▶つづきからはじめる 作:水代
雨の中に消えていく背を見て、咄嗟に走り出す。
混乱する頭で、けれど必死になって走り去る親友の背を追った。
訳が分からない、けれど今その背を見失えば、もう二度と会えないような予感がして。
「コトネ! コトネェ!」
その背に向かって何度となく呼びかけれども、けれど親友は立ち止まることも振り返ることも無く走って行く。
その背が少しずつ少しずつ遠のいていくのを見ながら焦燥に捕らわれる。
「つうかはええな!」
足が速いのは知っていたが、それでも自分とそこまで差は無かったはずだ、なのに一方的に距離は開いていく。
雨のせいで足元がぬかるんで走りにくいったら無いのに、どうしてあんな軽々と走れるのだ。
まるで体重を感じさせない足取り……それこそ、幽霊か何かのように。
「いやいやいやいや、そんな非現実的な!」
―――お前さっきから虚空に向かって誰と喋ってるんだ?
告げられた言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
見えていないはずが無いのだ……親友は目の前にいたのだから。
だとすれば、どうして今親友は走っているのか。
どうして自分の声に止まらないのか。
どうしてあんなに速く走れるのか。
考えれば考えるほど、嫌な想像が頭を過る。
追いつこうと必死に走って、けれど追いつけないままに。
「……くそ、コトネ、コトネ、コトネ!」
呟く親友の名に、けれど追っていた背はいつの間にか姿を消していて。
「見失った……」
零れた言葉は雨の音にかき消された。
* * *
雨のせいか、ヨシノシティのポケモンセンターは早速混んでいた。
「間一髪、だったね」
「……ですね、センセイが突然忘れ物取りに帰るって言った時はどうなるかと思いましたが」
センターのロビーに置かれたソファーに座り、カップに入った珈琲に一口だけ口をつける。
降り止まない雨のせいかすっかり肌寒くなってしまったが、温かい珈琲が胃に落ちれば、内側からぽかぽかしてくる。
「先にレッドに帰ってもらってて正解だったな。こっちが戻るまで待ってもらってたら二人して濡れ鼠のまま外に放り出されてた」
「雲行きが怪しかったのは見て分かりましたけど、さすがにあんなに早く雨が来るとは思わなかったので焦りましたよ」
残念ながらレッドはこの苦味がまだ苦手らしいので代わりにミルクと砂糖たっぷりの紅茶を飲んでいる。
と言っても熱いのは苦手なようでふーふーと息を吹きかけて冷ましながら口をつけては熱い、と口をすぼめているが。
まあ見ていて微笑ましい光景ではある。そしてだからこそ直前のことを考えてしまう。
「……大丈夫かな、ヒビキ」
「…………」
ぽつりと口から洩れた思考にレッドが動きを止める。
すでにレッドには先ほどの出来事を話しており、その直後のことも話している。
「突然走って行ったけど……追いかけるべきだったかな?」
「どうでしょう、結局何で追いかけたのかも良く分かりませんし」
目の前で突然走り去ったヒビキの表情はとても平時のそれでは無かったし、直前の奇行のこともあってどうにも気になってしまう。
それに、ヒビキが直前に呟いていた名前も……。
「コトネ、ねえ……」
呟いた一言に。
「……今、何と言った?」
背後から声が聞こえた。
振り返ったそこにいたのは一人の老人。
険しい表情をした老年の男に、レッドが僅かに表情を引きつらせた。
「顔、怖いよ爺さん、レッドが怖がってる」
「……むう、すまん。ただ気になる名前を言っておったのでな」
「コトネって子のことか?」
再び呟いた名前に老人の表情が強張る。
何やら思い入れがあるようだし、ちらりとレッドを一瞥し。
「先に帰ってるか?」
「……ん」
ふるふる、と首を振るレッドにそうかと一つ頷いて老人へと向き直る。
「つってこっちも良く知らないんだけどな、知り合いの子がそう呟いてたの聞いただけだし」
「……そうか」
告げた言葉に、老人が嘆息する。
「だったら、この街でみだりにその名を口にせんほうが良い」
「……何かあった?」
ぶしつけ、踏み込みすぎ、一瞬頭の中をそんな言葉が過ったが、お構いなしに尋ねる。
コトネ、という名はヒビキが口にしていたものだが、けれどその名は自分の知識の中にもある名だ。
HGSSにおいて主人公の女主人公の名が確かコトネだったはずだ。正確には男主人公を選択した時に出てくる幼馴染の名前なのだが、女主人公にすると男主人公が幼馴染のヒビキとして登場するため基本的にそう呼ばれている。
言うなればレッドと同じ実機にも存在したキャラクターの一人、ということになるわけだが。
「…………」
踏み込んだ質問に、けれど老人は押し黙る。
数秒何か口元を動かして何かをぼそぼそと呟き。
「……他の誰にも聞くではないぞ?」
―――皆、傷ついているからな。
そう告げる老人の声には深い苦悩と懊悩の色が伺えた。
* * *
ああ……そっか。
どこか納得のようなものがあった。
胸の中にすとんと落ちた、とでも言うのか。
私……死んでたんだ。
この二年間、コトネの世界の中心はヒビキであり、ヒビキ以外と
どうして自分がワカバタウンにいたのか、ヒビキと会っている時以外の自分が何をしていたのか、まるで覚えが無いはずなのにそのことに一切の疑問が無かった。
まるで夢を見ているようだった。
明らかにおかしなことも、夢の中ではそれをおかしいと思うことは無い。
普通に考えれば異常なはずなのに、夢の中ではそれが正常だと感じる。
まさにこの二年間、コトネは夢の中にいたのだ。
どうしてまだ自分に意識があるのか分からない。
けれど一度夢から覚めてみれば思い出す最後の記憶は暗く冷たい水底の記憶。
ぶるり、と背を震わせる。
「……なんで私、ここにいるんだろう」
―――お前さっきから虚空に向かって誰と喋ってるんだ?
ヒビキがセンセイと呼んだ人が告げた一言に、夢が覚めたのを自覚した。
あの瞬間、全てを思い出し、思いだした恐怖に走り出した。
ヒビキが呼んでいた気がする、だがそれすら意識できないほどの濁流のように押し寄せる恐怖の記憶が脳裏に焼き付いて、ただ無我夢中に走った。
そうして気づけば湖にいた。
「……ここ、確か」
そう、確か。
二年前に私が死んだ場所。
「……
ぽつぽつと降り注ぐ雨は湖面を打っては波紋を広げている。
黒く、暗い空を映した湖面は薄墨のように染め上げられており、底を見通すことはできなかった。
「……どうすればいいのかな」
最早何も気づかない振りをしてヒビキと共に過ごすことはできない。
気づいてしまったから、決定的に、徹底的に、気づかされてしまったから。
彼は生きている人間だから。
私とは違う世界にいる存在なのだと。
気づいてしまったから、もう戻れない。
もう一緒にはいられない。
だからこれで、さようなら、だ。
さようなら、なのに。
「……どうして、何で来たのよ」
呟いた言葉に。
「
* * *
ワカバタウンから走って、走って、走り続けて。
見失ったコトネを探して走り回ったが、けれど見つからないままにヨシノシティへとたどり着く。
雨の降り注ぐ街をわざわざうろつこうなんて人間は少ない。
だからこそ、そんな雨の中、ずぶ濡れになりながら走るヒビキはとにかく目立っていて。
「ヒビキ」
声をかけられた。
荒い息を吐きながら、立ち止まり振り向く。
「センセイ?」
先ほど別れたばかりの人がそこにいて。
そう言えばコトネのことで頭がいっぱいだったから忘れていたが、置いてきてしまったと気づく。
「あ、あの! コトネ、見なかった?!」
「…………」
だがそんなことすら気にならないほどに焦っていたが故に、咄嗟に出た言葉はそんな問いだった。
「白い帽子被ってて、赤と青の服着たやつなんだけど!」
「…………」
けれどセンセイはこちらを見つめたまま何も答えない。
気ばかりが焦ってそんな様子にもどかしくなる。
そうしてもういいと再び走り出そうとして。
「心当たりがある、って言ったら?」
直後に聞こえた言葉にぴたりと、足が止まる。
目を見開きながら振り返り。
「今、何て……」
「だから……心当たり、あるよ」
告げられた言葉に思わず駆け寄る。
「どこに! コトネは、今、どこにいる!?」
「……その前に、少し聞いて欲しいんだけど」
「今そんなことどうでもいいから、コトネはどこに」
「いいから聞け!!」
怒鳴るようなその言い方に一瞬たじろぐ。
だが決してその表情は怒っているわけでは無いようだった。
むしろそれは……。
「二年前、ヨシノシティで八歳の少女が行方不明になった」
「……は?」
何で今二年も前のことを?
聞けと言われて出てきた言葉の突拍子の無さに思わず声が漏れた。
だがそんなことはお構い無しと言わんばかりにセンセイは続ける。
「朝から遊びに出かけていたはずの少女が昼になっても帰ってこない……いつもなら昼食時には必ず帰って来るのに」
「一体、何の話を……」
「
「っ!?」
告げられた名前に、目を見開く。
だがどうしてそこでその名前が出てくる?
「その日も今日みたいに雨が降っていたらしいよ……少女、コトネちゃんはね、街の外に遊び行ったんだ」
「えぇ!?」
街の外は野生のポケモンの生息する危険な場所だ。ただでさえ大人の目の届かない場所なのに。
そんな場所に八歳の少女が行けばどうなるか、そんなもの、想像するまでも無いほどに。
「街の北東の湖……コトネちゃんはそこに向かい……そうして」
僅かに言葉を溜めて、それから、センセイが口を開いた。
* * *
雨が降っていた。
ざあざあと、降り続いていた。
全身ずぶ濡れで、森の中を突っ切って来たから靴の中だってもうぐちょぐちょで泥まみれだ。
正直不快で不快でしようがない。帰って風呂に入って着替えたい。
走り回ったせいで疲労でくたくただ、飯食って泥のように眠りたい。
だがそれも全ては後の話だ。
今はただ、目の前の親友のことだけを考える。
言葉一つ、忘れることの無いように脳裏に刻み込む。
―――もしかすれば、これが最後になるかもしれないから。
そんな内心の思いを押し殺して、一歩前に踏み出す。
ぴくり、とコトネが僅かに身じろいで。
「コトネ……探したぜ」
「どうして、何で来たのよ」
「お前が逃げるからだろ、親友」
「馬鹿、何で放って置いてくれないのよ」
コトネの肩が震える。
「私ね、ヒビキに言わないといけないことがあるの」
「……幽霊だったってことか?」
「っ、なんで?!」
「気づくだろ、そりゃ気づくよ。だってセンセイ、目の前にいたはずのコトネのことが見えてないんだから」
本当は気づかない振りをしていた。二年も一緒に過ごしていたのだ、おかしなことはいっぱいあったんだ。
それでも気づかない振りをした、この関係が余りにも居心地が良かったから。
見えない振りをした、気づかない振りをした、知らない振りをした。
けれどそれももう限界だった……本当はセンセイが言わなくても見えていた、気づいていた、知っていたんだ。
「ずっとお前と居たかった……だから何も気づかないようにして、ずっとお前を引き留めていたんだ」
「ち、ちが……違う。引き留めていたのは私のほうだったんだよ! ヒビキとずっと一緒にいたかったから! ヒビキだけを見ていれば何もかも忘れることができたから、だからずっと逃げて、逃げて、逃げて」
でも逃げ切れなかった。
当たり前だ、そこには最初から無理があったのだから。
それでもお互いの努力で、俺たちの関係は今日まで続いてきていた。
「でももう無理だ……俺は気づかされた」
「私は逃げきれなかった……思い出してしまった」
俺たちの関係には決定的な亀裂が入った。
だからもう、今まで通りなんて無理に決まっていて。
「ここは私が
「……それでいいのか?」
湖を見つめながらそう告げるコトネを見つめる。
コトネもまた俺の言葉に振り返り、俺を見つめる。
「それでいいのか? 満足なのか? コトネはそれで……納得できるのかよ」
「……できるわけないよ」
「じゃあ何でそんな諦めた顔してんだよ、何で消えるなんて言うんだよ」
「じゃあどうしろっていうのよ!」
震えた声でコトネが叫んだ。
「私は死んだんだよ! 二年前に、ここで! どうして今ここにいるのか私にだって分からない、でもこれだけは分かる……私はこれ以上ヒビキと居ちゃダメなんだよ! 死んだ人間がこれ以上傍にいればヒビキに迷惑がかかる、そんなのやだよ、絶対に嫌! 私は! 私は!!」
一瞬の間、そうして。
「
告げた言葉に、笑みを浮かべる。
「ああ……良かった。親友ってそう言ってくれるんだな。ずっと逃げられてばっかだから、こっちこそ、嫌われたかと思った」
「そ、そんなこと無い! ヒビキのこと、ちゃんと親友だって、思ってるから……だから、だから」
安堵する、コトネがコトネだったことに。
記憶が戻ったコトネがそれでも俺の良く知るコトネだったことに。
だからこそ、これを言える。
「あのな、コトネ……大事なことだから良く聞け」
センセイが俺に教えてくれた二年前の真相。
その顛末。
それは―――。
「
……………………。
………………………………………………。
………………………………………………………………………………。
* * *
「街の北東の湖……コトネちゃんはそこに向かい……そうして」
僅かに言葉を溜めて、それから、センセイが口を開いた。
「湖に落ちて溺れた」
「なっ?!」
「どうやら野生のポケモンがいたみたいでね……このポケモン、以前に密猟者から逃げたポケモンらしくて人間への敵愾心が強い個体だったんだ」
「そいつが……コトネを?」
「そういうこと……」
その話と、そしてコトネの現状を足して考えれば……最早答えは一つしか無く。
「……行かないと」
「待って、まだ早い、勘違いしてる!」
「何を勘違いするっていうんだよ!」
「
「……は?」
導き出した最悪の想像が一瞬で覆されたことに驚き、目を丸くする。
「そこにいたポケモンっていうのがマリルとルリリの二匹だったらしいんだけどね……何でか知らないけど、マリルがコトネちゃんを助けたんだ」
「……え、でもコトネを湖に落としたのは」
「それが良く分からないんだけどね……溺れて気を失ったコトネちゃんを湖から引っ張り出して岸に寝かしていたらしく、それをコトネちゃんがいなくなったことに気づいた街の人たちが見つけたらしい」
「……それで、コトネはどうなったんですか」
問うた言葉に、けれどセンセイが難しそうな表情を浮かべる。
「それが、ね……意識不明のままコガネの病院に運ばれたらしいんだけど」
―――二年経ったのに未だに意識が戻らないらしいよ?
* * *
とん、とん、と病院の廊下に足音が響く。
時刻は夕方近い。ナースさんたちが忙しそうに動き回る姿を横目に見ながら聞かされた目的の部屋へとたどり着く。
横開きのドアを開き、一歩足を踏み入れると花の香が広がった。
病室に置かれたベッドの傍らにある花瓶に白い花が活けてあった。
そして。
「……コトネ」
ベッドの上に眠る少女の姿を見て、思わずその名が零れ出る。
長い間眠り続けていたせいで、すっかり伸びてしまった髪は腰まで届いていた。
目を閉じ、眠る少女に自身の知る溌溂な少女の面影は無いが……けれど自分にはこれが親友とまで称した少女なのだと理解できた。
「……早く起きろよな」
少女の寝顔を見つめながら呟いた一言。
けれど同時にその時が来るのが怖いという感情もあった。
―――人間の記憶ってどこにあるんだろうね?
センセイがふと呟いた言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
―――例えば幽霊のまま意識を保った人間なんてのがいたとして。
どうしても、どうしても、考えてしまう。
―――
考えずにはいられない。
可能性は示唆されていた。
何も知らないはずのあの人は、けれど何故か自分たちを見透かしたようなことばかり告げて去って行った。
感謝はしている……最後にコトネに出会って、ちゃんと別れを告げることができたこと。
それがあったからこそ、
もし何も知らないままに別れていればきっと自分は一生後悔しただろうから。
それでも、もし。
なんて考えてしまう。
もし、コトネが覚えてくれていたら。
そんなことを、期待してしまっている自分がいて。
相反する二つの感情がいつまでもぐるぐると渦巻いている。
だから。
「早く起きろよ……コトネ」
そう告げることで感情を吐き出すしかなかった。
昨日、一昨日も、その前の日も、その前の日も。
あの日からすでに一週間近くそんなことばかり繰り返していて。
それでも今日もコトネは目を覚まさない。
「早く……早く起きろよ、じゃないと」
初めまして、だって言えないのだから。
内心で呟いた言葉に、けれど胸がじくじくと痛んで。
「……っ」
ぎり、と歯を食い縛り、拳を握る。
そうしている内にも時間は過ぎて。
「……また、明日来るから」
告げて病室を去ろうとして。
「…………」
ぴくり、とベッドで、少女の唇が揺れた。
* * *
「ねえ、レッド」
「はい?」
「幽霊の記憶ってどこにあるんだろうね?」
「……はい?」
ポケモンセンターの食堂で夕食を食べながらふと呟いた言葉に、レッドが首を傾げる。
「例えば死んだとして」
「……例えがすでに物騒ですね」
「でも何故か幽霊になって生きている」
「それ生きてるって言うんですか?」
「幽霊になったその人は見て聞いて考えることができるし覚えることもできる」
「便利な設定ですね」
「じゃあその間に見たこと聞いたこと、記憶したその全ては一体どこに宿ってるんだろう? だって幽霊って体無いんだよ?」
ジョウトに来てからすっかりはまってしまったブラックコーヒーを飲みながらレッドの答えを待つ。
少し思案気な表情をしながらもぐもぐと口を動かしているレッドがやがて口の中の物を全て飲み込むと。
「……心、とかですか?」
告げた答えにきょとんとする。
「心、か」
繰り返し呟いた自分の一言にレッドが少し恥ずかしそうにする。
「あ、あの……余り深く考えないでください」
「いやいや……良い答えだと思うよ?」
カップの中のコーヒーを飲み切ると、席を立つ。
「……病院ですか?」
「うん……ヒビキくん、迎えに行ってくるよ。ワカバタウンまで連れて帰らないとだし」
今日で一週間。
毎日やってきては、けれど進展無し。
でも関係無い。
昨日と同じ今日なんて無いのだから。
* * *
「……コトネ?」
薄っすらと目が開き、ベッドの上の少女と目を合う。
ぼんやりとした瞳で、けれどそこから伺えるのは。
「……だれ?」
見知らぬ誰かへの警戒。
きゅっとまるで鷲掴みにされたかのように心臓が痛くなる。
「……俺は、ヒビキだよ」
「……ヒビ、キ……ヒ、ビキ……」
口の中で確かめるように、何度となく少女が自分の名を呟き。
「ひび、き」
「……何だ」
儚げな表情で俺を見つめた少女の口がゆっくりと動き。
「おやすみ」
「まだ寝るのかよお前!」
思わず殴った、ぐーで……殴ってから本気でしまったと思った。
「い、いった! ちょ、ヒビキ、ぐーで殴らなくてもいいじゃん!」
「わ、悪い、大丈夫か?!」
頭を抱えて痛みに震える少女に、罪悪感でいっぱいになりながら思わず謝り。
「ヒビキは考え無し過ぎるんだよ! 普通女の子殴る? しかもぐーで!」
「いや、そのお前がボケるからつい」
「ボケてないし……というか何でいるの……? っていうかここ、どこ?」
そうしてようやく気付く。コトネの様子が先ほどまでと違っていることに。
「……コトネ?」
「え? 何?」
「……コトネ、だよな?」
「そうだけど。ていうか今更どうしたのよ?」
口を開いて……閉じる。
何度と無く、何度と無く、言葉を作ろうとして、けれど出てこない。
「……ヒビキ? 泣いてるの?」
「……ないて、ねえよ」
「……でも」
「うるせえ……ないて、なんか……ねえよ」
ただ、ただ、ただ。
「……はじめまして、コトネ」
一瞬、虚を突かれたように目を丸くし。
「……うん、はじめまして、ヒビキ」
そう告げ、少女は笑みを浮かべた。
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