黒と白のComposition   作:松村順

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9:去る者 残る者

ディープマインド社のAI碁と対局するようになってから1年半ほど過ぎた9月、対局契約の終了が通知された。

《ルミ様、どういうことなのでしょう?》

《もう、AI碁と対局しなくていいってこと》

《はあ》

《楽しみが減ったね》

《そうですね。初めの頃に比べて、徐々に強くなっていました。これからどれほど強くなるのか、楽しみだったのですが》

その通知メールには、これまで開発に協力してくれたことへのお礼に続けて、アルファ碁と名付けられたそのAI碁プログラムが翌月には欧州チャンピオンに挑戦する予定であり、挑戦の結果はメールでお知らせすると記されていた。

「ヒカルさん、欧州チャンピオンって、どれくらい強いの?」

「それはオレも分んねえ」

と答えたけど、さすがプロの棋士。2~3日後には棋院で情報を仕入れてきてくれた。

「欧州チャンピオンは日本でいえば2段か3段くらいの強さなんだって」

「それじゃあ、勝ったとしてもたいしたことないじゃない」

「オレもそう思う」

などとのんきなことを言っていられたのは6ヶ月間だけ。翌月、アルファ碁の欧州チャンピオンに対する勝利に続いて、ほんとうの衝撃は翌年、2016年の3月にやってきた。

 

2016年3月。当時世界最強の棋士の一人であったイ・セドル9段とアルファ碁の対局。世界中の囲碁ファン、囲碁関係者の注目を集めたこの対局はアルファ碁の4勝1敗で終わった。人間はAIに5局で1局勝てただけ。対局の棋譜は、途中経過も含めて、ネット上に公開された。佐為もヒカルさんも熱心に見ている。

「佐為、勝てるか?」

佐為は盤面を見つめて考え込んでいる。

《打ってみないと分かりませんが・・・・》

いつもの佐為らしくない、自信のない口調。

「打ってみないと分からない、と言ってるけど・・・・」

「けど?」

わたしは、佐為の自信なげな様子を説明すべきかどうか、迷う。わたしがヒカルさんに説明する前に、佐為が言葉を続ける。

《以前からの特徴は残っています。たまに、思いも寄らない手を打つ。以前は、その半分は失着でした。今や失着はほとんどなくなりました。その半分は、打たれた瞬間に「そんな手があったか」と感心させられる手、もう半分は後になって「ここでこういう働きを期待していたのか」と思い知らされる手》

わたしはこれをヒカルさんに説明した。

ヒカルさんはゆっくり、深くうなずいている。

 

アルファ碁とイ9段の対局は、大きな衝撃だった。だけど、それがすぐに日本の棋界に、プロ棋士の生活に影響を与えたとは言えない。その後も、人間の棋士たちの対局はそれまでどおり行なわれ、タイトル争いは囲碁ファンの話題になっていた。池に大きな石が投げ込まれ、大きな波が生じても、しだいに小さくなり、消えていくのと同じ。

 

そんな頃、深思考社Deep Thinkingという日本企業からわたしに、AIに美意識を学習させるプロジェクトへの参加が提案された。具体的には、自作を含めAIの学習の資料とするためのさまざまな分野の作品の選定、AIの創作物へのコメントなど。ビッグデータと言われる膨大な一般人から集められたデータを分析する一方で、専門家の知見も取り入れたいとのこと。わたしは興味を惹かれた。世界最強と言われた棋士を打ち倒し、佐為の自信を揺るがせたAI碁の進化、それを目の当たりにして、AIが芸術、美意識の領域でどのような威力を発揮するのか、どれほどの進化を見せるのか、美術・デザインに係わる者として興味があった。わたしは提案を受け入れ、プロジェクトに参加することにした。

インターネットを経由して情報をやりとりすれば、ほとんどの仕事は自宅でできるけど、たまに都心にある深思考社のオフィスというか作業場に出かけることもある。そこで、仕事に係わる話のほか、雑談っぽいこともする。そんな雑談の中、日本国内にも美術家、デザイナーは掃いて捨てるほどいるのに、なぜわたしに白羽の矢が立てられたのか、その理由を尋ねたことがある。どうやら、アルファ碁が絡んでいるらしい。アルファ碁→囲碁→碁石の黒白模様→高藤ルミという連想ゲーム。さらに、プロジェクトのメンバーに碁の好きな人がいて、3年前のトーナメント事件を覚えていた。まだ忘れ去られていないとは、意外というか残念というか・・・・。

ただ、その人のおかげで、AI碁のその後についての情報に接することができたのは、ラッキーかも。もともと、AI関連企業としてアルファ碁の進化からは目を離せない事情はあるけど、その人は仕事の必要を越えてアルファ碁に関して情報を集めているようにも思えた。

その日その日の新しいできごとを追いかけるメディアの関心から離れた所で、AI碁は着々と進化し、実力を伸ばしているようだった。

 

その年の暮れから翌年初めにかけて、WorldGoとは別のネット碁サイトにMagisterと名乗る謎の棋士が現われ、並みいる中国、韓国のプロ棋士たちを不眠不休で毎日8~10人ずつなぎ倒すという事件が起きた。1人あたりの対局時間は2~3時間。最初のうちは、F.saiがWorldGoを出て他流試合をしているという噂も流れたらしいけど、不眠不休で対局を続けることから、早い段階でMagisterの正体はAI碁だと信じられるようになっていた。世間に疎いわたしたちは年が明けて事情を知った。Magisterの棋譜を見て、佐為も

《これはアルファ碁か、その仲間でしょう》

と語る。わたしが

《対局したい?》

と聞くと、即答せず、ちょっと考えてから、

《もちろん》

と答えた。即答しないのが意外だった。

WorldGoとは別のサイトなので、アカウント作成から始めないといけない。というか、専用の無料アプリケーションのダウンロードから始めないといけない。この辺のことは佐為はまったく分らないから、わたしがやるしかない。結局、準備完了したのは1月3日も夜遅くになったので、対局は翌日ということになった。

1月4日はヒカルさんも他に用事がないので、佐為とMagisterの対局を観戦することになった。朝起きてすぐ対局を申し込むと、現在対局中。それは予想どおりだけど、ウェイティングリストにすでに3人いる。

「意外に少ないな」

とヒカルさん。

「えっ、そうなの?」

「うん。佐為なんか、今はどうだか知らないけど、昔オレが打ってた頃は、ウェイティングリストに10人くらい並んだこともあったんだ」

「そうなんだ・・・・」

「まあ、このMagisterは中国や韓国のトッププロをバッタバッタとなぎ倒したから、それを見ていると、挑戦する意欲が萎えて、挑戦者が減ってるのかもしれないけどな」

ともあれ、ずっとネット碁サイトを見続けるわけにもいかないので、わたしはパソコンで自分の作業を始めようと思ったけど、ヒカルさんが、

「この対局はオレの部屋のパソコンでやってくれないか? そのわきで、オレ、碁盤に石を並べたい。いつかの、塔矢先生との対局の時みたいに」

と言い出した。まあ、それくらいのワガママはきいてもいいか。わたしは、ヒカルさんのパソコンにアプリケーションをダウンロードし、昨夜作成したアカウントにアクセスできることを確かめて、自分の部屋に戻った。お互い、時々ネット碁サイトを覗き、佐為の対局が始まりそうになったら声を掛けることにしている。

昼食を終えてサイトを覗くと、佐為の前のウェイティングリストは1人に減り、佐為の後に2人が待っている。冬至から10日くらい過ぎた冬の短い日が傾きかける頃、佐為とMagisterの対局が始まった。

対局が始まると同時に佐為の表情は緊張した。もちろん、これまでのWorldGoでの対局でも、佐為はまじめに打っていたけど、これほどの緊張を見せたことはない。対局が進むにつれて、表情に厳しさが現れる。

「正直なところ、状況はどうなの?」

「正直なところ、佐為が不利だ」

こんなヒカルさんとの会話も佐為には聞こえていない様子。そして、対局開始から2時間余り、佐為が投了した。

佐為はそのまま呆然としたようにパソコン画面を見つめている。ヒカルさんは自分が石を並べた碁盤を見つめている。どちらも、一言も発しない。わたしも言葉をかけづらい。しばらくして、佐為がつぶやいた。

《去年の3月から10ヶ月、アルファ碁はさらに見違えるほど強くなっています。人間はもうアルファ碁に勝てないでしょう・・・・つまり、神の一手を極めるのは、もはやわたしたちではないということですね》

わたしはこの言葉をヒカルさんに伝えなかった。伝えなくても、佐為の気持ちは分っていると思うから。沈んだ雰囲気を破るようにわたしが

「もう夕食の時間ね。ヒカルさん、ラーメンでいい? スーパーで最高級ラーメンを買ってくるよ。メンマやチャーシューもたくさん」

と、お気楽そうに声を掛けた。

「ああ、お願いするよ」

とヒカルさんが返事をしてくれた。

 

夕食後、佐為とヒカルさんは、今日の対局を並べた碁盤をはさんで向かい合っている。

「はっきり言って、佐為の完敗だな」

佐為はうなずく。うなずく姿をヒカルさんは見えないはずだけど、気配は分るみたい。そのまま二人とも黙って碁盤を見つめ合っている。しばらくして、佐為がわたしに話しかけた。

《ルミ様、わたしの中で、これまで止まっていた砂時計の砂が勢いよく落ち始めたのを感じます》

わたしはびっくりした。突然話しかけられたからだけじゃなく、話の内容にも。

《どうしたの?》

と問うのが精いっぱい。

佐為は答える。

《わたしは務めを果たしたからです。いや、そうではありません。わたしの務めが消え去った、わたしの務めが奪われたからです。わたしが千年のワガママを聞いていただけたのは、神の一手を極めるためでした。だけど、それはわたしではなく、他の人たちでもなく、AIという異形の者が成し遂げるはず。今日の1敗はただの1敗ではありません。それは、神の一手を極めるのはわたしではない、わたし以外の人間でもないことを告げる1敗です。であるなら、わたしはもはやこの地上に留まる理由がありません。神はわたしをこの地上に留めておく理由がありません。わたしはもうすぐこの地上を去ります。ルミ様に、ヒカルに、別れを告げないといけません》

わたしは何も言えず、ただ佐為を見つめる。

《千年も追い求めていた神の一手が、このようにして達成されるとは・・・・それを求め続けたわたしの努力は、はかない幻だったのか・・・・。わたしは何のために千年のワガママを聞いてもらったのか・・・・何のために、かつて虎次郎の身を借り、次にヒカルの意識に住み着き、そしてさらにルミ様に宿ったのか?・・・・それはすべて無駄なことだったのか?・・・・》

わたしは、黙って佐為を見つめながら、考え込む。佐為が去るのは辛い、悲しい。でも、いつかこの日が来ることは心の片隅で予想していた。「永遠の幸せ」なんて三文小説じみたことなど信じていないから。ただ、それでも、佐為がそんな気持ちのままで去って行くのは、とても辛くて悲しい。

佐為と分かれるのはどうしようもない運命であるとしても、佐為の気持ちを慰めることはできるはず・・・・。それに、わたしは佐為と一緒にいて幸せだった。この幸せは幻でも、無駄でもないはず。

《佐為、そんなこと言わないで。わたしと過ごした時間が、ヒカルさんと過ごした時間が、虎次郎と過ごした時間が幻、無駄だったなんて。わたしは佐為と一緒にいて幸せだった。ヒカルさんも虎次郎も同じだったはずよ。千年かけて追いかけた夢がAIによって達成されるのを見るのがどれほど辛いか、わたしにも想像できる。でも、だからといって、佐為の千年の夢が幻とか無駄だとか、そんなことはないの。夢を追うこと、そのものに意味があるんだよ・・・・

“We are such stuff as dreams are made on”

「わたしたちは夢と同じものでできている」》

ふと思い出した。高校の英語の授業で習ったシェークスピアの『テンペスト』の中のせりふの一節。印象深くて覚えてる。今、この場で口を突いて出てきた。

《“We are such stuff as dreams are made on”

「わたしたちは夢と同じものでできている」》

わたしは繰り返す。

《わたしたちは夢でしかないの。でも、だからこそ、夢がわたしたちなのよ。夢見ることが人生なのよ。結果がどうであれ、夢を追い続けることができたのなら、それでいいじゃない。それで幸せじゃないの。千年も自分の夢を追い続けたって、すばらしいことだと思うわ》

佐為はわたしをじっと見つめる。そう、あの日のように、わたしの前に初めて現われた、あの日のように。わたしも、その眼差しをしっかり受け止める。あの日のように。違うのは、佐為の目が涙で潤んでいること。そしてもわたしの目も。

《ルミ様。ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます。ルミ様は最後の最後までわたしのために・・・・》

この時、ヒカルさんが声を掛けた。

「ルミさん、どうしたの?」

確かに、はたから見てもわたしの状態はまともじゃない。わたしは、涙目のままヒカルさんの方を向いた。ヒカルさんは、わたしが涙ぐんでいるのを見て、驚いた。無理もないわ。これまで一度も、涙なんか見せたことなかったから。

《ルミ様、お願いです。わたしの言葉をヒカルに伝えてください。この場でこんなことをお願いするのがどれほど残酷なことか、分っております。分っておりますが、ルミ様に伝えていただかないと、ヒカルはわたしの声を聞けないのです》

わたしはうなずく。

「ヒカルさん、驚かないでね。佐為がもうすぐ消えるの」

「えっ?」

「そうね。驚かないでと言われても驚くよね。佐為は、神の一手を極めるという使命がAIによって達成されるのを見て、自分の任務が終わった、自分の任務が消え失せたと分ったの。そうであるからには、神がこれ以上佐為をこの地上に留めておく理由がないことも分ったの。佐為は、自分の中でこれまで止まっていた砂時計の砂が勢いよく落ち始めたのを感じるって」

「佐為、またオレを置いていくのか? また、オレを置いて消えてしまうのか? どうしてだ?」

佐為は悲しげにヒカルさんを見ている。

「ヒカルさん、佐為だって、別れたくって別れるわけじゃないの。運命の力なの。もともと、佐為は永遠にこの地上に留まれる存在ではないんだから」

「ルミさんは、それで納得できるのか?」

わたしは返事に困る。納得している、とは言えないけど、それが運命だと受け入れてもいる。「出会いがあれば、別れがある」わたしは子供の頃からなんとなく受け入れていた。祖父の死の頃から?・・・・

「出会いがあれば、別れがあるの」

わたしはぽつりとつぶやいた。それに続いて、佐為がヒカルさんに語りかける。

《ヒカル、この前は、別れの言葉をかけることさえできませんでした。今回は、せめて別れを告げることができました。これからわたしが消えるまでの間、別れを惜しむこともできます》

「ヒカルさん、佐為が言ってるの。この前は別れの言葉をかけることもできなかったけど、今度は別れを告げることができた。今しばらく、別れを惜しむこともできるって」

ヒカルさんは、何も答えず、うなだれている。

《ルミ様、ヒカルの明日の予定を聞いてくれませんか?》

「ヒカルさん、明日は何か予定があるの?」

ヒカルさんは、「急になんでそんなことを聞くんだ?」というようにけげんそうな顔をしている。

「佐為が、聞いてるの」

それで、ちょっと納得したような表情になって、

「あさって、地方でイベントがあるから、あしたの夜のうちにそこに移動しておかないといけない。ここを夕方くらいまでには出ないといけない。それまでは特に用事はないけど」

と答えた。

《じゃあ、今夜は碁を打ち明かしましょうと伝えてください・・・・あっ、ルミ様、お付合いいただけますか?》

《もちろん》

「佐為が、今夜は碁を打ち明かそうって言ってる」

「ほんとうか? うん、そうしよう」

ヒカルさんの表情にちょっとばかり明るさが戻った。それからあわてたように、

「ルミさん、大丈夫か?」

とわたしに聞くから

「うん、がんばる」

と答えた。

 

いつものように、対局が始まる。碁盤をはさんで向き合う佐為とヒカルさん。わたしはその脇にいて、佐為の扇が示す場所に石を置いていく。

1時間くらいした頃かな、ヒカルさんが不思議そうに碁盤を見ている。

「ヒカルさん。ヒカルさんの番よ」

「あっ、そうだな」

と言ってヒカルさんが黒石を置く。佐為が扇で位置を示す。わたしがそこに石を置こうとした時、ヒカルさんが話しかけた。

「ルミさん、碁笥をオレにくれ」

「えっ?」

「佐為の碁笥をオレにくれ。オレが打つ。オレ、見えるんだ。今、佐為の扇が見えるんだ」

ヒカルさんはわたし見て、真剣な顔で話しかける。わたしは気味悪くなった。まさか、幻覚? ヒカルさん、幻覚を見ている? ヒカルさん、ショックで狂いかけてる? そんなわたしの疑念などお構いなく、ヒカルさんは真剣な顔でわたしを見つめる。わたしは、碁笥を渡した。ヒカルさんはひったくるように碁笥を取ると、白石を碁盤に置いた。それはまさに、佐為が扇で示している場所。わたしは、今度は驚いた。

「ヒカルさん、ほんとうに見えてるんだ」

「うん。見えてるよ」

佐為も驚いている。ヒカルさんは、こぼれ始めた涙を袖でぬぐっている。

「見えてるよ。服はぼやけているけど、佐為の扇と顔は、はっきり見える」

ヒカルさんは涙をぬぐいながら話し続ける。

「これから佐為が扇で指しているところにオレが石を打つ。昔はいつもこうしてたんだ。こうやって差し向かいで対局してたんだ」

《ヒカル、涙で目がにじんで、石を置き間違えないようにね》

ヒカルさんは何も反応しない。声は聞こえないみたい。だからわたしが伝える。

「ヒカルさん、佐為が、涙で目がにじんで石を置き間違えないようにって」

「泣いてなんかいないよ」

と言いながら、ヒカルさんは涙をぬぐう。だけど、何手か打つうちに、ヒカルさんの涙は乾き、いつもの対局の時の表情に戻った。ヒカルさんは自分の石を置き、佐為の扇が示す場所にも石を置く。

時が静かに過ぎていく。

いつだったか、佐為は「碁打ちは言葉を語らなくても石を打ち合うだけで心が通じる」と話したけど、今まさにそんな状態なんだろう、佐為とヒカルさんは。わたしはそれをはたで見ている。そうだね、碁を打つよりほかに、残された時間を過ごす方法はないよね。それが、二人が別れを告げる一番のやり方だよね。

佐為が自分のところに戻って来なかったヒカルさんがこれまでずっと心に秘めていた思いを考えれば、最後の夜は心ゆくまで対局させてあげよう。そんな二人を見ていることが、ヒカルさんと碁を打っている佐為をそばで眺めていることが、結局のところ、わたしにとってもうれしいことなんだ。

 

夜が更けるにつれ、わたしは二人の対局を見ながら、時々居眠りしそうになって、はっと目を覚ます。それに気づいたヒカルさんが、

「ルミさん、寝るかい?」

と聞くから、わたしは

「いやだ。わたしも二人と一緒にいたい。最後の夜なんだよ」

と答えた。するとヒカルさんは隣の自分の寝室から毛布をもってきて、わたしの肩に掛けてくれた。

「暖房してるけど、冬の夜に居眠りすると、風邪ひくよ」

そうして、対局を再開した。わたしは時々居眠りしそうになりながら、二人の対局を見つめていた。

長い冬の夜もいつかは明ける。障子の向こうが明るくなった頃、何局目かが終わり、石を碁笥に戻そうとするヒカルさんを佐為は扇で制した。ヒカルさんは佐為を見る。

《お別れの時間です》

ヒカルさんは唇の動きで言葉を読み取ったみたい。佐為の顔をじっと見つめて、

「佐為」

とだけつぶやいた。わたしは言葉も出ず、ただ佐為を見つめている。佐為は穏やかに微笑んでいる。

「ヒカルさん、佐為が微笑んでるの、見える?」

「見える」

とだけ答えて、ヒカルさんは佐為を見つめている。やがて、佐為の姿が少しずつ薄れていき、消えた。でも、しばらく、そこに優しい微笑みの雰囲気がただよっている。ヒカルさんもそれを感じているらしい。そしてついに、その雰囲気も消えてしまった。

ヒカルさんは、消えた佐為を追うように立ち上がって障子を開けた。冬の朝の寒気が流れ込む。冬枯れした庭の向こうに澄んだ冬の空。そのてっぺんに白い下弦の月がかかっている。

 

わたしはそれから自分の部屋に戻って寝た。何年ぶりだろう、5年ぶり、4年半ぶり、佐為に見守られないで寝るのは。ちゃんと眠れるかなと思いながら、さすが徹夜明け、わたしはすぐに眠りに落ちた。

目が覚めたのはお昼頃。目が覚めると、習慣のように横を見る。そこに、佐為の姿はない。〔佐為は消えたんだ〕と心から実感したのは、この時。わたしはしばらくそのままベッドの中でぐずぐずしていたけど、やっと決心して起き出した。お腹も空いてるし。

キッチンで朝ご飯というより時間的には昼ご飯の用意をする。ヒカルさんはまだ寝ていたようだけど、キッチンでわたしがガタガタやっていると

「オレの分も頼む」

と障子越しに声を掛けられた。

いつものとおりの、パンとミルクとひよこ豆と目玉焼き。二人とも黙って食べる。食べ終わると、わたしは自分の部屋に戻る。ヒカルさんは、明日から地方で2日続きのイベント出演があり、今日のうちに移動するために出かけた。

急に二人ともいなくなった気分。

わたしは、パソコンを立ち上げ、WorldGoのサイトに入り、F.saiのアカウントを削除した。さらにWorldGoのアプリケーションも削除しようと思った。佐為の碁を間近に見てきた後、他の参加者の対局を見ようとは思わないから。だけど、これは思いとどまった。かつて、熱心なsaiファンがArchive of saiを作ったように、今、まだF.saiが活動しているうちから、熱心なF.saiファンがArchive of F.saiを作り、F.saiがWorldGoで打った碁のすべての棋譜を整理、収集してくれている。5年間に佐為が行なった対局は数千に達する。それをきちんと整理し、さらに解説も加えている。わたしとは別の意味で熱心な佐為ファン、いやF.saiファンがいるんだな。このArchiveは、これからも訪れることがあるだろう。

わたしはこれまで何年もWorldGoを利用していて初めてメッセージ機能を使い、このArchive of F.saiの管理人に

「F.saiの代理人です。F.saiは消え去りました。もうこのサイトでも、ほかのどのサイトでも、対局することはありません。膨大なF.saiの棋譜をこのようにきちんと整理していただいて、ありがとうございました」

と伝えた。多大の手間ひまかけてF.saiの棋譜を整理してくれている人への、せめてものお礼。折り返し、

「高藤ルミさんですか? F.saiが消え去ったとは、どういうことでしょうか?」

という質問が届いたので、

「これ以上詳しいことは申し上げられません」

と返信した。

それから、思い立って、これまで作ったCompositionを印刷し、クリアファイルブックに整理することにした。これからもCompositionは作るだろう。でも、佐為の存在を感じながら制作したこれまでと、佐為の記憶をたどって仕事をするはずのこれからは、出来上がるものの質が違うというか次元が違うというか・・・・。だから、今の時点でこれまでの制作を整理しておきたい。ナンバリングすると、Composition075まで。このうち30~40くらいは依頼があって制作したもの。それらは、出来上がった製品、スカーフやコートやバッグなどの写真も添えて保存する。1枚、1枚、ファイルポケットに入れるたびに、それを作っていた時の情景が思い浮かぶ。その時の佐為の表情が思い浮かぶ。どの時も同じようでいて、少しずつ違っている。その違いを1つ1つ、わたしはきちんと覚えている。75の佐為の表情をちゃんと覚えている。

《心から美しいと思ったものは・・・・何年も何十年も心に留まっている》

佐為と出会って間もない頃に交わした会話。そのとおりだわ。

〔記憶する価値のあるものはちゃんと記憶しておける〕そして、わたしにとって記憶する価値のあるものは、何をおいても、佐為のわきでCompositionを制作していた時の記憶。

その日、翌日、翌々日、わたしはCompositionのファイルを見て過ごした。〔わたしは佐為と一緒の幸せに浸りきったんだ。時を惜しんで全力で幸せを味わい尽くしたんだ〕

 

ヒカルさんが地方の仕事を終えて戻ってきた夕方、わたしはヒカルさんに話しかけた。

「佐為がいなくなってしまったから、ヒカルさんがここにわたしを住まわせる一番の目的がなくなったね。わたし、今までどおりここに住んでていいの?」

「もちろんさ。こちらからお願いするよ」

「うん・・・・よかった・・・・ここを出ると新たに部屋を探さないといけないという現実的な理由もあるけど、ヒカルさんと離れるのもちょっと寂しいんだ。もともと、ヒカルさんとは佐為とのつながりで付き合い始めたんだけど、もう何年も付き合っているうちに、ヒカルさんもわたしにとって大切な友人になったの」

「それは、オレも同じだよ。佐為がいなくなって寂しいのに、ルミさんまでいなくなったら、もっと寂しいじゃないか。それに・・・・現実的な話をすれば、ルミさんがいなくなると、オレ、朝メシ食いっぱぐれる」

「ああ、それは重大」

わたしは冗談めかして笑いながら答える。それから、ふと思い出した。

「あのね、3年前の4月、わたしが卒業後のことで心細い話をして、ヒカルさんが『ここに住めばいいじゃないか』って言ってくれた時、話の流れでわたしがヒカルさんに『「ヒカルさんは、どうしてるの? 自分で朝ご飯作ってるの?』って聞いたことあるでしょう。覚えてる?」

ヒカルさんはちょっと考え込んだ。

「うーん、よく覚えていねえ。そんなこと言われたような気もするけど」

「その時、わたしの後ろで佐為が『無理!』って即答したの。ヒカルさんには聞こえていなかったけど」

「そりゃあ、ぜったい即答するよ」

とヒカルさんは笑った。

 

それから、折につけて、わたしが「あの時、佐為がこんなこと言ってたの」みたいなことを話し、それを聞いてヒカルさんが楽しそうに笑うパターンの会話が何度か繰り返された。当たり前だけど、わたしは佐為のせりふをすべてヒカルさんに伝えていたわけではない。伝えていなかった佐為のせりふを、その時の状況を添えて説明する。一番受けるのは、わたしがComposition001を制作した後の会話で飛び出した「猫に小判」発言。何度も話しては、何度も一緒に笑った。

わたしがヒカルさんに伝えなかった佐為の発言は、ほとんどは伝える必要がない、伝えるほどの意義がないから伝えなかったものばかり。そんなどうでもいいことを語り合って、愉快に笑いあう。どうして、こんな他愛ないことで、こんなに楽しめるんだろう・・・・いや、その理由は、はっきりしている。こんな他愛ないことで楽しめるのは・・・・そこに佐為がいるから。

 

 

          終わり     FIN

 




ここで物語はおしまいです。
この後,番外編としてエピローグを書き添えますが,それは落魄と至福が絡みあう奇妙にリアルっぽい話です。その種の話が苦手な人は読まないで,ここで打ち切りにしてください。
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