冬木教会から脱出した白羽は教会のある丘を駆け下り、逃亡に全力を傾けていた。この時点での白羽はまだサーヴァントを召喚しておらず、手持ちの火器や魔術ではあの男に敵わないと知っているから迷いなく逃げを打ったのだ。
強化魔術で身体能力の一時的な強化に加え、早駆けのルーンを刻んで脚力の上乗せ、整備されたトラックなら100m5秒未満で走り抜けるスピードで白羽は教会のある丘から脱出する。
教会裏手の雑木林の中、立木や生い茂る下草、行く手を阻むように生える藪、それをすり抜け、踏み越え、跳び越えて丘の麓へと走り続ける。その様子を見る人がいれば林を駆ける鹿のようだと評するかもしれない。それだけ彼女の疾走は淀みなく、迷いが無かった。
疾走することしばし、幾つもの樹木を躱し、藪を跳び越えた先、丘の崖面にあるコンクリートの
すぐさま振り返って追跡が無いか確認する。強化によって性能が上がった目を凝らしても、耳を澄ましても、嗅覚を使っても、魔術的な感覚を研ぎ澄ましても追手の気配は無い。あの男はどうやらも自分よりも言峰綺礼の方に関心があって、こちらは放置されたのだろう。あの男が白羽の知る通りの存在ならこうして逃げることもままならないはすだ。
今回の不手際はあの男の行動を捉えきれなかった点に尽きるだろう。聖杯戦争が始まるので冬木市街にいるのは分かっていたが、姿を現すは戦争終盤であらかたの大勢が決した辺りだろうと踏んでいた。それがこんな戦争前夜の段階で、と白羽は思わぬ計算違いに内心頭を抱え、ここからは見えない冬木教会の方角を睨みつけた。
とにかく今は逃げて召喚する時まで市街地に潜伏するのが先だ。いくらこちらに関心がなくても、いつまでも近くをうろついていればどうなるか分からない。教会の監視の目も掻い潜らなくてはいけない。そう頭を切り替えた白羽は住宅街を見渡して現在地を確認した。
日本の一般的な住宅街が白羽の前にあった。再開発が進められている新都が近いせいか比較的新しい住宅やアパート、マンションが目立ち、まだ夜の浅い時間帯だから多くの窓から明かりが漏れていた。しかし道を行く人影はなく、住宅街であるためか車両の通行もない。まばらにある街灯が照らす夜の街は白羽にとって中央アジアの原野よりも荒涼として殺風景に見えた。
周囲の風景から現在地がどの辺りかはすぐに分かった。逃走中でもある程度方向に気を遣っていたから、目的地からそれほど離れてはいなかった。徒歩1分、住宅街の中にある月極駐車場に到着した。
どこの街にもある何の変哲もない駐車場。ここにあらかじめ用意しておいた車両を止めていた。今回の聖杯戦争のために彼女は何台か車両を用意しており、市内市外にある貸しガレージやこうした月極駐車場にそれら車両を配置していた。その用途は今回のような逃走用、移動用、あるいは攻撃用というものまで揃えていた。
駐車場に入り、何台かある車の中から迷いなく一台に近付く。日産・キューブ。ヒットからくる生産台数の多さで日本国内では目立たず、長期間駐車していても不審に思われないためのチョイスだ。身をかがめて車体の底面に手を伸ばし、そこに隠していたキーでドアロックを解除、ドアを開けて中へと身を滑り込ませた。
シートに座った白羽はようやくここで一息ついた。あるいは車の中という閉鎖空間が彼女に安心感を与えたのかもしれない。そのままシートをリクライニングで倒して眠ってしまうのも良いかもしれない。そんな欲求に襲われるも、必死に振りほどいてキーを鍵穴に差し込み回す。聖杯戦争前に配置した全ての車両は整備点検を済ませているのでエンジンは何の支障もなく始動した。
白羽の着ている服は穂群原の制服のため、警察に見つかると面倒な事になる。言峰を油断させる小道具として調達したのだが、神父の観察能力を高く見積もっていたため新品だと怪しまれると考えたからだ。
偽装は服だけではない。相手の嗅覚を誤魔化すために念入りに体を洗った上でオーデコロンを強めに吹きつけ、ガンオイルと火薬の臭いを隠した。加えて足運びや体捌きを素人のものに偽装して無害な一般人を演じた。その成果が充分ではない事には不満だったが、すでに結果は出ている。考えるべき事柄はすでに次の予定だ。
市内の穂群原の生徒の住居から無断で調達してきた制服だったが、警察に見つかると二重に面倒臭くなる。マンションの12階によじ登ってまで手に入れた擬装用の制服だったが、用が済めば面倒の種にしかならない。車内には予備の服も用意しているので適当な場所で廃棄しようと立香は次の予定を決めた。
シフトをパーキングからドライブへ。ヘッドライトを点灯させて車を発進させる。念を入れて再度周囲を見渡したが、最後まで追手の姿はなかった。
――白羽の運転するキューブは市内の道を縫うように滑らかに走る。まだ夜が浅い時間帯のため幹線道路の交通量は多く、道を行き交う人も多かった。キューブはそれらを避けて路地を縫うように進む。近年街のあちこちで防犯目的で設置されるようになった防犯カメラの位置も把握しており、それらに映らないルートも彼女は心得ていた。
車を走らせること一時間。最短ならば二十分もかからない場所に冬木市の海の玄関口があった。冬木港は貨物港としての性格が強く、プレハブ倉庫やコンテナ、ガントリークレーンが幾つも立ち並ぶ光景がキューブの車窓からでも窺える。
港湾労働者はすでに業務を終えて、後は守衛が数人いるだけの広大な貨物港は人気が希薄になっている。見回りの守衛さえ気を付ければ人目を忍ぶのは簡単だ。
白羽がここに来たのは、市街地に潜伏する前にやるべき事があったからだ。そもそも言峰綺礼を襲撃した目的の一つがそれになる。
キューブを倉庫街の一画に停車させる。ここでも守衛のルート、監視カメラの位置を把握した上での位置取りだ。当面誰もやって来ないし誰の目もない街中にできた空白地である。
停車した車内、白羽の視線は外から中へ、さらに横のナビシートへと滑る。そこには穂群原学園のブレザーに包まれた棒状の物体――言峰綺礼の切り取られた腕があった。彼女は冬木教会から逃げる際に小脇にこれを抱えてここまで持ってきていた。
切り取られてまだ時間が経っていないせいか言峰の腕はまだ仄かに体温を残しており、切り口からが血がこぼれて包んだブレザーとナビシートを汚していた。これが終わったら制服と車は処分しないと、と白羽は次の予定を頭の中で決める。事件性のある物品は残さないのが鉄則だ。
ブレザーを払って中身を露わにする。切り取られた時のまま法衣の袖に包まれた物体。袖部分を果物の皮を剥くように抜き出せば、現れるのはその人物の歴史を感じさせるかつての人の腕だ。
たゆまぬ鍛錬で筋肉質かつ筋張って、戦いの跡か古傷が幾つもあり、素手での戦いを心得ている者らしく拳ダコがあり、指と指の間にあるタコは聖堂教会の武装の一つ黒鍵を握った痕跡か、そして手の甲から肘にかけて幾つもの魔術の刻印が刻まれている。
預託令呪。聖杯戦争の監督役が持つ令呪のストックだ。これまで複数回開催された聖杯戦争において、使われないまま回収された令呪の管理は監督役が一手に担っている。令呪は発現するのは奇跡だが、一度現れれば魔術よって運用できる外付けの魔力タンクでもある。そのため他者への譲渡、他者からの強奪も可能だ。前回の第四次聖杯戦争では参加者への褒章としても機能したと聞いている。
白羽の手が切り取られた言峰の腕に触れる。聖杯戦争関連の知識では、この預託令呪は教会の聖言の秘蹟により守護されており奪い取る事は不可能だとされている。なので彼女としては言峰の持ち札を一枚でも減らせれば御の字程度に考えていた。加えてあのまま出血多量で死んでくれれば言うことはないが、そう都合よくいかないだろう。
ただ言峰綺礼の性格を考えた場合、ある可能性が浮かんだため切断した腕をこうして持ってきている。手の甲から肘にかけて、ギザギザと荒く太い線が不規則に走る複数の令呪。その部分に白羽の指は触れて、魔力を通わせた。
――
魔術回路を起動させるイメージは
預託令呪を守護する聖言の秘蹟は無かった。この聖言は言ってみれば金庫の鍵だと白羽は推測している。頑強で、マスターから切り離されても機能する高性能な金庫。ただし、金庫に仕舞いっぱなしでは令呪を使用できない。預託令呪を使う際には聖言の秘蹟は解除しなくてはいけない、そう彼女は推測していた。
さらに言峰綺礼は前回の聖杯戦争に引き続いて今回の聖杯戦争にも参加する気がある。でなければ教会に現れたあの男を今も現世に残している理由がない。そして参加するとなれば預託令呪を使用する機会も沢山あるだろう。聖言という金庫にしまったままのはずがない。
聖言が無ければ令呪の移植は簡単だ。心霊医術に心得があればマスターの同意を得て簡単に移譲ができるし、マスターの被害を考えなければ同意がなくても魔術回路から引き剥がして移植できてしまう。そして白羽のように令呪のある腕を物理的に切断してしまえば移植の難易度はさらに低くなる。
養父切嗣から教育を受けて戦いの中で実践的な魔術を魂に刻んできた白羽にとってこの移植の難易度は低く、属性、魔術特性から使える魔術は偏りがちな白羽でも問題なく令呪は移動した。
手の甲に発現した令呪。そこに預託令呪が加わって令呪の形状が変化する。刀剣をモチーフとしたような形状のテーマ性はそのままに、預託令呪で長く伸びる刀身が形作られる。あたかも手の甲を柄として切っ先を胴に突き刺す剣が現れたかのようだ。
預託令呪8画、与えられた令呪と合わせて11画。
袖をまくって令呪を確認した白羽は、言峰を仕留め損なった不手際とで差し引きゼロだろうと考える。どういうサーヴァントを召喚するにせよ、令呪の弾数が多くて損は無いし、サーヴァントと接続を切ればあらゆる魔術に利用可能な無色の魔力としても使える。サーヴァント、マスター双方にとってのブースターになる代物だ。
これで一枚切り札が増えた。今回の襲撃は目的を果たせず失敗といっていいが、悪運には恵まれている。これを次にどう繋げるか、頭の中で思考を回し始めた白羽はキューブを発進させた。差し当たっての予定は車と腕と服の処分だ。
この時聖杯戦争はいまだに始まってはなく、白羽もサーヴァントを呼んでさえいなかった。しかし、戦争前夜の暗闘は冬木の内外で密かに繰り広げられており、魔術師達の夜はこの日も更けていった。
Re:Fate/stay night ――その後、夜が更ける 了
預託令呪に関して独自の解釈が入っているとお断りしておきます。
加えてここの白羽は切嗣より教育を受けているため、原作士郎よりも魔術の腕はあるものとしています。ルーン魔術を使っているのは作者の趣味。