前川を拾って一週間が過ぎた。ここまで来ると前川が我が家にいる事が普通に思えてきて、俺も慣れてしまったのだなと自覚する。そんな前川は、普段なら居るはずなのに、今日は居ない。今はレッスンに行っている頃だろう。今まで真っ直ぐ帰ってきたのはレッスンも休みになっていたからであって、普段は居ないから、寧ろこれが正しい...いや、本来は前川が元の場所で暮らすのが正しいのだが、まだ完全に立ち直れている訳では無いと本人が言っていたから完全に正しいとは言えないな。久し振りのレッスンと言うのと、売れる為にいつも以上に練習するらしく、帰る時にはクタクタになっているだろうから、帰ってきた時に暖かいご飯を食べれる様に準備するか。最近は前川が代わりに作ってくれたから、久し振りに自分で作るのも良いだろう。凝ったものは作れないけど、美味しければ十分だ。そう言えば鶏肉の期限がそろそろ危なかった気がする。チキンカレーでも作るか。
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「ただいま...」
「おかえり」
語尾が真面目モードになっていたので、ふと顔を見ると疲れの色が見えて、レッスンの辛さがひしひしと伝わった。復帰直後にいつも以上に動くとここまで、酷い疲れになるとは思えなかった。アイドルはそれほど大変なのだろうが、やると決めた以上諦めないで頑張って欲しい。
「チキンカレー作ったよ」
「お世話になってる私の仕事なのにごめんね」
「謝るよりも売れる努力をしろ。本来は俺の役目なんだから」
カレー皿に盛り合わせて前川の前に出す。辛さは中辛、辛口だと俺が死ぬ。ソースとスパイスとトッピングの福神漬けとチーズを置いておくのが我が家のスタイル。全て使うとは言っていない。
「甘え過ぎじゃ無いかな?」
「真面目に考え過ぎだ。食う奴が一人二人増えたくらいじゃ一人前作るのと大差ないよ」
それにカレーだし。いつもカレーは何食分か余分に作っている。カレーは美味しいし、具も多いから重宝出来るんだよなぁ。
「しっかり食わねぇとやってらんねぇだろ。それにCDデビュー決まったんだろ?少しブランクがあるんだから、倒れちゃ拙いだろ。夕飯に関しては任せな、美味い奴用意するからな」
「あはは...そこは作るじゃないんだね」
「俺の腕舐めちゃいかん。一般的なものしか作れない」
「威張る事じゃ無いよ!?...でも、ありがとね。みく頑張るから!」
「その意気だ。分かったらなら冷める前に食えよ」
この食卓にも随分と慣れたものだ。辛さに埋もれた前川を見つけてから一週間しか経っていないのに、ずっと居るような雰囲気だ。
「どうしたの?」
「いいや、違和感ねぇなって」
「?」
最近はこれが日常になってきた。一人好んで過ごす事が多かった俺にとっては異常な事かもしれないが、俺はどう言う訳か彼女の笑顔や仕草に目が行っていて、気も許して居るようだ。そもそも最初から居心地が悪いだなんて思っても居ないけどな。でも世間からしたらこれは普通じゃない。高校生の男女がひとつ屋根の下暮らすなんて有り得ない事だろう。事情があるからと言って、前川の両親に知られたら俺は間違いなく締められる。学校に広まれば前川を誑かす悪魔と称されるかもしれない。でも間違いだとは思わない。思ってしまったら、あの時の善意が悪となり、前川に差し伸べた救いの手から光が消えてしまう。もっと言うならば、前川に泥を塗ることになる。自分がと言うよりは、彼女に被害が来ることが恐ろしく思う。でも頑張ってる姿を見ていると、水を差す様な真似はしたくない。だから言えずにいる。この日常は世間から見たらおかしい事を。
―――
「お疲れ様にゃ!」
表面上は元気に振舞っているけど、久し振りのレッスンは身体に堪えた。身体のあちこちが筋肉痛で、正直相手に構うような余裕も無くなってきている。そんな中混雑した電車の中で揉みくちゃにされて更に疲れが溜まってしまう。東京は人が多すぎるにゃ...。もっと職場から寮が近いと楽だったのに...。ちょっと離れるとここまで苦痛になるなんて...。
黄色い電車に揺られながら音楽を聴いていると終点だった。
『ご乗車ありがとうございました』
乗っていた人が開いた方のドアに流れるように出て行く。みくもそれに流されて外に出る。疲れに蒸し暑い夜の空気が相乗されて力がどんどんと削られていく。長門チャンの家は駅から離れていて、二十分位は歩くことになる。ちなみに寮は十分。嫌では無いけどやっぱり疲れてしまう。お世話になっているのはみくの方なんだから、疲れている身体に鞭打ってお夕飯...って時間じゃないか...晩御飯の用意をしないとなのに...。
彼のマンションの前に着いた。渡された合鍵を使い、エントランスの扉を開ける。彼の部屋は三階なので、毎回エレベーターを使っている。疲れた時に階段を登るのは流石にごめんにゃ。
帰ってきたみくを迎えたのはカレーの美味しそうな匂いだった。長門チャンが作ってくれたのだと思う。居候なのに家の仕事もしないなんて、まるでヒモにゃ...恩返しをしたいのに出来ない...これでいいのかな?長門チャンはみくを甘やかすけど、みくは何も出来ていない。レッスンがあるから仕方ないとは言いたくない。元を辿ればみくか悪かったのに。CDデビューだって先も見えなかったのに、周りの子はみんなデビューし始めて、それ で事務所をジャックして抗議して怒られて。まるで子供だよ。クラスではしっかり者の委員長として頑張ってるけど、中身は子供だし学校の人はみくがアイドルだって知ってる人が少ないし...。
みく、このままで良いのかなぁ
でも長門チャンの作ってくれたカレーは美味しかった。それだけで幸せな気分になれる。すごい謙虚にしているけれども、長門チャンの作るご飯は勇気をくれるの。これの為に頑張ろうって。でもやっぱり美味しいご飯を作って長門チャンに喜んでもらいたい。
「疲れてるなら無理すんなよ、慣れるまで我慢するからさ」
家主に我慢させちゃ駄目だ。何も出来ない自分が癪に障る。
「見てたら何となく分かるよ。何も出来ない事が気に障ってる事くらい」
そんなみくの心は長門チャンにはお見通しだった。彼の観察眼は優れ過ぎた...疲れの中に埋もれていた感情まで読み取ってしまうのだから。怖いけど、彼に分かって貰えた事が嬉しい。
「何を無理してるのだかねぇ...まずは自分の心配だろ
?こっちにまで力を捌いていると売れるものも売れねぇと思うぞ?それに頑張ってる奴を手伝うのって案外楽しいんだぜ?」
なんて長門チャンは優しい顔して話してくれた。普段捻くれて、やる気の無い感じでちょっと残念な男の子なのに、こう言う時は頼りになると言うのか、安心出来るというのか...。もっとも、更にしっかりしていればいいのだけど、彼らしい。
「...正直、周りが俺らの関係見たら拙い事になるけどな、それでも頑張ってる前川を見ていると甘やかしたくなるんだ」
そんなのみくも分かっている。でも恩返ししないと気が済まない、
「だから、今度はめげないで頑張ってくれ。住む場所も飯も保証はする。完全に立ち直るまで甘やかすから」
そんな事を言われたらみくは更に甘えたくなる。本能的なのか、みくの身体は自分でも歯止めが効かなくなり、彼に抱き着いてしまった。
「ふぁ!?ま、前川!?急にどうした!?」
長門チャンの鼓動が速くなっているのがみくにも通じてくる。それがすごくドキドキして...でもすごく安心する。育ちに育った胸が潰れて形を変えるけど、それも気にならないくらい安心した。見上げると長門チャンの顔は真っ赤だった。湯気が出そうなくらい真っ赤で、それが面白かった。すんなりみくを家に上げてくれたから、女の子として見られていないと思ったりもしたけど、彼はそんなこと無く、みくを一人の女の子として見てくれていた。何となくだけど、伝わる。これって良いな...言わなくても通じる関係って。
結局みくはそのまま彼に抱き着いたままだった。
良いお年を。