そこには、
だが刹那、無が揺らぐ。調和を乱すほどの力もないそれはすぐに呑み込まれ、胎動すらも起こらぬまま、再び全ては無で満ちる。
しかし波紋は確かに届いた。
重く、堅く閉じられていた、彼女の瞼がゆっくりと上がる。無の根源たる彼女の朱い瞳には、少しばかりの意思が、しかしハッキリと灯っていた。
「今度こそ」と、期待と募らせながら、爆風によって乱れたピンクブロンドの長い髪をどけて、少女は瞳を開く。土煙が去った後のそれを見て、奇跡のように整った顔を苛立ちで歪めた。
自らが引き起こしてしまった
そんな少女を遠巻きに見つめる生徒たちはこの試験を初回で突破して、呼び出した己のパートナーと共に落ちこぼれの少女に嘲りの視線を送っている。ここでは行き過ぎた貴族主義があり、少女は貴族ならば扱えて当然の『魔法』を使えないのだから、彼らの行為を責めることはできない。
だが視線を受ける少女は堪ったものではなく、奥歯を砕かんほどに噛み締め、限界まで己の杖をしならせ、烈火の如く怒り狂っている。いつ聴衆に向けて怒りを
再び怒りを杖先に込め、召喚とも攻撃ともつかない魔法を唱えるために大きく杖を振り上げたとき、ついに変化が訪れた。草原の爆発跡を中心にして、夜よりも深い闇が凝縮されていく。大地は悲鳴を上げるように鳴動し、その闇の先に居るものを恐れているかのようだ。まるで浮遊大陸アルビオンが落下したかのような大地震は、生徒の体勢だけを崩そうとしているように、それ以外に被害を及ぼさない。誰もが地面に吸い寄せられる中、己の身長ほどもある杖を地面に突き刺して耐えていた生徒もいたが、まるでイラついているかのように揺れが激しさを増し、ついにその生徒も崩れ落ちる。そうして誰の視界も闇の玉を捉えられなくなった瞬間、嘘のようにピタリと揺れは収まった。
地震で突っ伏してしまい、訳も分からないまま、とりあえず顔を上げた少女が見たものは亜人種の美しい女性だった。聖女のように荘厳な雰囲気を、娼婦のような淫靡な衣服で包み込み、少しクセのあるミディアムボブから、捻じれた角が姿を見せている。
一目見ただけで素晴らしい使い魔だと分かるその姿に、少女だけではなく生徒たちすらも色めき立つ。特に渦中の少女など、天にも昇る勢いで飛び上がり、きらきらと瞳を輝かせて、素晴らしい未来を思い描いていた。
「まだです、ミス・ヴァリエール。まだ試験は終わっていません」
冴えない中年教師の声で、少女───ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは現実に叩き落され、ぎろりと教師を睨み付ける。教師は殺意のこもったその視線を慣れたことのように受け流し、粛々と事実を告げる。
「使い魔の召喚から契約までが試験です」
ルイズはくりっとした可愛らしい目を見開き、ハッと開いた口を手で覆う。あまりにもいい使い魔を引き当てたことで有頂天になり、完全に飛んでいた。そう、まだ
ごくりと生唾を飲み、女性を見つめる。すると、彼女と視線が合わさってしまい、大きく心臓が跳ね上がった。どうやら彼女は、召喚された瞬間からほとんど動かず、じっとこちらを見つめていたようだ。
ルイズはおぼつかない足取りで、女性のもとまで歩いていく。大股で3歩ほどの距離なのに、何度も転びそうになってしまった。しかし、生徒たちからの嘲笑はない。皆が息を呑んで、状況の推移を見守っているのだ。
極めて短いのに、けっこう長い道のりを越え、ついに女性のもとまで辿り着いた。改めて女性を観察してみると、自分よりも少しだけ背が高いのだから、彼女の背丈はけっこう低い。その背に反比例するような豊満すぎる肉体と、無駄にちょっかいを掛けてくる不倶戴天の宿敵のせいで高身長に見えていたようだ。これなら、少しだけ契約もしやすいだろう。
だが契約の魔法について考えてしまうと、どうしても恥ずかしくなってしまう。契約の魔法は、祝詞と口づけによって行う。普通なら動物が召喚されるので大して意識はしないのだが、こんな美人とキスすると思うと色々と考えてしまう。いっそ、とんでもないブサイクだったら逆に割り切ることもできたのだろうが。
そんなルイズの葛藤を知ってか、女性は大人しく待っているように思える。「自分は貴族なんだから」、そんな彼女に応えない訳にはいかない。大きく深呼吸をすると動悸が落ち着いて、感覚が研ぎ澄まされていくような気がした。
「
噛んだ。盛大に噛んだ。研ぎ澄まされるなんて幻覚だった。後ろから静かに笑い声が聞こえ始めると、ルイズの顔も赤く染まり始めた。
「プッ……ククッ……あーはっはっはっ!いつちゅっ!いつちゅってぇ!自己紹介じゃないんだから!」
「なによなによ!なぁーにが自己紹介よ!後で覚えときなさいよ!キュルケぇ!」
とうとう我慢できずに、大声で笑い始めた生徒が一人。ルイズと同年代だとは思えないほどの、抜群のプロポーションを持つ彼女──キュルケは、お腹を抱えて思いっきり笑っている。そのせいで燃えるような長髪の赤髪と、ルイズには存在しない大きな乳房が揺れ動いている。それが、地味に視線を集めていることも、ルイズには腹立たしかった。
「ん、うん゛ん゛」
教師の大きな咳払いによって、すぐさま生徒たちは静まり返る。しかし、キュルケは未だに漏れそうな笑いを堪えているようだ。口元を抑える手から、大きく膨らんだ頬が零れていた。
これ以上後ろを見ていても怒りが溜まるだけなので、ルイズは再び女性と向き合う。女性の変わらぬ視線が今度は呆れたように感じられて、ルイズは独り傷ついてしまった。反射的に視線が少しだけ下がると目の前には女性の乳房があった。キュルケと比べてすら余裕で上回るほどの豊満な乳房は大きすぎて嫉妬すらも湧かない。
それによく考えたら、さっきの失敗だって女性は笑わないでいてくれた。「本当に胸の大きな人は、心まで大きいのね」と納得すると、なんだか胸の内までもが軽くなった気がした。
「五つの力を、司る、ペンタゴン」
でも少しは重くなって欲しいと思いつつ、これ以上みじめな失敗を重ねないようにゆっくりと、丁寧に考えた祝詞を読み進める。
「この者に、大いなる、祝福を与え、我が、使い魔と為せ」
土壇場で祝詞にアレンジを加えつつ、目をつぶる。後は勢いで押し切ろうと一息に唇を押し付ける。ルイズの唇に柔らかくて心地の良い感触が伝わってきて、その行為を完遂できたことが分かった。
しかし、契約の魔法がどれくらいの時間で終了するのか分からない。「だから、これは契約が終わるまでなのよ、私がしたいからしているんじゃないの」と、誰にも届かない言い訳を心の中で反復しつつ、ずっと夢心地を味わっていた。
「あー、ミス・ヴァリエール?もう、終わったようですが?」
ルイズは弾けるように女性から離れると、顔をイチゴのように真っ赤にして俯いてしまう。極度の羞恥に苛まれながらも、柔らかい唇の感触はしっかりと残っており、震える手で自分の唇に触れてみると、耳まで真っ赤に染め上げて、顔から火を噴いてしまった。
そんなルイズには目もくれず、教師───コルベールは、女性の左手に刻まれた、珍しいルーンに目を向けていた。長年監督官を務めてきたコルベールでも見たことのないようなルーンは魔導の探求者として気を引くものがある。
「少しよろしいですか?貴方のルーンがとても珍しいので、スケッチを取りたいのですが」
女性は視線すらも動かさない。コルベールなど本当に眼中にないようだ。あまりにも堂々と無視をされてコルベールは困惑したが、拒絶はされていないと解釈し、勝手にスケッチをし始める。やはり、女性は気にする素振りすらも見せない。
コルベールのスケッチが終わるころにルイズはようやく顔を上げた。未だに熱は残っているが、正面から女性の顔を見る。彼女に表情はないが、その真朱の瞳はハッキリとルイズを映している。吸い込まれそうなほどの素晴らしい瞳だ。
ルイズは爆発で煤けた手をはたいて、今日一番の笑顔を浮かべ、女性に右手を差し出す。
「私はルイズよ、これからよろしくね!あなたの名前は?」
「……」
「ええと、これは『握手』よ。私とあなたの、友好の証なのよ。私の手を握ってみて?」
「……」
「もしかして、力が強いのかしら?それなら、名前だけでも教えてくれない?」
「……」
「……喋れないの?」
「……」
「…………」
「……」
「もう!何か反応くらいしなさいよ!」
笑顔を見事に反転させ、ルイズはぷりぷりと怒り出す。あれほど高かった女性への初期評価も急転直下し、貴族の所以たる魔法の杖を突きつけて、今にも彼女を爆破せんばかりだ。
「どうどう。せっかくの使い魔に、何をする気?」
「教育よ!使い魔としての仕事が何か、体に叩き込んでやるんだから!」
「それは虐待。教育とは言わない」
いつの間にか、キュルケと物静かな青髪の少女──タバサが近くにいた。二人とも、召喚した使い魔である
「最初はすごい使い魔かと思ったけど、どうやらノンビリ屋みたいじゃない。お似合いのパートナーね、ルイズ」
「なによ!あんただって、ちょっとばかし火が吐けるだけのトカゲじゃない!」
「ええ、そうね。ちょっとばかしの火で、鉄さえも溶かす大トカゲよ。それに、この子は火竜山脈の生まれのサラマンダーなのよ」
「こ、こっちだって、本気を出せばすごいのよ!!」
「へえ、そうなの。なら、あたくしに教えて下さらない?」
「ぐ、ぬぬぬぬ……!」
事実をもって叩きのめされ、キュルケの爆破という選択肢がちろちろと顔を出す。その考えが実行に移される前に二人の間に大きな杖が割り込んだ。それはタバサのもので、思わぬ手出しで気を抜かれた二人がタバサを見ると静かに首を横に振っていた。そのおかげで頭が冷えた二人は、表面上は穏やかになる。
ふと、「性格も体形も似てないのに、なんで友達なのかしら?」と、ルイズの頭に浮かんだ。先ほどの仲裁といい、最高クラスの使い魔である風竜を自慢しないことといい、水と油ならぬ氷と炎のような気がするが、不思議なこともあるものだ。
しかし、喧嘩が終わってもタバサは杖を降ろそうとはしない。ほとんど無表情のタバサからは感情が読み取りにくいが、何かに警戒しているようだ。その目線の先をルイズが追ってみると、己の使い魔となった女性にたどり着いた。
「どうかした?」
タバサに問いかけてみても答えようとしない。ただ、じっと女性を見つめ続けるだけだ。雰囲気が雰囲気なので怒りは湧かないが、代わりに疑問が湧いた。「未だに私を見つめているだけなのに、何が恐ろしいの?」と。
「そんなに怖がることはないんじゃない?別に、悪いことをする訳でもないんだし。そっちの赤髪と違ってね」
「あら心外ね。あたしは事実を言っただけじゃない」
「うっさい!一々イヤミったらしいのよ!」
「まあでも、確かに気になることはあったわ」
「えっ?」
「彼女の手にルーンが刻まれるとき、あたしの見間違いじゃなければ、闇が集まっていたような気がするわ」
「……へえ、見えたんだ」
三人がすぐさまと反応する。その声の出所はルイズの後ろ。そして女性の声となれば、声の持ち主はただ一人しかいない。
「あ、あなた、喋れたの?」
「お、驚かすんじゃないわよ!」
三人は各々戸惑っているが、女性は全く気に介さない。それどころか、怒っているルイズに向けて手を差し出した。全くの予想の外にルイズは面食らってしまい、その怒りは吹き飛んでしまった。
「あたしはプリエ」
三人の様子を観察するように、プリエは一度言葉を切った。そして、三人の様子がほとんど変わらないことを認識すると、口角を少しだけ上げた。
「よろしく」
ルイズは不本意と希望を織り交ぜながら、差し出されたその手を固く握りしめた。