貴也と出会った日からしばらく、園子の話題は常に貴也のことであったそうだ。
よほど嬉しかったのだろう。初めて出来た友達についてニコニコと同じことを何度も繰り返し話してくる娘に、園子の両親は娘以上の喜びを感じていた。
彼らの貴也への信頼は絶大なものとなった。
だから、貴也の父が乃木家を訪問する際は必ず貴也も一緒に連れて行かれ、二、三時間ではあったが園子と遊ぶのが恒例となった。
もちろん、その頻度はそれほど多くはない。月に一度か、二ヶ月に一度。毎回、日曜日。
それでも園子はその日が来るのを、まるで自分が織姫様にでもなったような気持ちで指折り数え、待ち続けるのだった。
貴也はどちらかというとインドア派であった。友達と外で走り回ることもあるが、誘われなければ家でテレビゲームをするか、特撮番組を見るか、本を読むか。最近ではそれに、まだ赤ちゃんである妹の世話が加わった程度である。
ところが、乃木家に行くと必ずと言っていいほど園子に振り回された。
貴也には窺い知れない事情があったのか、乃木家の敷地外に出ることはなかったが、晴れていれば広大な庭で走り回らされ、雨の日は広大な屋敷の中で探検と称してうろうろするはめに陥るのが常であった。
「たぁくん! 今日はお外でかくれんぼしよう~」
「お外は雨だし、地下室を探検しようか~」
「お池で水遊びするよ~」
「どっちがドングリをたくさん拾えるか、競争だよ~」
「お池の氷の下で、鯉さんたちがどんな風に暮らしてるか見てみよーっ!」
「リスさんて、冬眠するんだって。どこで寝てるのかな~?」
慌ただしくも楽しい一年が過ぎ、桜の花が咲く頃。貴也は園子を外した席で、園子の両親にお願いをされていた。
曰く、園子も神樹館小学校に通うことになった。幼稚園の頃と同じく、孤立するかもしれない。
ついては、学年が違っていて大変だろうが、園子の様子をそれとなく見て、出来るようであれば助けになってやって欲しい。
園子の両親に頼りにされている。その事がどれほど貴也の励みになっただろうか。
貴也は胸を張って、「まかせてください」と答えたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
抜けるような青空の下、二年生に進級してから二ヶ月が過ぎようとしていた。
「さようなら~」
下校の挨拶があちこちから聞こえてくる。
ふと、校庭を見やると園子が体育座りをしながら空をぼーっと眺めているのに気づいた。
この二ヶ月、園子が休み時間に友達と遊んでいるのを見かけたことはなかった。あるいは教室では付き合いがあるのかもしれないが、少なくとも校庭やグラウンドで誰かと遊んでいるのを見たことはなかった。
だから、いつもと同じように声をかけに行こうとしたところ、後ろから声をかけられた。
「おっ。また乃木ちゃんのところか? 仲がいいな。熱いねー」
「よく、気にかけてるよね。羨ましい、羨ましい」
「うるさいな。そんなのじゃなくて、妹を気にかけるようなもんだからな!」
「天下の乃木様のお嬢さんつかまえて、妹分だってさ。タカちゃんもたいしたもんだ」
酒井拓哉の揶揄に、伊予島潤矢も調子を合わせる。ひとしきり二人と言い争うと、潤矢が場を収める。
「まっ、一通り済んだら後で遊ぼうよ。三時半にいつもの場所でいいかな?」
「いいんじゃね。タカちゃんも来いよ」
「ああ。あとで行くよ」
幼稚園の頃からの親友、または悪友と言っていい二人と別れて、園子のところへ向かう。
後ろで同級生の女子たちのひそひそ話が聞こえる。
「また、やーちゃんトリオが騒いでるわよ」
「どうして、神樹館にあんなのが通ってるんだろうね」
大赦関係の子弟が通う神樹館小学校はいわゆるお坊ちゃん、お嬢ちゃんの学校だ。いきおい、礼儀正しい子供たちばかりとなる。そんな中では、言葉遣いの荒い拓哉とつるんでいる貴也と潤矢はセットで白い眼で見られることもあろうというものである。
ちなみに、三人とも名前の最後が「や」で終わるため、いつしか「やーちゃんトリオ」というのが三人セットでのあだ名となっていた。「やんちゃ」という言葉とも掛けているのだろうか。
『まあ、全然気にしないけどね』
「そーのちゃんっ」
声をかけるが、園子は微動だにしない。いつもの事なので気にせず、隣に同じように体育座りをする。
二人でぼーっと青空を見上げる。上空は風が強いのだろう。わずかに浮かぶ白い雲が刻々とその形を変えてゆく。
「あ~、たぁくん。こんにちは~」
四、五分も過ぎた頃、ようやく園子が話しかけてきた。
「何してたんだい?」
「空を見てたんだ~」
「空を見てるのって、面白い?」
すると園子は心底、不思議なものでも見るように貴也を見返す。
「たぁくんは、空を見てて面白いの? 面白いわけ、ないよね~」
『じゃあ、なんで空をずーっと見上げてたんだよ』
若干イラッとし、言葉では説明しがたい不快感に襲われる。
「面白くはないけどさ~、雲がうねうねって形を変えてくのを見てると飽きないんだよね~」
『それを他人から見たら、面白いものを見てるっていうんじゃないかな』
なんだか理不尽だ、と思う。まだそんな言葉は知らないが、そんな気分。
そこへ、園子のほにゃんとした笑顔。なんだかそれだけで気分が晴れるのには、僕ってお安いよな、と思う。
「たぁくんはさあ、不思議に思わない? なんで雲って落っこちてこないんだろうね」
「さあ? 考えたこともないなぁ」
二人でまたぼーっと空を見上げる。ゆったりとした時間が流れ、貴也は園子とこうしている時間にささやかな幸せを感じていた。
先生に早く帰れと叱られるまで、残りあと五分。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
四国は雪の少ない地方である。平野部で積もる事は数年に一回程度。それも数センチメートルといったところだ。
しかし、山がちの土地柄でもあるため、標高の高い場所ではそれなりには積もっている。
だから、スキー場も幾つかはあるのだ。例えば、香川県で言えば讃州市にもある。
一月の下旬、乃木家と鵜養家がやってきたのは愛媛県の霊峰石鎚山にあるスキー場である。
実のところ、こうして両家で揃って旅行に出かけるのは初めての事である。そもそも乃木家の当主である紘和と貴也の父である隆史はクライアントとコンサルタントという元々の関係性を越えて馬が合い、仕事で会っている時も休憩時には雑談に花を咲かせる仲となっていた。
多忙な紘和がその間隙を縫って、こうして石鎚山近くの別荘に鵜養家を招待したのは、何も園子と貴也の仲を
「わーっ! 可愛いーっ」
貴也たちを別荘で出迎えた園子の第一声はそれだった。駆け寄ってきて抱き上げられたのは千歳。
彼女たち二人は、その時が初対面であった。
「にーたん……、だれ~?」
「わ~、もうしゃべれるんだ」
「うん、一歳十ヶ月だからね。先週から単語だけじゃなくて、二言はしゃべるようになったんだ」
助けを求めるように貴也に手を伸ばす千歳。そんな千歳を抱きかかえるようにしながら、破顔する園子。
二人を見ながら、貴也は思った。
『二人とも、仲良くなってくれればいいな』
「このお姉ちゃんはね、そのちゃんって言うんだよ」
「そにょちゃん……? そにょちゃんっ!」
「そうだよ~。私が、そにょちゃんお姉ちゃんだよ~。チータンっ」
「チータン?」
「千歳ちゃんだから、チータンだよね~」
心配するまでもなかったようだ。園子は貴也そっちのけで千歳の相手を始める。
双方の両親も簡単に挨拶を交わした後、すぐに歓談に入る。
さすがの乃木家である。この別荘でも五人ほど使用人が常駐しており、双方の家族の世話を任されている。
『明日はスキー場に行くんだっけ。いっぱい遊ぼうっと』
久々の外泊ということもあり、ワクワクでいっぱいの貴也であった。
「ひゅ~、どすんっ!」
自分の口で擬音をあげながら、キングサイズのダブルベッドにダイブする園子。
「ねえねえ。たぁくんもやってみなよ~。気持ちいいよ~」
「行儀が悪いんじゃない? 埃もたつよ」
「お手伝いさんたちがお掃除してるから大丈夫だよ~。あ~、楽しいな~。一緒に寝られるようになって良かったね~。たぁくん」
ついさっきまで、たぁくんと一緒に寝たい、と駄々をこねていたお嬢さんがにこやかに話しかけてくる。
娘の強情さに母親も音を上げ、空き部屋を用意させたところだ。
「じゃあ、着替えしよーっと」
「ちょいちょい……。僕もいるのに……」
慌てて目をそらす。背を向けた後ろでは、ごそごそと色気を感じさせない衣擦れの音。
「じゃーんっ! 見て見て~」
そこに立っていたのはニワトリ。……の被り物の作りをしたパジャマに身を包んだ園子だった。
「なに、それ……」
「可愛いでしょ~っ? それに私、焼き鳥が好きなんだ~」
おまけに、いつぞや自慢されたこともあるサンチョをカバンから引きずり出してきて、ご満悦の様子。
『まったく……。いつも僕の想像を超えてくるよなぁ』
あきらめて、いそいそと着替えの用意を始めることにしたのだった。
午前中、子供たちは斜度の緩い初級者ゲレンデで両親の指導を受けてスキーを初体験していた。
飲み込みが早くあっという間にボーゲンを覚えてあちこち移動している園子に較べると、貴也はそろそろと真っ直ぐ滑っては止まり、またカニ歩きを繰り返すのがやっとだった。
「楽しいね~。たぁくん」
スッと器用に貴也に横付けし右腕にギュッと捕まりながら、顔をのぞき込んでくる園子。
そんな園子の顔を直視できずに、顔を赤らめて視線を外す貴也。
それもそのはず。今朝方の出来事が頭に残り、今日は園子とまともに顔を合わせづらいのだ。
なにせ、息苦しさに強制的に目覚めさせられると、巨大なニワトリに抱きつかれていたのだ。園子である。
しかも、ムニャムニャと寝言を呟きながら、ずりずりと上がってくるといきなり頬にキスをされたのである。
キスマークがつくほど吸われ、未だに頬には園子の唇と舌の感触が残っている。
「あー、僕はまだ、そのちゃんほど滑れないから……」
「じゃあ、お昼ご飯食べたら、雪遊びしよ~か。そしたらチータンとも遊べるしね~」
あー言えば、こう言うで、なし崩し的に午後は雪遊びをすることに決定したようだ。
午後は、雪だるまを作ったり、そりで滑ったり、雪玉をぶつけ合ったりで、千歳も園子もはしゃいでいた。
千歳には年配の女性使用人がつきっきりであったし、双方の両親も交代で子供たちを見ていたので、懸念していたよりは貴也も楽しめていた。
上手く雪を固めて、雪だるまを芸術的な何かに昇華させていた園子の手腕には舌を巻いたが。
「うー、寒、寒っ」
トイレを済ませて戻ってくると、園子の姿が見当たらない。間の悪い事に、大人たちは千歳のおむつ替えに気を取られているようだ。
キョロキョロと辺りを見回すと、ゲレンデ外の森の中に入っていこうとしている園子を見つける。慌てて声掛けしながら後を追うが、ブーツに翼でもついているのではないかと錯覚するほど身軽に先を進んでいく。
折悪しく、貴也が森に入ったタイミングで雪が降り始めた。
姿を見失いそうになりながらも、苦労して森の中を進み、やっとの思いで立ち尽くす園子に追いつく。
「何やってんの! そのちゃんっ!」
「うん。兎さんを見つけて追いかけてきたんだけど、見失っちゃった~」
「ほら、帰ろう。おじさんも、おばさんも心配するよ」
腕をとって、来た道を戻る。足跡があるから大丈夫なはずだと思っていた。
だが、強くなってきた降雪は二人の足跡をかき消していた。
「おーいっ! だれかーっ!」
大声で助けを呼んでみたが、いつの間にか森の奥深くへ迷い込んでしまったのか、それとも強くなってきた風に声がかき消されたのか、全く反応が返ってこない。
『どうしよう、どうしよう、どうしよう……』
頭の中まで真っ白になる。方角が分からない。
兎を追ってきたせいだろう。来た時は、くねくねと曲がりくねってきたように思う。多分、ゲレンデは後ろ側ではないだろうとは思うが、それさえも確実とは言えない。
焦って園子を見返すと、ほにゃん、と笑顔を返してくる。
覚悟を決めた。
『そのちゃんだけでも守ろう。おじさんたちに無事に返すんだ』
テレビや本で得た知識を元に、動き回らない事に決めた。
大きな木の根本の雪を手で掘り返し、そこに園子をしゃがませる。風除けぐらいにはなるだろう。
園子に覆い被さるように身を屈める。
「大丈夫だから。僕が守ってあげるから……」
「? なんにも心配してないよ~」
テンパっている自分が馬鹿なんじゃないかと思えるほど、あっけらかんと答える園子。
ただ、ギュッと腰に手を回して抱きついてくる。
その温もりだけを信じて、貴也は耐えた。
大人たちは子供たちが迷った事にいち早く気づいていた。
だから貴也が耐えていた時間は、実際には三十分にも満たないものだった。
隆史の声が届き、貴也は大声で助けを呼んだ。父親の姿が見えた瞬間、力が抜けていった。
ゲレンデに戻ってきて園子の両親の姿を認めた途端、貴也は大声を上げて泣いた。
園子は、そんな貴也の姿をあっけにとられて見ていた。なぜ、貴也がわんわん泣いているのか、理解できなかった。
隆史に抱きしめられ背中をポンポンと軽く叩かれながら、やがて落ち着いてきたのか、しゃくり上げながら訴える。
「僕……、ヒック、僕、頑張ったんだ。ウグッ、そのちゃんを守ろうと、グッ、頑張ったんだ……」
突然、理解できた。できてしまった。
園子は、貴也がそばにいてくれるだけで寂しくなかったし、恐くもなかった。不安さえ感じなかった。貴也も同じだろうと、根拠もなく思い込んでいた。
でも違った。貴也は年上で男の子だから……、不安に耐え、恐怖を押し殺しながら、園子を守ってくれていたのだ。
だから……、理解できた途端、感情が爆発した。
それまで不思議なほどケロッとしていた娘が、なぜ急に声を上げて泣き出したのか。両親は
何年か後、この時の事を思い返して園子は確信した。自分は、この日、この時、生まれて初めて恋をしたのだと。
園子の父親は、本作わすゆ編のキーパーソンの一人であるため、名前なしでは扱いづらいので勝手に名前を設定しています。
なお、名前には特に意味を持たせていません。