「これからネット碁だけじゃなくて、佐為とじかに対局させてくれないか」というヒカルさんの願い、もちろん叶えてあげたい。ただ、本因坊のヒカルさんは、アイドルタレントや一流Jリーガーほどではないけど、それなりに有名人。人目に付くところで打つのは、目立ってしまう。「あれは進藤本因坊じゃないか。相手は誰だ?」みたいな噂にはなりたくない。いろいろ考えて結局、とりあえず1回目はヒカルさんの家に伺うことになった。
この頃には、メールアドレスを交換しあって、メールで連絡を取り合うようになったけど、ヒカルさんの家はうちからさほど遠くはなかった。北千住からバスで15分くらい。
その日はバス停まで迎えに来てくれることになっていた。バスを降りると、そこにヒカルさんが待っている。
《珍しい、ヒカルがちゃんと時間どおりに来ている》
《えっ?・・・・ヒカルさんって、そんなずぼらな人なの?》
《あっ、いえ・・・・》
佐為はあわてて否定する。
《それは子供の頃の話です。いまは立派な大人になっているのでしょう》
ヒカルさんは、わたしと佐為の会話は聞こえないはずだけど、何となく気配を感じたみたい。
「ひょっとして、佐為と何か話してた?」
「えっ・・・・」
わたしは、思わず佐為の方を向いた。
「まあ、オレに聞かせたくない話なら、聞かなくてもいいけど」
ヒカルさんは笑いながら話しかける。わたしは、隠すほどのことではないと思って話すことにした。
「うん、ヒカルさんがバス停で待っていたのを見て佐為が『珍しい、ヒカルがちゃんと時間どおりに来ている』って言ったの」
ヒカルさんは愉快そうに笑った。
「まあ、そう言われても仕方ないよなあ」
《ルミ様、その後でちゃんと「いまは立派な大人になっているのでしょう」と言ったんです。それも伝えてください》
と話す佐為の真剣な顔がおもしろい。
《はい、はい》
「佐為は、その後でちゃんと『いまは立派な大人になっているのでしょう』とも話してくれたから」
「うーん、立派な大人になってるかなあ・・・・」
ヒカルさんはまた笑う。
こんな話をしながら、ヒカルさんの家に着いた。今日の様子を見る限り、ヒカルさんは、佐為が自分のところに戻ってこなかったことも、佐為の姿が見えず声も聞こえないことについても、吹っ切っているみたい。・・・・いや、そう簡単に吹っ切れることではないよね。わたしたちの前で吹っ切れたような態度を見せてくれてるだけなんだ。でも、それでもわたしはうれしい。
「さあ、着いた。ここだよ」
とヒカルさんが示すのは、昔風のけっこう立派な木造家屋。それを見て佐為が驚いた口調で語る。
《これは、ヒカルのおじい様の家では?》
「佐為が・・・・」
「これはじいちゃんの家だって言ってんだろう?」
「はい」
「昔はそうだった。じいちゃんが死ぬとき、遺言でオレに譲ってくれたんだ。オレがプロの碁打ちになったのがうれしかったんだろうなあ。じいちゃんは碁が好きで、けっこう強かった。地区のアマチュアの大会で優勝したこともあるんだ。オレの両親はどっちも碁に関心がない人だったから、孫のオレが碁打ちになったのがなおさらうれしかったんだろう。まあ、それだけが理由かどうか分からないけど、家をオレに譲ってくれた。せっかくだから、住んでるよ・・・・そうだ、先にこっちを見てもらおうか」
ヒカルさんは母屋の脇の蔵の方に歩いて行く。
蔵の木戸をギーッと開く。ほの暗い中にいろんな物が置かれている。
「こっちだよ」
とヒカルさんは屋根裏に登る階段を指さす。わたしたちは階段を上る。
「これだよ」
と言いながらヒカルさんは古い碁盤をさすっている。
「ひょっとして、佐為が騒いでるんじゃないか?」
「うん、よく分かるね。佐為がすごくよろこんで、驚いている」
ヒカルさんは、見えなくても聞こえなくても、佐為の気持ちが分かるみたい。
「佐為が取り憑いていた碁盤だよ」
「ああ、これが・・・・」
「そう、これだよ」
それから、ヒカルさんはその時のことを話してくれた。
「オレが小学校6年生の秋か冬頃だった。その頃のオレはどうしようもない悪ガキで、学校のテストの成績があんまりひどいんで、親から小遣いを止められてしまった。それで、この蔵で何か売り物になりそうなものを探して小銭を稼ごうなんて魂胆でいろいろ探し回ったんだ。そしたらこの碁盤が見つかった。それなりの値段で売れそうだと喜んだけど、シミが付いてるんだ。よく見ると血の跡なんだ。これじゃあ売れないと思ったけど、一緒に来てた友達は、シミなんか付いてないって言うんだ。『そんなことはない。ここに血の跡があるじゃないか』みたいなことを話してると、佐為が現れたんだ。オレは気を失ったんだけど、気を失った意識の中というのかな、夢の中というのかな、ともかく佐為が自分のことをオレに話してくれた。それが佐為との出会いだよ」
〔ふーん、そんなことがあったんだ。佐為はこれまでヒカルさんのこと、あまり詳しく話してくれなかった。と言うかわたしが興味なさそうだから話さなかっただけなのかな。これからはいろんなこと、話してもらおう〕
「じゃあ、出ようか」
暗い蔵の中から外に出ると、日の光がまぶしい。ヒカルさんは伸びをするように両腕を上げて
「さあ、対局、対局」
と言った。それから、わたしの方を向いて、ふとほほえんだ。
「これは昔の佐為の決まり文句だったなあ。オレを鍛えていた頃、オレの部屋で時間があれば『さあ、対局、対局』ってせかしたっけ」
そんなヒカルさんを佐為は懐かしさを込めて見ている。ヒカルさんも、たぶんわたしじゃなくて、わたしのそばにいるはずの佐為を見ているんだ。佐為は「気持ちは戻るけど、時は戻らない」って言った。それはそうだけど、気持ちが戻るだけでもいいじゃない。過去を振り返ることも、たまにはいいじゃない。二人を見ていて、そう思う。
居間の碁盤をはさんで、佐為とヒカルさんと座っている。わたしは佐為の脇にいる。そうしてほしいとヒカルさんに頼まれた。昔、ヒカルさんが佐為と対局する時はいつもこんなふうに相対し、佐為が扇で示す場所にヒカルさんが碁石を置いていたから。今日はもちろん、佐為の碁石を置くのは横に座るわたしの役目。
向かいに座っているはずの、見えない佐為にヒカルさんがお辞儀する。
「お願いします」
《お願いします》
と佐為が答え、頭を下げる。わたしも
「お願いします」
と礼をした。その瞬間、それまでの穏やかな空気が一変した。対局者どうしの真剣勝負のような気迫がわたしにも伝わる。これは、ネット碁ではほとんど感じられない、実際に相手と向かい合わないと感じられない。佐為も、できるなら、ネット碁だけじゃなくて、こういう現実の対局もしたいんだろうなあ。でも、それをすると、わたしが「無敵の棋士」に見られてしまうんだよなあ・・・・昔、佐為とヒカルさんもこれで悩んだんだよね・・・・とりあえず、今はヒカルさんだけだね。それなら月1回くらいは会えるよう、何か方法を考えよう・・・・。
ネット碁に比べると、二人ともゆっくり時間を取って考えている。だからわたしも、その時その時の黒白模様をじっくり眺めていられる。短い時間のうちに模様が変化していくのを見てるのもおもしろいけど、こうやって1つ1つの模様をじっくり見るのも、おもしろい。・・・・ずいぶん時間が経ったような気がするなあと思っていると、ヒカルさんの表情が緩んだ。そして時計を見て
「あっ、もうとっくにお昼を過ぎてる。打ち掛けにしよう」
「打ち掛け?」
「うん、まあ、昼休みのことだよ。腹減ったろう。何か食べよう」
「ああ、もうそんなに時間が経ったのね」
「外に食べに行くか、近くのスーパーで何か買ってくるか・・・・うちにあるのはカップ麺くらいだからなあ」
「わたしはカップ麺でいいよ」
「それでいいの?」
「うん。わたしは別に構わないよ」
「じゃあ、外に出るのも面倒だから、そうさせてもらう」
ヒカルさんはカップ麺を2つ作って持ってきてくれた。一緒にいただく。
《ヒカルは、今もラーメンが大好物なんですね》
「ヒカルさん、昔からラーメンが好きだったの?」
「うん。ラーメンさえあれば幸せって感じ。佐為はオレがラーメン食ってるのしか見たことないんじゃないかな」
《そんなことはありません。棋院のそばのハンバーガーショップにもよく出かけてたじゃないですか》
「棋院のそばのハンバーガーショップにも・・・・」
「ああ、そうだった。院生の頃、入り浸ってた。和谷とか伊角さんとかと一緒に」
懐かしそうな表情のヒカルさん。佐為も。さっきの張りつめた雰囲気と、このまったり感。落差がすごい。
「棋士って、みんなこうなの?」
「こうなのって・・・・」
「ああ、ごめんなさい。省略が多すぎたね。つまり、さっきの対局中の雰囲気と、今この雰囲気の落差が大きすぎるから、棋士ってみんな、こんなふうに対局中とそれ以外の時で雰囲気ががらっと変わるのかなって疑問に思ったの」
「まあ、そうだな。対局中のギリギリ真剣な気持ちをほかの時にも保ってはいられないな・・・・でも、あいつはふだんから生真面目そのものだな」
「あいつ?」
「ああ、塔矢アキラっていうんだ。オレの生涯のライバル。あいつはふだんから真面目な顔してそう」
脇で佐為が笑っている。
「さて、そろそろ再開しようか」
ヒカルさんは立ち上がる。わたしも立ち上がって、居間に移動した。そして、対局中の緊迫した雰囲気が戻ってきた。
対局が終わったのは夕方、暗くなりかけていた。今日も佐為が勝ったけど、かなりきわどかったらしい。
「あと一歩が足りないなあ。悔しいけど、まだ佐為の方が役者が上だ」
《でも、今日の対局でも、何度かひやりとさせられました。ヒカルがわたしに1勝する日は近いでしょう。わたしに勝ち続けるようになるのは、遥か先のことですが》
《それ、ヒカルさんに伝えていいの?》
《もちろん。しっかり伝えてください。最後まで省略せずに》
わたしが佐為の言葉を伝えると、ヒカルさんは苦笑いした。
「まあ、負けてんだから何言われても仕方ないな・・・・それはそれとして、もう外は暗いね。バス停まで送るよ」
バス停までの道。
「ヒカルさん、今日はとても楽しかった。わたしもだし、佐為も楽しそうだったよ」
「ああ、それはよかった」
「また、こうやって対局する機会を作りましょう。今日、二人の対局を見ていて、ネット碁とはぜんぜん違うって分かったの。佐為も、ネット碁だけじゃなくて、相手と向き合う対局もしたいはずなの。ただ、今はそれができる相手はヒカルさんしかいないの」
「それは、よく分かるよ」
「だから、せめてヒカルさんとは都合が付く限り対局させてあげたい。ただ、いつもヒカルさんの家ってわけにもいかないよね。そんなにしょっちゅう来てたら、隣近所で噂になるだろうし・・・・かと言って、碁盤のある場所って、なかなかないのよね」
「いや、そうでもない」
「えっ?」
「佐為、オマエ、目隠し碁できるよな」
《もちろん》
佐為が即答した。
「もちろん、だそうです」
「じゃあ、碁盤は要らない。ほかの人に見られない場所ならどこでもいい」
「えっ、それって、どういうこと?」
《ルミ様、わたしが説明しましょうか》
と佐為が言うのと同時に、ヒカルさんが説明を始めた。
「碁盤も碁石もなくても碁は打てるんだ。お互い頭の中に碁盤を思い浮かべて、自分が打つ場所を『3の八』とか『14の三』とか言うんだよ。そうやって頭の中に棋譜を作っていく。これなら、碁盤も碁石もなくて碁が打てる」
「そんなことできるの?」
「できるよ・・・・まあ、誰でもってわけじゃないけど、オレや佐為くらいのレベルなら、できる」
「すごい!」
《ルミ様、あなただって同じようなことをなさっていますよ。心から美しいと思った黒白模様は、一瞬見ただけで記憶に留めておけるでしょう。それと同じです》
《えっ・・・・》
こんな話をしているうちにバス停に着いた。バスが来るまで5分くらいある。その間、ヒカルさんは一緒に待ってくれた。この時、わたしに名案が浮かんだ。
「名案。ほかの人に見られないで二人が対局できる場所」
「どこ?」
「カラオケルーム」
「カラオケルーム?」
「うん。カラオケルームって、歌わなくてもいいんだよ。ドアを閉めれば外から見えないし、入る時も受付で名前を書くだけ。名前だって偽名でいいんだし。カラオケルームに遊びに来るような人たちって、まず碁なんか興味ないからヒカルさんの顔も知られていないだろうし」
「だけど、うるさいだろう」
「ドアを閉めれば、そうでもないよ。碁を打つのに不便はしないと思うよ」
「そうか・・・・」
ヒカルさんは今ひとつ納得しきれない様子。佐為はぜんぜん話について来れていない。まあ、ここで説明しなくても、実際その場になれば、分かるから。
こんな話をしているうちにバスが来て、わたしが乗り、ドアが閉まる。ヒカルさんが手を振る。わたしも手を振る。佐為も。
《佐為、よかったね。今日はすごくいい一日だった》
《そうですね》
《ヒカルさんとわたし、これからも仲良くやっていけそう》
佐為は心からうれしそうな表情。それから、何か考え事をする表情になり、わたしに語りかけた。
《わたしは今日、ヒカルと対局しながら、心が通じていました。碁打ちは、口に出して言わなくても、碁を打つだけで、石を置くだけで、互いの気持ちを伝え合うことができるのです。今日、差し向かいで碁を打ちながら、わたしはヒカルと心ゆくまで語り合いました。ヒカルの悲しみ、わたしがヒカルのもとに戻らなかったという悲しみも少しは癒えたでしょう。これから対局のたびに心を通わせあうことで、少しずつでも悲しみが薄れていくでしょう。ですから、ルミ様、これからもなるべくヒカルと対局する機会を作ってください。お願いします》
佐為は深々と頭を垂れる。
《佐為、そんなに丁寧に頭を下げないで。うん、分かってるよ。これからもなるべくたくさん対局の機会を作ろうね》
それから1ヶ月もしない、3週間くらいでヒカルさんとわたしの都合がついた。試しにカラオケルームに行くことにした。その日は駅で待ち合わせた。念のため、ヒカルさんの目立ちすぎる前髪を隠す帽子をかぶってきてくれるようお願いした。できれば、サングラスとマスクも。
「おいおい、指名手配の犯人じゃないんだぜ」
とヒカルさんはメールで文句を書いてきたけど、その通りの格好で来てくれた。わたしは、ヒカルさんの格好を見て、つい笑ってしまった。
「何だよ、注文どおりの格好したのに、笑うなんて」
と言いながら、ヒカルさんも笑っている。
「ごめんなさい・・・・でも、実際に目で見ると、確かに、逆に目立ってしまうね」
こんな会話をしながら歩くわたしたちを佐為は楽しそうに見ている。
入り口で受付を済ませ、指定された番号の部屋に入る。わたしはプリンターで19路の碁盤を印刷した紙と黒ペン、白ペンをバッグから取り出した。
「ルミさん、せっかくだけど、それは要らないんだよ。この前、話したろう」
「うん、ヒカルさんと佐為には必要ないけど。わたしには必要なの」
ヒカルさんは「どういうこと?」という顔をしている。
「わたしは、黒石と白石が打ち込まれてできていく黒白模様を眺めるのが好きなの。だから、言われた場所に黒と白で丸を描いていくの」
「ふーん・・・・まあ、いいや。じゃあ始めようか」
「はい」
「お願いします」
「お願いします」
・・・・この日も佐為の勝ち。
次は、わたしの部屋で対局することにした。わたしはパソコンに碁盤の画面を呼び出して、ヒカルさんと佐為が言う場所に石を置いていく。終わった時にはパソコンに棋譜ができあがっている。それはわたしの貴重な資料。ヒカルさんはまだ佐為に勝てない。わたしにとっては、佐為に勝てないのは当たり前なんだけど、ヒカルさんは真剣に悔しがる。
「佐為を最初に倒すのは、やっぱり塔矢先生かなあ・・・・」
「トウヤ先生?」
「佐為から聞いてないの?」
《ルミ様、最初にちょっとお話ししました。わたしがヒカルに憑いていた時、一度だけネット碁で対局した相手です。日本で最強の棋士。おそらく神の一手に最も近い者です》
《ああ、そんなこと、話してたね》
ここから、わたしはヒカルさんにも聞こえるよう、声を出して話すことにする。
「佐為はネット碁で有名だから、そのうち塔矢先生からも対局を申し込まれるよ」
《待ち遠しいです・・・・》
という佐為の言葉と裏腹に、ヒカルさんはちょっと考え込んでいる様子。
「ヒカルさん、どうしたの?」
「実は・・・・」
ヒカルさんは言いにくそうにして、話を続ける。
「塔矢先生は佐為と対局しないかもしれない」
「どうして?」
佐為の顔に驚きと悲しみが広がる。
「ちょっと話しづらいんだが・・・・つまり塔矢先生から見ると、どんな事情があるにせよネットだけで打って、現実の世界に姿を見せないのが、いかがわしいというか、疑わしいらしいんだ」
「そんなこと言ったって・・・・」
「うん。おれは佐為の事情をよく知ってるから、それは仕方ないと分るんだけど、事情を知らないと確かに『怪しい奴』と思われても仕方ない。決して塔矢先生が意地悪なわけじゃないんだ。塔矢先生は佐為のこと『強いだけではなく、美しい碁を打つ』と認めてくれてるんだ。それでもやっぱり、疑いが消えないんだな」
佐為はがっかりした様子でうなだれている。わたしはあることを思いついた。
「ヒカルさん、塔矢先生の住所知ってる?」
「知ってるけど・・・・」
「教えて・・・・わたし、塔矢先生に手紙を書く」
《ルミ様!》
《佐為、大丈夫よ。これでも、元文学少女。文章書くのは下手じゃないんだから》
そして、ヒカルさんに向かって質問した。
「塔矢先生は、口が堅い人? 秘密を守ってくれる人?」
「それは保証できる。ネット碁での対戦も秘密にしてくれたんだ」
わたしは安心した。
- 塔矢行洋先生
突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。
高藤ルミともうします。
ネット碁でF.saiの名前で知られている藤原佐為の代わりにパソコンのマウスをクリックしている者です。藤原佐為は、自分の手でマウスをクリックすることも、碁盤に石を置くこともできません。それどころか、塵一つ動かすことさえできない状態にあります。それでも、碁への情熱は誰にも負けず、神の一手の探求に日々精進しています。そのため毎日ネット碁で対局しています。わたしはそんな藤原佐為の指示の通りに碁盤の目にマウスをクリックしています。
藤原佐為は先生との対局を心から望んでいます。10年前の4月、ネットで先生と対局し、今も「わたしの最良の対局」と話しています。叶うことならぜひまた1度、いえ、1度と言わず2度、3度でも、先生と対局したいと心から願っています。この願いを叶えていただけないでしょうか?
進藤本因坊から、先生は佐為が現実の世界に出ないことに疑念を抱いておられると伝え聞きました。藤原佐為が外に出られない事情は上に説明したとおりです。これ以上詳しい説明は、申し訳ありませんが、差し控えないといけない事情にあります。不十分きわまりない説明ですが、なにとぞご理解いただきたく存じます。藤原佐為は決して怪しい者ではありません。ただ純粋に神の一手を極めようとする高潔な棋士です。ネット碁で対局していただけないでしょうか。
それと、お願いばかりで心苦しいのですが、わたしと藤原佐為とF.saiとの関係は秘密にしておいてください。
心からお願いします。 -
1週間ほどして、先生から返事が届いた。好意的な文章で、対局の日時を設定したいと書いてあった。先生はメールをしないらしく、その後、何度か手紙をやりとりして、12月16日の朝10時からに設定された。持ち時間3時間。ということは2人分で6時間。持ち時間を使い切った後の早差しの時間を含めると、7~8時間。1日がかりの本格的な対局。
この日は、ヒカルさんの希望で、ヒカルさんの家のパソコンで対局することになった。ヒカルさんは対局を見ながら碁盤に二人分の黒石と白石を並べる。パソコンディスプレイを見るより、実際に碁盤に石を並べる方が実感が湧くらしい。
この日、佐為の気迫はふだんのネット碁の時とはぜんぜん違っている。まるで目の前にほんとうに塔矢先生がいるかのよう。
《わたしも、行洋殿の気迫をパソコンから感じます》
と佐為は話す。わたしは、さすがにパソコンからは気迫を感じない。実際に打つ人と、言われたとおりマウスをクリックする人の差かな。それとも、碁を心から愛する人と、碁ではなく黒白模様に興味を抱く人との違いかな。まあ、思い悩んでも仕方ない。わたしは佐為の言うとおりクリックするだけ。それでも、この日はふだんのヒカルさんとの対局と違い、打ち掛けをはさまず、つまり昼食を取らず、8時間くらいの対局を続けていて、佐為はもちろんわたしも空腹を感じなかったから、それなりに集中していたんだろう。
結果は、やはり佐為の勝ち!
対局が終わって、急に空腹を感じた。
「ヒカルさん、お腹が空いた。何か食べるものない?」
「カップ麺ならあるけど」
と言って、ヒカルさんはちょっと考えて、言葉を継いだ。
「今すぐ食べないと死にそうかい? あと20~30分くらい待てないか?」
「・・・・?」
わたしは、どうしてヒカルさんがそんなこと聞くのか分らなかった。
「もうすぐクリスマスだ。たまには豪勢な晩メシごちそうするよ。いつもカップ麺じゃ悪いもんな。駅前まで一緒に行こう。タクシー呼ぶぜ」
「うん、じゃあ20~30分くらい我慢する」
タクシーを待つ間、ヒカルさんは碁盤をじっと見つめている。佐為も一緒に見つめている。
「何をしてるの?」
「検討してるんだ」
「検討?」
「うん。1局のうちにはいくつか勝負どころがある。そこで、実際に打たれたのとは別の手がなかったかどうか、別の手を打っていればどうなっていたか、考えるんだ」
「ふーん」
佐為が扇で1つの黒石を示す。黒石だから塔矢先生が打った石。わたしはそこを指さした。
「うん。そこに打つ代わりに、ここに打ったら」
とヒカルさんは話し、
「佐為は当然、ここに打ってくるな」
と話を続ける。
佐為はうなずき、次に別の場所を扇で示す。わたしはまたそこを指さす。
「うん・・・・」
佐為とヒカルさんがしばらく考えている。
《やはり、行洋殿の手が最善だったようですね》
と佐為が言うのとほとんど同時にヒカルさんも
「やっぱり、先生の応手が最善だ」
こんな話をしているうちにタクシーがやってきた。
食事を終えて、ヒカルさんがいつもと違うまじめな口調で語りかけた。
「ダメ元でお願いするんだけど、佐為のアカウント名、F.saiからsaiに変えてくれないか? 今あるsaiのアカウントは削除するから。ルミさんが作ったアカウントはそのままで名前だけ変えてくれればいい」
わたしは突然そんなことを言われてびっくりしたけど、すぐに
「ダメ」
と答えた。
ヒカルさんはうなだれた。
「やっぱりダメか」
佐為が悲しげな顔をしている。どちらの気持ちも分かるんだね。でも、わたしだって、ヒカルさんの気持ちも分かるんだよ。
「ヒカルさんの気持ちも分かるよ。ヒカルさんにとってsaiという名前がどれほど大切なものか、分かってるつもりよ。でもね、わたしにとっても、F.saiの名前は大切なの。佐為と出会ったその日に作ったの。今年の5月5日、佐為と出会ってから今までの、一緒に過ごした時間の重みがこもった名前なの。たとえヒカルさんの頼みでも、この名前は変えたくない」
「・・・・そうだよな。ぜったい、そうだよな・・・・」
ヒカルさんは寂しそうに笑った。それからいつもの明るい笑顔になった。
「晩メシくらいじゃ釣れない、大きすぎる頼みだったな」
この日の対局も含め、佐為はネット碁を続けている。無敗のまま年を越した。何百連勝なんだろう。数えてもいない。
わたしのデザインの勉強も進んでいる。いろんな形式の試行錯誤を終えて、自分の形式が定まったのがこの頃。自分で作った形式にのっとって、いろんな黒白模様を作り始めた。インスピレーションの元は無限にある。佐為の対局。2年生の学年末、進級判定の基準とされる学年末制作は我ながら上出来と思う。
〔幸せって、今のわたしのことだわ〕そう思っていた。そして、〔今この時、この幸せに浸りきろう〕とも思った。高校時代に読んだA.カミュのエッセイの一節が心に浮かんだ。ボルジア枢機卿が教皇に選ばれた時に語ったとされるせりふ、
「今この時、神が我々に教皇位を与えたのだ、時を惜しんでそれを享受すべし」
大げさかな? ごく自然な連想なんだけど。
時を惜しんで・・・・わたしは、佐為と出会ってからアルバイトをいっさいやめた。その時間が惜しかった。そんな時間があれば、佐為に碁を打たせたい。そして佐為のそばで黒白模様のデザインを作っていたい。それがわたしにとって一番幸せな時間だから。
親が仕送りしてくれる最低限の生活費で暮らすようにした。服は買わない。今あるものだけ着ていて、凍え死にするわけじゃない。アクセサリーなんて、もってのほか。化粧品も買わない。すっぴんでいても、佐為に碁を打たせるのにもデザインを作るのにも、困ることはない。食べ物は、安くて手間がかからなくて、栄養をバランス良く取れるメニューを工夫した。