ということでこれからも頑張ります。
どれほどの間眠っていたのだろうか。俺が横たわっている場所は、清潔なシーツで覆われた布団だった。
記憶は名も知らない少年と、わずかばかり話したところで途切れている。おそらく慣れないこの世界に神経が高ぶり、一時的な失神を起こしたのだろう。体を起こして、斜め右後ろにある窓枠から差し込む太陽の日差しを浴びにいく。この世界は時期が春なのだろうか。日差しは優しくほっこりと体を暖めてくれる。
〈現実世界〉で感じる春とまったく遜色がない。むしろこちらの方がより自然的なのではないか。日射しを降り注がしている太陽の輝きは、直接見るとチクリと痛む。
左手で光を遮りながら太陽を観察する。この光の下で生活する彼は、どのように今まで生きてきたのだろうか。彼の眼を見て脳裏によぎった映像にいた亜麻色髪の少年が彼ならば、俺がバイトを受けた時から7年生きたことになる。
あれから3ヶ月経っただけで、ここが俺がダイブしていた世界なら、加速度は〈現実世界〉の一体何倍になるのだろうか。前提条件で、「俺のバイトの中身がこの世界にダイブしていたら」という確信も何もないものだが。内部時間がどれだけ進んでいるのかはわからないが、この世界がゼロから作られていたとしたら、もはや一種の文明シュミレーターだ。
窓から村を見下ろすと、子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。平和な村だと感心していると、ドアが開く音がしたので振り返った。
「あら、目が覚めたの?体調はどう?」
「おかげさまで特に問題ないです。ご迷惑をお掛けしました」
橙と黄を混ぜたような明るい髪の少女が、心配そうに声をかけてくれる。どこかで見たことのあるような容姿だが、〈現実世界〉で見たとは思えない。もしかしたら、ここにいた頃に関わっていた人なのかもしれない。
「間違ってたら悪いけど、君と俺って出会ったことあるかな?」
「あら、初対面の相手にそれを聞くのは不躾ね。もしかして口説いてるの?」
「んな!そ、そんなわけないだろ!?」
冗談だったのか楽しそうに声を抑えて笑っている。俺は〈現実世界〉でも女性に弄られやすかったので、その特性がここでも発揮されているようだ。
「と、とにかくそれは置いておこう。ここの家のご主人に挨拶したいんだけど時間あるかな?」
「残念だけど夕方までは会えないわ。私と〈神聖術〉の練習があるから」
〈神聖術〉とはなんぞや。名前からして魔法に似た何かなのだろうか。
「それよりお客さんが来てるからその人に会うべきよ」
「俺に?」
知り合いなどいないはずの俺は首を傾げた。
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「もう体調はいいのかい?」
「ああ、心配してくれてありがとう。それに運んでくれたことにも感謝する。おかげで万全だよ」
「何もなくてよかったよ」
〈現実世界〉には浮かべることができる人物はいないであろう屈託のない笑顔を、昨日初めて会った少年が俺に見せてくれた。俺は今、運ばれた家(この村では教会というらしい)から、彼と会った場所まで歩いている最中だ。
セルカという名の少女に促されて外に出ると、恩人のユージオが待っていた。どうやら今日1日会った場所で話をするつもりで来たらしい。俺が目覚めていなければ、普段通りの生活をしていたよとのこと。運が良いのか微妙なところかな。俺からしたらとてもありがたいことだけど。
話は戻ってようやくあの場所についた。2回目だが見れば見るほど巨大な樹木である。樹皮は黒くて手で強く叩けば、こちらがダメージを喰らうほどの頑丈さだ。
「自己紹介がまだだったね。僕の名前はユージオ。よろしく」
「俺の名前は…キリト。
意味深で言ったのだが彼には通じなかったようだ。そりゃそうだよな。
いや、絶対にする。だってその人がRATHの関係者であることに間違いないからだ。
「僕は今から〈天職〉をするけど見る?といってもただこれに斧を叩き込むだけなんだけどね」
「見てみたいな俺は。伐るところを直接この眼で見たことはないから」
「クスッ、伐ったりはしないよ。言っただろ叩き込むだけだって」
「ユージオの仕事、〈天職〉は樵じゃないのか?」
斧を持ち、樹を伐るのであれば樵に他ならない。だが彼は伐ったりはせずに叩き込むだけと言った。一体どういうことだろうか。
「あながち間違いじゃないけどね。僕はこの〈天職〉を貰ってから7年が経つ。それでも1本も伐ってないんだ」
「じゃあユージオの仕事は何なんだ?」
「この巨木、その名も〈ギガスシダー〉。村のみんなからは《悪魔の樹》って言われてる。こいつをこの斧で午前中1000回と午後に1000回叩くのが仕事さ。ジンクには楽な仕事だなって言われるよ」
「ジンクって?」
「この村の現衛士長の息子さ。次期衛士長になる同い年の奴なんだけど、僕・アリス・カイトより剣の腕が下なのになれるのは可笑しいよ」
アリス。それはアスナとシノンと3人で、ダイシー・カフェにおいてそうではないかと結論付けた存在。〈RATH〉と〈アンダーワールド〉は、不思議の国のアリスからとったのではないかと。
「その2人は今どこに?」
「…連れていかれたんだ。手の届かないところに」
「手の届かないところ?」
「普通に生活していたら絶対に関わりのない場所さ。さあ、始めよう」
「なあユージオ、午前の仕事終わったらさっきの話の続きをしてほしい。聞きたいんだユージオがその2人ことを。どんなふうに生きていたのか」
あの光景に出てきた少年がユージオなら、他の2人がアリスとカイトなのだろう。
アリス。名前が一致しているのは偶然か必然か。彼女は俺の脱出のための鍵となり得る存在だろう。
カイト。どのような子供なのか予想できないが、名前からして男の子だろう。
2人との思い出は、俺の記憶にはないがそれでも会えるのであれば会いたい。会ってユージオがどんな少年だったのかを知りたい。こんなに優しく相手を思える少年のことを知らないのは、損以外のなにものでもない。
彼も〈人工フラクトライト〉なのだろうが、そんなことは関係ない。人工だろうと造られた存在だろうと彼らは生きている。本物の魂を持った生命体なのだ。俺・アリス・カイト・ユージオ・セルカを、〈現実世界〉に連れていきたい。この世界〈アンダーワールド〉の中ではなく、外の俺が生きる世界で共に生きたい。我が儘だとはわかっていても彼らに知ってほしい。外にはこのような場所があるのだと。
「…いいよ。僕の自慢の親友のことを聞かせてあげるよ」
「ありがとうユージオ。じゃあ、早く終わらせないとな。俺も手伝うよ」
「え?でも君は病み上がりだろ?無理しない方がいいと思うけど」
「早く終わらせて話を聞きたいからな。それに他人の〈天職〉を手伝ったらダメっていう項目でもあるのか?」
「そんなのはないけどキリトがしたいなら構わないよ。仕事が楽になるなら願ったり叶ったりだ」
ということで俺の樵参加が決定した。
「50っ!」
大きく振りかぶりコンパクトな腰の回転で斧を振るうと、見事狙っていた切り込み部分に直撃した。その際、小さな黒い破片が飛び散る。
「くは~!しんど!」
斧を静かに地面に下ろしたあと、大の字になって寝転がる。楽な仕事ではないことは予測していたが、ここまでハードだとは思わなかった。〈現実世界〉であれば、手足が筋肉痛を起こしていることだろう。それほどまでに肉体的ダメージが大きかった。
「お疲れ様」
「おう、サンキュー」
ユージオが投げ渡した革袋に入ったシラル水なるものを、貪るように飲む。甘酸っぱい液体が、乾燥でヒリヒリと痛んでいた喉を潤していく。
「さんきゅーってなんだい?」
アウチ!どうやら無意識で英語を使っていたようだ。
「ごめん、土地の言い回しが出たみたいだ。ありがとうって言いたかったんだよ」
「へぇ~。面白い使い方があるんだね」
ユージオが聞いたことのない言葉を聞けて嬉しいらしく、楽しそうに頬を緩めている。
〈アンダーワールド〉の世界は、神聖語なる言語と汎用語と呼ばれる言語を混ぜて生活しているようだ。神聖語が英語で汎用語が日本語といったところだろうが、ほんの少し違っている。例を上げながら説明しよう。俺が斧で懸命に削っていた巨木の名前は〈ギガスシダー〉という。英語にはそのような言葉はなかったが〈ギガスシダー〉とはラテン語であるGigasと、英語で杉を意味するCedarの合わさった造語だ。だから神聖語がすべて英語というわけではない。
「じゃあ少し早いけど休憩にしようか」
「待ってました!」
疲れて大の字からはね跳びの要領で起き上がる。疲労は何処へやら。飯となれば寝ている暇は無い。その様子にユージオが苦笑するので、ニカっと笑って何も起こっていないように誤魔化す。
「期待してくれるのは嬉しいけど、そんなに良いものではないよ?」
「貰えるだけで十分だ」
ユージオが渡してくれた丸パンを受け取りかぶりつこうとするが、ユージオが奇妙な行動をしたので、食べようとする自分の両手に緊急停止を命じる。緊急停止と空腹感を満たそうとする欲求が拮抗し、辛くも緊急停止を勝利させた俺はユージオの行動を見る。
人差し指と中指をそろえて伸ばし、それ以外を握った状態でSの字のような軌跡を描く。眼を点にさせている俺の横で、ユージオが2本の指ですかさずパンを叩く。
すると…。
何と言うことでしょう!金属が振動するような不思議な音とともに、薄紫色に発光する半透明の矩形が出現したではありませんか!
…すまん取り乱した。つい10年ほど前に企画されていた某番組の決まり台詞を使ってしまった。
ユージオが出現させたそれは、俺のおなじみ〈ステータス・ウィンドウ〉だ。これで完全に納得した。
ここは〈現実世界〉ではなく〈仮想世界〉であると。この世界に降り立ったとき、悩んでいたのが馬鹿らしく思えるがそれは仕方なかった。もしここが〈現実世界〉であったならば、周りに誰もいなかったとしても今のように指では動かさない。出現しなければ恥ずかしいの一言に尽きるからだ。
「ねえキリト、まさか《ステイシアの窓》を見るのが初めてとか言わないよね?」
「う~ん。俺のところでは、右手か左手でこうして上から下に動かしたら出てきたような気がする…」
「ふ~ん。もしかしたらキリトは地図にも載ってないような、小さな村の出身なのかもしれないね。それだったら早く記憶を取り戻さないと」
どうやら俺は、記憶喪失でこの村に来たということで話が進んでいるようだ。記憶を失ったわけではなく、知識が無いだけなのだが間違いではないかな?
まあ、今はそれでいいか。
「そうかもしれないな。でもたとえ記憶が戻ったとしても俺は戻らないと思う」
「え、なんでだい?戻りたくないの?」
「戻りたいさ。でも誰も知らないような村のことを聞き回っていたら、どれだけ時間がかかるかわかったもんじゃない。それなら俺はその時間を使って、この村で俺を助けてくれた人に恩返しをする。ユージオやセルカにね」
帰りたいのは事実だ。俺がこの世界に来てから既に24時間が過ぎている。たとえこの世界が〈現実世界〉の3倍加速(バイトのときの予測倍率)で過ぎ去っていたとしても、向こうでは8時間が経過しているのだ。明日奈・スグ・母さん・シノン・エギル・クライン・シリカ・リズを含めた大勢に迷惑をかけてしまっている。
だがこの世界で生きたいと願っている自分がいるのも事実だ。
〈仮想世界〉でありながら、ここまで〈現実世界〉に酷似した世界を楽しめる経験など普通ならできない。RATHのバイトで経験できるとはいえ、その中でどのようなことをしていたのかを知る術はない。何故ならダイブ中の記憶は〈現実世界〉に帰還する際、削除されるからだ。その理由としては、内部の機密漏洩を防ぐためだとスタッフの1人である比嘉さんは言っていた。
だが俺にはそれが詭弁に聞こえる。他に何か理由があってそれらしきことを伝え、口にしないようにしているのではないかと思う。だがそのことを証拠もなく考えても仕方が無い。
「…キリトがそれでいいなら僕は何も言わないよ。キリトと一緒にいたら楽しいから、ずっと一緒にいてくれたら嬉しいんだ」
「俺もだよ。ユージオにならなんでも話せそうだ」
嘘は言っていない。だが俺の本当のことを言えばユージオは動揺するだろう。下手をしたらフラクトライトが耐えきれず、崩壊してしまうかもしれない。初めてRATHに行って、魂のコピーとやらを見せてもらったときのように…。見ていてそれは心地良いものではなく、むしろ気分を害するような代物だった。
だがあれから3ヶ月という僅かな期間で、ここまでの文明と数多くの生命を生み出した。本当に恐ろしい限りだ。
「じゃあ時間も少ないし、パンを食べてキリトが聞きたがってた2人のことを話すよ」
「ああ、いただきます!」
俺は大きな口を開けて丸パンに齧りついた。
はやく2人とカイトを再会させたい。それだけを念じて書いております。