ポケットモンスター虹 Butterfly Fragments 作:蝶丸蒾
手伝い屋でアルマに宛てがわれた部屋は、兄妹の住む母屋に隣接した別棟の2階にある。ベッドと机がひとつずつ、部屋の中央に置かれたローテーブルの周りには2つのクッション。それほど広くはない、シンプルだが花の活けられたゲストルーム。アルマがここに泊まる時、必ず用意される部屋でもある。アルマにとって第二の自室とも言えるその部屋で、モンスターボールから出されたポケモン達が、部屋の片隅で肩寄せあって眠っている。部屋着であるスウェットに身を包んだアルマはベッドに腰掛けて、爪先をぼうっと見つめていた。
時刻は午後十時を過ぎたところだろうか。ふいにドアがノックされた。ゆるりと顔を上げる。
「遅くにすまん」
ドアの向こうから、隣室のハルクの声がかけられた。アルマは数度まばたきをして、ドアに歩み寄る。乱雑に数センチだけドアを開ければ、ヘアバンドを取り払ったハルクが立っていた。
「なにか?」
「……ひどい顔してんな」
アルマは不機嫌を隠さずにハルクを睨む。ハルクは少し狼狽えた表情を見せたが、すぐに居住まいを正してひとつ深呼吸をした。
「『雪解けの日』について知りたい」
アルマがぴくりと反応した。3度目のXデイ。ハルクがそれについて興味を持ったならば、訊くのに最適な人物はアルマだ。アルマはそのことについてすっかり忘れていた。
「俺、あのときラフエルにいなかったからな。バラル団がネイヴュを襲撃して幹部が逃げたってことしか、知らないんだ」
だが。ハルクはアルマから少しも視線を逸らさない。アルマが知る限り、ハルクが好奇心をあらわにする時は、もっと舞い上がるのだ。……ゆえにアルマは。
「十分知ってるじゃない」
突き放した。一般人ならばそれ以上知る必要はない。幹部イズロードの脱獄について、ネイヴュの外でどのように伝わってるか、アルマは知る由もない。ハルクもそうか、と呟いた。アルマは無意識にためていた息を吐いた。しかし。
「じゃ、もうひとつ訊くぜ」
ハルクの顔がアルマのすぐ目の前にある。ただハルクがアルマの身長に合わせて屈んでいるだけだ。その目はまっすぐアルマを見つめている。真実を求め、嘘を厭う目。急なことだったので、思わずアルマは目を見開いた。
「『キセキシンカ』、って何だ?」
「……わ、わからない」
やっとのことで絞り出した答えに、質問者はまだ納得しないようで、アルマは精一杯首を横に振る。
「バラル団仕込みか? なぜラプラスではなくルカリオだった? お前はキーストーンを持っていたのか?」
「矢継ぎ早に質問しないでくれる?」
「『雪解けの日』以降ネイヴュの外に出てこなかったのはどうしてだ」
「ちょっと待って、ひとつずつ説明する」
「あの日、お前は何を見た」
何を見た。その言葉に流されるように、アルマはあの日の光景を反芻する。――雪煙と見慣れていた団服、荒ぶるポケモン達とバラル団、そしてガーディアン達の混ざる闘気。
「誰に会った」
「……っ、は」
部屋の隅から、異変を察したらしいルカリオが音を立てずにアルマの傍に駆け寄った。アルマは壁に手をついたままずるずるとしゃがみこみ、ぐっと唇の端を噛みしめる。ルカリオがアルマを支えてハルクを思い切り睨みつけたが、ハルクはたじろぐことなくアルマを見下ろした。じわりと口の中に血の味が広がる。それが、余計にあの日を思い出させる。幻のような、それでも確かにあった痛みが、異物感となってアルマを襲うようだった。かつての傷跡に手を当てる。
視線を上げずに答えた。
「ハリアーに、会った」
ハルクが思い切りため息を吐き、ルカリオと共にアルマを引き上げた。邪魔するぜ、と一言呟き、無表情のアルマを引きずるように、部屋の中のクッションに座らせる。寝惚けて足元のおぼつかないブースターが、アルマのひざの上まで歩み寄り、その上ですやすやと寝始めた。
「数時間前に会ってから、何かおかしいと思った。絶対何かあったわコイツって思ったけどよ、そりゃおかしくもなるわ。二度と会いたくなかったんだもんな」
ハルクはへらりと笑い、反対側のクッションに座る。ルカリオがその上からチョップを繰り出す。ハルクがテーブルに沈んだ。
「リリィからネイヴュが大変だったって聞いてよ。アルマが心配だってずっと言ってっからさ」
ハルクがテーブルからのそりと頭を上げる。ルカリオが、まるで自分は見張りだとでも言うようにハルクの後方に座った。
リリィとは、ハルクの姉・マチルダのことである。アルマはマチルダが学生としてリザイナシティへと旅立ってからは、たった二度しか会っていない。
「リリィなら、復興祭のときに会った」
「あぁ。それからはアルマが心配だって、ずっと言ってる」
「もっと鉄仮面になってるって?」
「……リリィが家出た時、まだお前笑えてたしな。でもそうじゃねえ。もっと歪んじまった、ってよ」
マチルダが家を出たのは、まだアルマが十歳になる前のことだった。そのうえ、マチルダはハルクの家族の中で最もアルマを可愛がっていたので、感情を表に出さなくなったアルマを見てはひどく悲しんで、三日間布団から出られなくなったとかなんとか。
ハルクの兄弟たちはみな、父・イッシンに似て、鋭い観察眼を持ち合わせているが、マチルダは兄弟の中でもとりわけ秀でている部類に入る。ゆえに、本業の教員が天職であるのだが。加えてぺガスシティでの情報収集が趣味でもある。だからこそ彼女はいち早く、アルマが『雪解けの日』に深く関わったことに気づいたのだろう。――歪んでしまった、という点に関しては、アルマは自覚がないわけではない。
「質問なんて。尋問の間違いじゃない」
「……まあそうだ、話が早くて助かるぜ」
「ハルクもリリィも、過保護だと思う」
寝返りをうつブースターの頭をひと撫で。ハルクは口をへの字に曲げてその様子を眺める。ヒトに接するときと、ポケモンに接するときのアルマは違う。ポケモンへの接し方は昔から何も変わっていない。撫でる、抱きしめる、ヒトへはしないスキンシップ。これが普通だとでも言うように、アルマはポケモン達の心を通わせる。――ポケモンは裏切らないから。
「キセキシンカがなんなのか、よく知らない。バラル団絡みでも、ガーディアン絡みでもない。ルカリオも多分関係ない。私あのとき……ただ、絶対に退きたくなかった、それだけなの」
アルマはブースターに目を落としたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「絶対に諦めたくなかった。負けたくなかった。あのとき私が死んでいたら」
オブラートなんて必要ないとばかりに、はっきりとそこまで言って、いったん口を閉じた。負けたら死んでいた。当たり前だ。あのとき、アルマがハリアーとしていたのは殺し合いだったのだから。
「こちらの士気が下がって、そのまま壊滅していたと思う」
「お前なあ。誰が部隊の話を聞いたんだ?」
ハルクの頬杖が崩れる。間の抜けた表情で、そうじゃねえだろ、とぼやいた。
「……言わなきゃわからない? だから退きたくなかったの」
アルマはブースターを見つめながら。その手はブースターの上で優しく重ねられた。
「守りたかったのだもの。絶対にハリアーの好きになんてさせてやるものかって。私の正義は何者でも崩せないって」
正義。アルマの求める世界のゆくさき。
「行き着くべき先が破滅だなんて、絶対に私は認めないし」
ただ一点をアルマは目指している。
「ヒトもポケモンも同等に尊ばれるべきだと思うし」
たったひとりでも。
「どちらかのためにどちらかが傷つくなんて絶対に嫌だから」
「綺麗事だ」
「そんなのよく知ってる。それでも何もしないよりはマシでしょ。……モタナの事件も、ネイヴュの襲撃も、繰り返したくない」
アルマの目指す正義は、簡単に言ってしまえば世界平和だ。ただしもっと個人的な世界の平和。自分の認識している環境、人、ポケモン。二度と自身が傷つくことのないよう、身を守っているにすぎない。ハルクはとうの昔にそれを理解している。
「その正義の中に沢山のヒトやポケモンが入ってんだろ。……わからなくはないが、つくづく勝手な正義だと思うぜ」
「わからなくて、いい。話を戻す」
アルマはハルクに向き直った。
「キセキシンカは……とりあえず、絶対負けたくないって思ったら、力が湧いてきた」
「急に雑になるなよ」
「それくらい私にはわけがわからないの。意識したことじゃない。細かいことは学者たちが頭使ってくれたんでしょう。こっちへの問い合わせ、結構来てたみたいだし」
ハルクがはっとした表情でアルマを見つめた。アルマは首を傾げる。
「問い合わせ、来てたのか?」
「今言ったこと以上は答えられなかったから全部蹴った。再現だってできないから。上も報告書だけであとはなんにも。数ヵ月後には、他の該当者が出てきたみたいだし」
ハルクがあんぐりと口を開ける。
「あれからキセキシンカは?」
「無縁。だから、あのときは私の正義が勝った」
アルマは少し自慢げに口の端を上げた。目は笑っていないが。
「ってことにした」
「……必然の奇跡、か。つーかおまえ、引きこもってたの、その問い合わせが面倒だったとかじゃないだろうな?」
ハルクが思い出したように声を上げたが、アルマは冷めた目でひとこと、ばか? と呟く。
「忙しかったの」
「トレーニングで?」
「後片付けで」
「でもトレーニングは?」
「欠かすわけないでしょ」
「今日してなくないか?」
「とっくに終わってる」
「うわ脳筋」
「ルカリオ、やっちゃって」
「申し訳ありませんでした」
深々と、ハルクが頭を下げる。ルカリオの手刀がハルクの頭上すれすれで止まっている。一拍遅れて、首元を冷気が通過していった。ラプラスである。
「ネイヴュのこととか、考えることが沢山あったの。ほんとうに忙しかったの。常にどこかほっつき歩いてる灰色頭のどこかの誰かさんと違って」
「別にどこかの誰かさんだってずっと暇なわけじゃないと思うんだけどなぁ……」
のそりと灰色の頭を上げながら、ハルクが散々だ、と呟き、立ち上がる。アルマはブースターを起こすまいと、ハルクを見上げた。
「はぁ……まぁいいわ、質問はそんだけだ、邪魔したな」
「ええ本当に」
「ヤダー、アルマが毒タイプ」
「無視しないだけ優しいと思うのだけど」
ハルクがドアノブに手をかけた。なるべく音を立てないように開け、そして手を止める。
「やっぱ、おまえ変わったよ」
アルマは首を傾げる。試しに、両頬に手を当ててみる。振り向いたハルクがとてつもなく変な顔をするかと思ったが、そんなことはなかった。
「表情が出るようになったのは良いことだ。だがな……お前の正義はもっと斬れ味の良い諸刃の剣って感じだったぜ」
「それがどうかした?」
「はっきり言うがよ、今のおまえはなまくら咥えた手負いの獣みたいだ。……中途半端って言えばわかるか? ネイヴュに行ってから落ち着いたと思ったが、また迷子になっちまってる。……自分のことだ、わかってんだろ」
アルマは黙りこんだ。両の手をテーブルの上に乗せる。
「そのままじゃ、お袋さんと同じ道を辿るぞ。……じゃあな」
ばたん、と。途中から言いたいことだけを言われたというのはわかっていた。いやでも。中途半端は図星だった。アルマは迷っている。自覚はある。……母のことも。
「ハルクのああいうとこ、だいっきらい」
ブースターを膝の上から下ろし、ルカリオにも休んでいいと合図を出す。ラプラスは既に再びの休みに戻っていた。布団に潜り込み、身体を丸めて目を瞑る。床に下ろされたことに気づいたブースターがベッドに上がってきて、そのまま眠り始めた。
「仕方ないじゃない」
その言葉を聞く人はいない。
「安全なところなんて、どこにもないのだもの……」
今までも、これからも。己は己で守るしかないのだ。
ゆえに、『強く在れ』。護りたいものを、奪われぬように。
アルマは強く目を瞑った。心の中で唱える。負けない。負けない。絶対負けたくない。勝たなくては、いけない。――ふいに意識が黒へと沈む。
アルマの心に投じられた石は、未だ波紋を絶やさない。
◇
アルマの世界は三歳になる少し前まで、無機質な施設がすべてだった。皆が同じような服を着て、同じようにポケモンを大切にしていた。彼らはときどき増えたり減ったりしたが、アルマにとっては皆家族だった。他のことは、施設内にいくつかある小さな箱庭と、そこから見える『空』だけ。
寂しくはなかった。アルマの周りには、沢山の家族がいて、家族の仲間であるポケモンたちがいた。ほとんどの家族は、幼いアルマを大切にしてくれた。だから、ときどき両親が仕事でいなくても、ちっとも悲しくはなかった。施設内にいれば、アルマの周りにはいつも誰かがいた。
アルマは施設内で生まれたということもあって、幹部たちからも将来を有望視されていたのは、家族の皆が知っていた。物心つくより前から、母の上司であるハリアーが、ポケモンバトルの仕方を教えてくれていた。あるとき、ハリアーはアルマにこう告げた。
「貴女は常に勝者で在りなさい」
幼いアルマは首を傾げた。よく母以外のハリアーの部下と模擬戦をしていても、相棒のラプラス一体のみでは、どう頑張っても負けてしまう。この時はまだ勝てたことがなかった。価値を諦めはじめた、そういう時期だった。
「まけちゃダメなの?」
「ええ。貴女が真の戦闘で負ければ、まずここへ帰るなど不可能。貴女の両親にも会えません」
「たすけて、くれないの?」
「期待をするだけ無駄、というもの。おのれひとり守れずして何ができましょう」
「……まけるのやだぁ」
「結構。幾ら立派な大樹であろうと、根が弱くては立ち続けることもままならない。……貴女は臆病です。敵に情けをかけるのはおやめなさい。……ええ」
ハリアーはそう言うとにやりと笑った。
「戦闘は。ポケモンだけのものではなく、私達の戦闘でもあります。私達は脳、ポケモンは身体」
「……ハリアーのいうこと、むずかしくてわかんない」
「では端的に。……トレーナーを狙うのです。手段を選ばず、できることはすべてしなさい。負けるのが嫌ならば、己も強く在れ。両者の強さがあってこそ、確実な勝利に手が届くのですから」
この言葉の次の日、アルマは初めて、模擬戦で勝利した。ハリアーは嬉しそうに微笑んで、アルマをこう呼んだ。
『アルマース』、即ちダイヤモンドの原石と。
そしてひと月後。アルマは生まれて初めて、世界の外を知る。