戦火が遠退いたとある孤島に、二人の男がいました。
そして二人はお腹が空いていました。

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お腹いっぱい食べとうござんした

 

 水平線の向こうに真っ赤な太陽が沈もうとしていました。

 海はどこまでも穏やかに凪いでいて、空は茜色に澄みきっています。

 

 そんな光景を、二人の男がぼーっと見つめておりました。きめ細かな砂浜に腰を下ろして膝を抱え、どこまでも和やかな一日の終わりを眺めているのです。

 二人がいる砂浜の後ろには森が広がっていて、人の手が入っていないそれは鬱蒼と繁っています。

 しかし聞こえるのは波の音だけで、海鳥の鳴き声はおろか、虫の音色の一つもありません。砂浜にも、そそくさと横切っていく小さな蟹や、波に打ち上げられた海草などは見当たりません。何もない、まっさらな風景です。

 どうやらこの二人以外に、生き物はいないようでした。

 薄汚れたズボンを履き、靴はなく裸足をさらして、同じように上半身も裸の、無精髭を生やした男が二人いるのみです。

 

「そろそろ、戻るか」

 

 男の一人がそう言いました。弱々しく掠れた声でした。

 もう一人の方は「はい」と軽く頷いて、よろよろと立ち上がりました。手を膝についているのは、その男の体を見れば一目で分かるように、立ち上がるのにも苦労するほど弱りきっているからです。

 二人は海に背中を向けて、森の方へ歩き出しました。

 枯れ木のように痩せ衰えた手足、あばら骨の浮き出た脇腹、こけた頬と落ちくぼんだ目元には生気がなく、そんな彼らがふらふら歩く様はまるで幽霊のようです。

 

 この男たちが漂流者などではなく、屈強な兵隊さんであると、いったい誰が思うでしょうか。

 兵隊さんと言えば銃剣を持って勇ましく敵地へ突撃するもの、というのがこの頃の人々の常識ですが、この戦うどころか走ることもままならない二人は実際に、国が誇る誉れ高き陸軍の一員なのです。その証拠に履いているズボンには国からの支給品であることを示すワッペンが着いています。

 じゃあ敵は何処にいるのかしら、と探してみても、そんなものは人っこ一人いやしません。なにせもう、敵も味方も引き上げてしまった後なのですから。

 

 今二人がいる孤島はしばらく前までは、昼夜を問わず銃声や大砲の音が聞こえる恐ろしい戦場でした。つい先日まで、横に長い島の東と西とに別れてジャングルを挟み戦っていたのです。

 けれど戦局が変わり、他の所の方が重要になったということで、この孤島にはおどろくほどアッサリと静けさが戻ってきたのでした。敵も味方もまた別の場所で戦っていることでしょう。

 

 そうするのこの二人は、何のために残っているのかと言いますと、ただただ、置いていかれたにすぎないのでした。

 この島で行われた戦いはそれはもう酷いもので、多くの人が無為に死んでいきました。もちろん機関銃の掃射や手榴弾、小銃の先に取り付けた剣先で命を落とす者は数多くいましたが、飢えの凄まじさが特に顕著だったのです。

 ここは狭い島です。大きな肉食動物もいなかったとても小さな孤島なわけですから、供給も十分にされなかった兵隊さんたちが生き物を捕まえて食べたところ、すぐに島から食べられるものは無くなってしまったのでした。お腹が空けば当然体力が減るので、病気にかかる人も少なくはありませんでした。自然の豊かさにも関わらず、飢えと病気が原因で、何千何万という人が亡くなったのです。

 そんな場所でしたから、死体を数えるのも生きている人を探すのも大変です。軍が撤退するとき、僅かな生存者が、この何も無くなった孤島に取り残されてしまったのでした。

 

 しかしそんなことを露とも知らない二人は、いつ迎えが来てくれるかなあ、とひたすらに船の到着を待っています。

 いえ、本当は気付いているのです。

 いくら酷い戦況で陣営がバラバラになったとは云っても、いつの間にか敵も味方もさっぱりいなくなって島全体が静かになっていたのですから、怪しまないわけにはいきません。お国のために遠い南の島に遣られて、血と硝煙にまみれながら必死で戦って、他の三人の隊員さえ病気で亡くして。その結果が守ろうとした自国から見捨てられ忘れ去られ、飢餓に苦しみ死んでいくだけなのかと、そう考えずにはいられませんでした。

 それでも二人は、そんな最悪の可能性を考えないようにして、お国に帰る希望を胸に、孤島でどうにか生を繋いでいるのでした。そうでなくてはとても、生きてはいられなかったのです。

 

「隊長、魚が焼けました」

 

「うん、ありがとう。良い匂いだ」

 

 所々が破れたり煤けている軍のテントで、この二人は生活しています。

 木の串に刺した二切れの魚を持った男は痩せこけてこそいますが、笑顔は朗らかで気の良い人物であることが分かります。彼は西田といって、階級は上等兵にあたります。顔から見て取れるように性格は人懐っこくて、小隊内では皆から可愛がられていました。

 そして隊長と呼ばれた男は佐々木という名前で、西田を含めて五人編成の小隊の指揮を任されている伍長です。いえ、任されていた、と言う方が正確でしょうか。こちらも頬が痩けて今は見るからに弱々しいですが、その表情にはまだ歴戦の兵の趣が残っており、小隊長として戦っていた頃は立派な軍人だったことを思わせます。

 

 佐々木伍長はお礼を言って魚の串焼きを受け取ると「いただきます」と会釈をしてからガツガツと食べ始めました。

 そうして彼が口にしたところ見てから、西田上等兵も自分の食事にありつきました。成人男性、それも兵隊さんには極めて少ない量でしたが、二人はそのありがたさに涙を滲ませて噛み締めます。

 軍隊では考えられないほど長い時間をかけて食べ終えたところで、西田はポツリと言いました。

 

「ああ、生の魚が食べたいですなあ」

 

 飢えが満たされて表情にはいくらか元気が戻っています。元気が出てくると更に欲も出てくるのが人間というもので、西田は魚をたらふく食べる夢を見るように目を輝かせました。いま二人が食べたのは保存食として作った干し魚で、その身は少しパサパサとしていたのです。

 すると佐々木が苦々しげに顔をしかめて西田を叱りました。

 

「そう無い物ねだりをするもんじゃない。今はただ、食べるものがあることに感謝するんだ」

「はい、申し訳ありません、伍長」

 

 佐々木の口調はやはり弱々しく、叱るというよりは注意するようでしたが、西田は素直に頭を下げました。

 テントの天井からは同じように魚を干した物が二、三枚ほどぶら下がっています。これが二人の蓄えている食料の全てでした。

 佐々木は泳ぐのが得意で、元気なうちは自作した銛を持って海に潜り、魚を獲ってきていました。しかし、当たり前のことですが同じように捕まえる者がいたため、たくさんいた魚もこの近海では珍しくなってしまったのです。また、徐々に体力が衰えて佐々木が海に潜ること事態が難しくなってしまったこともあり、今の二人にとって生の魚とは望むべくないご馳走なのでした。

 保存食である干し魚でさえその数は少なく、貴重な食料であることに変わりはありません。

 

「しかし伍長。私は未だに、子供の頃食べた鯛の味が忘れられないのです。歯応えも香りも十分で、あれは大変に美味しかった」

「そうか。たしかにそれは旨そうだ」

「生きて帰ったら、隊長も是非ご一緒に食べに行きましょう」

「そう、だな」

「刺身を醤油につけて食うのもいいんですが、鯛めしも絶品でしてね」

「うん…………」

「またその米がふっくらと柔らかくて、鯛の出汁を吸っているもんで、食べても食べても飽きないんです」

 

 恍惚と語る西田に、佐々木は厳しくも悲しげな表情で「西田」と言いました。飢えの極地で、ご馳走の話はただただ心に毒でした。

 しかし佐々木の呟きは聞こえなかったようで西田の話は止まりません。

 

「白米は久しく食べてないなあ」

「西田、やめろ」

「おひつ一杯に炊いた白い飯を食べられたらどんなに幸せだろう」

「やめるんだ」

「鯛めしでなくても、卵かけご飯が食べたい。醤油を垂らして掻き込みたい」

「やめろと言っているのが聞こえないのか」

「そうそう、卵と言えば───」

「やめてくれ!」

 

 ついに佐々木が叫んで、西田もようやく黙りました。西田は申し訳なさそうにしょぼんと肩を落としています。

 

「本当にすみません、つい」

 

 佐々木は荒れた息とともに涌き出る欲望を押さえるように深呼吸を繰り返し、最後に「ふう」と一つため息をつきました。

 

「いや、俺も怒鳴って悪かった」

 

 それっきり、二人は黙って横になりました。まともな寝床ではなく、地べたにヤシの葉を何枚か敷いただけの粗末な場所です。

 火も消し、暗くなった中でしばらくは無音でした。遠くから僅かに潮騒が聞こえてくるくらいです。

 しかしよく眠れないのか、やがて西田が口を開きました。

 

「隊長、起きてますか」

「なんだ」

「先ほどはその、すみませんでした」

「気にするな。済んだことだ」

 

 佐々木がそう返すと、西田は何か言いにくそうに躊躇ってから「しかし」と話を続けました。

 

「私の実家は米を作っていましてね、帰りさえすれば、たくさん白米を食べるのも夢じゃないんですよ」

 

 舌の根も乾かぬうちに話を蒸し返した西田へ、佐々木は寝たまま「お前なあ」と呆れたように視線を向けます。

 

「いえ、いえ。ですから、隊長もお越しになってください。私がお世話になった隊長でしたら、両親も兄弟も喜んで歓迎しますよ」

「…………そうか。考えておこう」

 

 その返事に満足してか、西田は微笑みました。

 

「そういや、お前には婚約者がいるんだったな」

 

 少しの間を置いて、今度は佐々木が話しかけました。突飛だったので西田は「え、ええ」とやや戸惑いながら答えます。

 

「隣の家の娘でして、小さな頃から家族のように接してきました」

「ほう、どんな人だ」

「子供っぽいやつですよ。今でも気が強くてお転婆ですが、お互い次男次女ということもあって、気は合います」

 

 西田がニヤリと笑い「手は出さないでくださいね」と言うと、佐々木も可笑しそうに「ふふっ」と笑いを漏らしました。

 

「誰が出すか、馬鹿たれ。俺は妻子持ちだぞ」

 

 そうでした、と西田がおどけて見せます。

 

「もうかれこれ一年も会っていないな。誕生日には帰ると約束してやったのに、ままならないものだ」

「私もです。帰ったらきっと、泣いて怒られてしまいます」

 

 二人はそれから暫し、遠い海の彼方にある各々の家族について思いを馳せました。とてもひもじく辛い環境ですけれど、大切な人たちの顔を思えば「まだ生きていよう」と力が湧いてくるようです。

 豪勢な食べ物よりも何よりも、家族の待つ家に帰りたい。

 それこそが、島に取り残された二人の、切実な願いでした。

 

 

 

 

 それからどれ程の時間が経ったでしょうか。まだ、彼らの迎えは来ません。

 

 そして食料も、とっくに尽きてしまっていました。もはや干物の一欠片すら、二人のもとにはありません。

 ここのところ数日間、島の天気は荒れていました。厚い雲が太陽を隠し、灰色の空からは大粒の雨が落ち、凄まじい風がごうごうと唸って吹き荒れていたのです。そのせいで海へ潜ることはもちろん、外に出ることさえ叶わず、西田と佐々木は心許ないテントの中でじっと身を寄せる他にありませんでした。

 こうして雨が降ると食料を捕りに行けないばかりでなく、湿度が高くなるのでせっかくの干物が全てダメになってしまうのです。その上テントが飛ばされかけるものですから、二人はなけなしの体力を振り絞ってテントを補強しなければなりませんでした。

 ですから二人は、ここ数日何も食べられず、ほとほと弱りきっていました。西田の鼻頭に一匹の羽虫が止まっていますが、それを振り払う気力もありません。

 

「あ、あー」

 

 しわがれた声が上がりました。声の主は佐々木伍長で、喉に手を当てて言葉の出し方を思い出している風です。

 そうして佐々木はのそりと上体を起こし、未だ微動だにしない西田に視線を向けました。

 

「おい、生きているか」

 

 鼻に止まっていた羽虫が飛んでいきます。しかし当の西田は隊長の言葉に反応しません。目をは虚ろに開いたまま、薄っぺらの胸板が僅かに上下しているだけです。

 もう一度、佐々木が「おい」と呼び掛けて肩を揺すると、西田はようやく瞬きを一回しました。

 

「あ、ああ、隊長。お久しぶりです」

 

 西田の声も佐々木とあまり変わらず、気力に乏しいものでした。

 

「何を言う。ずっと一緒だっただろう」

 

 気をしっかり持て、と言う佐々木の言葉に西田は怪訝そうに眉をひそめてから「ああ、夢だったか」と一人で納得しました。

 

「なんの夢だ」

「いえ、ね。隊長が僕の家に来るときのことを夢に見ていたようです」

「ほう」

「僕は袴を着けていて、その隣には白粉をして綺麗な着物に身を包んだあいつがいて。そんな僕らの前で、隊長が祝辞を述べてくれたんですよ」

 

 西田は口角をやんわりと上げて「幸せだったなあ」と呟きます。その安らかな様は、まるで今にも天からお迎えが来るようでして、佐々木は眉間にシワを寄せて西田に言いました。

 

「死ぬなよ。祝辞ならいくらでも読んでやるから、死ぬなよ」

 

 念を押すように繰り返し告げると、西田は苦笑して「死にゃしませんよ」と手をヒラヒラと振りました。その手はさらに痩せ細り、皮がペッタリと骨に張り付いています。

 

「ようやっと晴れたみたいだ。食料を探しに行こう。動けるか、西田」

「はい、なんとか」

 

 そうして西田も同じくよろよろとふらつきながら起き上がりました。その目元には濃い隈があり、空腹のあまりろくに眠れなかったことを示しています。先ほど寝ているように見えたのも、意識が無かっただけで実は起きていたようです。

 冬眠中の虫みたいだな、と佐々木は思いましたが、自分も似たようなものだったか、と思い直しました。

 

 テントの外には蓋をとった飯盒が置いてあり、そこに雨水が溜まっています。二人はそれをガブガブと飲んで空腹を少しでも紛らわせてから、食べ物を探しに出発しました。

 今は久方ぶりの快晴で風も穏やかですが、さすがに海で泳ぐ体力はないので、近場の森で木の実か虫でも探そうということになりました。イモリやカエルなどもいたのですが、そういった美味しいものはとっくに捕り尽くされてしまっています。木苺などでもあれば上等、お腹の空いた二人としてはゴキブリだろうと丸焼きにして食べる所存でした。

 

「何もいませんね」

 

 茂みを掻き分けながら西田が言いました。その声は明らかな落胆に満ちています。

 鈴虫のような虫の鳴く音はありますが、草木に覆われた森の中でそれを捕まえるのは些か難しいでしょう。食えるものなら何でも食う心持ちですが、さすがの二人もまだ、苦労と成果を天秤にかけるだけの冷静さはあります。

 

「ナメクジとか、焼いたら食えんのか」

 

 しゃがみ込んで石をひっくり返していた佐々木が言いました。どうやらナメクジはいたようです。西田は苦い顔をして「いえ、いえ」と否定しました。

 

「焼いたら萎んで食うどころじゃないでしょう」

「まあ、それもそうだな」

「だからって生は嫌ですよ。私、いま腹なんか下したら、きっと死んでしまいます」

 

 自分のお腹をさすりながらそう言うと、凄まじい音が西田の腹から鳴りました。まるで地鳴りのような音で、西田の出す声よりもずっと元気があります。

 それにつられてか佐々木の腹も同じように鳴り、二人は寂しげに苦笑しました。

 

「鳥の一羽でも飛んでればいいんですけどね」

「弾なら、いくらでもあるからな」

 

 そうやって二人して空を見上げると、ふと森の向こうに何やら変わったものを見つけました。

 

「隊長、あれって」

 

 西田が呟き、佐々木は頷きました。

 

「狼煙か。いや、ただの焚き火か」

 

 二人が見つめる先には、青空に向かって一本の白い帯が上っていく景色があります。ゆらゆらとたなびくそれは、間違いなく火を焚いた時に出る煙です。

 つまりそれが何なのかと言いますと、火元のすぐ側には人がいるという証でした。

 

 西田は大喜びで「行きましょう」とすぐに煙の上る方角へ進もうとします。人がいて、しかも火を焚いているということは、何かしら食料を持っているに違いないと考えたのです。

 しかし佐々木は険しい顔で西田を止めました。

 

「待て。迂闊に行くのは危険だ」

 

 喜びに水を差された西田は「何故です」と不機嫌そうに尋ねました。

 

「相手が分からんだろう。俺たちと同じならいいが…………」

 

 それで西田もようやく、佐々木の懸念が分かりました。もしもあの火元の人物が敵軍の生き残りなら、歓迎されるはずがありません。それは逆の立場であっても同様です。

 

「そもそも仲間だったとして、今は味方ではないかもしれん」

「どういう意味です」

「お前、大事な食料を他の人間に分け与えたいと思うか」

「それは…………」

 

 西田は俯いて何も言えなくなりました。

 それを見て佐々木は目尻を下げ、励ますように彼の肩を叩きました。

 

「いや、まあ、行くだけ行ってみよう。ひょっとしたら食い物を分けてくれるかもしれんし、そうでなくとも、これから協力していくくらいは出来るだろうからな」

「もしも敵だったらどうしますか」

「その時は」

 

 佐々木は言いかけて少し考え込み、それから再び口を開きました。

 

「相手が攻撃してこないなら大丈夫だ。こんな環境だからな。理性的なら、何とかなるだろう」

 

 そう、根本的なところは同じ人間で、国の違いなどないはずです。戦っている間はお国に攻め込もうとする憎むべき敵ですが、そうでなければただの隣人だと、佐々木はそう言ったのでした。

 国の剣である軍人としてはあまりよろしくない発言でしたが、ここにそれを咎めるような上官はいません。西田は「そうですよね」と嬉しそうに頷きました。

 

 軍支給のコンパスを使いながら、二人は草をより分けて進みます。衰えた身体に森を歩くことは大変な仕事ですが、もしかしたらという期待が二人の足を少しだけ軽くしていました。あの煙は何を焼いているものなんだろう。そう思うだけで、生唾がわいて出てきます。

 そうして息を弾ませて歩き、一、二時間が経った頃でしょうか。ようやく目的の場所に到着しました。

 木々はまだ生い茂っていて、どうやら野営地として使われていた場所ではないようです。しかしそこには岩壁がそびえていて、その麓に一つの洞窟がぽっかり口を開けていました。大きさは大人の男一人が屈んで入っていけるくらいです。

 そして洞窟の前には焚き火がパチパチと弾ぜて燃えていました。側に人影はありませんが、確かにここが煙の出所なのだと、二人は嬉しくなって自然と笑顔になりました。

 

「賢いですね。我々のテントと違って、これなら先日の嵐でもへっちゃらですよ」

「そうだな。しかし、いったいどんな人物が住んでいるのやら」

 

 佐々木はあくまでも気を緩めず、慎重に近付いていきます。西田もそろりそろりと彼の後を追いました。

 近寄って見てみると、焚き火には何やら肉のような物が串に刺さって炙られています。それも一本ではなく、何本も。これまで西田と佐々木が食べてきた量の二日分、いえ三日分はありそうな肉が焼かれているのです。

 その光景に二人はごくりと唾を飲み込み、一瞬我を忘れて歩み寄りました。そのまま串を持って肉にかぶり付きたくなる衝動に駆られましたが、佐々木は「いかんいかん」と頭を振って気を持ち直しました。串に伸ばしかけている西田の手をぺしんと叩き「まずは住人に挨拶だ」と諌めます。

 

「もしもし。誰かいますか」

 

 佐々木が先頭に立ち、暗い洞窟に向かってそう言いました。

 すると、奥のほうで何かがもぞりと動く気配があります。しかしどうしてか、その人は洞窟から出て来ず、返事もしません。

 怪訝に思いながらも佐々木はもう一度声をかけました。

 

「私は陸軍の佐々木伍長といいます。もう一人は西田上等兵で、私の部下です。私たちに敵意はありません。良ければそこから出てこられて、話だけでもしませんか」

 

 喋り終えて、敵の可能性もあるから同じことを外国語でも言うべきかと思いましたが、佐々木は外国の言葉をあまり知らないので致し方なしとしました。

 しかし通じたのでしょうか、今度はちゃんと洞窟から出てきてくれました。

 ヘルメットに軍服、そして佐々木たちと同じワッペンの着いたズボン。顔立ちも同国の人に違いなく、仲間であったことに二人はひとまず胸を撫で下ろしました。階級を示す腕章は二等兵のもので、余計な気を遣わなくていいのも幸いです。

 けれど、その安堵も一瞬のことでした。

 

「あ、あの。あなたは」

 

 佐々木の後ろで控えていた西田が、怯えるように引き気味で言いました。そこから先は言葉に詰まってしまい、何も言えません。あの佐々木ですらも西田と似たような状態で、洞窟から出てきた人物を凝視しています。

 

 その男は「ふーっ、ふーっ」と荒い息を吐きながら、ギラギラと獣じみた目で二人のことを睨み付けていました。口からは涎が垂れており、それがより一層男の猛獣じみた恐ろしさを際立たせています。

 手に持っているナイフは斑模様に黒ずんでいて、それはまるで血が着いたまま古くなったかのようでした。その切っ先は真っ直ぐに、佐々木たちに向けられていました。

 

「ぶ、武器を下ろせ。私たちは陸軍の同士だ。味方に刃を向けるとは、何事か」

 

 西田が叫びました。緊張して上ずった声が出ました。

 それでも、仲間であり、また階級として二人の部下にあたる二等兵は敵意をむき出しにしています。いいえ、その血走った眼は殺意すら抱いていました。

 

 今度は男が声を発しました。

 しかし何と言ったのか聞き取れません。それは意味を持った言葉ではなく、動物の雄叫びに近いものでした。

 ナイフは下ろしません。それを持つ男の体は佐々木たちとどっこいどっこいの貧弱さではありますが、飯を食べているため二人よりも遥かに体力があるのは明らかです。

 

 あと一歩詰め寄ればナイフの刃先が届く、といったところまで彼我の距離が狭まったとき、佐々木が飛び出しました。「うおおおっ」と雄叫びを上げながら、男に向かって体当たりをしたのです。

 不意を突かれたようで、男はろくに反応できないまま押し倒されました。背中からもんどり打って倒れ、痛みに呻いています。

 

「今だ、逃げるぞ」

 

 未だに呆然としている西田の手を強引にひっぱり、佐々木は一目散に森へと駆け出しました。西田は何やらうわ言のように「ああ、人が、人が」と呟いています。

 

「あれはもう人じゃない。いいから逃げるんだ」

 

 佐々木は西田を叱咤しながら体力を振り絞り、懸命に走りました。

 西田は転げそうになりながらも着いていき、しかし男のことが気になるのか、途中で何回か後ろを振り向きました。

 

 よたつきながら立ち上がった男は、本能を剥き出しにした恐ろしい瞳で、二人のことをいつまでも見つめていました。

 

 

 

 

 結局、その日採れたものはムカデと小さな胡桃だけでした。ムカデは火でよく焼いて、胡桃は全て食べてしまうのが勿体ないので幾つかを残しておきます。

 

「あれは、どうしたんだろうなあ」

 

 夕刻、ムカデの丸焼きを齧りながら、佐々木がぽつりと言いました。『あれ』というのが昼間に会った男のことを言っているのだと、西田はすぐに察します。男の狂気を思い出してか西田は何も言わず、寒くもないのにブルリと震えました。

 

「きっと、本当に飢えるとああなってしまんうんだな。俺たちも気を付けて、意思を強く持たなきゃいかん」

「た、隊長…………」

 

 西田の震えは止まりません。それを見かねて佐々木は優しい口調で励ましました。

 

「どうした西田。誇りある軍人があれしきのことでそんなに弱ってどうする」

「いえ、違うんです。あれはもっと、違うものなんです」

 

 あまりの怖がりようを怪訝に思いつつ、佐々木は神妙な顔をしました。どうも西田の様子は尋常ではありません。きちんと訓練され、塹壕に機関銃を撃ち込まれても気勢を無くさない上等兵の姿ではありませんでした。

 子供のように頭を抱えて縮こまっている西田は、ガチガチ歯を鳴らしながら涙まじりに言いました。

 

「隊長は、見ませんでしたか。あの洞窟の側にあったものを」

「いや、男の方に注意していたからな。それで、そこに何かあったのか」

「骨です。骨がありました」

「そりゃあ、あるだろう骨くらい。この島に何の動物がいたか知らんが、肉を焼いていることに間違いはなかったからな」

「動物ですって!」

 

 西田がヒステリックに叫びました。それで弱っている喉を痛めたのか、ごほごほと咳き込みます。

 そんな様子を見て、もしかして西田まで狂ってしまったのかと、佐々木は恐ろしくなりました。恐怖をおし殺して「大丈夫か」と聞くのが精一杯です。

 

「人間です、隊長。あれは人間の骨でした」

「なに、頭蓋骨でも転がっていたのか」

「いいえ。それは分かりません。私が見たのは大腿やあばらの骨でした。うちは親戚が多くてよく葬式に参列させられていたので分かるんです。あれは間違いなく、人間の骨だったんですよ」

 

 そう言われてようやく、佐々木にも西田の考えていることが伝わりました。それは大変おぞましいことで、とてもではありませんが受け入れ難い話です。

 

 西田は、あの焼かれていた肉が人間の肉であると、そう言いたいのでした。

 つまりあの二等兵は仲間だか敵だかの死体から肉を剥ぎ取り、それを焼いて食っているのです。自分と同じ人間であったはずの肉を。

 

「それは…………早合点ではないか、西田。単にそこで戦闘が起きて、人が死んで骨が残った。それだけのことじゃないのか」

 

 佐々木は否定したい気持ちで一杯でした。もしこの考えが事実であるなら、救いようがありません。

 しかし西田は悲しげに首を横に振りました。

 

「では、あの肉をどう説明します。今のこの島で、あれだけの食料を、他にどうやって手に入れるというのですか」

 

 その言葉に、佐々木は押し黙るしかありませんでした。

 全くもってその通りで、獣などは捕り尽くされてネズミの一匹すらいるかどうかも怪しい孤島です。魔法でもない限り、あんな量の肉が取れるはずありません。もしくは、この島に唯一残っている動物を捕まえる以外には。

 きっとあの男は、それをした心の負荷に耐えきれず狂ってしまったのだと、二人は示し合わせるまでもなく納得しました。

 

 いつの間にか、西田は泣いていました。地獄を見た恐ろしさとひもじさから、声もなく泣きました。佐々木もそれに釣られて、涙を堪えるように唇をぎゅっと噛み締めました。

 こんな辛いことがこの世にあっていいはずがないと、そう思わずにはいられませんでした。

 

「なあ西田。引っ越そう」

 

 やがて落ち着いた佐々木は、低い声で言いました。

 

「奴は俺たちの存在を知った。逃げる方向も見ていたはずだ。それなら、いつ探しに来てもおかしくはない」

 

 探しに来るとは、捕まえに来るということです。そして仮に捕まったとして、その後どうなるかは火を見るより明らかでした。

 西田はさして反論を挟まず合意しました。引っ越すだけの体力があるかは厳しいところですが、ここにいるのは危険なことを一番よく理解しているのは、実際に食人の痕跡を見た西田なのかもしれません。

 

 こうして、二人は明くる朝にこれまで住んでいたテントを引き払いました。焚き火の跡は蹴り払って隠し、寝床は元々がそうであったように乱雑に荒らして、ここで自分達が生活していた跡をなるべく見付からないよう消してから、男のいた方とは反対の方角へ移動しました。

 出来るだけ遠くへ、移動したのでした。

 

 

 

 

「たいちょう」

 

 西田が言いました。気の抜けた絞りかすのような声でしたが、佐々木が覚えている限りでは彼が二日ぶりに発した言葉でした。ひょっとしたらもう死んでいるのではと空腹の片隅で不安に思っていたので、佐々木はほんの少し安堵しました。

 呼ばれた佐々木は寝たままで「なんだ」と応えました。彼の声も西田と同じようなもので、覇気の欠片もありません。

 

 狂った男と相対した日から、さらに何度日が上り、沈んだことでしょう。数えることすら億劫だった二人は、今が何日なのか知る術はありません。もちろん、知ったところでどうにかなることもないのでしょうが。

 島のほぼ反対側に来ても、やっぱり食べ物はありませんでした。以前食べたムカデさえも上等なものに思えるほどに何も無く、必然として二人は緩やかに弱っていったのです。そして今や寝たきりで、歩くこともできないほどでした。肉も脂肪もすっかり萎えて、このままミイラになりそうな様子です。 

 

「たぶん、そろそろ、しにます」

 

 もう起きるどころかまともに喋ることも難しいようで、西田は途切れ途切れに一呼吸ずつ間を置きます。

 

「…………馬鹿なことを、いうな。俺たちは二人そろって、国にかえるんだ」

 

 佐々木の励ましに、西田はクスリと笑いました。嬉しそうなようでいて、そのささやかな願いが到底叶わぬものだと理解している切なさが込められた笑顔でした。

 

「たいちょう。ぼくを、たべてください」

 

 突然のことに、佐々木は目を丸くして驚き、そのすぐ後に「ふざけるな」と怒りました。

 

「誰が、そんなことをするか。俺はお前の隊長だ。部下を……そんなまねができるものか」

「けれど、このままでは、ふたりともしにます」

 

 西田の言うことはもっともでした。自分達の命がもうすぐ尽き果てようとしていることを、佐々木も感じていました。ここ数日は悪夢のなかで死神の足音を聞き、深い眠りに落ちれば二度と起きられないのではないかという恐怖にじわりじわりと心を蝕まれていたのです。

 しかしだからと言って、西田の提案に頷くことは出来ません。それは人として侵していけない一線のはずです。いくら生きる為とはいえ、とても許されることではありません。

 

 しばらく佐々木が黙っていると、西田は「ほかのひとなら、いやですけどね」と呟きました。

 

「たいちょうには、むすめさんがいるでしょう。おくさんも。かのじょたちをのこして、こんなところで、しぬおつもりですか」

 

 娘と、妻。その二人の顔を思い出し、佐々木はハッとしました。そうです。自分は愛する家族に必ず生きて帰ると固く誓ったのでした。

 自分が死ねばあの二人はどうなるたろう、と佐々木は考えます。佐々木も妻も、お互いに裕福な家の生まれと云うわけではなく、残してやれた物も僅かです。階級の低い佐々木では、戦死扱いになって補助金が振り込まれるとしても、些細な額でしかありません。

 これから佐々木が支えてやらねば妻と娘がどうやって生きていくのか、想像も着きませんでした。

 

 けれどそれは何も、佐々木に限ったことではありません。西田だって彼の帰りを心待にしている大切な人がいるのです。そんな若者の未来と自分の命をどうして天秤にかけることが出来ましょう。

 

「お前も同じだろう。だめだよ、西田。お前の許嫁は、どうするんだ」

「それは…………もう、いいのです」

 

 西田はさして躊躇わずそう言いました。佐々木は信じられないと言いたげに西田を見ました。

 訓練でも戦地でも、西田のことは昔から面倒を見てきて、その中で許嫁の自慢話をよく聞かされたものです。西田が頬をだらしなく緩めて語る度に「のろけるな」と他の隊員と一緒に野次ったものですが、それだけ彼が許嫁である女性を大切に思っているのだと、佐々木は知っていました。

 しかしその人のことを「もういい」と言った西田の顔は、何か吹っ切れたように爽やかなものでした。

 

「この、ここしばらく、かんがえていたんです。どうしたらいいかって。だから、ぼくは、もういいのです」

 

 佐々木は悲しくなりました。今の西田はとても穏やかなようで、その実腹を括った男の頑固さを滲ませています。このように決意した男はテコでも考えを変えません。

 それでも納得できるはずもなく、佐々木はずるずると体を引き摺るようにして西田の側へ寄り、その細くなった肩を掴んで揺すりました。

 

「良いことなんてあるか。隊長めいれいだ、死ぬな。死ぬな、西田」

「いいえ、これでいいのです」

 

 やっぱり西田の意思は固く、彼は枕元に置いてあったナイフを掴み、それを佐々木の手に握らせました。

 

「ぼくは、おとうさんが、いませんでした。ははとふたりで、さみしかった。むすめさんに、さみしいおもいをさせては、もうしわけない」

 

「許嫁はどうする。お前の許嫁だって、寂しかろう」

 

 涙を流す佐々木に、西田はやんわりと微笑んで彼が持ったままにしているナイフの鞘を抜いてやりました。

 

「いいのです。かのじょには、ほかがあります。ぼくのあには、かのじょのことを、むかしからすきでした」

 

 そう言って西田は佐々木の手を取り、ナイフの歯が自分の首筋に当たるように持ってきました。

 凄い力です。どこにこんな力が残っているのか、佐々木が手を引っ込めようにも動けません。

 

「どうか、ちゃんとたべてくださいよ。いぬじには、ごめんですから」

「西田。だめだ、西田」

 

 ナイフが西田の首に食い込み、赤い血がつうと彼の首を伝います。あと少し奥にいけば彼の命を絶つこととなります。

 幾万もの葛藤の末に、佐々木も意を決しました。西田の覚悟から目をそらしたまま、彼の最後は看取れないと思ったのです。そして看取ったあとも、その意思を汲んでやらねばなりません。

 

「わかった。生きる。俺は生きるよ」

 

 佐々木が涙声で言うと、西田は嬉しそうに笑みを深めました。すっかり窶れてしまったのに、以前の彼と変わらない人懐こい笑顔です。

 

「さようなら、たいちょう。おげんきで」

 

 西田は死にました。

 佐々木は泣きました。

 そして、泣きながら、食いました。

 

 

 

 

 佐々木はぼんやりとしていた頭が夢から覚めていくのを感じました。どうやら眠っていたようです。のそりと体を起こして頭を振り、自分は何をしていたのか思い出そうとします。

 覚えているのは、孤島でのこと。おびただしい数の敵との戦い。いつ終わるとも知れない飢えの苦しみ。そして、西田の死。

 

 順を追っていくと、自分が今いるのは船の上であることを思い出しました。

 ざぶんざぶんと、波に揉まれるように部屋全体が揺れています。寝ていたベッドは床と壁に固定されたもので、部屋を見渡すと同じような寝床がいくつもあります。船内の診療所ですが、船が揺られて物が散乱しないようこれといった設備もなく、殺風景な景色です。

 自分の他にも何人かがベッドで寝ていました。その半数は酷い傷を負っているようで、包帯でぐるぐる巻きにされた格好で悪夢にうなされています。

 

 地獄のような光景ですが、自分以外の人がいることに、佐々木は助かったことを改めて実感しました。

 ある日、軍の調査隊が島に来て、衰弱死する寸前の佐々木を発見して保護したのです。その時のことはあまりよく覚えていませんが、自分の置かれている状況が保証してくれます。

 隣の寝台に西田はおらず、やはり例のことは夢ではなかったのだと、認めないわけにはいきませんでした。

 

「うぐっ」

 

 そうして西田のことを考えようとしたら、酷い頭痛が走って、佐々木は頭を押さえました。

 自分は西田を殺した。それは間違いない。

 しかし、どうしてだかそれだけではないような、言い知れぬ違和感を佐々木は感じました。さきほどまで嫌な夢を見ていたせいでしょうか。どうも夢と現実がごっちゃになっている感覚です。

 

 気を落ち着かせようと何回か深呼吸をしていると、部屋の扉が開いて一人の男が入ってきました。

 

「おや、気分はどうだね、佐々木元伍長」

 

 白い口髭を生やした初老の男は、佐々木を見るなり声をかけました。軍人には見えませんが、白衣に着けてある腕章は軍医のものであり階級は中尉と、佐々木の遥か上の身分の人です。

 慌てて敬礼をとろうとする佐々木を、医者は「いいから、楽にしなさい」と止めました。

 

「畏まらんでもいいよ。私ももうただの医者だ。今までの役職など名ばかりで、これからは通用しなくなる」

「どういうことです」

「そうか。君はあの島にずっといたんだものな。知る由もないか」

 

 彼が何を言いたいのか分からず佐々木が首をかしげると、医者は残念そうに、または佐々木を労るような哀愁をその顔に浮かべました。

 

「我々は敗戦したのだよ」

「え、は?」

「負けた。完敗したのだ。我が国は、敵の力の前に降伏したんだよ」

 

 佐々木がその意味を理解するまでに三分ほど、そして胸の内に落とすまでには、たっぷり十分は時間がかかりました。

 足元の地面がふっと消えてしまったような、成す術のない不安に襲われます。それは到底受け入れ難いことで、しかしどうしようもない現実なのだと、目の前の軍医の顔が物語っておりました。

 佐々木は俯いて涙を溢しました。ただひたすらに悔しくて、血が出るほどに拳を固めて震えました。

 今までの苦労は、佐々木たちがお国のためにと命を賭けてやってきたことは、全て無駄になってしまったのです。あの島での地獄の日々も無駄だったのかと思うと、今すぐにでも舌を噛み切って死にたい気持ちに駆られます。

 

「早まってはいかんぞ。君は生き残った。ならばその命は大切にしなさい。それが死んでいった者たちへの供養にもなる」

 

 医者の言葉はどこまでも真摯で、それによって絶望しきっていた佐々木はいくらか救われました。

 そうだ、生きなければならない。そう約束したのだ。

 ふと心に約束という単語がよぎり、佐々木は寝かせていた体をまた起こしました。

 

「先生。西田は、西田はどうなりました」

「はて、誰のことかな」

「西田上等兵です。私の部下で、あの島でも長い時間を共にした男です。私の側にそれらしい男の亡骸はありませんでしたか」

 

 実際のところ、佐々木は記憶があいまいで、救助された際に西田がどのような処遇にあったのか覚えていませんでした。

 その記憶の不確かさが、佐々木にある疑念を抱かせました。

 約束をしたはず、という覚えはあります。しかし先程まで見ていた夢があまりに生々しく、佐々木は自分の記憶を信じることができませんでした。西田の首筋にナイフを突き立てる感覚は、未だに手のひらに残っています。佐々木が生き延びたという事実も、西田に命をもらったことの動かぬ証拠となります。

 ただ、本当にあれは現実だったのでしょうか。西田が自分から「死にます」と言い、それを涙ながらに受け入れた。それが本当のことだったのか、佐々木は分からなくなっているのでした。

 

 夢で見た西田は、最後まで、死にたくないと言っていました。

 

 確かなことは、ナイフが西田の動脈を切る感触と、溢れる血のぬくもりと、飢えを満たした瞬間の幸せのみです。

 西田は「死にます」と言ったのか、「死にたくない」と言ったのか。どちらが夢でどちらが現実なのか佐々木には判然としませんでした。

 そうやって一度疑いだすと、ひょっとして自分は食欲に支配されて、自ら西田を殺したのではないか、と佐々木はそう思わずにはいられないのです。あの自分にとって都合の良いやり取りは、強すぎる罪悪感から逃れるために見た幻覚なのではないかと、そう思ってしまうのでした。

 もしかしたら、その時の自分は、あの狂った二等兵と同じ目をしていたのかもしれない。

 確かめようのない可能性に、佐々木は途方もなく恐ろしくなりました。

 

「どうなんです、先生。私の側に西田の死体はありましたか」

 

 佐々木のすがるような勢いに、医者は引き気味になりながらも口髭を撫でて考え、そして何も思い当たらなかったようで「いいや」と首を振りました。

 

「覚えがないな。島にあった遺体は、誰だか判別のつくものは保存して持ち帰り、それ以外は埋葬することとなっているが」

 

 埋葬の資料を持ってくるかね、と言う医者に、佐々木はがっくりと肩を落として「いいえ」と答えました。

 どちらにせよ、西田が死んだことには変わりありません。そして彼のことを、佐々木がどうしたかも。その経過さえも佐々木の記憶が確かでないなら、知る術はないのです。

 幽鬼のように青ざめた佐々木を気の毒に思ってか、医者は佐々木の肩をぽんぽんと優しく叩いて言いました。

 

「何があったか知らんが、あまり気に病んではいかん」

「はい…………申し訳ありません」

「だから謝るなと。まあ、いい。それよりも君はこれからの事に目を向けなければならないぞ」

「は、これから、ですか?」

「君の家族は、どこに住んでいるのかね」

 

 都会の中心に近い長屋住まいであることを、佐々木は告げました。

 重苦しい沈黙が流れ、その間、医者は目を固く瞑って下を向いていました。それは黙祷を捧げているようにも見えます。

 やがて顔を上げた医者は、痛々しいほどの同情を込めて告げました。

 

「国に帰るまでに、覚悟をしておきなさい。これからも色々と辛いことがあるだろうが、それに耐えられるくらいに、ありったけの覚悟をしておきなさい」

「はあ…………分かり、ました」

 

 本当のところ、佐々木は医者が言った意味を一割ほども理解はできませんでした。敗戦国の民として生きるのは確かに辛いだろうな、とその程度にしか思いませんでした。

 なにせ、どのようにして負けたのか、何も知らなかったのです。国がいったいどれだけ戦い抜き、どれほどの被害を受けたか、分かるはずもありません。

 今はただ、帰れることが何よりもの喜びでした。何度夢に見て、神様に祈ったことでしょう。会いたいと切に願っていた家族の元にようやく帰ることができるのです。ひょっとしたらもう佐々木が帰還するという知らせを受けていて、港まで迎えに来てくれるかもしれません。

 そうしたら、妻を労い、娘を抱え上げて、めいっぱい頬擦りしようと思いました。これまで寂しくさせた分、ずっと大切にしようと心から誓いました。

 

 

 

 

 そして幾日か経ち、念願のお国に着き、家族の待つ家へと帰った時のことです。ようやく医者が言ったことの意味に気付き、佐々木は呆然としました。

 空襲によって焼き払われた町には、自分の記憶にあるものなど、何一つとして残っていなかったのですから。

 

「妙子…………みどり…………」

 

 さ迷い歩き、愛する家族の名前を呼んでも、荒涼とした風が吹くばかりで何の返事もありません。

 

 焼け野原となった町。

 飢餓や病気に苦しむ人々。

 その内の一角にある、温かな家庭があったはずの残骸の前で、佐々木はいつまでも、いつまでも途方に暮れていました。

 

 

 

 

 

 とある病院の個室で、一人の看護婦が佇んでいました。目の前にはお爺さんが寝ており、その顔には白い布が被せてあります。ついさきほど、安らかに息を引き取ったのです。

 

 看護婦は、この老人と親しい間柄でした。なんでも戦死してしまった大叔父さんは老人の部下だったらしく、祖母と祖父と、戦後ほどなくして生まれた母は、ずいふんとこの老人に懇意にしてもらったというのです。

 彼女から見た老人は実に穏やかな人で、元は最前線で敵と戦っていた兵隊さんだっただなんて、あまり信じられませんでした。子供の頃から優しくされて、実は彼女の名前をつけたのも老人だったと聞かされています。ですから彼女も母たちと同様に老人のことを良く思っていましたし、こうして病院でお世話できるのも恩返しできているようで嬉しかったのです。

 

 そんな家族のような人でしたが、看護婦には理解しきれない、ほんの少し変わっているところが、この老人にはありました。

 老人がもっと若く元気な頃は、彼女の実家に立ち寄ってご飯を共にすることもよくありました。しかしそんな時、老人は決まってお肉を口にしないのです。米はよく食べますし、魚だって骨までばりばり噛んで平らげてしまうのに、お肉だけは一口も手を付けませんでした。「良いところのが手に入ったから」と上等なお肉を手土産に持ってくることさえあったのですが、自分だけは決して食べようとしなかったのです。

 まだ幼かったときに、その頑なさを変に思って「どうして食べないの。美味しいよ」と言ったのですが、彼は「ごめんね。食べられないんだ」と微笑むだけでした。その笑顔が寂しそうで、看護婦は子ども心に可哀想と思いながら「そういう人もいるんだなあ」と納得したのを覚えています。

 

 私たち家族に親切で、お肉が苦手な、優しいお爺さん。

 それが看護婦の今まで持っていた、老人に対する印象の全てでした。

 

 しかし看護婦は、老人が他界したすぐ後に、彼が背負っていたものを知りました。どうして親切だったのか、どうしてお肉が食べられなかったのか、その全部を知ることとなりました。

 死ぬ間際に、老人は看護婦へ一冊のノートを渡しました。それは何十年前のものかと云うほど古い日記帳で、老人は「自分が逝ったあとに、これを読んでほしい」と告げて、そのまま永い眠りに着いたのです。

 そしてそれを読んだ結果、看護婦はどう言い表したら良いのか分からない気持ちに襲われて、混乱しました。

 何故、老人は今になってこんなことを告白したのでしょう。戦争から離れた世代にある自分にどうしてこれを渡したのか、看護婦は冷静に考えることができませんでした。息が自然と乱れて、冷たい汗が背中をつうと流れました。

 

 あと少しすれば、老人の訃報を聞いた母がやって来ます。先ほど電話をかけたら大慌てで家族に準備を促す声が聞こえてきましたので、そんなに時間はかからないでしょう。

 昔、大叔父と結婚の約束をしていたという祖母も連れて。

 祖母は車椅子のいる年齢ですが、まだ意識はハッキリとしていて、記憶も健在です。

 

 看護婦は手に持ったノートをくしゃくしゃになるほど無意識に握り締めて、このことをどう説明するべきか、または一切説明せず自分の中だけに留めておくか、短い時間のなかで悩みました。

 やがて病室の扉がやや勢いよく開かれ、母たちが入って来ました。皆涙ながらに老人の死を嘆いています。一番悲しんでいるのは、やはり一番付き合いの長い祖母です。

 

 看護婦の持っているままだったノートが母に見つかったのは、その直ぐ後のことでした。

 

 

 

 

 

 

おしまい




図書館でアンパンマンの絵本を読み、衝動書きしました。

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