成長に制限を掛けたのは
この世界で何としてでも人間を
人間。
悍ましき二本足の異形。
人そのものが恐れるくらい、人間の秘めた力は悍ましく、何よりも透明で。
その果てに至るという悪夢が、今目の前に現れた。
天才が天才の肉体をむさぼり食らって登りつめた、決して至ってはいけない
虚無という道の果て、己の命を斬り捨てられたことによって手にした究極の無。あらゆる全てが無に至るという最悪。
その奈落こそ、少女の手にした唯一無二の
「なんて様だよ」
嫌悪感ごと吐き捨てる。
その虚無に、修羅外道と呼ばれた
次回、しゅらば、ちる
例のアレ
アン・サルソン
中世の時代、西洋のとある小国家の王族として、蝶よ花よと育てられた姫。しかし13歳の時に隣国によって国を攻め滅ぼされ、逃避行の最中に片目を失明。後、全てを失った絶望から残った片目も自分で潰した悲劇の少女。年齢は15歳。才能だけならば作中最高。その狂気と相まって、修羅外道に続いて二人目となる可能性を完結させた人間へと至った。
人族
人間もどき、あるいは新人類とも言う。だがそれはルールの押し付けによって固定化した在り方であり、切っ掛けがあれば誰もが人間に
メイル・リンクキャットは退化した。人間に成り果てた。