日付の間違いを訂正しました(令和3年7月1日)。
空海は、現代日本で何をする?
邂逅
今日は平成二十六年(2014)六月十四日(土)である。
俺はシフトの加減で土日が休みというキセキの展開である。では何か予定があるかというと、そういう訳でもない。
朝はゆっくりと起きて、コーヒーを一杯飲んだ。空海は相変わらず静かにあぐら(結跏趺坐)で座っている。空海も今日はバイトはないらしい。
ぼんやりとスマホを見ていた俺は、ふと思いついて立ち上がると、押し入れの上の戸袋を開けて、そこから「引越しのサ〇イ」の段ボール箱を引っ張り出した。
「なあ空海」
俺は箱を降ろしながら、座っている空海の背中に声を掛けた。空海は返事をしなかったが、こちらに意識を向けたのは判ったので、そのまま話を続けた。
「明日、空海の誕生日やな。六月十五日」
「ああ、そうか」空海が小声で言った。「太陰暦では今日は五月十七日やから、意識してへんかったわ」
「でな、カレンダー見てたら、ふと思い出したんや、空海と初めて逢うた時の事な」
「ああ、あん時なあ」空海は小さく頷いた。「あん時は往生したで。全然意味が判れへんかったしな」
「そらそうやろな」
俺は大きく頷いた。自分が同じ立場だったら、尚更意味不明だっただろう。
俺が引っ張り出した段ボール箱には、ボロボロになった墨染の衣が入っていた。
※ ※ ※
平成二十五年(2013) 4月30日(火)、俺はひ〇どり墓園から66系統の市バスで〇宮センター前のバス停に帰って来た。『〇宮そ〇う』の前である。今日は知人の七回忌の命日だったので、墓参りに行って来たのだ。
昼過ぎで、部屋に帰っても何も食べる物がなかったので、いつもならバス停から道路を渡って南西寄りの、地下鉄海岸線『花〇計前駅』へ直行する所を、今日は北へ向かって歩き出した。
地下道を通ってJR〇宮駅に出て、道路を西へ渡ると通称『パイ山公園』がある。正式名は『さん〇たアモーレ広場』というらしいが、お碗形の小山が三つあるその風景から、誰からともなく『パイ山』と呼ばれ、今に至っている。〇急〇宮駅の北側、北〇坂入り口というロケーションから、待ち合わせ場所として広く認知されている。路上ライブのミュージシャンも多い。
普段は『〇宮センター街』へ行く事が多いので、『パイ山公園』へ来るのは本当に久し振りである。
若者がたむろするその公園の石造りのベンチに、一人の坊さんが座っていた。真っ黒な衣はボロボロで、髪の毛も伸びてネギ坊主のようになっている。結構濃い目の髭の下には、やつれてはいるが綺麗な顔があった。
ベンチの上で目を閉じて、あぐらをかいて座っている乞食のような僧侶の姿に、若者達は横目に見ながら、遠巻きに通り過ぎて行く。迂闊に近寄って、何かに巻き込まれたら大変だ、とでも考えているのだろう。
いつもの俺なら、皆と同じように見ない振りをして通り過ぎていただろう。しかし、何故か俺はその坊さんから目が離せなくなっていた。
俺が思わずその坊さんに近付こうと足先を向けた時、彼が動いた。左手で腹を押さえて、小首をかしげた。その時には、俺は既に彼に向かって歩を進めていた。
首をかしげながらゆっくりと目を開いた坊さんと、俺の目が合った。坊さんは、何かを言いたげに口を開いたが、何も言わずにまた閉じて、大きく息を吐いた。
「どうも、こんにちは」俺は坊さんに声を掛けた。「大丈夫か?何か俺に出来る事あるか?」
自然とそんな言葉が出た。何か困ってる風だったからか。
坊さんはちょっと目を丸く見開いたが、すぐに笑顔になった。良く見ると、かなり衰弱しているようだが、その弱々しい笑顔には、何か人を安心させる不思議な雰囲気があった。
「ありがとう。実は、腹が減ってるんやけど、持ち合わせがないねん」
坊さんはそう言って、もう一度笑って見せた。
とりあえず、近くのコンビニでサンドイッチとおにぎりとカフェオレを買って来た。エビカツサンドと牛カルビおにぎりしかなかったので、とりあえず買っては来たものの、坊さんに生臭ものばかりで良かったんだろうか?と少々心配してしまった。まあ何の躊躇もなく食ベ始めたので、その点は安心したのだが、むしろコンビニサンドやコンビニおにぎりの開け方、更にはド〇ールのカフェオレの、ストローの挿し方すら知らなかった事にかなりの衝撃を受けた。
もの凄い勢いでサンドイッチとおにぎりを食べ終えて、坊さんは大きく息をついた。
「ありがとう。めっちゃ美味かった」
そう笑顔で言ってから、坊さんは少し顔をしかめて脇腹を押さえた。
「どしたん?どっか調子悪いんか?」
俺の問いに、坊さんは苦笑いの表情で答えた。
「いや、久し振りに食ベ物を口にしたさかい、胃が追っ着かんくて。しかも肉系やし」
「いつから食べてヘんかったん?」
「承和元年になってからは五殻断ちしとったし、七日前から完全に断食やった」
承和元年というのが良く判らなかったが、まあ長い事ちゃんと食べてない事は伝わった。
「そんなんやったら、ゼリーとかスムージーみたいな方が良かったかな?」
「大丈夫や。何でも食べれば血肉になる。ありがとう助かったわ。えーっと…」
「立花(たちばな)弘史(ひろし)や」
「弘史か。俺は空海」
「空海て、あの空海か?」
「"あの"って何や?」
「ほら、あの、教科書に載ってる、高野山を開いた…」
「そうか、教科書に載ってるんか俺」
空海はそう言うとニンマリと笑った。
「まあそんなハズないわな」
俺は即攻で否定した。
「何でやねん?」
空海は不服そうである。
「そらそうや。目の前でコンビニおにぎり食うてる人が、いきなり『俺平安時代から来た空海や』とか言うても、流石にスッと信用出来ひんわ」
「まあ、それもそうやなあ」空海はあっさりと引いた。「確かに、そんな途方もない事言うても、納得出来る訳ないな」
「その通りや」
「俺も、高野山におって、弟子に遺言伝えて、目え瞑って開いたら、ここに座っとったんや。状況が全く理解出来んでな、往生したで。せやから、弘史の不信感も判る」
大きく頷きながらそう言う空海の言葉には、何故か嘘が感じられなかった。少なくとも、こんなトンデモな話しを本気で超真面目にしているのは分かる。
「有難う、弘史。ホンマに助かった」空海はそう言って立ち上がった。「腹が落ち着いたら、ようやく気持ちも落ち着いて来たし、まあまだ様子が良く分からヘんけど、とりあえず行ってみる事にするわ」
「『とりあえず』って、どこ行くねん?」
「そうやな、あてがあるとすれば、やはり高野山やな」
「どうやって行く気や?」
「勿論歩いてや」
「どんだけかかる思てんねん?」
「ゆっくりでも四日目には着けると思う」
空海はしれっと言うと、ニヤリと笑った。
「ちょい待ちや」俺も思わず立ち上がった。「こんな慣れへんところで歩いて高野山行くて、無茶やで。しかも無一文やろ、途中の食べ物や泊まりにも困るやんか。それに、高野山行ったところで、門前払いされるかも知れんのやで」
「そうやなあ。いきなりこんな乞食坊主が来ても、受け入れてもらわれへんかもなあ」
「呑気やなあ。ますます心配なるわ」
俺の頭の中に、疲れ果てて片田舎の道路脇の草むらに倒れ込んで動かなくなった空海と名乗る坊さんの姿がまざまざと浮かんだ。
「まあ、何でもやってみれば何とかなるかも知れへんし、行ってみるわ高野山」
空海は軽く言うと、すっと背筋を伸ばした。
うわ、この人ホンマに歩いて高野山行く気や。
俺がそう思った時には、俺の体は既に動いていた。
俺は空海の肩に手を掛けた。痩せて骨張った、だが強くてしなやかな筋肉の肩だった。
「うち、来いひんか?」
俺の口は、俺が考えをまとめる前に声を発していた。
「弘史の家にか?」
空海は目を丸くして俺を振り返った。
「そうや。もし高野山に行くにしても、体調を整えて、今の状況に慣れてからでもええんやないか?別に歩いて行かんでも、車も電車もあるんやから」
「でも俺、お金持ってへんで」
「それも俺が何とか都合付けたるさかい、まずは俺ん家に来て、シャワーでも浴びて、すっきりしいな」
「シャワー?」
「風呂入れって事や」
「風呂か、ええなあ」空海は笑って言った。「蒸し風呂やなくて、湯に浸かる方がええねんけど」
「ユニットバスやから、湯溜めたら浸かれるで」
「ほうか、そらええなあ。なら、お言葉に甘えて少しお世話になろか」
空海はようやくそう言った。
「ほなら、早速行こか。ここは〇急の駅やから、地下鉄はもう少し海側やねん」
俺は言いながら、空海を促して歩き出した。空海は、辺りを興味深げに見回しながら、後を付いて来る。
何でこんな事になってしまったんかな?
今更ながら、俺は首をかしげた。
墓参りの帰り道で、坊さんを拾って帰る。意味不明のシチュエーションである。
「弘史、ありがとな」
後ろから、空海が声を掛けて来た。
「何や今更」
「こんな正体不明の乞食坊主に手を差し伸べてくれて」
「ホンマやなあ」俺は遠くを見ながら言った。「まあ、これも何かの縁なんやろな」
※ ※ ※
そんなこんなで、今も空海は俺の部屋にいる。
「その黒衣な、俺が都を出た時に着てたやつやねん」
空海が静かな声で言った。
「そうか。何か他の服とはちゃうんか?」
「それな、普通の褊衫より袖が少し短いんや」
「何で?」
「動きづらかったから、綾さんに詰めて貰ったんや」
「アヤさんて、阿波でしばらく同棲してた彼女やな」
「その辺の経緯は第四十九、五十『女性(にょしょう)前後編』を参照してくれ」
「誰に言うてんねん空海」
「とにかく、その黒衣は、俺が新しい世界に踏み出す時の、戦闘服みたいなモンやな」
それを聞いて、俺はふと言葉を漏らした。
「もうこれを着る機会が無ければええな」
「ありがとな、弘史。やっぱりお前はいい漢や」空海は微笑みながら言った。「でもな、男たるもの、やはり前を見て進まなあかん時もあるで」
俺は、空海の言葉に何か感じる所があった。
「人生、諸行無常や。過去はどんどん押し流されて遠くなる。しかし、前途は今から新たに書き加えて行けばええんや」
空海の言葉を、俺は返事も忘れて聞いていた。
「想い出は美しいもんや。それを糧に、新しい道を見つけようやないか」
空海はそう言って明るい笑顔を見せた。
20210624
20210701訂正
※承和元年 西歴834年