壁の外へと放り出されたキリトとアリスは、重力に従い落下していく。何もしなければそのまま地面に叩きつけられ共に命を落とすのだが、かと言って何か手段があるわけではない。
勢い良く飛び出てしまったからだ。キリトは剣を壁に突き刺そうと考えていたが、手を伸ばしても届かない。
──このまま落ちるしかないのか、何か手段は!
どんな時も、どれだけ危機的状況で焦ってしまっても何が手を思いついてきたキリトだが、現状を打破する方法を見つけられるずにいた。
そんな時だった。
突如暴風が吹いたのは。
キリトとアリスはその暴風によって壁側へと体を押された。キリトは今度こそ剣を壁に突き刺し、反対の手でアリスの手を掴んだ。この塔の壁は基本的に石を積み上げているものだ。その隙間になら剣を差し込むことができる。並大抵の剣なら二人分の体重を支えられずにすぐに天命が尽きてしまうが、キリトの剣は神器級のものだ。天命が減ってもすぐに折れるようなことはない。
「手を放しなさい!」
「馬鹿なのか!? 俺が手を離したら君は落ちるんだぞ!?」
「誰が馬鹿ですか! それとお前に手を離されたところで問題ありません!」
キリトを見習って壁に剣を差し込んだアリスは、こうすればいいだけだろうとドヤ顔でキリトを見上げた。キリトもそれに思うところがあるのだが、二人分の体重を己の剣で支え続けるのも気が引ける。ポーカーフェイスに努めらながら一言入れてアリスの手を離した。
キリトはアリスの行動力を意外だと思った。この世界では当たり前の日常が何も変わることなく続いている。それに慣れれば慣れるほど、経験の無いことへの対応力が落ちるというものだ。
しかし最初こそはアリスも放心状態だったが、キリトが剣を差し込んだのを見てすぐにそれを真似した。壁の外に飛び出すという経験は無いはずなのに、わりと早い段階で対応してみせたのだ。
「てっきりこの状況に固まって何もできなくなるかと思ってたよ」
「たしかにこの状況は恐ろしいものです。ここからどうすればいいのか検討もつきません。しかし、私の師は言っていました『どんな状況であれ思考を止めるな』と」
「……想定外のことでも対応しろってことか。その師匠は本当に整合騎士なのか?」
「なっ!! 我が師を侮辱するのですか!!」
アリスの師であるということは、少なくともアリスより長い時間変わらない生活を送った人物となる。勝って当たり前の生活を送り続ければ、それだけ対応力も落ちる。なんせ自分の力で容易くこなせることだけを繰り返すのだから。想定外のことに対応する力など付くはずがない。
そういう意味でのキリトの発言だったのだが、その言葉選びが酷かった。アリスにとってそれは侮辱以外の何物でもないからだ。たしかに他の騎士よりも騎士らしくはない。しかし、その代わりに温かさが誰よりもある騎士だ。騎士の中で唯一"家族"という言葉を発し、アリスをその中に入れた者なのだ。
直してほしいことはいくらでもある。それでもそれ以上に見習いたいことも尊敬することもある。それがアリスが師レオンハルトに抱く気持ちだった。
「ち、違う違う! ごめん、言い方が悪かった。今まであった整合騎士の中で一番柔軟な思考をしてるなって思ったからさ。というか格別とも言えるぐらいだ」
「……まぁあの方は騎士の中で唯一自由に行動できますからね」
「自由に? それってどういうことだ?」
「敵であるお前にそこまで話す気はありません。それよりもこの状況をどう脱するかです。せっかくフィアが助けてくれたのですから」
最後の呟きをキリトは聞き取ることができなかった。だがそこまで気にする事でもないだろうと判断し、その前にアリスが言ったことに頭を働かせる。アリスの言うとおりこの状況からどう抜けるかが重要だ。
壊れた壁は既に修復されているため、そこから入ることはできない。ということは下に行って飛竜の発着場に行くか、上に行くかだ。二択ではあるが事実上の一択である。
なぜならキリトたちの目的はセントラル=カセドラルの最上階なのだから。
目的は決まっている。ならばそこへどうやってたどり着くかだ。何か手段はと壁を見上げるキリトは気づいた。
「なぁ、鎖付きの楔を作れないか?」
「は?」
「それをこの剣みたいに差し込んで上に登っていくんだよ。いつまでもこいつらの天命を削るわけにもいかないしさ」
「それはそうですが……、いえ悩む必要もありませんね。分かりました私のこの鎧の一部を楔へと変えましょう」
「お、おう。思いの外協力的なんだな」
「早く登って決着をつけるためです。勝負は終わってませんので。と言っても私の勝利は揺るぎませんが」
「……それはどうかな」
お互いに負けず嫌いな性格だ。煽られれば多少なりとも反応する。子供っぽいところが見え隠れするキリトに、アリスはどことなくレオンハルトに似ているところがあると思った。絶対にどっちにも言う気はないが。
篭手を楔へと変換させそれをキリトに渡す。それをしっかりと打ち込んだキリトはそちらにぶら下がり剣を鞘に納める。もう一つ楔を作ったアリスはキリトの真似をし、自分も剣を納める。
そこからは同じことの繰り返しだった。協力して上に楔を打ち込んで上がる。楔は限られているから可能な限り回収して再利用だ。そうしてどれだけ登ったのかは二人もわからない。しかし、最上階に近づくと階の大きさが小さくなるのか、腰掛ける程度のスペースができていた。
休憩ということでそこに腰掛け、キリトのポケットから出てきた肉まんをアリスが神聖術で温めて食べる。食べないよりはマシ程度の食事だったが文句は言えない。休憩がてらキリトはアリスに問いたいことがあった。そしてアリスだけでなく全ての整合騎士に語らないといけないこともある。
話を切り出そうと思ったキリトだが、その前にやることができた。ガーゴイルの石像が突如動き始め襲い掛かってきたのだ。
「なぜこのような物が……!」
「分からないが、とにかく倒すぞ!」
動き回るようなスペースなどない。お互いの邪魔にならないように距離を取って飛来してくるガーゴイルを迎え撃つ。キリトがソードスキルでガーゴイルを倒し、アリスの方を確認するも、アリスは既に剣を納めていた。念の為と思った心配も杞憂に終わったらしい。
ガーゴイルを倒し改めて休憩に入った二人を、隠れていたガーゴイルが襲いかかる。完全に虚をつかれたのだが、そのガーゴイルが二人を襲うことはなかった。上空から飛来した雷がガーゴイルを貫いたからだ。
「いったい何が……」
「これは……」
誰の仕業なのかキリトは検討がつかなかったが、アリスは思い当たる人物がいる。あとでお礼を言わなければと思うと同時に、レオンハルトとフィアはこのガーゴイルの存在を知っていたのか疑問に思った。
アリスの口からこぼれたレオンという名前。それがレオンハルトのことであることは簡単に推察できる。キリトは先程切り出そうとした話を今切り出した。
「アリス。君の師はレオンハルトという騎士なのか?」
「……なぜそう思うのですか?」
「わざわざ牢獄にいた俺達に会いに来たのは彼だけだ。その時点で他の騎士たちとどこか違うことはわかる。そして君に教えてることも柔軟なものだ。確証とまではいかないが、もしかしたら程度には思ってね」
「まぁ教えても問題ないことですね。……合ってますよ。私を鍛えてくれたのはレオンです。と言っても他の騎士たちにも手合わせをしてもらってますが。……レオンのことを知りたいのですか?」
「そうだ。ここに至るまでの間に何度も耳にした騎士の名前だからな」
エルドリエはレオンハルトに忠告されていたのに、と己を恥じていた。デュソルバートはレオンハルトの洞察力に脱帽していた。ファナティオもレオンハルトのことを賞賛していた。
いったいどういうことを騎士たちと話していたのかはキリトやユージオの知るところではない。しかしここまで名前が出てくれば当然警戒するというものだ。
キリトたちの脱走を見越していたアリスの慧眼すらレオンハルトの教訓の賜物だというのであれば、ここまでの展開を予想していたとしてもおかしくない。
だからこそ知らなければならない。未だ遭遇していない騎士長と同じく、最大の壁として待ち受けている人物のことを。
アリスは悩んだ。話したところで己の師が負けることは無いと信じているが、それでも敵に話していいものかと。裏切りとなってしまうのではないかと。そもそも話す義理もないのだ。
「……能力とかはいいよ。どういう騎士なのかは教えてくれないか?」
「…………はぁ、その程度ならいいでしょう」
人となりなら話したところで迷惑をかけることはない。そう考えたアリスは最低限のことだけを話した。騎士長ベルクーリと並び称される実力者であること、騎士の中で最も柔軟であること、そして人界の先を憂う者の一人だということを。
それだけで全てを判断することはできない。しかしキリトは話し合いができる相手だと確信した。地下牢の時が演技ではなかったこともアリスの今の情報だけではっきりとした。だが同時に引っかかることもあった。
キリトとユージオに《完全武装支配術》を教えたカーディナルが、ある意味アドミニストレータ以上に警戒すべき人物だと言ったからだ。カーディナルもレオンハルトの全てを知るわけではない。しかし、カーディナルが言ったことが本当ならレオンハルトは
理解しているのならこの状況に便乗してもいいはずだ。良心的な人物であれば記憶を奪う《シンセサイズの秘儀》を良く思っていないはずなのだ。その真意は本人に問いたださねば分からない。だからキリトはその話を一旦終わらせ、もう一つの話題を出した。そう、騎士は元々人間だということを。
「お前は今なんと……?」
「だから、整合騎士はみんな元々人間なんだよ。君は8年前北のルーリッド村から連行されて騎士になったんだ」
ユージオから聞いた話ではあるのだが、なぜかキリトの頭の中に鮮明にその話が残っていた。だからより詳細に話すことができた。村でどういうことをしていたのか、家族構成、なぜ連行されたのか。知っていることの全てを話す。
その話がアリスの中でどこか引っかかるのか、アリスは妹であるセルカの名を大切そうに何度か呟いた。そして
「……私が目を覚した時にいたのはレオンでした」
「! じゃあ君をシンセサイズしたのが彼なのか?」
「分かりません。ですがそのことも含めていろいろと聞くことができました。場合によっては私も……ッ! これ……は!?」
「! それは君たちが逆らえないようにするためのものだ。それ以上は考えるな! 目が吹っ飛ぶぞ!!」
「こんな……ものまで……!」
自分の意志を貫けられないようにされていることが許せなかった。誰かの傀儡として生きるなんてことはできない。あくまで自分の遺志で自分の道を歩きたい。その強い想いがアリスの根底で芽吹いた。
だからキリトの静止に耳を傾けず、逆に体を押さえ込むように言いのけた。場所が場所だ。痛みに暴れて落下するわけにはいかないのだから。
「こんなものまでつけて……! 縛ろうと言うのなら!」
──私は反逆します!
その瞬間、鮮血が飛び散った。
さすがのアリスもその痛みを耐えきることはできず意識を失った。キリトは不得手ながらも最低限の処置をし、服の一部を利用して眼帯をアリスにつけた。怪我人を放置するわけにもいかず、かと言って目覚めるのを待つわけにもいかない。
アリスを背負い、落とさないように鎖で固定してから慎重に登り始める。単純に考えても今までの二倍の重さだ。今までより感じる疲労も多くなっているのだが、キリトは慎重に、着実に登り続けた。
アリスが目を覚ましたのは、95階の『暁星の望楼』に着いたときだった。運んでもらったにも拘わらず、密着していることに文句を言いすぐに下ろしてもらう。そんな二人に声をかける者がいた。
「よく登ってこれたな。お疲れさん」
「ようやく会えたな」
「……レオン、フィアも」
「お茶でも出してあげたいけど、どうやらそういう流れじゃなさそうね」
「しゃーねぇわな。いいぜ、答え合わせといこうじゃねぇか。答えられることは答えてやるよ」