─────彼女に出会ったことが、俺の人生で一番の幸せだと、そのときは信じて疑わなかった。
「くそっ、」
夜。
昼間は賑やかな街も、闇の中で静かに息を潜めている。
その静寂が、余計に俺の癇に障った。まるで、俺の存在が、ないもののようで。
その日は最悪の一日だった。
カジノで大敗して人買いに拘束され、仲間には見捨てられた。なんとか逃げ切ったと思ったら、この時間だ。
仲間の元にはもう帰れない。……いや、帰るわけがない。あいつらは仲間でもなんでもない。
だが、この時間じゃもう店も空いていない。空かせた腹を満たすには、酒場くらいか。
でも、あそこはあそこで、絡まれたら厄介な連中がいる。
まぁ、何かを買う金が、十分にあるわけでもないんだが。
暗い路地裏を、目的地もなく歩く。
とりあえず、街灯のある方にでも、と、足を進めて。
「、っと、」
あと少しで通りに差し掛かるという所で、足元にあったらしい、酒瓶に躓く。
バランスを崩した身体を、とっさに立て直そうとしたが、やめた。
もう、どうでもよくなった。
どうせ身体は人買いとの騒動で傷だらけだ。
今さら、打撲傷ひとつ増えたところでどうということもない。
どさっ、と、鈍い音を立てて汚い路地に倒れ込む。
仰向けに姿勢を変えると、狭い夜空が見えた。
なんとはなしに見ていても、俺は、瞬く星の名前さえ知らない。
「なんなんだよ、ほんと……。」
ついてない。
それは俺の、今までの人生においても言えることだけど。
ろくに教育も受けていない。
まともな仕事もしていない。
毎日のように暴力を奮って、生傷も絶えない。
こんな生活を、俺は望んでいたんだろうか。
昔よりは、自由になったのかもしれないが。
夢にみた、人を笑顔にするような、エンターテイナーとはほど遠い。
自由に、誰かに遮られることもなく歌うことはできても、観客はいない。
むしろ、人々は俺に嫌悪の目を向ける。
悪評を享受し、好き勝手にやってきたのは俺だけど。
全てを、別の何かのせいにするつもりもないけど。
普通にさせてくれなかったのはこの世界だと、思わずにはいられない。
もう、この際、多くは望まないから。
あたりまえのことで、いいから。
普通の、
「幸せがほしいっ……。」
倒れた時の衝撃でか、昼に一度止まったはずが、もう一度流れ出した鼻血を拭って、そのまま目を覆った。
普通に生きることさえ許してくれない、この世界が嫌いだ。
「………………。」
いつまで、そうしていただろう。
もしかしたら、気を失っていたのかもしれない。
いいかげんに、と起き上がって、壁にもたれて座りこむ。
調子は、当たり前だがでない。
俺になにが起ころうと、明日はやってくるわけだから、このままではいられない、けど。
小さく、息を吸って。
こういうときは、と口を開いた。
おもむろに、思いついたままに歌いだす。
気分の落ち着かないときは、歌うに限る。観客はいなくても、その行為自体が好きだった。
歌いながらメロディをつくって、思い浮かぶ言葉を歌詞にする。
陰鬱だった気持ちのせいか、酷く暗い始まりだったけど。
だんだんと、気分が上を向いていく。
歌うことは、なによりも俺を救った。救ってきた。
いつだって、どこだって。
今の生活からは望めないような希望を歌う。
歌だけは、どこまでも自由だった。
「っは、」
歌い終わって、息をつく。
いつもは、それで終わりだったけど。
そのときだけは違っていた。
「え、」
控えめな拍手が、通りから路地へと響く。
その瞬間、あるはずのない、スポットライトを幻視した。
たった一人、俺だけを照らしている、それを。
─────そのとき、俺の世界が一転した。
人は大袈裟だと、笑うのかもかもしれない。でも、確かにそこで、俺の世界は変わったんだろう。
目の前も見えないような暗い夜から、星の瞬くやさしい夜へ。
音の出どころへ足を向ければ、あるのは鉄格子。
ぱっと見ただけでは誰もいないように見えたけど、奥の影からはみ出して、似合わない枷のついた白い足が覗いていた。
「拍手、ありがとう。」
他にもなにか、言いたいことがあった気がしたけど、そのときはそんな言葉しか思い浮かばなかった。
たぶん、声も震えていた。
それでも、彼女が俺を笑うことはなかった。
「あの、さ。俺はテゾーロ。君は?」
返事は、なかった。
落胆しなかったと言えば嘘になるけど、それでもかまわない。
姿は見えない。声も出さない。
「明日、また来る。」
でも、彼女が俺に拍手をくれたことだけは確かだった。
◇
翌日、適当に一日分の金を得て、鉄格子の前へ向かう。
夕方に近い時間帯。まだあたりは明るく、人も行き交っている。
見覚えのある通りに出ると、格子の前には数名の先客がいた。
「ねーちゃんよぉ、まだ売れ残ってんのか?」
人々がそこを避けて通る。
「俺がもらってやろうか?ほら、ゴシュジンサマって呼んでみな!」
「オイオイよせよ。この女は上玉だから高くて残ってんのさ。お前なんかに買えねーよ!」
ゲラゲラと、汚い笑い声が響く。
「上玉ったって奴隷だろ!ほらこっちこいよ!」
格子の間に、集団の一人がその汚い腕を入れている。
自然と眉間に皺がよる。
ああいいう輩が俺は大嫌いだ。正義感でもなんでもなく、見ていてぶん殴りたくなる。
声をあげようと、口を開いて、
「ってぇえええ!!」
「……は?」
手を差し込んでいた男の痛みを訴える声に、吸った空気が抜けていった。
「は!?なんだよ急に!!」
「こんのクソアマァ!!こいつ俺のこと殴りやがった!!」
「はぁ?」
周りの男達は、だからなんだ、といった感じである。
かく言う俺もだからどうした、と思っている。
格子の中の人物は女性なのだし、多少は痛みもあるだろうが、そう叫ぶような威力でもないだろう。
……いや、その前に、随分と度胸がある。
昨夜とは、些か異なる印象を受けた。
「ちげーよ!こいつこれで殴ったんだぞ!?」
これ?
男達が揃って中を覗くので、俺も後ろから覗き込む。
星の輝きをもつ長い髪に、夜明けを閉じ込めたような綺麗な瞳。
初めて目にした彼女の姿は、儚げで美しかった。
……不機嫌そうに構えられた手に、ごつい枷がなかったならば。
「う、っわ……。」
まわりの男達が殴られた男に同情的な目を向ける。
それに羞恥を感じたのか知らないが、男は格子を蹴りつけた。
「っのシネ!」
ガン、と大きな音がした後に、その振動で格子が揺れて鈍い音を出している。
満足したのか、ふん、と息をついて振り返った男と、目が合った。
「んだてめぇ。」
「…………。」
とりあえず。と拳を握り。
「がっ!?」
振り抜いた腕は男の頬へ。
「もう、行っていいぞ。」
すっきりした。
一発殴って満足したため、男を押しのけて格子の前に立つ。
後ろで、怒鳴る男を押さえる他のやつが、怯えたように俺の名前を言ったがそんなことはどうでもよかった。
「…………。」
俺が前に立っても彼女の眉間の皺がなくなることはなかったが、ようやく、初めての観客の顔が見られた。
「名前を、教えてほしい。」
見つめた彼女の瞳は迷うように揺れている。
「…………ステラ。」
「!いい名前だな。」
その瞳が彼女……ステラの笑顔とともに輝くところが見たいと、自然に思えた。
その日、格子の前に俺は座り込んで、あたりに人がいなくなる時間までそうしていた。
彼女に話しかけると、時々相槌や返答がある。
さっきのことも気になって、男に対してあんな態度に出るのはやめた方がいいと進言したが、彼女は俺を一瞥するだけで聞き入れる様子はなかった。
それに対して俺が咎めるような目でもしていたのか、彼女は眉根を寄せたまま、ポツリポツリとそのわけを言う。
自分はこの檻から出ることはないから問題ない。
檻にいればやつらは手を出せない。
ここから出たとしても、それは商品としてで。
あいつらに自分は買えないし、自分を将来買うやつに対して、喧嘩を売る度胸もないだろう、と。
淡々と言葉を紡いでいった。
それがなんだか気に食わなくて。
思わず、自分が売られることはなんとも思わないのか、なんて、ひどい質問を投げかけた。
それに彼女は、おかしげに笑って答えた。
「思うに決まってる。」
思わないとでも思ったの?と、目を閉じて、なにかに耐えるように続けた。
「私は、いつか買われる。
それで、買ったやつの気分で、殺されることだってあるだろうね。」
まるで、未来に本当にそれが起こるみたいに。
「最悪、だよ。」
そして、最低だ、と。聞き取れたのはおそらく偶然だろう、ってくらい、小さく呟いた。
その真意は、会ったばかりの俺にはわからない。
「自分を、助けられるだけの力があればいいのに。」
独り言みたいに、言った。
それでも、目の前にいる俺に助けを求めることはないんだな、と。
どうしてか、胸が締め付けられた。
さっきといい、見た目はこんなにか弱そうなのに。
変なところで気の強い女だと思った。
初めは、ただそれだけ。
それから、時間が空くと彼女の元へ向かった。
そして、ひとつひとつ、ステラのことを知っていく。
ひとつめは、変に気の強い女ってこと。
そして、俺が来ると、隠しきれていない嫌そうな顔をする。
ふたつ、俺の事が嫌いらしい。
俺が怪我をしていると、あまり目が合わない。
みっつ、暴力ごとも嫌い?
いや、男殴る女だぞ……。
……その日から、喧嘩をするのはやめた。
よっつ、意外と口が悪い。
いつつ、寝ている時はかわいい。
「ん?」
ふと見かけた店で、ステラに似合いそうなものを見つけた。
買うつもりがあったわけではないが、確認すれば手元には出どころの言えない金だけ。
…………あらゆるところに頭を下げて、まっとうな仕事を得た。
むっつ、ななつ、やっつ…………。
彼女の元に行くうちに、いつの間にか、俺を嫌悪する視線が少なくなった。
彼女も、呆れながらも俺の名前を呼んでくれるようになった。
前よりも息がしやすい。
前よりも、毎日が楽しい。
「え、」
その日も、彼女の前で歌を歌った。
今までも、ステラの前で歌うことはあった。
彼女は、それをただ、目を伏せて聞いていた。
その日、彼女は、俺の歌を聞いて。
小さく、幸せそうに、笑った。
「?」
ステラは、気づいていないようだったけど。
その日、俺は星に恋をした。
……もうずっと、そうだったのかもしれない。
それからは、彼女を自由にするための金を集めることに終始している。
まっとうな仕事で、自分で稼いだ金で。
彼女を自由にできたなら、俺の望む、自由も得られるような予感がしていた。
ステラが、俺が「自由にする。」と口にするたび、罪悪感を抱いてることは知っていた。
俺が「好きだ。」と言うたび、唇を噛み締めるのを知っていた。
それも、本当に自由になれば、変わることだと思っていた。
「ステラ。君が好きだ。」
好きなんだよ。どうしようもないくらい。
君に出会って、どれくらい俺が変わったと思う。
どれくらい、幸せだと思う?
「ステラ。」
だから、今更そんなことを言われたって、君を嫌いになんてなれないんだってこと、いい加減気づいてくれないか。
顔を、上げてくれ。
もう少しで、君を自由にするだけの金が貯まるんだ。
君の笑顔が、見たいのに。
時間が経つごとに、君の笑顔は減っていく。
下を向いたまま、首を振るばかりの彼女を気にしながらも、夜からの仕事に向った、次の日だった。
次の日、ステラは、俺の目の前で買われた。
「ふ、ざけんな。」
最後に、またひとつ君のことを知る。
彼女は、俺のために涙を流す、唯一の人だった。
◇
彼女を取り返そうと、買い手の天竜人に歯向かって、奴隷の烙印を押される。
何もかもが憎かった。天竜人も、世界も。
最後まで、俺になにか望むことはなかった、彼女さえ。
でも、一番憎いのは、他でもない自分だった。
許可がなければ笑うこともできない最低の場所で、あの日、路地裏で見上げた星空を思い出す。
名前を知らずとも、星々は綺麗だった。
「…………。」
ただ、一人。
たった一人、初めて思った彼女と。
彼女といたいと思うことは、そんなにも欲張りなことなんだろうか。
目を覆って倒れても、あの日聞こえた拍手は、もう。
ただ、これだけでも叶えられたらよかったのに。
……君が、「たすけて」を言えるだけの人間になりたかった。
ステラ「自分は自分で助ける(物理)」
テゾーロ「(´・ω・`)」