四国の人口は神世紀百年頃からは安定して四百万人だ。この人口だけでスポーツ産業を支えるのは並大抵のことではない。実際、西暦時代のマイナー系スポーツはことごとく消滅している。
だが、野球は何故か別格だ。西暦の昔から四国は野球熱が高く、今も県別対抗に近い形のプロリーグが人気を集めている。
神樹館小学校では子供たちに経済観念を植え付けるため、四年生からは下校時にも買い食い等、お小遣いの範囲での買い物が許されている。
四年生に進級して二ヶ月が経とうとしていた。園子もたまに貴也を誘って、駅前のイネスなどで買い食いを楽しんでいた。
今日も貴也を誘おうと、五年三組の教室へ向かう。
上級生の教室だが、そのあたり物怖じしないので、貴也の同級生の間では二人の関係は結構周知の事実となっている。
だからだろうか。未だに同級生からは敬して遠ざけられている感のある園子ではあるが、むしろ貴也の同級生からは色々と話しかけられ、『友達』とまでは言えないまでも、そこには確かな交流があった。
その一方で、月に一度程度の乃木家での貴也との付き合いは今も続いている。
だが、学校からの帰りを共にし買い物などをするようになってからは、より一層距離が縮まったように感じられ、園子は嬉しかった。
時々、知らず知らずのうちに淡い想いを貴也に向けている自分に気づき、赤らめてしまっている顔をばれないように取り繕うことさえ楽しい。
五年生の教室が並ぶフロアまでやって来て、三組の教室が騒がしいのに気づいた。
「くっ。行かせませんわよ!」
「せっかく、間藤選手の特別公開練習のチケットが当たったんだ。遅れてたまるかよ!」
「あなたっ。日直なんですから、ちゃんと日誌をつけてから帰らないと、許しませんことよっ!」
「うるせーっ! 日直はもう一人いるんだから、加藤が書けば問題ないだろっ。なっ。加藤!」
「ええーっ? あたしっ?」
酒井拓哉と、この春編入して来るなり学級委員長に自ら立候補した変わり者の委員長との攻防を見ながら、ニヤニヤと伊予島潤矢は隣の貴也に話しかける。
「まーた、あの二人、じゃれ合ってるね」
「ハハハ……。どっちも飽きないよね」
普段はお嬢様趣味全開で優雅な雰囲気を醸し出そうとしている委員長も、拓哉相手となるとどういう訳かペースをかき乱され、子供感丸出しになるようだ。口調だけはお嬢様風を堅持しているだけ、感心したものだが。
ただ意外に能力は高く、この二ヶ月の攻防で拓哉の行動パターンを見切ったようで、教室からの逃亡を許さない。
貴也がふと視線を外すと、後方の扉から園子が顔を覗かせている。
潤矢に断りを入れ、じゃれ合っている二人を邪魔しないようにしながら園子の元へ向かう。
「あーあ。こっちも夫婦仲はよろしいようで……」
キッと睨み付けてから廊下へ促す。
「たぁくん、一緒にクレープ食べに行こう~」
「あー、ごめん。これから、タッくんとイヨジンとで野球観戦に行くんだ」
「そっか~。じゃあ、しょうがないね~。そうだ! 来週の旅行、今から楽しみだね~」
「そうだな。去年は一緒に行ける機会がなかったし。でも土曜からの一泊だから、結構慌ただしいかも」
「ふふっ。大丈夫だよ~。タイムスケジュールはバッチリ組んであるから~」
そんなやり取りをしているうちに、教室内の攻防は決着がついたようだ。
「じゃあな! あばよーっ!」
「もうっ! 覚えてらっしゃいっ!」
拓哉が辛勝したようだ。走り去っていく彼を追いかけて委員長が教室から出てくる。
「あら。乃木さんのお嬢さんじゃありませんか。また、鵜養くんにご用事?」
「あ~、こんにちは~。うん、たぁくんを誘いに来たんだけど、先約があるんだって~。ちょっと残念~」
えへへ~、と照れ笑い。
「鵜養くんも乃木さんをもっと大切にしないと、愛想を尽かされますわよ」
「あ、いや。今日は
「いーえ。わたくしの目から見ても、鵜養くんは紳士分が足りませんわ。優しいように見えて、その実、繊細さに乏しくて。結構、扱いがぞんざいに見えますわよ」
なんだか雲行きが怪しくなってきたな、と感じる貴也。
そんな彼らをじっと見つめながら何事か考えていた潤矢が口を開く。
「あー、委員長も乃木さんも今日、これから空いてる? もし良ければ、一緒に野球観戦に行かない?」
「え、え、え? わたくしは……」
「たぁくん、行くんだよね? う~ん、返事は家に相談してからかな~」
「タッくんが行く特別公開練習は抽選だったから無理だけど、試合観戦だけなら今からでもチケットを用意できるよ。八時までには試合も終わるはずだから、帰宅は九時を過ぎる事はないし。保護者の件も心配なく。うちの運転手の沢木がついてくるから」
「じゃあ、家に訊いてみるよ~」
「じゃあ、わたくしも……」
二人ともいそいそとその場を離れる。電話をかけるにも教室棟では禁じられているため、許可されている場所へ移動したのだ。
「ということで、加藤さんもどうかな?」
「ええーっ? あたしっ?」
「仲良し夫婦二組の間で浮きまくるボクを助けると思ってさー。日誌の件のお詫びも兼ねて奢るからさ」
結局、スタジアムの一角を大人一人、小学生六人のグループが占めたのは、仕組まれた予定調和だったのかもしれない。
試合時間一時間二十六分、スコア六対四の熱戦を、球場の軽食なども楽しみながら彼らは堪能したのだった。
なお、香川の応援一色の一塁側に一人、対戦相手の高知の応援を熱心に行っていた、お嬢様口調のはた迷惑な小学生がいた事はないしょだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
祖谷渓は落人伝説もある徳島県の秘境だ。多分、この地で最も有名な観光資源はかずら橋だろう。
だからといって、両家の親たちが子供たちの仲を吊り橋効果でなお一層親密にさせようと画策したとか、そんな事実は一切存在しないので邪推しないように。
六月中旬の土曜日の夕方、乃木、鵜養両家の家族はかずら橋近くの駐車場で合流した。
このなんとも中途半端な時期の旅行となったのは、昨年から乃木家当主である紘和の仕事がいよいよ多忙を極めだしたからだ。三日連続の休暇をひねり出せたのは、実に一年半ぶりの事であった。
その、やっと取れた三日のうち二日を家族サービスに充てているのだから、家庭人の
「うわ~。大きくなったね~、チータン」
「そにょちゃん、こんにちはっ」
園子と千歳が直接会うのは、ほぼ二年ぶりだから当然だろう。千歳も幼稚園の年中組である。
未だに千歳は『そにょちゃん』呼びを改めていない。どうやら、幼いなりに兄との差別化を図っているようだ。
「うーん。なにかこう、来るものがあるよ~。可愛いーっ!」
「ちがうっ! 可愛いのは、そにょちゃんっ! ちーは
いつになく園子がテンションを上げて、千歳に頬擦りをする。ところが、なぜか千歳は怒り出し、園子を振り解いて来た道を戻ろうと走り出す。
ただ、十メートルも走ると何かが興味を引いたのか、道端に座り込んで指で弄り出す。
「なに? どうしたの? 分かる? たぁくん……」
「あー、えーっと、今月の初めに運動会があっただろ。その時、おじいちゃん、おばあちゃんたちに、『千歳は別嬪さんだなあ』って、えらく可愛がられててさあ。その言い回しを気に入っちゃったらしくて……。つい、この間もお母さんに同じ反応を返してたなぁ」
「あ~、そういうことか~。きっと『別嬪さん』っていう言葉に、お姉ちゃん感を感じちゃったんだろうね~」
貴也の説明に、納得、納得と首を縦に振り、いかにも『千歳ちゃんの気持ちは分かっていますよ』といった風情で返す園子。
そこへ千歳が走り寄ってくる。見ると、もう機嫌を直しているようだ。
「そにょちゃん、綺麗な虫を見つけたよっ。はいっ、あげるっ」
「わ~、タマムシだ~。ありがと~、チータン。大好きだよ~」
「ねえ。たぁくん、見て見て。チータンに貰っちゃった~」
千歳が差し出す、その金属的な
そして、母親のところに駆け戻る千歳を見やりながら、貴也にその虫を自慢げに見せてくる。
ころころと変わる事態に、貴也は苦笑を浮かべるしかなかった。
ブンッとタマムシが飛んで逃げてゆく。それを見送った後、視線を戻すと、甘えるように母親の足元にまとわりつく千歳が見えた。
「ほんとに可愛いな~。私もあんな妹が欲しかったな~」
まさに『指をくわえて』という表現がぴったりな表情で、園子が呟く。と、いつものようにぼーっとし始める。
「二人とも、早くいらっしゃいよ」
園子の母親が声を掛けていく。両親たち五人は、二人が追いかけてくることを確信している様子で、かずら橋の方へと歩いて行った。
「そのちゃん。僕たちも行こうか」
「うぅ――――――あ、閃いた! たぁくんと結婚しちゃえば、チータンは私の義妹になるよね。うんうん。たぁくんのお嫁さんに、なっ、ちゃえ、ば――――――」
そこまで言って固まる。みるみる、園子の顔が真っ赤になってゆく。そしてチラッと貴也の表情を伺うと、顔を俯かせる。頭から湯気を出しているのが見えるようだ。
「あー、今のは聞かなかったことにしておいて~」
涙目で訴えてくる園子に、貴也は困った表情を見せながら頷いていた。
両親たちを追いかけて、かずら橋までやって来た。観光のピークからは外れているものの、それでも両親たち以外にも数名が渡っている。
「っていうか、お父さんたちにおいていかれてる?」
「ねぇ、たぁくん……、下が透けて見えちゃってるよ。――――――はわわわわ……。もし落ちちゃったら、川を流れて、海まで流されて、サメに食べられちゃうよ~」
「どこまで心配してるんだよ……。大丈夫だよ」
しかし、見ると実際、園子の膝が笑っている。表情も少し青ざめて涙目になっている。
可哀想になったので手を繋いでやった。
「ほら、そっちの手で手すりを持って。ゆっくり進めば大丈夫だよ」
「手、離さないでね。絶対だよ。約束だよ」
「分かってる、分かってる」
園子の左手を自分の右手でギュッと握り、歩を進める。
とはいえ、貴也もおっかなびっくりである。
橋の床材の間隔が広く、下を流れる川が丸見えであるばかりか、橋自体が大きくゆらゆらと揺れるからだ。
その上、園子と手を繋ぐ必要があるので、自分は手すりも掴めない。
でも、怖がっている園子の前でびびってる姿を見せれば、余計に怖がらせると思った。
だから、平然を装って歩を進める。
「わ-、すごい景色だね~」
「ちょっと……、おいおい」
ところが、園子は橋の中央部まで来ると感嘆の声を漏らしながら周りを見渡し、自分のスマホで写真を撮り始める。周りの景色に気を取られ、恐怖感を忘れているようだ。
園子が足を滑らせたりしないように気を配りながら、自分も周りの景色を楽しむ。
しばらくすると、園子が顔をのぞき込んできて、ほにゃっとした笑顔を浮かべつつ、貴也の手を取る。
「行こう、たぁくん。二人一緒なら怖くないって、分かったから」
さっきと同じように手を繋いで、対岸へと渡る。
ゆらりゆらりと橋は大きく揺れる。
でも、さっきとは違い、恐れはない。
別にひょいひょいと渡れたわけではないが、上手くバランスをとりながら、しっかりと渡り切れたように思う。
「ありがとう、たぁくん。大好きだよっ!」
渡りきった後、笑顔でそう告げた園子は、すぐさま両親の元へ走って行く。
遅れないよう、彼女の背中を追いかけた。
一度ホテルに荷物を置いてから、ホテルのシャトルバスで近くの蛍の名所へと向かう。
既に日は落ちている。シーズンの最後期に当たるためか、対向車も見えない中、バスは真っ暗にも思える山道を走る。
バスの走行音以外には、川のせせらぎと虫の声しか聞こえない。
目的地に着くと数組のグループが降車し、ガイドが注意事項を説明する。
その後はホテルに戻る時間まで自由行動だ。
席が離れていたため気づかなかったが、園子は浴衣を着ていた。紫を基調に花を散らした、何とも可愛らしい浴衣を。
「そにょちゃん、きれー。ちーも、あんなの着たかったなあ」
「じゃあ、今度機会があったら着ましょうね」
園子の浴衣姿を羨ましがる千歳を、母親があやす。
「たぁくん、チータン、行こうっ」
親たちの了承を得て、子供たち三人で川の方へ向かうことにした。
それは幻想的な光景だった。
淡い光を放つ蛍が無数に飛び交い、川のせせらぎが背景音楽を奏でる。
三人は言葉もなく、その光景を見つめる。
千歳がもっとよく見ようと、自分の背丈ほどもある草に止まっている蛍に近づいていく。
園子がポツリと漏らした。
「いつか二人だけで、また来たいね……」
「うん」
こんな日々がいつまでも続くのだと、疑いすらしなかった――――――
両親がいて、千歳がいて、祖父母がいて、タッくんやイヨジン、委員長たち友達がいて、そしてなにより、誰より、そのちゃんがそばにいてくれて――――――
そんな日々が奇跡のようなバランスの上に成り立っていたのだと知ったのは――――――
乃木園子が大赦本部に呼び出されたのは、その年の暮れも押し迫った十二月のことであった。
ちなみに試合時間が短いのは、小学生でもある程度気軽に観戦に行けるように、戦前のプロ野球の試合時間を念頭に設定しています。
まぁ、三百年経っているし後背人口が四百万なので、今と全く同じ野球をやっているとも思えませんし。
なお、『大赦』二文字で不穏な空気に(笑)。