今日も浩希はこの相場邸にやってきた。
父、相場秀治を説得するために。今回は少し自信ありだ、と浩希は思った。
いつもより少し膨らんだ普段着のパーカーに両手を突っ込み、上を向いて浩希は深呼吸をした。
さあ行くぞ、と足を踏み出す浩希を、2人のガードマンが止めた。
「何の用だ?」背の高い方のガードマンが太い声で言った。
「息子だ。」浩希は答えた。失礼しました、と2人は道を開けた。浩希は2人の間を通り抜けた。
広い敷地に足を踏み入れると、遠くからマスコミの喧騒が聞こえてきた。
元気なものだ、と浩希は思った。浩希はこれから、一世一代の行動に出るというのに。
目の前の勝手口から屋敷の中へ入った。家政婦の一人が浩希に会釈をした。
浩希も会釈し、笑い返した。いつになく、浩希の心は穏やかだった。
1週間、備品集めに奔走していたのが嘘のように思えた。「いい人生だった」とも。
すべては、親父のためだった。
障子に挟まれた廊下を歩いていると、すれ違った浴衣の女性が頭を下げた。
長年相場家に仕えてきた家政婦の1人だった。お疲れ様、と浩希は心の中で手を合わせた。
かなり大きな部屋の前まで来ると、浩希は立ち止った。
ここに、親父がいる。浩希は確信した。部屋の中からかなり大勢の人間の声が聞こえてきた。
中にいる人間達も、外にいる人影に気づいたようだった。浩希は分厚い引き戸を開けた。
部屋中の視線が浩希に集中した。浩希の父、秀治が、1段高いところで怪訝な顔をした。
「また、来やがったのか。」秀治はそう言って、ため息をついた。
浩希が黙って秀治を見つめていると、秀治の両脇を固めていた部下の1人が浩希を部屋の中央へ導いた。
黒いスーツ姿の部下数十人が部屋のわきに退いて、中央をあけた。
真剣な表情を変えずに中央へ移動した浩希は、秀治だけを見据えて、どっかと座り込んだ。
「…なあ親父。自首してくれよ。」浩希は言った。
「自首?どうして。」秀治は答えた。
「どうしても何も。親父の名前はテレビでよく聞くよ。文書改ざんに、政治家への賄賂に、不倫疑惑だ。それが今までもやってきたことなのか、分からないけど、親父。」
「本当に親父がやったのなら、警察に自首するべきだ。嘘なんて、証拠が見つかればすぐにばれる。だから、証拠をつかまれる前に。」浩希は言った。数秒、沈黙が流れた。
「本当にそう思うか?」唐突に、秀治が言った。
「あ、ああ。親父を犯罪者に仕立て上げたいわけじゃないが、やってしまったものは仕方がない。なんねんかけてでもつぐなうべきだ。」浩希は答えた。
「違うな。繰り返すようだが、そんな問題は、金があればすぐに解決できる。圧力をかける準備はすでに整っているんだ。…1週間もたたないうちに、私の名前はニュースから消えるだろうさ。」秀治は得意げに言った。
「いくら金を積んだって、失った信用は簡単には戻ってこないぜ。現に今、親父の会社の株は大暴落してるじゃないか。親父の会社に期待をかけたばっかりに、大損した人がたくさんいる。そうして、金が無くなれば、自殺する人だっているだろう。そういう人たちに申し訳が立つのか?金にあかせて、現実から逃げてるだけじゃないのか、親父。」浩希は祈るように、そう付け加えた。
「自殺は、バカのすることだ。バカに何を謝る必要がある?それに、信用というものは、取り戻すものじゃない。“良い評判”さえあれば、勝手についてくるものだ。だから私はそのために“良い技術”と“良い評判”を買うんだよ。ゴシップなんて“悪い評判”の1つに過ぎない。そんなものは、削除してしまえばいい。金の力でな。」秀治は言った。そして、顔の前で拳を握った。
「そうやって1度はごまかせても、いつかは隠せなくなる時が来る。金はいつだってあるものじゃない。どうしてそれに気づかないんだ?」説得を試みる浩希。
「気づく?気づいていないのはお前の方だ。私がこれまで何のために、道楽もほどほどに金を溜め続けてきたと思っている?まさにこういう時のためじゃないか。そして私はそれを使う。自分で溜めた、私個人の金をな。」皮肉っぽい笑みを浮かべ、秀治は言った。
「そんなことをするから、まだ幼い子供達が夢を見られなくなるんじゃないか。」
「すべてを人のせいにするようなバカ中のバカは放っておけばいい。アホはアホなりに、生きる道があるんだからな。まあ私にも、そんなことを考えていた時期があったよ。でもな、人間は、変われるんだ。バカと天才は紙一重。努力は報われる、というふうに。そしてそのかつてのバカは今や大会社の社長だ。何千人もの社員を抱える、誰もが認める大企業の頂点に、私は登りつめたんだ。最高のサクセス・ストーリーじゃないか。」
「でもその結果がこの汚職事件だろ。親父は金と権力、名誉を手に入れた。それに円満な家庭も。そこに生まれたのが俺だ。はたから見たら親父以上に幸せな奴はいないだろう。でも、今の親父は全然幸せには見えない。……そんなに痩せて。思えば母さんが死んでからだ。親父が変になったのは。」座ってあぐらをかいて、浩希は続けた。