「弱い、弱い、弱いのう、死神」
「くっ……うっ……!」
「弱きは罪とは思わんか? じゃが、そのおかげでこうして良き肉に巡り合えるという点では、儂にとっては幸運なこと!! ひひひっ!!」
人通りのない閑散とした川辺。
そこには全身が長い毛に覆われた虚と、左腕から血を流す雛森が立っていた。
(迂闊だった……虚の疑似餌を普通の魂魄と見間違えるなんてっ!)
雛森がこのような窮地に立たされているのは、つい先ほど、虚に疑似餌に惑わされて不用意に近づき、虚に先手を打たれてしまったことに起因する。
ただの虚程度であれば問題なく対処できるほどの実力は兼ね備えている雛森であったが、まだ“経験”という点に関しては、やはり席官の者よりは劣ってしまう。
(ごめんなさい、藍染隊長……ごめんね、芥火くん……!)
自分の迂闊さを呪う雛森は、目の前で下卑た笑みを浮かべている虚に鋭い眼光を向ける。
「でも、そう簡単にやられはしない!」
「ほう……では如何ように?」
「破道の三十三『
「むっ!」
斬魄刀を地面に突き立てた雛森は、詠唱破棄で鬼道を放つ。
湿気っている空気を一瞬にして乾燥させるような熱量を有した蒼炎の爆発が爬行し、虚に襲い掛かろうとする。
しかし、鈍重そうな見た目に反して軽やかに跳びあがった虚は、驚く雛森に対して肉迫していく。
「甘いな、小娘」
「っ!?」
「斯様な直情的な攻撃を儂が喰らうとでも思っておったか?」
「っ!」
すれ違いざまに肩口を爪で切りつけられる雛森は、その痛みに苦悶の表情を浮かべる。
だが、それでも尚気丈に振る舞わんと斬魄刀を手に取り、自分の周囲を跳ねまわる虚にその切っ先を向けんと数度振り返った。
だが、その俊敏さに馬鹿正直に真正面から戦うのは分が悪いと感じたのか、雛森は別の手に打って出る。
「縛道の二十一『
「むっ……煙幕か。賢しいなぁ!!」
雛森を中心に巻き起こる煙幕に対し、どのように嬲ろうかと思案する虚。
その間も煙幕をジッと眺めていたものの、中から死神が出てくる気配は感じることはできない。
「成程……自らは動かぬという訳か。そういうのであれば無論こちらも手段はあるがなっ!」
そう叫ぶや否や、虚はその長い体毛を生き物であるかのように蠢動させる。
そして毛先を鋭くまとめたかと思えば、煙に向かって鋭い体毛を幾つも突き出した。
すると、地面に体毛が突き刺さる鈍い音の他にも、バリンと陶器でも割れたかのような甲高い音が周囲に響きわたる。
「むぅ?」
「縛道の……三十九『
「ほう、これはこれは……」
感心しているとでも言わんばかりの笑みを浮かべる虚。
その視線の先には、体の正面に斬魄刀を構え、その前に円状の霊圧の盾を張って虚の体毛を逸らして致命傷を免れている雛森が居た。
しかし、円閘扇の硬度を体毛での攻撃力が上回ったのか、逸らしきれなかった攻撃が雛森の体を少々抉っている。
「くくっ、見通しが甘いのう。煙の中で恐れ慄いていればやり過ごせるとでも思っていたのか?」
「―――」
「んん?」
「破道の十一『
「んぐぅっ!?」
刹那、見えない何かを通じて虚の体に電撃が奔る。
微弱な電流ながらも確かに体を痺れさせる攻撃に、虚は仮面の奥の顔を強張らせた。
「だが―――なぁっ!!」
虚を倒すには微力であったのか、虚はすぐさま体毛を引き抜いた。
するとブチンと何かが千切れるような感覚を覚えると同時に、虚の体に奔っていた電流がピタリと止まる。
「これは……」
「……余り、あたしを舐めない方がいいですよ」
虚は漸く見えるようになった物体を見て、顔をしかめる。
まるで蜘蛛の巣の糸のような霊圧が虚の体毛に張り付いていたのだ。
絡繰りはこうである。
『赤煙遁』で相手の目をくらませた後、破道の十二『伏火』にて霊圧を張り巡らせた。それらを縛道の二十六『曲光』で覆い隠し、視認することを難しくさせた。
煙幕に延々と隠れていると認識されれば、なんらかの手段で攻撃を仕掛けてくるハズ。
それを『円閘扇』で防ぎ、『綴雷電』で反撃を試みるというのが雛森の作戦であった。
しかし、負った傷の所為で出力が足りなかったのか、虚に対してダメージを与えることは叶わなかったのである。
「ひひっ、好いぞ。何の抵抗もなく喰われる獲物より、多少抗ってくれた方が喰い甲斐がある!」
「っ……!」
「ほうれ、行くぞ……!」
「―――行かせねえよ」
「なにっ?」
一気に近づいてきた霊圧に気を取られた虚。
振り返れば、そこには斬魄刀を振りぬかんとしている死神―――焰真が居るではないか。内心で舌打ちをする虚は、雛森から標的を焰真へと変え、その長い体毛を縦横無尽に宙を奔らせて攻撃を仕掛ける。
「おおおっ!」
だが、それらを焰真は一閃して切り落としていく。
その間焰真とも距離を取った虚は、『ふむ……』と仮面を指で掻いていた。
「随分活きのよい死神が来たものじゃ、ひひひっ!」
「……グランドフィッシャー」
「ほう? なんだ小僧、儂のことでも知っているのか?」
それぞれの虚に付けられている
「十年前くらいから、死神を含めたたくさんの魂魄が食べられてる……気をつけて、芥火くん」
「ああ」
グランドフィッシャーが焰真から距離をとったのを見計らって合流した雛森は、グランドフィッシャーについての詳細を述べた。
虚にもある程度知名度のようなものが存在している。
虚として過ごしている年月が長いほど、そして喰らった魂魄が多いほど、護廷十三隊は危険な虚として特にその虚を認知し、警戒するようにしているのだ。
グランドフィッシャーの知名度はここ十年ほどで知られた中の下ほどの虚。巨大虚ほどのパワーこそないが、狡猾で俊敏性が高いことから、平隊士一人では少々荷が重い相手と言えるだろう。
「雛森、下がってくれ」
「え……? でも、芥火くん!」
「
「っ……分かった」
焰真の言葉に不承不承と言った面持ちで下がる雛森。
その様子に、グランドフィッシャーは恍惚としてでもいるかのような粘着質な声で焰真に話しかけた。
「なんだ? ん? おなごの前で格好つけたいからと、貴様一人で儂を相手するとでも言うのか? ひひひっ、滑稽滑稽―――早死にするぞ?」
「っ!」
刹那、風を切る音と共に目に見えぬ物体が焰真に迫りくる。
それを感じ取った焰真はすぐさま身を翻し、宙を舞った。すると先程まで自分が立っていた場所には、一本の触手のようなものが突き刺さっていた。
(速い!)
「―――じゃろう?」
「なにっ!?」
いつの間にか背後に回っていたグランドフィッシャーが、焰真に爪を突き立てるように腕を振りぬいた。
すかさず斬魄刀を構えて防御した焰真であったが、衝撃までは殺せず、そのまま弾き飛ばされ鞠のように数バウンドしてからようやく彼の体は止まる。
「チィ!」
「ひひひっ! 弱い、弱すぎるぞ小僧! 斯様な弱さでよくも一人で立ち向かおうと思えたものじゃ!」
その後も、焰真は斬魄刀を用いてグランドフィッシャーの爪や体毛をなんとかいなしていくものの、時間が経つにつれて彼の体に刻まれる傷は増えていく。
暫しの間は焰真を圧倒することに愉悦していたグランドフィッシャーであったが、次第にそのことにも飽きてきたのか、途端にピタリと体を止める。
「やめじゃ、やめ」
「……なに?」
「一方的な暴力ほどつまらぬものはない。少し―――趣向を変えてみるとしよう」
「っ……なん……だと?!」
瞠目する焰真。
彼の瞳に映るのは、紛うことなき緋真の姿であった。グランドフィッシャーの頭部より生えている触手の先に、まるでテルテル坊主のように吊るされている緋真は、ジッと彼を見据えてこう告げる。
「―――焰真」
「っ……!」
本物の緋真と全く同じ声、表情の動き。
贋物と分かっているものの、その余りにも精巧な緋真の贋物の動きに、一瞬だけ本物と錯覚してしまう。
「ひひひっ、どうじゃ? 何故儂がこの娘を知っているのか不思議で堪らぬじゃろう? それはのう……散々貴様に突き立てた爪から記憶を読み取ったからじゃ!」
「記憶……だと?」
「左様! そしてその記憶の中から、その者が斬ることのできぬ大切な存在を……ほれ、儂が作ってみせただけじゃ。ようくできておるじゃろう?」
「大切な……存在を」
「そうじゃ! どのような冷徹な死神であろうとも、斬れぬ相手は一人はいるものじゃ!! ひひひっ、どうじゃ!?」
「―――動揺しているの?」
贋物の緋真の口から紡がれた言葉に、焰真は息を飲み、微動だにしなくなる。
その間、ゆっくりと焰真に迫る緋真の顔。その後ろでは、彼を今や今や貫かんとわきわきさせているグランドフィッシャーの爪が構えられていた。
そして―――、
「縛道の六十一『
「な……にィ!!?」
予想していなかった方向からの攻撃。
グランドフィッシャーの体を縛る六つの光の帯を放ったのは他でもない。焰真に待機させられていたハズの雛森であった。
「まだ動けたか……ッ!」
「……おい、グランドフィッシャー」
「っ!!?」
視線を焰真へと戻せば、そこにはワナワナと斬魄刀を握る手を震わせている姿を窺える。
明確な怒り。今にも噴火しそうな激情に駆られているであろう彼の紅眼に、グランドフィッシャーは猛々しく燃え盛る紅蓮の炎を幻視した。
その熱さには思わず冷や汗を掻いてしまう。
「俺には信念がある」
「……なんじゃと?」
「ちっぽけな信念だ。俺はな……虚を殺す為に斬るんじゃない。虚も救う為に斬るんだ」
「……ひひひっ、ここに来て何を世迷言を―――」
「だがなぁっ!!!」
グランドフィッシャーの言葉を遮るように発せられる焰真の叫びは、目の前の虚を畏怖させるほどの覇気を含んでいた。
「大切な人を人質みたいな扱いされてまで怒らないほど……俺も甘くはねえぞ」
「っ―――!!」
刹那、焰真の斬魄刀から青白い炎が迸る。
「俺に……俺の誇りに刃を向けさせようとした報い!! 受けやがれっ!!」
一閃。
贋物の緋真―――疑似餌を避けるようにして放たれた袈裟斬りは、グランドフィッシャーの体毛ごと体を切り裂いた。
鮮血は宙を舞うものの、刀身から迸る炎により一瞬にして蒸発するかのように消えていく。
「がっ……!」
苛烈な一撃に、グランドフィッシャーは悲鳴を上げる間もなくその場に倒れた。
呆気ない最期。
焰真は得も言われぬ表情で、燐光を鍔からチカチカと放っている斬魄刀を鞘に納める。
「……」
「芥火くん!」
「雛森。怪我大丈夫か?」
「ううん、あたしは……それより芥火くんこそ」
タタタと歩み寄ってくる雛森は、そのまま体中に裂傷を刻んでいる焰真の治療を始める。
医療用の鬼道である“回道”を用いる雛森。焰真の傷は、温かい光に包まれたかと思えばズグズグと暴れていた痛みがどんどん和らいでいく。
「流石だな。やっぱり鬼道が得意なだけはあるな」
「そ、そうかな? でも、やっぱり四番隊の人よりは……」
「そう謙遜するな。おかげで助かった。援護もな」
「……うん」
先程の鬼道での援護について言及された雛森は、少々恥ずかしそうに面を下げる。
要するに焰真が雛森を下がらせた際の『頼んだ』の発言は、機を見て援護してくれという旨の発言だったという訳だ。焰真は一人でグランドフィッシャーを相手しようなどとは、毛頭考えていない。
まさしく二人の連携が掴んだ勝利。
傷は少なくないが、グランドフィッシャー相手に死んでいないだけ儲けものだと言えよう。
(芥火くん……あの時カッコよかったなぁ)
焰真を治療しつつ、雛森は彼が自分の下に到達した時のことを思い返す。
しかし、どんどん美化されていく焰真の姿に頬が熱くなることを自覚した雛森は、顔をブンブンと振るい、自分の桃色な思考を一旦停止させる。
(ダメダメ! あたしは藍染隊長一筋なんだから! あれ? でも、この感覚ってどっちなんだろう……?)
「どうした、雛森? やっぱりお前の方から体治した方が……」
焰真の視線が完全に雛森に向いた、その瞬間だった。
「カァ!!」
「っ!?」
鬼気迫る一喝をしたグランドフィッシャーは、身構える二人から飛びのき、なんと疑似餌である贋物の緋真の体の方へ入った。
すると本物そっくりに慈愛に満ちた表情をしていたハズの緋真の顔は邪悪な笑みに溢れる。
「ひ、ひひひっ……ここまで虚仮にされたのは初めてじゃ……!」
「まだ動けて……くそ!」
すかさず斬魄刀を抜こうとした焰真であったが、彼の戦意に反して体は言うことを聞かない。怪我か、はたまた―――。
「やめておけ! 儂を斬るのには躊躇いはなかったろうが、この顔を貴様は斬れぬじゃろう!」
「お前……!」
「詰めが甘くて助かったわ、ひひひっ!! 芥火……じゃったな? 覚えておくぞ、貴様のその顔!! 今度相見えた時はその面の皮を剥ぎ取ってやる!! 覚えておけい!!」
「待て!!」
疑似餌に移ったグランドフィッシャーは、そのまま俊敏な動きで焰真たちの前から逃げ去っていく。
それを追おうとする焰真であったが『ダメだよ!』と怪我を案ずる雛森に宥められ、仕方なくその場に留まることになった。
「……ちくしょう!」
勝利こそしたものの、確実なトドメはさせていなかったことに後味の悪さは否めない。
虚となれば元々が善人であったものであろうが、悪辣な性格となってしまう。どのような経緯を経てグランドフィッシャーが虚になったかは分からないものの、自分の所為で彼を更なる復讐鬼へと仕立て上げてしまったことに対し、焰真は自分の力の無さを呪うしかなかった。
だが、
『そう……それでいいの、焰真。貴方はそれで―――』
妖しく星は瞬いている。