空海は、現代日本で何をする?
呉氏開門八極拳
平成二十六年(2014)の七月十三日の日曜日。
小雨のパラつく夕方に、空海が「一緒に歩きに行こう」と言い出した。空海はほぼ毎日、夕食後にウォーキングに出掛けているのだ。いつもは俺がものぐさなので、滅多に誘って来る事はないのだが。
「でも空海、最近はいつも途中で八極拳の練習してるんやろ?俺がおったら邪魔なんちゃうか?」
「いや、今日は人を紹介しよ思てな」
「何や紹介て」
「ほら、前に八極拳習った先生や」
「ああ、空海と一緒に半グレをボコッた人な。『月下の騒動』を参照したら、どんな状況やったか判るな」
「その先生がな、仕事で一週間この近くに来る事になってな、この度『集中講義』を受けるようになったんや」
「ほんで、俺にも紹介してくれると」
「せっかくやしな」空海は笑って言った。「弘史も多少は世話になったんやし、挨拶しといてもええんちゃうか?」
傘を差してノ〇ビアスタジアム(旧ウ〇ングスタジアム)へ行くと、同じく傘を差した男性が立っていた。
「W先生、お疲れの所、ありがとうございます」
空海は丁寧に頭を下げた。件のW先生は、俺の記憶にある通りの、背はそれほど高くなく、全身の筋肉が太く、顔はL〇NA SEAの河〇隆一に似てなくもない感じだった。
「やあ空海さん、こないだの乱闘の時以来やね。元気やった?」
この前より高めの声で、W先生は言った。この間はやはりドスを効かせていたのか。
「お陰様で。で、こっちが以前に話した同居人の立花弘史です」
そう紹介されて、俺は頭を下げた。
「どうも、初めまして。呉氏開門八極拳八世伝人の、H・Wです」
先生はそう名乗って頭を下げた。隨分と腰の低い先生である。
「実は先生、俺はお会いするの、初めてやないんですよ」俺は笑いながら言った。「『SE〇YU』で半グレを懲らしめてくれた時、俺はレジに立ってました」
「ああ、そやったんや」先生は大きく破顔した。「こりゃあ、お恥ずかい所を見せてしもたね」
「いえいえ、お陰で助かりました。あの時のおばちゃん、ナカさん言うんですけど、今でも先生の事待ってますし」
「そりゃあ、うかつにあの店行けへんなぁ」
先生はそう言ってまた笑った。
小雨の中なので動き回る訳にも行かず、傘を差したまま色々と話をさせてもらった。
W先生は学生の頃は器械体操をやっていた事(それもあってマッチョな体格なのである)、その後〇宮で少林寺拳法を習って四段を取った事、今は理学療法師助手として近所の病院で働いている事、そのつてで今回は〇菱神〇病院でリハビリの勉強をさせて貰える事に なって、この度こちらに来た事を聞いた。
そうこうしている間に、雨はほぼ止んで来た。
と、どちらともなく傘を捨てて、W先生と空海は八極拳の練習を始めた。
俺は勝手な妄想で、中国武術の練習というのは型を操り返しやるものだ、と思っていたが、二人は柔軟体操をひとしきりすると、その場で足を肩幅より広めに広げて立った。掌を広げて両腕を前に伸ばす。
「あ、站椿功って奴か。『拳児』で読んだ」
俺は思わず口に出して言ってしまった。オタク丸出しだ。でもそれも仕方ないだろう。何せ中国武術の練習を直に見るのは初めてなのだ。
「そうそう。これは『
W先生が笑いながら言った。
前に伸ばしていた腕を横に開き、しばらくすると肘を曲げた形になった。
「これは、『裡門頂肘』!」
自分でイタい行動だとは判ってはいるのだが、つい声に出して言ってしまう。
「呉氏開門では『
ズブの素人の良くある反応なのだろう、先生は動じない。
そこから『
「これは、八極拳に必要な歩形の修得と同時に、筋力の強化や体幹を安定させる狙いもある練習なんや。ホンマなら、これだけで一時間くらいかけてやんねんで」
先生は何気なく言った。
一時間!?俺はちょっとだけ馬歩を真似てみて、すぐにやめた。一時間どころか、五分間でも無理だ。
二人は、今度は並んで立つと、スッと構えを取った。さっきやってた『四六歩』の形だ。そこから半歩進んで、大きく一歩踏み込んだ。馬歩になると同時に掌を打ち出す。
「こ、これは、『猛虎硬爬山』やないか!?」
俺は思わず身を乗り出した。『バーチャファイター』のアキラの技だ。
「予想通りのリアクションをありがとう。『
思い切り先生に笑われてしまった。
適当な距離を往復すると、次の技に変わる。ただ、何をやっているのか判らないので、変な動きだなあ、と思える物もある。
「何か訊きたそうな顔やな」
先生にそう言ってもらったので、俺は質問してみた。
「今の、上から腕を振り下ろして、また振り上げるヤツ、そして肘から先をクルクル回しながら踵をチョンとするヤツが、何をしてるかイメージが涌かないんですけど」
「ああ、『
先生はそう言いながら、空海に手招きをした。空海は左腕を前に構えを取る。先生は、空海の左腕を右腕で上から払い下ろし、右足を空海の背後に踏み込みつつ右腕を振り上げ、空海の胸を打った。空海はバランスを崩して後ろに吹っ飛んだ。
「これが『斜胯』。『胯』は所謂投げ技に使われる発力なんやけど、柔道みたいに掴んでかつぎ上げるような投げではないんや」
今度は同じ構えの空海の左腕を、左腕で払い落としつつ右足を軸にして体を回し、左踵で空海の左脛を蹴り上げつつ右拳で背中を叩いた。空海はその場に両手を付いた。
「これが『盤提』。蹴りながら投げる感じやね」
「何か、上と下を同時に攻めるて、うまい事出来てますね」
俺は何か凄く感動(?)していた。初めてちゃんと見た中国武術が、これほどまでに合理的だった事に驚いていた。
「面白いやろ、八極拳」
空海がニンマリとして言った。
「一週間しかないし、今日は『単打』までの復習やけど、明日からどんどん行くで」
先生も笑顔で言った。随分と楽しそうである。
「よろしくお願いします」
空海は抱拳礼をして言った。
20211118