空海は、現代日本で何をする?
女性(にょしょう) 後編
平成二十六年(2014)五月終わりの金曜日。
夜はまだまだ終わらない。
小林さんの"カウンターの君"改め空海の昔の同棲相手のアヤさんは、ワインで唇を潤すと話を続けた。
「彼を家まで連れて帰って、とりあえずご飯をあげたの。朝に焚いておいた二合のご飯をあっという間に食べちゃったから、私隣に貰いに行ったんよ」
「煩悩の炎を消すには、断食しかない思たんやけどな、むしろ逆効果やった」
空海はそう言って肩をすくめて見せた。
「逆てどういう事?」
アキちゃんが前のめりで尋ねた。
「空腹のお陰で感覚がとんがって、余計に妄想が湧いてくんねん」空海は真顔で言った。「先ず空腹を満たす妄想が出て来んのやけど、妄想内で満足してしもて、次の段階の妄想になりよんねん」
「次の段階て?」
「食欲の次は性欲やな。更にその上は独占欲、あるいは独善欲とでも言うか、自分が世界の中心であるかのような錯覚に陥ってまうんや」
「そうなるとどんな感じなん?」
アキちゃんの問いに、空海は明解に答えた。
「自分が悟ったような気分になってまうんや。実際には真逆の状態なんやけどな」
「無空さんは、その状態が嫌や言うてはりましたな」
アヤさんは微笑みながら言った。
「綾さんに助けられて、腹が満たされて、俺は何か目覚めたような気分になったんや。ただ、それが傲慢な思い込みや、という事も判ってたんや。そして、その感情がどこから来るのかを考えたら、それは『愛欲』からや、と思い至ったんや」
空海はそう言って、グラスを干した。またすぐにワインが注がれる。
「愛欲?性欲やなくて?」
アキちゃんは更に踏み込んで尋ねた。
「ああ。性欲は切っ掛けやな。欲情を起こし、そういう目で異性を見て、矢のように感情を走らせて、異性に触れ、抱(いだ)き、交わり、その異性を愛して離れ難いと思い、独占したいと願い、その情念に縛られて心が乱れる、この一連の心の働きが愛欲や、と俺は考えたんや。そして、これが金銭や権力や支配、そういった欲望に変化し、肥大して行く」
「だんだんスケールが大きなって来たな」
俺は思わず口走ってしまったが、空海はその言葉に頷いた。
「そうなんや。そうやって際限なく大きなって行くのが煩悩なんや。それなら、いっその事、この煩悩即ち性欲と正面から向かい合ってみよう、そう思ったんや」
「その時はびっくりしたで」アヤさんはあくまで穏やかに微笑みながら言う。「無空さん、ご飯食べて一息ついた思たら、凄い真面目な顔で『俺、自分の煩悩と向き合いたいから、抱かせてくれ』て頭下げるんやもん」
「どストレートやな」
俺は半笑いで突っ込んだ。
「俺も童貞やったから、必死でな。ここが勝負どころやと感じたんや」
「私も、その頃は村の男達の夜伽(よとぎ)もしてたし、まあ別にええよって」
アヤさんはあくまで淡々と話を続けている。なので、話の腰を折るような質問はしないでおこう。
「で、結局一ヶ月半ほど世話になった。その間は何だか無我夢中やった」
空海は照れ臭そうに笑った。
「無空さん若かったんやね。毎晩セックスしたもんね」
アヤさんの明け透けな物言いに、俺達はワインを噴き出しそうになった。
「それに無空さんめっちゃ強いんや。一晩で何回もした事もあったし。だって全然萎えへんのやもん。せやから私も、男性が悦ぶあらゆる方法で愛してあげたの」
何だか、男やもめには刺激が強すぎる話だ。
「俺は綾さんから、女性の全てを教えて貰った。そして、ある日忽然と気付いたんや。人は、性の情動に目を背けて成仏する事など出来へんと」
空海はそう言って、アヤさんを見つめた。
「ある夜、一際激しく抱かれて、朝目ぇ覚ました時には、もう無空さん居らへんかったんや。荷物もぜーんぶ無くなっとって。私、めっちゃ寂しかったんやから」
アヤさんはそう言ってツンと横を向いた。ただ、表情は笑っている。
「それは、本当に申し訳ないと思ってます。あの時は、あのまま綾さんと一緒にいたら、そのまま溺れてしまう思て、言ってしまえば逃げ出したんです、綾さんから。今更やけど、ごめん」
空海は頭を下げた。
「別に」
アヤさんはつれない素振りで言った。
「その後、唐から帰ってから、一度住之江に行ったんですよ。ただ、その時にはもう綾さんはそこに居なかった」
「ええ。無空さんがいなくなってから数々月後に"事件"があって、私は住之江を離れたから。それから、色んな所を点々として今まで過ごして来たの」
「ところでアヤさん、アヤさんっておいくつなの?」
ナイス、アキちゃん。俺もそれ知りたかった。
「あら、女性に年齢を訊くなんて、悪い子」アヤさんは驚いて見せた。「まあ、別にそんな事を気にする年でもないんやけどね。普段は教えないんやけど、今日は無空さん、んーん、もう空海さんって呼んだ方がええよね」
アヤさんはそこで一度間を開けた。
「空海さんがおるし、正直に言うわ。私、宝亀三年生まれやから…」
「1242歳か」
空海がポツリと言った。
『はいっ?』
俺、アキちゃん、小林さん、そしてマスターまでが声を上げた。
千二百四十二歳って、デー〇ン閣下か?
「宝亀三年は、西暦だと772年や。計算としては簡単やろ」
「いや空海、それは論点がちゃう思うで」
取り乱す俺を尻目に、アキちゃんがアヤさんに尋ねた。
「ねえアヤさん、アヤさんは奈良時代の末から生きてるって事でええんですよね?」
「そうよ」
「どうしてそないにキレイでおれはるの?」
アキちゃんのその問いに、アヤさんは目を丸くした。
「信じてくれはるの?」
「だって、空海さんやってここにおるし。で、空海さんてちょっとテンプレ気味やん。でも、アヤさんは違う感じやし。どうしてそんなキレイでご長寿なんやろなって」
「この流れから更にこんな話して、信じて貰えるか判らへんけど」アヤさんは言葉を選びながら言った。「実は私、『人魚の肉』を食ベてしもたんや」
「『人魚の肉』!?」
今度は空海も驚きの声を上げた。
「人魚って、上半身が美女で下半身が魚のあれか?」
俺は言わずもがなの事を言ってしまった。我ながら呆れるほど珍腐なステレオタイプだ。
「それはアンデルセンやろ」
まさかの小林さんから突っ込みが入った。
「『人魚の森』みたいな?」
アキちゃんも強気で攻める。
「高橋留美子の?そうね、そっちの方が近いかも」
アヤさんが穏やかに返した。読んでるのか?高橋留美子。
「どうしてそないな事になったのか、聞いてええですか」
控えめながらも興味津々といった態でアキちゃんが尋ねた。
「勿論よ。そんな大層な話やないし」アヤさんは笑顔で快諾した。「さっき言ってた"事件"の事なんやけど、空海さんが出て行ってから数ヶ月くらい後に、若狭の漁師が住之江を訪ねて来たの。私がマレビトのお接待、要するに夜伽を仰せつかったんやけど、そのマレビト漁師さんがな、旅の途中で修験者から貰った『人魚の肉』を持ってはってん。何でも『若返りの薬』やゆうて、特に男女の媾(まぐわ)いの時にひとかけら食すると、極上の快感を得られるとか」
既に突っ込み所満載なのだが。
「で、それをくれた修験者は、『爪の先くらいのほんのひとかけら、それ以上はあかんで』て言うてたらしいんやけど、マレビトはんが『多めに食べた方が凄く良くなるんちゃうか』って、私と一緒に一口分くらい食べてもうたんや。そしたらすぐに体中が熱なって、もうガマン出来へんくらい全身痛なって。マレビトはんも苦しんではったけど、急に喚き出したかと思たら体がいびつに膨れ上がって、何とも形容し難いオバケみたいに変わってしもたんや。結局そのマレビトはんは自分のお腹を爪で引き裂いて死にはった。私はめっちゃ苦しかってんけど、何とか耐えられたんや。姿も変わらんかった。でも、こんな風に髪の毛は真っ白になってもおたんや」
いやめっちゃ大層な話ですけど。
「まあ、そんな血みどろの状況やし、村におられんようになって、住之江を出て堺に行ってお給待したりして何とか暮らしてたんや。そこで、お勤めしてたお店(たな)の主人に見染められて、妾(そばめ)になったんやけど、主人が歳老いて、正妻が亡くなって、子供達が独立しても、私は少しも変わらず、二十歳くらいのままやったんよ。主人の葬儀の時に、家の者から『気味悪い』言われて、私は人魚の肉がホンマに不老長寿の薬やったと確信したんや。姿形が変わらないさかい、同じ所に長居出来ヘん思て、私はお店(たな)を出て、平安の都へ行ったんや。都はまだまだ造立途中やって、私は宮大工の職人と恋に落ちて一緒になったんやけど、その彼も貞観十二年(870)に七十歳で死んでしもた。私はやっぱり年を取れヘんで、何か哀しなって」
「好きな人と死に別れるって、哀しいですよね」
アキちゃんが寂しげな声で相槌を打つ。
「そうなんや。私はこのまま年を取らなんだら、ずっと好きな人の死を見取らなあかんのやと思たら、凄く空しゅうなって。当てもなく西国を放浪してたんやけど、寛弘一年(1004)に、たまたま立ち寄った書寫山圓教寺で、性空上人様にお話を聞いて頂いて、感銘を受けてそのまま弟子入りして、天台宗で得度したんや」
「波乱万丈やったんですね」
空海が感慨深く言った。
「そうやね、色々あったわ。一時、八百比丘尼に弟子入りした事もあったんよ」
その名前は、俺も聞いた事がある。
「彼女を若狭で見送ったんは、私やし」
また凄い事実が出て来た。
「私な、比丘尼を見送った時に決心したんや。この際、この命が続く限りこの世の中を見続けて行こうて」
「で、今に至るという事ですか」空海は大きく頷いて言った。「あなたから見て、この世の中はどうですか?」
「んー、そうやね。ええトコも悪いトコもあって、そういうのも気付かずに、人々の営みが変わりなく続けられている場所って感じかな」
アヤさんは穏やかな表情で言った。少し寂しげではある。
「『哀れなる哉、哀れなる哉、長眠(じょうめん)の子。苦しいかな、痛いかな、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る』って所ですか」
空海はそう言って肩をすくめた。
「あら、空海さんともあろうお方が、随分と否定的やのね」アヤさんはふふと笑った。「『医王の目には途に触れて皆薬なり。解宝の人は礦石を宝と見る。知ると知らざると何誰が罪過ぞ』なんでしょ?」
「良くご存知で」
「『般若心経秘鍵』私、大好きなの。あなたの著作は、全部読ませて貰(もろ)たわ。何しろ時間だけはたっぷりあったし」
「お恥ずかしい限りです」
「何か難しい話で良く判らへんのですけど?」
アキちゃんが突っ込んだ。今夜は、アキちゃんのハートの強さに助けられっ放しである。
「要は、『みんな本当の自分の事が判ってない。でも、判ってる人もいる。やっぱ判ってたら得やで』って事やね」
アヤさんが軽く言った。
「軽すぎへん?」
アキちゃんは首をかしげた。
そこへ、ドアベルをガチャーンと鳴らしながら、一人の男が入って来た。ねずみ色のスーツの上下に蛇革のとんがった靴、白いマフラーで角刈りちょび髭と、見るからに昭和なヤクザの出で立ちである。
男は俺達を完全にシカトして、アヤさんの横の空いた席にドッカリと座った。
「ヒメ、こんなトコにおったんかいな。方々捜したで」
男は猫なで声でアヤさんに顔を寄せた。
「どしたんカズマ、今日はミドリさんとこ行っとったんちゃうの?」
アヤさんは少し拗ねたように言う。
「あいつ、今日は別の客の同伴やゆうて、とっとと居(お)れへんくなりよってん」
「まあ、寂しい事。じゃあ、私が寂しいカズマを慰めてア・ゲ・ル」
アヤさんはカズマの肩を指でツンツンしながら甘い声で囁いた。カズマはやに下がって勢い良く席を立った。
「ほなら行こか?エエとこ知っとおで」
「ホンマ?よろしゅうね」
アヤさんはカズマを追うように立ち上がったが、「ちょっと待って」とカズマに声を掛けると、小林さんに微笑みかけた。
「小林さん、今日は中座してご免やで。うちはココにいるし、また顔見せに来てな」
アヤさんはそう言いつつ、バッグから名刺を出して小林さんに手渡した。次いで空海に視線を移す。
「空海さん、会えて良かったわ。またどこかでお会いしましょ?」
「私も会えて良かったです。お体に気を付けて」
空海は笑顔で答えた。
「あと、女の子さん?」
「アキです」
「アキちゃん、『女』って私達の一番の武器なんやからね。のびのびと生きなさい」
「はい。ガンバります!」
アキちゃんの屈託ない返事に、アヤさんは微笑んだ。
最後にアヤさんは俺にウィンクをして、カズマと一緒に店を出て行った。
小林さんの手の中にある名刺には『会員制クラブ 人魚の園 チィママ 住之江 ヒメ』 とあった。
「何やろ?俺達、煙(けむ)に巻かれたんやろか?」
名刺を両手で持ったまま、小林さんが呟くように言った。
「嘘を言ってるようには見えへんかったよ」
アキちゃんが笑いながら言った。
「俺、何か全然相手にされてなかった気がすんねんけど」
俺は苦笑混じりに言った。
「いや、むしろ逆やと思うで」
空海がワインを呑み干しながら言った。
「どういう事や?」
「お前が一番ニュートラルに彼女の話を聞いていたんや。俺はともかく、小林さんみたく驚きでもなく、アキちゃんみたく前のめりでもなく、淡々とこんな突飛な話を聞けるて、貴重な存在やった思うで」
「それ、誉められてるんかけなされてるんか判らんな」
「当然誉めてんねん。お前はやっぱり良い漢やで」
空海はそう言って笑った。
「ところで小林さん。さっきの身の上話を聞いて、"カウンターの君"に対する想いは変わらずですか?」
俺は今だ呆然とした態の小林さんに尋ねてみた。
「当たり前や。何やむしろファイトが涌いて来たわ」
小林さんからは、力強い答えが返って来た。
「女は魔物やね。アヤさん美魔女やし」
何やら楽しげに、アキちゃんが言った。
20200720