空海は、現代日本で何をする?
即身
俺は、空海。いつもは弘史の一人称やけど、今回は諸般の事情で俺の一人称で。
ふと気が付くと、俺は真っ暗な部屋の中にいた。部屋と言っても、俺が座っている場所は、前方にある木造の建物から少し下った所にあり、周りは岩壁で湿っぽい。しかもかなり寒い。この寒さには身に覚えがある。
「高野山やな…」
俺は呟いた。口がカラカラに乾いていて、声も出しづらい。首もコチコチに固く凝っていて、周りを見回す事さえツラい。
「手が動かへん」
自分の手が、法界定印のまま固まっている。指を動かす事もできひん。
「何やこれ?」
そう思いながらも、今の状況には心当たりがあった。恐らく、俺は結跏趺坐して定印を結んでいる。禅定の姿勢や。
これ、俺が入寂した時の姿勢やんか。
入寂、平たく言うと"死んだ"言う事。俺は、承和二年(835)三月二十一日に自分の寿命を全うした。何日も前から穀物を断ち、水も取らず、身を綺麗にして臨終を迎えた。
姿勢はその時と変わってへんのに、着ている衣は前より良くなっている。俺は元々質素な方が好きやから、麻の
どれほど時間が経ってるか判らんが、体の強張り具合から見て、一年二年ではないようや。
体が動かないと判ったので、俺は耳を澄ましてみた。自分でも驚くほど聴覚が鋭くなっている。
そんな俺の耳に、足音が聞こえて来た。二人は草履、一人は下駄。しばらく石畳を歩いていたが、やがて石の階段を登って、そこからは玉砂利の上を歩く音になった。俺のいる建物の近くまでやって来た。
「
老いた声が、囁くように言った。
「はい。我らは『奥の院』と呼んでおります」
維那と呼ばれた男が答えた。維那とは、
「上人は荼毘に付されたと聞き及んでおりますが」
若い男の声が尋ねた。
「はい、確かに」維那が答えた。「私の師匠がそれを見届けたそうなのですが、三度荼毘に付して、三度とも睫毛一本焦がす事すら出来ひんかったそうです。それ以来、上人をこちらへお運びして、庵を築いてお祀り申し上げているのです」
「そうか。それでは、私が直にご報告申し上げるので、扉を開けて下され」
ややあって、ガチャリと錠前の開く音がして、扉が開く音がした。しかし、明かりは入って来なかった。俺はそこで初めて、この建物が更に大きな建物に覆われてる事に気付いた。
外の扉が閉じて、何やらごそごそやっている気配があった後、再び錠前がガチャリと開けられた。弱い光が上方から差し込んで来た。ほぼ完全な闇に近かったので、俺には十分な明るさやったが、入って来た二人には何も見えてへんのやろう。手を前に伸ばして、手探り状態で奥へ進んで来る。
「まるで霧がかかっているようや。お姿が見えへん」
老僧が言う。
「私も同じです。何も見えません」
若い僧も口を合わせる。
二人は、小さな結界の前で立ち止まった。俺のすぐ前。ゆっくりと座る。
「上人様、私は東寺にて長者を勤めております、
観賢はそう言うと、懐から一通の書状を取り出した。ゆっくりと広げると厳かに読み上げた。
「
観賢は書状をしまうと、経を誦え始めた。『
『理趣経』を誦え終え、
「あ、お姿が…」
観賢は、ようやく俺の姿が見えたようである。
「髪も髭も伸びておられますな。衣体もボロボロで…。御上から
観賢はそう言うと、俺の伸び放題の髪と髭を剃刀で剃り、衣を着換えさせてくれた。
「師匠、私にはまだ上人のお姿が見えません」
淳祐は涙ながらに訴えた。観賢は、そんな淳祐の右手を取り、俺の膝に触れさせた。
「ああ、確かにおわします。温かさを感じます」
淳祐はさらに涙を流しつつ俺の膝を撫で回した。ちょっとイヤな気がした。
しばらく滞在した二人も、外が暗くなる前に、と立ち上がった。二重の扉が閉じられ、俺はまた闇に残された。
立ち去って行く足音を聞きながら、俺は外の様子を見たくなり、強張った体を無理矢理起こした。思ったより簡単に立ち上がれたと思ったら、結跏趺坐した俺の姿が後ろに残っていた。魂だけが抜け出したような感じやった。そのまま歩いて壁を突き抜けた。外に出ると、茅葺きの庵の前に玉砂利が敷き詰めてあり、石段を降りて石畳が続いている。三人の僧達がそこを歩いていた。俺は文字通り飛ぶように追いかけ、玉川の橋で追い付いた。それに気付いた観賢が振り向いた。淳祐はやはり見えていないようや。
観賢は、俺に向かって合掌して頭を下げた。俺も合掌した。
彼らが去って行く後ろ姿を見送っていた俺の足元に、真っ黒な穴が開いた。俺はその穴に吸い込まれた。
※
「おい、空海、大丈夫かい?」
俺は笑いながら声をかけた。地下鉄海岸線のシートで居眠りをした空海が、足をガクッとさせて目を覚ましたからだ。
「びっくりした!何や弘史か」
空海は目を白黒させている。
「何やて何や?」俺は肩をすくめた。「珍しいやん、居眠りするて」
「何か、ヘンな夢を見たわ」
「ほんの一瞬だけやったけどな」
そう言った俺を、空海はジト目で見詰めた。
「どしたん?」
そう尋ねた俺に、空海は溜め息混じりに答えた。
「めっちゃネタバレやったわ、大師号」
20190407
20190412改