- 中国 北京西駅
そこはハルビン駅、長春駅、瀋陽駅と台湾を除く中華人民共和国内全ての省の首府へ発着する列車が存在する国内への蜘蛛の巣の中心地。中国北西部、南西部、またベトナムへの玄関口ということもあり、往来する人々の中には多少なり観光客と思われる者らの姿が垣間見えた。
一日の平均乗降者数は七、八万人。春には十万人を超える人が行き来する決して小さくない駅において、いくらその駅舎の頂点で強風に煽られながら必死にあたりを見回しても、特定の人間を見つけることは難しいだろう。しかし、今の彼にとって用があるのは人の形をした存在ではない。木を隠すなら森の中というが、人の中に人ならざる者が紛れ込んでいては、それを識別するに特化した『眼』を持ち合わせた者にとっては餞別するにはさほど難しいことではなかった。
徐々に強風も威力をさらに強めてきた。予定では今夜は明け方にかけてまで晴れだったのだが、もう少しでも経てば雨でも降りだしそうなものだった。
小型通信機のコール音が耳に入ったのは数秒前からだった。集中していたため少し反応が遅れたが、コール音の種類が今季の最重要事項の関係者だっただけにすぐに呼び出しに応じる。
「こちら梁梁。どうぞ」
『こちら‘ゲルダG-3,日本では今日ですべてのマスターが成立する予定となっている。狼君。君のことだ、迎えのヘリが来る直前まで仕事をするつもりなのだろう?』
「そうですねえ。こちらとしても対処の急がれる課題が多くありまして……今夜中に一仕事片付けるつもりです。遅くとも早朝にはヘリが来ると考えていて良いのでしょうか?」
『うむ、問題ない。戰の前だ。気張り給え。ニューヨークの方では少々問題が目立ってきている。こちらについてからも少々本業の方で頼りにしてしまうだろう」
「了解しました。では遠くないうちに…」
定期連絡という奴だろう。並大抵の魔術師よりも格段に移動範囲と活動領域の広い狼に対して気を働かせることは重要だろう。狼としても頻繁に宿を変えて我が家を持たないという生活には辟易してはいるのだが、何しろ殺害対象がころころと潜伏先を変えるのだからどうにも具合が悪い。
レクトワルナイフという希少鉱石を原材料とした魔石ブレードを装着したM4A1カービンを手にし、夜に沈みゆく町を仰ぐように見つめ、狼は息を整えた。
そろそろ時間制限的に無理に思えた任務だったが、やはり運は諦めないものに巡ってくるようで、陽がいよいよ沈もうとする西日の光を浴びる一体の怪物の姿が目にとまった。無数の影を纏う数メートルの巨体。半霊体というものだろう、実際に戦闘を始めないことにはその本質は見えてこないが、今は少なくとも魔力を用いて空間迷彩を施しているために人々の目には映っていない。
「
空気に馴染むような疾走だった。宴の俟ち合いに活気づくような眼下の人々の表情を見下ろしながら、彼は建物の壁や屋根を跳ねるように走破する。厭戦に臨むその面持ちは暗かれど、その指の先は既に銃剣のトリガーにひっかけている。
加速した。そして、もう一段階加速を経る。捷いというよりは、機動力という概念そのものを強化して身体を加速させているような魔術だった。自身が一定に与えられた時間の中でどのように動いたかという命題を掲げたうえで、既定路線である結末Aを直線的に運命事引き延ばしている。自分の最終的な座標を細かく引き延ばすことによって直接的に自身の行動範囲を飛躍的に伸ばしており、一動作にかかる現実的負担は重くとも、少しの軽々とした弾みの動作一つでビルからビルへと飛び移るという動きを可能としている。
そうする理由は狼が狙っているその対象が同じようにして中華の町を目まぐるしい逃走を始めたからだ。どこにいっても一定数の人だかりがある以上、むやみやたらに銃口に火を吹かせるわけにもいかない。とはいえ、一度魔の境地に堕ちた存在が本気を出して逃げるとなればとても長々と鬼ごっこが続けられる相手ではない。
「悪魔的時間。加速靈魂」
疾走が突風に変わる。照る様に光を放つ狼の彗瞳が光の軌跡を宙に流した。魔力の欠片が鱗粉のように舞い散る。それすらも風に攫われて彼の軌跡をなぞった。
「アサシン。君、せっかくだから俯瞰してくれないか?」
『マスター。私は君から魔力を供給してもらう立場だからこそ言わせてもらうが、今のマスターの魔力損耗度合いがあまりにも大きすぎる。もう少し抑えないと私の存在証明すら危うく…』
「良いから。対象の動きに癖のようなものは感じられないかな?今後逃げ込むのに選びそうな場所とか」
『しかしだな。今のマスターの行動速度は正直サーヴァントを越えている。無論、私は鈍足を射抜くに長けてはいるが高速移動する存在を分析するのは得手でない。だが、必死に逃げるウサギが好みそうな隠れ蓑は察せる。駅舎から見下ろせたと思うが、今マスターと対象のウサギの近くには廃工場群がある』
「ああ、あれか。確かに、変に曲がりまくってカモフラージュしようとしてるけど、少しずつその廃工場群に向かってる気もする。もしそこに隠れ込む様子が見えたら狙撃してしまってくれ。建物の屋根を吹き飛ばすだけでもわかりやすくなるから助かる」
『問題がある。さっきも言ったが立ち入り禁止にも関わりなく、ちらほらと人の往来が見える。サーヴァントの存在が基本的に秘匿に徹するに値するものなら、私はここで実力行使に出るべきではない』
「確かに。使い魔に慮られるとは魔術師失格だなぁ」
「悪魔的時間。加速靈魂」
『ッ!!マスター!!いくらなんでも加速しすぎだろうッ!?』
「問題があるのは僕じゃなくてウサギさんさ。なんでここまで加速してもちっとも距離が変わらないと思う?」
もう既に音の壁に競り合う速度の逃走劇となっていた。軌跡の流動は松葉のように尖り、宙に形を残している。目にも留まらぬとはまさにこのこと、瞬きでもしようものならその姿すら垣間見ることも出来ないほどの速度で駆け抜けている。時には車道に着地して車の渋滞の合間を縫うように走破する。時にウサギが高く高く建物を駆けのぼろうともそれに追随して悪魔的速度で詰め寄ろうとする。消費し、損耗する魔力は結果に釣り合っていない。いくら速度を上げ、理論を捻じ曲げた移動を成していてもちっとも距離が縮まることはなかった。
『この逃走劇そのものに因果逆転が働いていると考える他ないだろう』
「そう。先にウサギさんが僕の追跡に対して‘逃げ切った,という結末を用意してるものだからいくら速度を釣り上げて、こちらが疲れようとも意味を成さないわけだ。じゃあどうするか。僕がどうしたいか。わかるかな?」
ウサギとの追いかけっこをやめて町の郊外に飛び出した。狼はそこで一思いに体にブレーキをかけて急停止した。掻っ攫っていた空間の勢いが解放され、狂風が周囲を揺らす。体を支えようと突き出した右足の先からソニックブームが生じ、その先数十メートルの地面が抉れた。
『まったく』
北京西駅舎の天辺が発光する。気配遮断のスキルの中の最上位に位する力を持った彼でも、戦闘態勢に移るこの一瞬だけは彼の悪魔的オーラが立ち上る。無論、凡下な一般人にはその姿を確認することは出来ないだろう。いくら気配遮断のランクが落ちたとしても、元来狙撃手として気配遮断状態での攻撃を常としてきた彼は攻撃時にも気配遮断が完全に途切れることはないのだ。
『宝具は使わない。というか、使えない』
宝具を扱うには狼の中で融通の利く魔力の貯蔵量が少なすぎる。
因果逆転系の厄介極まる効果を越えて目標を打破する方法は必然的に限られてくる。単純に、拘束された運命に望まれた解答。つまり、この状況においてはウサギに逃げ切ったという状況を生み出すという結果を提供したうえで別角度からの攻撃を仕掛ける。今回でいえば高速追跡から解き放たれた直後の狙撃という再度の攻撃。因果逆転系の魔術は雑多なその他の魔術を比較すれば遥かに連続運用が効かない能力。追跡を開始されるよりも遥かに別攻撃を受けた方が痛手になるはずだった。
『完全捕捉完了 - ロック 照準確定 』
銃声は聞こえなかった。魔力攻撃の発生すら隠し通す最高峰の気配遮断能力。確かに存在したであろう狙撃だが、マスターである狼にもその如何については解しがたかった。
『狙撃は成功した。射角を利用して眉間から延髄までを撃ち抜いたが、生きている。防御をされた感じはしない。ウサギは屍か半霊体。または即蘇生の能力を備えた異形の存在だ。戦闘続行はお勧めしない』
「うーん。君が狙撃を失敗して言い訳するとは思えないけど。…そんな異形の存在であれば、僕から逃げるという選択自体を選ぶ必要性が無いように思えるな」
『私が一発だけしか弾を放っていないと思っているのか?…これまでに十三発。狙撃時に周辺魔力を巻き込んで無音爆散するエネルギー貫通型狙撃も四度試した。しかし、ウサギは抵抗する素振りすら見せずにのんびりと私のことを探しているようだ』
「悪魔的加速。加速靈魂」
『まったく。どれだけせっかち性なんだマスターは』
「ウサギの正体がわかった」
『ほぅ?』
「廃工場群だったね」
『ああ』
悪魔的な速度を以てして狼の体は宙に預けられた。その跳躍でおよそ四十メートルはあろうかという所まで跳ね上がると、彼は即座に詠唱を初め、魔術を構成する。
「イー ロン ケァ チー シウ メィ ア 」
宙に預けられた彼の身体が足場を得て空に留まった。赤色の魔法陣が彼を取り囲むように複数構成され、同じく赤色に光を放つカービンの銃口に魔術回路に似た模様が流れる。周辺数メートルの範囲に薄く張られたような魔法陣からやがては直接カービンに向けて魔力の胞子が飛んだ。これは通常の魔力運命とはかけ離れた外法の強化手段であり、銃そのものと自身の存在系を織り交ぜて一つの兵器を作り出そうとしているのだ。
左手で銃を保持し、銃床を顎まで寄せる。右手を改めて振り上げてから肘を降り、抱き寄せるように銃を構え直す。
『マスター。秘匿案件だろう。仕事中に目立ってはいけないのだろ』
「平気だ」
声音が低く唸るようだった。表情が凍てつく。不思議と若い顔に似合わずに目じりに皺が走る。
次の瞬間、アサシンが視認していた廃工場群が戦塵を上げる。複数回の同時爆発と思われる急な地形変動。卓越した視力を有するアサシンには、立ち入り禁止の廃工場群に屯していた者らが瞬く間に撃ち殺されていく姿が目に留まった。どれも狙撃というよりは、凄まじい弾幕に呑まれて爆散しているように見える。カービンから放たれているのは鉛玉ではなく、魔力で補助を受けている術式だと伺えた。術式が被弾地点で超高速に構築から離散までを経て爆発を引き起こし、次いでに周辺物質を誘爆存在に置換して断続的に爆発を持続させているのだ。
『本当に平気なのか?』
「敵の名前は婆肝糺。大妖怪だ」
『バカンキュウ?』
「久しぶりに見たよ。そうだね。確かに今日は妙に風も強いし、十分に有り得たか」
『その大妖怪を討伐するためなら建造物破壊も厭うことではないと?』
「奴は周辺空間を捻じ曲げて変化された空間を元に戻す力がある。もちろん、条件付きだろうが便利な力さ。しばらくぶりの顔見知りだからさ。挨拶程度にこれくらいはしないと礼節が欠けてると取られる」
『ウサギとして追っている時には感づかなかったのか?』
「うん。敵が気配をすり替えていたと考えていてくれればいいさ。逃げてたのは僕をおちょくってたからだろう」
『戦闘か?それとも撃ち止めか?』
「それは向こうしだいさ」
アサシンはどことなく、マスターである狼の顔に翳りが生じているような気がした。魔術の使い方にも違和感を感じ得ない。どこか人里離れたような、それこそ本当に影のような概念に近いものを感じてならなかった。
狼の中性的な顔立ちが険しく強張っている。特に目尻に寄った皺が先ほどより深く刻まれている。首にも同様の皺が刻まれ、石化するように硬質に変化しているように見えた。
思えば、アサシンから見て狼は非常に年若い。それこそ単なる若造として生前なら取り扱うであろう十代の子供だ。背もそこまで高くはなく、顔立ちはさらに柔らかく、中性的でむしろ女性に寄っている。尖ったような長髪が滑らかな黒と共に風に乗っているが、その風貌そのものにもどこか違和感に似たものを感じてならないのだ。
すると、廃工場群から虹色の閃光が迸った。目標は宙高くで棒立ちしている狼に向けてだった。それらは狼が用意した魔法陣から放たれた赤い光線と相殺され掻き消されたが、破壊されて荒らされまくった廃工場群からは黒い煙の塊のような何かが姿を現し、空を流れるように狼に向けて移動を始めた。
アサシンは静かに自身の得物の照準をそれに合わせ、静観する。マスターからの指示が無くては攻撃はしない。
狼と接触した婆肝糺と思われる存在がしだいに形態を変化させ、どこか人に寄った姿になった。しかし、その胴体は獣や怪物のそれを思わせるような尖った体毛と棘のようなものに包まれていて、その足は靴を履かずに代わりに猛々しい鉤爪が見える竜種のようなものだった。
アサシンは集中さえすればマスターと接触したその婆肝糺との会話を盗み聞くことが可能だった。この対面には少なからずアサシンも興味を示しており、それを汲んでか狼も躊躇うことなく言葉を交わそうとする。
「しばらくぶりにこうして見えたな、婆肝糺」
「はぁ。貴方が私を婆肝糺と呼ぶのですか」
「妖怪退治に興味はない。仕事の邪魔をして貴重な魔力を削られた恨みをここで晴らすことも吝かじゃないが…どうする?」
「私が貴方を殺したいと思っても。それは出来ません。ですが、貴方が私にいくら憤慨したとしても、私は逃げることが出来ます。そうさせるのは貴方なのだから。貴方は私を殺すことは出来ません」
「なら失せろ。二度と目の前に現れるなと言ったはずだ」
「本当に恨みがあるのはどちらか…お忘れですか?」
「己で解決することの出来ぬ事物に問答するだけに気を費やすほど暇な身ではないんだがねぇ」
「私はいつ何時であろうとも、貴方への恨み、呪怨を忘れることはありません。私を妖怪と唾棄するならば、私は人の身をして人を殺す貴方のような魔を憎みましょう」
予想より遥かに人外染みた婆肝糺は女の声、女の頭を再び煙に包んだ。
どこか悲しそうで冷ややかな言葉が紡がれていた。ひどく気分が悪くなるような、虫唾が走るような、不思議な会話だった。
アサシンは風に吹かせながら、駅舎の頂点からマスターを観る。硬質的な皺が感情の悪化によってより強まっているのか、首筋から頬にかけてまで、その醜い皺が延びていた。周辺に展開された魔法陣を解除した彼は、静かにあたりを俯瞰し、婆肝糺が失せたことを確認する。
「異界の召喚獣。使い魔。サーヴァント」
つい先ほどまで耳にしていた婆肝糺の声だった。
「最上ランクの気配遮断を貫通して俺に声をかけるとはな」
見れば、婆肝糺がアサシンと同じように駅舎の天辺で立ち尽くしている。狙撃のためにあえて寝そべっていたアサシンはのっそりと立ち上がり、異形の容姿を隠さずに実体化している婆肝糺を見据えた。こちらもまた、顔だけは年若い娘のようだった。
「冬戦争の死神。シモ・ヘイヘ。聖杯に攫われた無垢な魂。私の語りに応じてください」
「どうにも、変に遜った物言いの魔物だな」
「貴方は既に、この呪われた儀式に掬われてしまった。故にその魂の宿り木である奴との縁が結ばれてしまっている。これよりは多くの苦難、戦いに臨む運命共同体となってしまった。だからこそ、私は貴方にあることを伝える義務があり、権利がない。故にこうして姿、声を届けるも、核心たる助言を告げることが許されない」
「つまり、其方は私に何か重要な事。とりわけ我がマスターに対しての苦言があるようだが、それがそちら側の都合で打ち明けるわけにはいかない。と。案ずるな。これでも後世に名を残し、生前に伝説までもを作った英雄。そこまで感が鈍いわけでもなし、いずれ自ずからマスターに対しての発見や勘繰りもあるだろう」
「貴方は聡明な方であるようだ。だからこそ、再度の御忠告を私は届けたい。良いですか、貴方の主は貴方が思うような、世間で知られるような者とは異なるのです。故に冬戦争の死神・ヘイヘ。私は傍観者として、影として貴方の傍らにおります。奴には悟られぬよう、奴に感づかれぬよう、静かに影として寄り添います。奴に貴方の無垢なる魂が食われぬよう、最期の選択の時を貴方に告げるため。私は同行いたします」
「…………」
「では、これよりこの身は影に。翳りに。しかして、本当の翳りは目に留まらぬものご用心なされよ」
陽が沈み、影の失せたアサシンの足元に、それは暮れていった。