黒と白のComposition   作:松村順

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8:白銀(しろがね)の時代

卒業。もう学生の身分ではないから、親からの仕送りは止まる。これからは自分の力で生計を立てていかないといけない。ずっと前から分かっていたこと。

そんなにたくさん稼ぐ必要はない。節約生活のスキルは磨き上げている。佐為と一緒の幸せに浸りきるために、時を惜しんでこの幸せを享受するために、アルバイトなんかする時間がもったいないから、親から送られる「最低限」の生活費で暮らしてきた。それでも、家賃を含めて最低限の支出は避けられない。去年の優勝賞金がまだ残っているから、1年くらいはなんとかなる。でもそれは、問題を先送りするだけ。これから1年のうちにデザインでそれだけ稼げるようになるか? 正直なところ、心もとない。

親は、実家に戻るよう言ってくる。実家なら、家賃は要らないし食費も払わくていいと。でも、それは拒否した。だって、九州の実家に戻ったら、佐為とヒカルさんが会う機会がなくなってしまう。・・・・それに、これからデザイナーとして仕事をしていく上でも、いくらメールやインターネットで情報を簡単にやりとりできるといっても、やはり直接会って話をする機会、必要な時には人と直接会える環境は確保しておきたい。

何かの機会にヒカルさんに会った時、といっても対局の時以外はあり得ないけど、ふと、この話を漏らした。

「ここに住めばいいじゃないか」

「えっ?」

わたしは、一瞬、何のことだか分からなかった。「ここ」というのは、今日対局を済ませたヒカルさんの家のこと?

「この家、オレ一人で住むには広すぎるんだ。台所や風呂を別にして、1階に4部屋、2階に2部屋ある。オレはふだん、2部屋だけ使っている。残り4部屋空いてるんだ。ルミさん、たとえば2階の2部屋を使って住めばいい」

わたしは考え込んだ。ヒカルさんの素直な親切心はとてもありがたいのだけど、それを素直に受け取れないのは、わたしの小さなくだらないプライドのせいなのかな?・・・・恵まれた立場の人が困った人を助けようとする、その素直な親切心は素直に受け取ればいいのかな?・・・・きっと、そうなんだろうけど・・・・

「ルミさんとしては、ほどこしを受けるようで、いやなのかな? それなら、部屋を提供する代わりに毎日朝メシを作ってもらうっていうのは、どうだろう?」

「朝メシ?」

「ルミさん、自分で作ってんだろう?」

「まあ、そうだけど」

わたしの食生活事情を分かってもらえるかなあ・・・・

「朝は、この2年くらい毎日同じパターンなんだ。わたしはそれで慣れてるけど・・・・」

「同じパターンって?」

「パンとミルクとひよこ豆」

「パンとミルクと・・・・ひよこ豆って、豆だよね? 煮豆とか?」

「ううん。電子レンジでチンするだけ」

「・・・・?」

ヒカルさんは想像つかないらしい。まあ、誰もこれだけでは想像できないはず。

「前の晩に水につけておいて、朝、電子レンジで加熱するの。それだけで、そのまま食べられる。味は薄味というか、ほとんど無味くらいだけど、食べ慣れると素朴においしいよ。わたしにとっては。まあ、味気ないなら、バターを混ぜたり、ドレッシングをかけたりしてもいいけど」

「ふーん」

「パンとミルクとひよこ豆。お金もかからず、時間もかからず、手間もかからない。それでいて、炭水化物もタンパク質も、C以外のビタミンもミネラルも、さらには食物繊維もそれなりに摂れる、栄養のバランスのいいメニューなの。朝、これを食べておけば、昼夜はそれこそハンバーガーとかカップ麺みたいなジャンクフードでも、最低限、栄養失調にはならない」

「まあ、それはありがたいな・・・・」

「ヒカルさんは、どうしてるの? 自分で朝ご飯作ってるの?」

《無理!》

と背後で佐為が即答した。

「オレは、毎朝家政婦さんに来てもらってる」

「すごい、ブルジョア!」

「まあ、それなりに稼いでるよ・・・・朝メシ作ってもらって、空いてる部屋と台所、風呂、廊下を掃除してもらってる・・・・だから、ルミさんが掃除もしてくれるなら、まじめに家政婦の給料払ってもいいんだ・・・・」

「わたし、毎日この家をぜんぶ掃除なんて、ぜったい無理」

結局、わたしは毎日朝食を作るのと、週1回くらい、ヒカルさんの使っていない部屋と共有部分の掃除をすることになった。自分の部屋はそれぞれ自分が片付ける。わたしはその代わり、2階の2部屋を使わせてもらい、さらに近所の食品専門スーパーだけで使えるクレジットカードを預けられた。朝食の食材だけでなく、わたしの昼夜用の食材もそれで買っていい。

「どうせ、ルミさんの食費なんてたかがしれてるだろう?」

「うん、まあ1日1000円は使わない」

「月3万か。家政婦の給料よりずっと安い。オレの方がありがたいくらいだよ」

「ああ、それと、2階の部屋にわたし専用のインターネット回線を引いてね。佐為がネット碁するのに必要だし、わたしも自分の部屋でネットできる方が便利だから」

「お安いご用だ」

と言って、一呼吸おいて

「それに、ルミさんが住んでくれると、お互い暇な時にはいつでも佐為と対局できるからな」

とつぶやいた。

「あっ、それが本音だったのか」

《ルミ様、今日はヒカルにまんまとしてやられましたね》

佐為が笑っている。ヒカルさんも、いたずらが図に当たった時の子供ような、うれしそうな笑顔を見せている。

「まあ、いいけど。佐為とヒカルさんの対局は、わたしも見てておもしろいから」

 

結局、4月半ばに引っ越し。

翌朝、初めてひよこ豆を口にしてヒカルさんは

「うーん、オレには薄味過ぎるな」

と言って、電子レンジから出しばかりの温かい豆にバターをちょっと混ぜた。

「うん、これならいける」

とまあ、こんな具合で、ヒカルさんとのルームシェアというか、部屋+食費と労働力(料理+掃除)のバーター取引というか、そんな奇妙な共同生活が始まった。朝食に目玉焼きくらいは添えるようにした。それくらいは作れる。

 

それから1週間ほどして、学校気付で送られた手紙が転送されてきた。いったん、我孫子の旧住所に転送され、そこからさらに今の住所に転送された。もとの宛名は英語で書いてある。中身も英語。高校時代の英語の知識を動員して読むと、ディープマインド社というIT企業からF.saiへの仕事のオファーらしい。その会社はAI(人工知能)の開発が本業なのだけど、その一環としてAI碁プログラムを作っている。すでにプロトタイプというかバージョン1というべきものはできあがっていて、その改良と情報収集のため、そのAI碁プログラムと対局してほしいという提案。対局料は1回あたり100ドル。

〔100ドル、およそ1万円・・・・えっ、1回対局すると1万円?・・・・じゃあ、1日1回対局すれば月30万? そんなにもらっていいの?〕

と驚いたけど、考えてみると、わたしを基準にしてはいけないのかも。本因坊のヒカルさんはもっとたくさん稼いでいる。佐為はそのヒカルさんよりも強いんだ。さらにもっと稼いでもおかしくはない・・・・でも、ネット碁とリアルの対局では違うだろうし・・・・それに、佐為が対局しても、対局料はわたしの口座に振込まれるんだよなあ。ちょっと、心苦しいというか・・・・。

わたしは佐為に事情を話した。もともと囲碁指南として暮らしていた佐為にとって、対局で謝礼をもらうことには特に抵抗はないし、それがわたしに支払われることも気にしていない。

《わたしはルミ様のおかげで碁が打てるのです。ルミ様が謝礼を受け取られるのは、ごく当たり前のことと思います》

〔そうか。わたしが勝手に気に病んでるだけなのか・・・・〕

この点は一応クリアしたとして、問題はAI碁というものを佐為に説明すること。もともと、コンピューター自体よくわかっていない佐為に人工知能は理解の範囲外らしい。まあ、技術的なことに疎いわたしの説明が下手なだけかもしれないけど。結局、

《ともかく対局してみれば》

ということになった。オファーの英文を読めば、こちらから契約を解除する条項もきちんと書かれているから、対局してみておもしろくなければ、契約解除の手続きをすればいい。

というわけで、手紙に記載されているサイトにアクセスし、案内に従って登録手続きを済ませ、対局することになった。

初めてのAI碁との対局は、おもしろかった。佐為の代理人として碁を打つようになって2年。わたしもそれなりに、碁の自然な打ち方というか、定石というべき打ち方を感覚的に分っているらしい。その定石からはずれた手を、AI碁は時々打ってくる。わたしにはそれがおもしろい。さらに、美的な観点からも、定石はずれの石の配置が時として思わぬ効果を現わす。佐為をちらっと見ると、佐為もおもしろがっているように見える。結果はもちろん佐為の中押し勝ち。

《佐為、どうだった?》

《この者、おもしろい》

《やっぱり、佐為もそう思う?》

《はい。この者、決して強くはありません。ぎりぎりプロとして通用するかどうかというレベルです。ただ、普通では考えられないような手を打ってきます。その半分くらいはただの失着なのですが、残り半分のさらに半分、つまり4分の1くらいは、打たれてみて「なるほど」と思う良い手です。残りの4分の1はその場では失着と思えるのに、後になってその意図を理解できる手です。今はまだ半分が失着だから弱いのですが、失着が減っていけば、急速に強くなるでしょう》

《ふーん》

《ルミ様は、どう思われました?》

《わたしも、デザインとして、とてもおもしろいと思った・・・・じゃあ、これからも対局する?》

《そうですね。ルミ様の時間の都合がつけば、毎日1局か2局くらい》

《わたしは、もう学校に行く必要がないから、それくらいは付き合えるわ》

ということで、ディープマインド社との付き合いが始まった。

 

そして、ゴールデンウィークが明けた頃、わたしたち3人にとって記念すべき事が起きた。ついにヒカルさんが佐為に勝った。

「やったー、とうとう佐為に勝ったぞ! ついに佐為を越えたぞ!」

ヒカルさんは、大はしゃぎ。もう20代も後半、四捨五入すれば30なのに、子供っぽいなあ。それとも、絶対勝てなかった相手に勝てた時は大人でもこんなにはしゃぐものなのかな。

《1回勝っただけで乗り越えたなどと大きな口を叩くんじゃありません。さあ、もう1局!》

「ヒカルさん、佐為が、1回勝ったくらいで乗り越えたなんて言うんじゃない、もう1局って言ってるよ」

2局目は順当に(?)佐為が勝った。その後、だいたいヒカルさんの1勝4~5敗くらいで勝率はしばらく安定した。佐為も、最初は悔やしがったけど、ヒカルさんの成長はうれしいみたい。

「お互い暇な時にはいつでも佐為と対局できる」というヒカルさんのもくろみどおり、引っ越してきてからは週1~2回くらい対局している。対局を見てるのもおもしろいし、その後の雑談も楽しい。

「ルミさん、今年はオープン碁トーナメントに出てないだろう」

「あたりまえじゃない」

「もちろん、それは分っているけど、オレの周りでがっかりしてる連中がけっこういるんだ。『F.saiと直接対局できるなら、オレも出場するつもりだったのに』って」

「1度だけで十分よ。1度で目的を達成したんだから・・・・それに、記者たちとの約束もあるし」

「記者たちとの約束?」

「うん。トーナメント事件の高藤ルミはなるべく早く忘れられたいという約束」

 

この頃から、デザインの仕事のオファーも来るようになった。初めのうちは月1件もなかったけど、そのうち月1件くらいは来るようになり、やがて月1~2件くらい来るようになった。わたしの名前がすこしずつ業界に知られるようになっているのかな。素直にうれしい。

ただ、デザインというのはそのほとんどが、Composition001のようにそれだけで作品として展示されるのではなく、特定の用途があるものなのだ。当たり前のことだけど、学生として制作している時にはあまり深く自覚しなかった。スカーフの柄の依頼はわりと多いけど、スカーフ全体をわたしのデザインで覆う場合と、一部のアクセントとして使われる場合では、求められるものがぜんぜん違う。アクセントとして使われる場合は、当然のことながら、全体のデザインとの調和あるいは意図的な不調和(サプライズ)を考えないといけない。素材によっても、まったく同じデザインが違う見え方をする。服のデザインでも同じ。洋服であれ和服であれ、服全体の形や模様、わたしのデザインがどの部分に使われるのか、生地の感触などを考慮する。バッグだと、あの形状が特有の条件を課す。

そして大きさの制約。19路の碁盤に円を描くには、それなりの大きさが必要。いろいろ試行して、1個の円の大きさは5ミリくらいないとデザインとして映えないことが分かっていた。最小で1辺およそ10センチの大きさ。それより小さいと19路を諦めて13路とか9路にする。19路で美しいデザインを作るコツと9路で美しいデザインを作るコツは違う。

これらの実際的な用途に伴う制約は窮屈といえば窮屈だけど、逆に新しいものを作り出す駆動力にもなる。わたし自身、それをうっとうしく思う部分もありながら、むしろ楽しんでいる部分の方が多い。

今でも印象に残っているのは、地味なチェック柄のコートの襟にアクセントを付けるデザイン。正方形の対角線が襟の折り返しになって、ボタンを留めていると半分の二等辺三角形の部分だけ見える。ボタンをはずして前をはだけると、デザイン全部が見える。この制約の中で、チェック柄に適度になじむアクセントとなり、半分だけでも美しく、全部見えても美しいデザインを作る仕事。ついつい引き込まれた。

わたしがデザインを作る仕事をしている間、佐為は脇でわたしの仕事ぶりを眺めている。余計な口出しはしない。仕事が一段落付いてほっと息をつくと、佐為もにこやかな表情を見せる。たまに、わたしの方から「これはスカーフの柄なの」とか「コートのデザインよ」などと説明すると、興味深げに聴いてくれる。

《ルミ様のコートにそのデザインを付けるのですか?》

《違う、違う。どこの誰が着るか分からないの》

《・・・・?》

佐為にはレディーメイドという概念が理解できないみたい。平安時代、貴族の衣装はみな母親や妻が手ずから作るか、婢(はしため)たちに作らせたものなんだろう。佐為が今着ている狩衣も、この世に二つとないオーダーメイドなんだろうなあ・・・・。

 

こんなふうに月日が過ぎていく。

ヒカルさんの家から歩いて5分くらいのところに荒川が流れている。わたしはちょくちょく散歩に出かけた。子供の頃から筑後川を眺めて育ったせいか、水のある景色はわたしの心を和ませる。たまに、ヒカルさんも一緒のこともある。

佐為は、ほぼ毎日1局ディープマインド社のAI碁と対局し、それからネット碁の対局もこなす。週1回か2回ヒカルさんと対局する。

ヒカルさんは、佐為との対局のほか、もちろん囲碁のタイトルホルダーとして、対局だけでなく、イベントなどの仕事にも忙しい。

わたしは、依頼された仕事のほかに自分でも自由にデザインを作っている。CompositionもEtudeもそれなりに増えていく。

Composition001を作った時の予感は的中した。あれを越えるCompositionは生まれていない。だからといって落胆はしない。奇跡は二度は起きない。それくらいのことは分っている。奇跡、あるいは神の恩寵、それに頼らない自分の地力での仕事として、わたしはComposition002以降の作品の出来映えに、それなりに納得している。黄金時代は過ぎてしまった。それはComposition001を作っていた時、とりわけあの奇跡の30分。あれがわたしの黄金時代。でも、その後も決してみじめだとは思わない。いうなれば白銀(しろがね)の時代。わたしが奇跡にも恩寵にも頼らず、自分の力で仕事をする時代。

 

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