「弾け―――『
烈火を纏う刀身が七支刀の如く別れ、一つの火球を一閃と共に解き放つ。
それは一直線に鍛錬場の近くに置かれている岩に命中する。
たかが炎と侮るなかれ。爆炎に等しい火球の直撃により、大きな岩の一部分は大きく砕け、辛うじて吹き飛ばされなかった部分も黒々とした煤に覆われている。
その光景を見遣る雛森と焰真。
斬魄刀『飛梅』を振るった雛森はというと、予想以上の威力、そしてなによりもこうして始解できたことへの感動に震えているのか、
「やった! やったよ、芥火くん!」
「おお、よくやったな雛森」
キャピキャピと跳ねつつハイタッチをせがむ少女に、焰真は応える。
現世駐在任務から離れて早数か月。
二度目の鎖の虚との死闘を経て、己の力の無さを改めて痛感した焰真、そして雛森は必死に鍛錬を重ねていた。
それがようやく実を結び、今日雛森は斬魄刀の解放に至っている訳だ。
「ありがとう、芥火くん!」
「何言ってるんだ雛森。斬魄刀解放できるようになったのは雛森自身の努力だろ?」
「でも、いつも一緒に頑張ってくれる人がいなかったら、こんなに早く始解なんてできなかったよ!」
目を爛々と輝かせて詰め寄ってくる雛森。
その真っすぐな視線を前にしてでも否定し続けることはできず、『お、おう』とやや戸惑いながら返事をした。
雛森も大分焰真に慣れた―――否、懐いたものだ。
イメージとしては尻尾を振って見上げてくる子犬である。見る側としては微笑ましい限りだ。
そのような雛森は、何を思ったのか『そうだ!』と声を上げて焰真の手を取る。
「あたしの始解記念になにか食べに行こうよ! お代はあたしが持つから!」
「? こういうのは普通俺が奢るんじゃないのか?」
「いいのいいの! あたしからのお礼だと思って」
「いや、鍛錬に付き合ってもらってたのは俺だしな……」
「―――少しいいかい?」
雛森の誘いにどうしたものかと考えていたが、彼らを遮るように人影が歩み寄ってくる。
風に靡く白い羽織。黒衣を身に纏う死神としては、その羽織は際立っているように見えるだろう。
「あ、藍染隊長!」
柔和な笑みを見る者を安心させる。
大抵隊長というものは下の者に威圧感を与える存在ではあるが、藍染に限ってはその物腰柔らかい態度から部下も比較的肩の力を抜いて話す事ができる稀有な存在。
憧れの人物がやって来たことに疑問と歓喜を覚える雛森は気を付けする。
「ああ、雛森くん。そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。どうやら食事の計画を立てていたようだけれども……済まない。少しの間芥火くんを借りてもいいかな?」
「え? あ、はい! あたしは全然大丈夫です!」
「……のようだけれど、芥火くん。君も大丈夫かな?」
「はい、勿論です」
「そうか。では、少しついて来てくれ」
自分にだけ用事とは何事か?
一抹の不安を覚える焰真であったが、上司の呼び出しに反抗する理由もないため、スタスタとどこかへ歩いていく藍染を追いかけていく。
一方、一人取り残された雛森はというと、ポケーっとその場で棒立ちし、小さくなっていく男二人の背中を見続けていた。
(……芥火くんに用事ってなんだろ?)
***
今日、雛森は休日だった。
いつもであれば流魂街に居る祖母と慕っている人物に会いに行くところであるのだが、今回ばかりは急用で向かうことはできそうにない。
心の中で祖母に謝りつつ、雛森がしようとしていること。それは―――、
(芥火くんの元気がでるようなこと、してあげなくちゃ!)
同僚の慰安であった。
つい先日、始解ができた祝いとして食事を提示した雛森は、藍染との話を終えて帰ってきた焰真に対しそのことについて切り出そうとしたのだが、
『悪い、また今度でいいか?』
と、話を有耶無耶にされる形でその日は別れてしまった。
困ったように笑う焰真の姿、そして見遣る小さな背中。雛森は藍染と何かあったのではと考えた。
(藍染隊長がそんなひどいこと言うとは思ってないけど、それでも落ち込むようなこと言われちゃったのかもしれないし……)
柔和な藍染は説教をするのであれば、相手を必要以上に傷つけない言葉をオブラートに包む。
だが、それでも聞く者のメンタル次第でどうしようもない場合というのもあるだろう。
焰真はきっと藍染に説教されて落ち込んだのかもしれない。
そう勝手に結論付けた雛森は、休日返上で焰真の元気づけになるであろうものを探しに出向いているという訳である。
落ち着いた色の着物を着こなし、可愛らしい桃色のがま口財布を片手に草履を鳴らす雛森は、繁盛する店を眺めつつお目当てのものを探す。
尤も、『お目当てのもの』とは言うものの、それは『焰真が喜びそうなもの』という非常に曖昧な目的物であり……、
(なに買えばいいんだろう)
悲しいかな。雛森は案の定途方に暮れていた。
(ううん、こんなところで立ち止まっちゃダメだよあたし! 焰真くんにはいつもお世話になってるんだから!)
五番隊に彼が配属された日からのことを振り返り、買い物への意欲を高めようとする雛森。
焦って茶筒から茶葉を零した時、せっせと掃除を手伝ってくれたこともある。
掃除し立ての廊下で滑りそうになった時、胴に腕を回されて支えてもらったこともある。
先輩からの差し入れである大福で喉が詰まった時、飲みやすい温度の白湯を颯爽と持ってきてくれたこともある。
(あれ? あたしが世話係だったハズなのに……)
もしや、立場が逆転しているのではなかろうか?
衝撃の事実に数秒往来のど真ん中で立ち尽くすが、頭をブルブルと振るい、『ならば尚更……!』と奮い立って進んでいく。
これだけの品物が揃っている商店街だ。
彼の喜びそうなものの一つや二つ、すぐに見つかるハズ。
(あ、そうだ! 芥火くんってお風呂好きだし、石鹸とか……うん、湯の花がいいかな?)
閃いた雛森は、すぐさま湯ノ花が売っているだろう店を目指す。
十一番隊からの習慣が抜けきっていない焰真は、昼餉を食べ損ねても昼休憩の時間に銭湯に行く。というより、昼餉を食べない前提で朝餉を大量に食べてくるとの話を聞いた記憶があった。
傍から見れば潔癖症にも見えなくない習慣であるが、汗臭いよりは全然いいと、五番隊の女性隊士の中ではかねがね好印象だ。
そんな『三度の飯より風呂』な焰真には、より入浴を楽しんでもらえるように湯の花がいいのではなかろうか。
我ながら名案だと満足気にする雛森は、早速湯の花が売っている店に到着した。
(うわぁ、いっぱいあるなぁ……どれにしよう?)
湯の花と一口に言っても種類は豊富だ。
香りによるリラックス効果を狙って選ぶべきか、はたまた効能に着目して選ぶべきか。
前者は男性と女性とでは好きな香りが違う危惧があり、寧ろ自分が良いと感じた代物で彼が不快感を覚えるかもしれない。
一方後者は、せめて買うのであれば現在彼が悩んでいる症状に合っているものを買ってあげたい―――繊細であるが故に雛森は思う。
うんうんと悩んでいる内に、店主らしき女性がやって来た。
湯の花を販売している店の主とだけあって、化粧していないすっぴんの顔はたまご肌だ。テカテカしっとりぷるるんお肌である。
「お悩みでしょうか?」
「あ……はい」
「では、具体的にどのような品物をお求めで?」
「えっと、そのぅ、男の人? 子? が、喜びそうな湯の花を……」
「はい、畏まりました! では、少々お待ちを」
「ありがとうございます」
もじもじしながら大雑把な説明をすれば、店主の女性はパァと明るい笑みを浮かべ、すたこらさっさと店内を駆けていく。
あそこまで早い移動とは、余程男性に人気の商品があるのだろう。
ホッと一息ついて雛森が待っていれば、これまた上品な白色の瓶を携えてきた店主がホカホカと頬を上気させて駆け寄ってきた。
「お待たせいたしました! こちらなどはどうでしょう?」
「あの、どんな感じの物なんですか?」
「これはですね、麝香のように甘い香りが特徴的でございまして……」
「はい」
「湯に入れると興奮作用が働いて、男性と女性両方の性欲を亢進させてくれます!」
「……はえ?」
「あとはもう床に入っても良し! そのまま浴室にて目合っても良しという商品になっております!」
「あ、あのっ、えっと、そのっ、それは……!?」
「……あれ? あ……彼氏さんへの贈り物ではございませんでしたか……ね?」
店主の女性が、雛森のもじもじとした態度から勝手にえらい勘違いをしていたと自覚するも、時既に遅し。
顔は熱い熱い湯に長時間に入っていた時よりも真っ赤に染まり、汗もダラダラと吹き出し、ほわほわと温気が体全体から発せられている。
真面目に説明を聞いていたと思っていればの今の話。
頭の中で思い浮かべていた焰真を『彼氏』と勘違いされ、彼との情事を彷彿とさせる旨を否応なしに耳にしてしまった雛森は、羞恥心が限界点に到達して冷静ではいられなくなった。
何かに気を向けていなければ、脳裏に目合っている光景が映し出されてしまうため、雛森の瞳は右往左往する。
「あ、あた、あたすっ」
「も、申し訳ございませんお客様! すぐに別の品物を……」
「あたし、そんなんじゃありませんからァ―――!!!」
「申し訳ございませんお客様ァ―――!!!」
逃げるように店を飛び出す雛森に、そんな彼女へ頭を下げる店主。
その時の雛森の逃げ足は、ちょうど近くを歩いていた隠密機動が驚愕するほどであった(大前田談)。
***
(うぅ~、まだ顔熱いよ~……)
依然として冷めぬ頬の火照り。
風呂上りのようにカッカと迸る熱は冷めそうになく、雛森は色々な意味で途方に暮れる。
(あんなこと言われたら、嫌でも想像しちゃうよ……ううん、芥火くんが嫌とかじゃないんだけれど)
一人心の中で自問自答する雛森は、このままではいけないと一息つける場所―――茶屋を目指す。
甘味の一つや二つ食べ終える頃には顔の火照りも冷めていることだろう。
そうであってほしいという希望的観測を孕んだ雛森の思考は、桃色の豊かな想像にて消費した糖分を求めたという訳だ。
「お? 雛森じゃねえか」
「あ……阿散井くん! 久しぶりだねっ」
「……そんな顔赤くしてどうしたんだ一体。風邪か?」
「ううん! ちょっと全力で走ってきただけだからっ!」
「お、おぉう……そうか」
そこで偶然遭遇したのは元五番隊であり現在十一番隊在籍の阿散井恋次だ。
ここで天啓に打たれる雛森。十一番隊と言えば、以前焰真が在籍していた隊。そこで恋次と仲良くしていたと焰真は時折口にしていた。
彼であれば焰真の好みをある程度把握し、贈り物に相応しい案の一つや二つを提示してくれるだろう。
「そうだ、阿散井くん! 少し時間あるかな?」
「なんだどうした」
「ちょっと相談したいことがあって……」
「相談ぅ? 俺でいい内容ならしてくれて構わねえが……」
「ありがとう! じゃあ、そこで少しお茶しよっ!」
半ば強引に恋次を茶屋に誘った雛森は、適当な席に腰かけてから団子を二人分頼む。
すぐに運ばれてきた三食団子の内、一つを頬張る雛森はその素朴な甘みを堪能した後、口の中がさっぱりするようなやや渋めな茶を口にする。
「ぷはっ」
「わざわざ悪ぃな、雛森。奢ってもらってよ」
「ううん、相談に乗ってもらうのはあたしだからこのくらいはね」
「で、相談ってなんだ? 俺にしかできねーようなもんか?」
「う~ん……確かに言われてみれば阿散井くんが一番適任かも」
「おっ、そうか! なんだよ、聞いてみろ」
「うん、それでね……芥火くんって知ってるよね?」
「焰真のことか。あいつが異動する前までは一緒だったし、同期だったからよくつるんでたぜ。確か今は雛森と同じ隊なんだよな。それがどうかしたのか?」
「あたし、最近やっと始解できるようになったの。それって芥火くんが鍛錬に付き合ってくれたからだと思ってるから、お礼になにかしたいなァ~と思って……」
「ほ~う」
途中まで真剣な表情で聞いていた恋次は、途中間の抜けた顔になり、次にニヤついた笑みを浮かべるようになった。
しかし、俯きながら相談内容を口にしている雛森にはその表情が窺えない。
「阿散井くんなら芥火くんとも仲がいいし……何かいい案がないかな?」
「つまり、あいつが好きそうなモンってことだろ? それなら甘味でいいんじゃねえか」
「おまんじゅうとかってこと?」
「ああ。あいつ、手軽に栄養補給できるっつって休憩の合間に食ってるだろ?」
恋次の言葉に『言われてみれば……』と休憩時間の焰真を思い返す。
前述の通り、昼餉を食べず朝餉を大量に食べる彼であるが、人一倍熱心に業務に取り組んでいるだけあってカロリーの消費は激しい。
そのため、手軽にカロリー補給ができるまんじゅうや大福などといった甘味を好んで食べるのだ。
そして、それを傍から見て無意識の内に物欲しげになった自分へ、『食べるか?』と聞いてくる焰真に対して断り切れず……、
「……」
「? ……急に腹に手なんか当ててどうした?」
「なんでもないから気にしないで」
「お、おう」
やや気圧される恋次に、雛森はまだ団子が残っている皿を差し出す。
「これ、食べていいよ」
「あ? でもよ」
「いいから」
「はい、是非とも食べさせて頂きますっ!」
今日一番の覇気に、恋次は頭を垂れて団子を受けとる。
一方雛森は、着物越しに己の腹の肉を摘まんでいた。僅かに摘まめる腹の肉。標準的な体形と言われればそうかもしれないが、先程の話を思い返せば、太ったと思わずには居られない。
(甘い物は控えよう)
まったく別の悩みが増えてしまった。
一変して陰鬱な雰囲気になってしまう二人は、暫し茶を啜る。
贈り物の相談で何故こうも暗くならなければと完全に冷え切った思考のまま熱い茶を口にしていた二人であったが、居た堪れなくなっていた恋次が状況を打開するため質問を投げかけた。
今、雛森にとって地雷に等しい質問を。
「ははっ、それはそうとして一緒に鍛錬なんざ仲いいな! なんだ? あいつに気でもあるのか?」
からりとした笑みを浮かべての言葉。
刹那、雛森の目の周囲に影が差す。
ゴクリと喉を通る熱い茶とは裏腹に、絶対零度の視線を向けられ、恋次は微動だにしなくなる。
「阿散井くん」
「は……」
「ねえ阿散井くん」
「はいぃ!」
「だからそんなんじゃないってェ―――!!!」
「おぎゃあ!!?」
茶屋に響く、風を切る速さにて放たれた打撃の音と恋次の悲鳴。
一切の手加減がない首の根本を両側から挟むように繰り出された雛森のチョップは余りにも洗練されており、十一番隊で腕を振るっていた恋次が泡を吹いて倒れるほどの威力を発揮した。
「阿散井くんのバカ~~~!!」
恋次を手刀の一閃で伸した雛森は、三食団子の桃色よりも赤く染まる顔を隠すべく手で覆っていた。
そのため彼女は最早未知の言語に等しい奇声を発して茶屋から逃げ出すことになる。
因みに、その時の手刀は隠密機動に勝るとも劣らない白打であった(大前田談)。
***
雛森は燃え尽きてしまった、真っ白な灰に。
彼女は現在、通行人が四番隊に連絡するか考えてしまうほど、魂の抜けた顔で空を仰いでいる。
羞恥で顔から火が出る思いをしたことは幾度とあった。霊術院時代、初登校日に遅刻した時が良い例だ。
だが、今回の羞恥はそんなものがチャチに見えてしまうほどに苛烈且つ情熱的あった。
「あぅ~」
ふと我に返る雛森は、延々と火照りが収まらない頬に手を当てる。
(これじゃあこれから意識しちゃって大変だよぅ……)
ぺちぺちと頬を叩き、これからを案じる。
焰真をまったく異性として意識しなかった訳ではない。
だが、彼のストイックな部分と己の目標に向かう我武者羅さが、常人の感性ならば多少なりとも感じる甘酸っぱい味を感じさせなかった。
しかし、今は違う。
やや動悸が収まりつつある中、雛森は一つ話を思い出す。
相手の名を口にし、胸を締め付けられるような感覚を覚えれば、それは恋―――。
「―――……芥火、くん」
「おう」
「ふわあああ!!!?」
「えぇ!?」
虚さえ恐れ戦くような奇声を上げて驚く雛森。
彼女が驚いた理由―――それは他でもない、いつの間にか目の前に居た焰真が声をかけてきたからだ。
稀に見るほどのドン引きした顔を浮かべている焰真の前で、あらんばかりの声量で叫んでしまい喉を傷めた雛森は、涙目でその場にへたり込む。
「あ、芥火くん……居たの?」
「居たの? って……居たの気付いたから声かけたんじゃないのかよ」
「え? あっ、あー……それは、そのぅ……」
「……とりあえず、ここから離れようぜ。視線が……」
「え? あっ、うん」
先程の奇声で何事かと集まってきた野次馬が少々居るため、彼らの視線に晒されて居た堪れなくなった二人はそそくさとその場を去る。
ある程度離れた場所まで小走りでやって来た二人は、ようやくと言わんばかりに一息ついて立ち止まる。
「はぁ……それにしても雛森、あんなところで何してたんだ?」
死覇装を身に纏っている焰真が、息も絶え絶えとなっている雛森に問いかける。
心なしかいつもと様子の違う彼女を前に、具合が悪いのではと心配しているのだ。
その真摯な眼差しを向けられた雛森はというと、本人を目の前にし、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。
正直に贈り物を買いに来たと言えば済む話題であるが、呂律と思考が回らない今、雛森に冷静な会話を望むことは難しい話であろう。
「えと、その……」
「具合悪いんだったら、救護詰所まで連れていくぞ?」
「だ、大丈夫だからっ! 全然平気! 元気だよっ!」
「お、おう……?」
普段よりも数倍テンションが高いように聞こえる声色に逆に不安になってくるも、本人が大丈夫と言っている手前、無理に連れていく必要もない。
「そうかっ。それで話は変わるけど……」
「うん?」
「髪の毛やばいことになってるぞ」
「え?」
言われるがまま頭に手を遣れば、走った際に受けた風で崩れた髪型の感触が掌に広がる。
随分とみっともない姿で往来を進んでしまったこともあるが、雛森にとってなによりもショックであったのは、
「あれっ!? か、髪紐が……ない」
「ん? 今日は下ろしてたとかじゃないのか?」
「うん、今朝はしっかり髪紐でまとめてたのに……あぁ~、どこかで落としちゃったのかなぁ」
「そうか、そりゃあ災難だったな」
確かにあれだけ激しく乱れていれば、結んでいた髪紐がどこかに落ちても不思議ではないだろう。
これまでの行動を振り返って道を戻れば見つかるかもしれないが、そうとなれば休日を無為に使い潰す結果になりかねない。
「くすん」
結局目の前の男子に贈る物も買えていない。
その上髪紐も落とす始末。決して安くはなかった代物だ。
まさに災難な日。思わず目尻に涙が浮かんでしまうことも仕方がない。
先程出会ったばかりの焰真も、休日であった雛森が意気消沈している様子を察した。
すると焰真はやおら雛森の手を引く。
「え? え? ちょ……芥火くん!?」
「髪紐の一つくらい買ってやれるさ、来てくれ」
「えぇ!? でも、そんな……」
「始解の祝いとしての贈り物ってことでいいだろ?」
「っ……!」
不意に振り返る彼の笑顔が眩しく、言葉が上手く出てこない。
それほど速く歩いているという訳でもないのにも拘わらず、鼓動はどんどん高鳴っていく。
幸いだったのは、焰真が手甲を着ける人間であったことだろうか。
そうでもなければ、高鳴る鼓動に伴い火照る体から迸る汗が、彼の手に直に伝わってしまっていたことだろう。
そうこうしている雛森は、髪紐を始めとした簪や髪飾りが並ぶ店に連れて来られた。
雛森が店の入り口であわあわとしていれば、焰真は座敷に腰かけている老齢の店主に声をかける。
「すみません!」
「はい、なんでございましょうか?」
「こっちの女の人に似合う髪紐……あ、髪紐でなくてもいいか?」
「え? あ、うん」
「だ、そうです。とりあえず髪をまとめられるようなもの、見繕ってくれませんか?」
「かしこまりました」
ペコリと一礼する老齢の店主は、ゆったりとした動きで店の中を巡る。
時間がかかりそうだ。二人が即座にその結論に至った時、ほぼ同時に二人は見つめ合った。
「あ……」
「あ……そうだ、雛森。今日休みだったんだろ? 何してたんだ?」
気まずくなりそうなことを瞬時に感じ取ったのか、焰真が即座に話題を振った。
「え? か、買い物……」
「……の割には、なんか買ったようには見えないな」
「……芥火くんへの贈り物探してたけど、色々あって買えずじまいで」
「は? 俺?」
予想外の答えに目を白黒させる焰真の一方で、雛森は独白のように語り始める。
「うん。芥火くん、この前藍染隊長とお話した後落ち込んでるみたいだったから、なにか元気づけてあげられたらって……」
「あ~……」
すると、焰真は苦々しい笑みを浮かべ始めた。
話し辛い。そう言わんばかりの面持ちの彼であったが、意を決して口を開く。
「雛森、あれは別に落ち込んでた訳じゃないぞ?」
「……へ?」
「あれは―――」
***
あの日、藍染に連れられた焰真は隊首室で面と向かい合っていた。
「話は他でもない。先日の流魂街での虚の討伐任務についてさ」
「……はい」
「なに、ただ疑問だからこうして来てもらっただけさ。五番隊に来てから勤勉に業務に取り組み、戦闘でも的確に援護に回る君が、どうして先日の任務の時に先行してしまったのか……」
藍染が言っているのは、焰真が尸魂界に戻ってから初めての虚の討伐任務についてだ。
複数名で構成された討伐隊に選ばれた焰真は、先輩である隊士と共に虚の目撃情報があった場所に赴いた際、先輩の指示を受けるより前に捕捉した虚に斬りかかってしまった。
幸い怪我人は出なかったものの、それまでの彼からは考えられない行動に先輩の隊士は厳重に注意し、さらには上司たる藍染に相談し、今日に至っている。
「……すみません」
「責めている訳じゃないよ。悩みがあるんだね? 恐らく……駐在任務からかな」
「お見通しですか」
たははと笑う焰真は、ただただ微笑む藍染に静かに促されるがまま語り始める。
「俺は怖いんです」
「怖い……それは虚を、かな?」
「いえ……いや、全く怖くないって言ったら嘘になりますけど、俺があの時怖かったのは俺自身です」
「ほう」
斬魄刀の柄に手をかける焰真。
未だ始解はできないものの、時折自分の感情の昂ぶりで力が解放されていることは薄々感づいている。
だからこそ、一つ気が付いたことがあった。
「死神は虚を憎くて斬ってる訳じゃない……虚の罪を洗い流すために斬魄刀を振るってるって俺は考えています」
「それは正しいことだね」
「でも、何回か殺されかけた。実際、周りの人を殺されたこともあります。それで俺……虚を見た瞬間、死神の責務とかそんなの関係なしに真っ黒な気持ちが、こう……胸に込み上がって……そのまま……」
「ふむ……」
「きっとあれは憎いとか、そういった類の気持ちです。あんな気持ちに突き動かされるがまま刀を振るった自分が……俺は怖い」
ぴしゃりと言い切った焰真。
静寂が室内を支配する中、神妙な面持ちで話を聞いていた藍染は優美な所作で斬魄刀を抜いて見せる。
「―――憎悪無き戦意は、翼無き鷲だ」
「え……?」
「僕の持論さ。なにかと戦うと決めた時、根底にあるのは相手に対する憎しみだと考えている」
「そ、そんな……」
まさか藍染の口からそのような旨の言葉が放たれるとは思っていなかったのか、僅かばかり焰真は取り乱す。
だが、藍染は抜いた斬魄刀を鞘に納め、戸惑う焰真の斬魄刀にかけている手に自身の手を重ねた。
「恐ろしい。そう思うかい? だが、これはそう難しい話じゃない。考えてみてくれ、君が真に何に憎しみを抱いているのかを」
「俺が……何に……?」
「責任感だけで刃を振るったとしても、斬れるものは何一つとしてない。君も死神であれば経験はあるだろう。大切な何かを虚に傷つけられたという経験が」
「それは……」
思い当たる節は多くある。
緋真を始めとして、恋次や十一番隊の隊士、そして雛森など。そのほかにも死神として働いている間に、虚に友人や家族を殺された者の話を聞く機会があった。
「君が憎んでいるのは、虚じゃあない。虚の犯そうとしている罪……そして犯した罪だ」
「!」
「罪を憎んで人を憎まず、という言葉を聞いたことはあるかい? とても綺麗な言葉だ。だが、それを為せるだけ人間の心は清く在り続けることは非常に難しい話なんだよ。君は今、憎んでいるのが罪だけか、はたまた虚を憎んでいるのか混同しわからなくなっているだけなんだ」
「藍染隊長……」
消沈し、虚ろになりかけていた焰真の瞳に光が戻る。
この時焰真は、藍染がなぜ慕われるのかを身に染みて感じた。
彼は言うなれば太陽だ。分け隔てなく皆を照らす光。
その温かさに触れ、焰真の曇天に覆われたような心の内もみるみるうちに晴れていく。
「芥火くん。どうかな? 君の抱く悩みの解決への助けになればと思ったんだが……」
「ありがとうございます! 俺、ようやく腑に落ちました!」
「そうか、それはよかったよ。でも、一つだけ覚えていてくれ」
「はい?」
「憎しみだけで振るう刃は“暴力”だ。君がその憎しみを責任感や使命感……正しい理や心で律してから振るい、初めて“暴力”は正当な“力”として認められるのだと―――」
***
「―――って。色々考えされられた。だからあの時は変に落ち込んでるように見えたのかもな。心配させて悪いな、雛森」
そう締めくくる焰真。
落ち込んでいないことを証明するように快活な笑みを浮かべる彼を目の前にし、自分の心配が杞憂であったことに気が付いた雛森は、どこか安心したような、それでいて今日余計に疲労したことに肩を落とす。
「なんだぁ……あたしの思い過ごしかぁ」
「だな。まあ、そのことも髪紐なくしたことも俺の所為みたいだし、遠慮なく贈り物させてくれよ」
「これじゃあ立場が逆だよぅ」
「いいじゃねえか。元は雛森の始解祝いなんだしな」
「お待たせいたしました」
そうこうしている内に、老齢の店主がやって来る。
薄緑色の布と水色の紐を携えた店主は、『どうぞこちらへ』と雛森を座敷の方に座らせ、散々動いて荒れ放題であった髪を櫛で解き、手慣れた様子で髪をまとめていく。
数分もすれば、長くなっていた髪を後頭部で団子のようにまとめ、それを布と紐でまとめ上げた、所謂“シニヨン”へと雛森の髪型は変化する。
三面鏡を用い、自身の後頭部を見遣る雛森は、綺麗にまとめあげられた部分を指でなぞった。
見た目の可憐さとは裏腹に、しっかりまとまっている分、激しく動き回っても邪魔にはなりそうにない。
「如何ですか?」
「かわいい……です」
「そうですか。死神のお兄さん。貴方はどう思いますか?」
「え、俺ですか? あ……か、カワイイ、ぞっ」
「そ、そうかな?」
褒めるとなった途端恥ずかしげに目を逸らししどろもどろになる焰真を前に、雛森は得意げにその場で軽く一回転する。
その様は舞い落ちる花びらの如し。回った際にふわりと浮かぶ袖もまた優美だ。
女慣れしていない焰真は、ボロが出て女心を傷つけまいと早々に会計に移ろうとする。
「じゃあ、お勘定お願いします」
「死神のお兄さん。あの可愛らしいお嬢さんはお兄さんのコレで?」
ピンと小指を立てる店主。
「いや……そんなんじゃ……」
「もしコレでしたら特別にお値引きしますよ」
「は、はいっ! お付き合いしてます!」
「雛森っ!?」
何を思ったのか、雛森はぴょんぴょん跳ねて焰真と腕を組み、これ見よがしにアピールを始める。
「あらあら……では、半額にしますからねェ」
にこにこと微笑む店主を前に引くに引き下がれなくなった焰真は、流されるがままに特別特価で雛森への贈り物の購入を済ませた。
その後は腕を組んだまま店を後にした二人であったが、
「ひ、雛森」
「あっ、ごめんね! 嫌だった……かな?」
「嫌とかじゃないけどよ、なんだって急にあんなこと……」
「うん。えっと、少しでも芥火くんのお財布の負担を軽くできたらいいかなぁ~、と……思い……まして……はい」
「……そっか。ありがとうな。でも、案外のぶといところあるんだな、雛も―――」
「太いとか言わないでよ気にしてるからぁ!!!」
突然真横で声を張り上げる雛森に、焰真も思わずたじたじだ。
「わ、悪い……」
「……ひどいこと言ったお詫びに、今度甘味処に連れて行ってね」
「それで気が済むんなら一向にいいが……」
「……ふふっ! 約束だからねっ」
やおら腕を解き焰真の前へ躍り出る雛森は、買ってもらった装身具、そしてそれらを用いた新しい髪型を彼へ見せつけるように回って見せる。
(恥ずかしいけど、本当にお付き合いしてたらこんな感じなのかな?)
微笑を浮かべつつ、こてんと首を傾げる雛森。
その小悪魔的な振る舞いに思わず目を見開く焰真に対し、これまたご満悦な少女は笑みを包み隠さなかった。
「
淡い色をした蕾は膨らんでいく。
*一章 完*
明日から二章開始です。