本当に厄介なものを連れて来てくれた。
きっと今の私なら、罠にかかった手負いの獣を眺めるような目で、ロアナプラの港に停泊しているHCLI社の輸送船を眺めるだろう。
私、イディス・ブラックウォーター――。
いや、今はロアナプラでの名前を使おう。アタシは通称、暴力教会で働くシスターエダ。
我がリップオフ教会――暴力教会は一応、バチカンにも登録されている表向きは立派な教会だ。
アタシはシスターエランダの下で神の教えに従いながら、教会の中でも数少ない武器の布教活動も行っている。
というのは表向きの私の顔――。
アタシの裏の顔はアメリカの諜報機関、CIAの工作員だ。
アタシは暴力教会のシスターエダとしてロアナプラで武器商人を装い。
私はCIAの工作員としてアメリカの国益を守っている。
ロアナプラはアジアにおける犯罪者たちの吹き溜まりだ。そのためロアナプラには新鮮な悪事の情報を手に入れるのには事を欠かない。
犯罪都市ロアナプラに集まる人間は犯罪者だけではない。犯罪者のフリをした他国の工作員やテロリストなどがテロや犯罪シンジケートの情報を探るためにロアナプラで潜伏しているもの多く。また、工作員自体もロアナプラで密輸や麻薬取引などをして資金を得るための隠れ蓑としてロアナプラで、犯罪者のフリをするものもいる。
そんな彼らの動向を調べるだけで、決してアメリカ本国では決して手に入れることが出来ない情報を、簡単に入手することができるからだ。
鮮度の高い情報はそれだけで価値がある。
一分でも情報が遅れれば、それだけで数千の兵が死ぬこともある。
大規模なテロを防げず、何百という民間人の死人をだすこともある。
我々、CIAはそういった事態を未然に防ぐために各地に工作員を潜りこませ、世界各国から情報を収集している。
麻薬組織の情報、テロ組織の情報、犯罪者の情報、犯罪組織に誤った情報を提供する、重要な犯罪者を裏で消す――。
情報を制するものは世界を制す。
ロアナプラで行われる犯罪者たちの動向や、テロリストなどの情報。時には暗殺を行いアメリカ本国へ利益を誘導する。それが私の真の仕事だ。
しかし、今回は本当に厄介なものがロアナプラに来てしまった。
私は、中国国内の革命派組織である『開放革命軍』がHCLI社と武器の取引をロアナプラ海域で行う、ということは知っていた。
この開放革命軍というのは、現在の腐敗しきった中国共産党から真に人民を解放すべく、現政府と戦う、という現共産党を妥当するために作られた組織である。
私はなかなか皮肉の聞いたこのネーミングセンスを気に入っていた。
本来ならば人民を守るはずであった中国人民解放軍からも、人民を開放するという意味でつけられた意味らしく、虐げられた人間たちの憎しみと、中国国内の矛盾に満ちた状況をうまく表現しているな、と私はひそかに気に入っていた。
そんな彼らは、西側諸国ではなくロシアやイスラム圏の組織をスポンサーとし力を着々とつけて行き、今では中国国内で「軍」と呼べる人間と装備をそろえた数少ない組織となっていた。
個人の心情的には彼らを応援したい、という気持ちも理解はできなくもない。
実際、アメリカ本国としても中国が行っている本国へのスパイ行動や政府公認の犯罪活動には手を焼かされているし。国民感情からも国内の仕事をその低価格な為替を理由に奪い。また、少数民族への弾圧やキリスト教徒を含む宗教の不自由は資本主義と自由主義をよしとする本国との姿勢とはまったく正反対なものだからだ。
私は開放革命軍の武器の取引の情報を得た時点で上司に指示を仰いだ。
そして、私の所属している組織の意向としては、可能な限りCIAの介入を匂わせずそれを妨害せよ、というものだった。
理由としては至極簡単なもので、いつかは勝手に崩壊してくれる今やアメリカの大きなお客様である中国が現段階で倒れるのは惜しい、ということ。
それから、将来革命が成功したとしても、アメリカの意向を汲まない反米政権が発足されてはやっかいだ、ということだった。
私は上司の命令に黙って従う――。
なぜならそれが我々工作員の仕事だからだ。
仕事に私情は含まない、あくまで国のために働く。
それがスパイというものだ――。
私は秘密裏にロアナプラの香港系マフィア「三合会」に所属している人民解放軍のスパイにその情報を流していた。
私の正体がばれぬよう、巧妙に。
そして、彼らの準備が整った、というときにトラブルが起こった。
我が主の思し召し、というものはなかなか複雑らしく。結局私が流した情報は私が意図した通りには行かないようだった。
HCLI社――ココ・ヘクマティアルが乗っていた船は偶然の事故を起こし予定の航路を変え、船の修理のために何の因果かロアナプラへと停泊することとなったのだ。
これは好機でもあるし、最悪の事態でもあった。
もし、この機会を活かしFBIのブラックリストにも名前が載っているココ・ヘクマティアルを暗殺することができたなら、世界に与える影響は少なくない。
今ここで、ココ・ヘクマティアルを殺すことができるならヨーロッパとアフリカでの武器の取引は大きく混乱するだろうし。それに付随してテロリストに流れる武器の質も大きく変わる。
しかし、ここでココ・ヘクマティアルの暗殺が成功してしまえば、中国が〈国営〉で行う武器の輸出産業はココ・ヘクマティアルという障害がなくなることで、よりスムーズにアフリカの混沌を招き、中国の国益を増すことになるだろう。
そうなると、アメリカの国益を大きく損ねる結果になるかも知れない。
だが、平和を愛する我が国としてもこれ以上、アメリカに無許可で戦場を広げてもらうのは面白くない。
命を天秤にかけられることで、世界の有様を大きく変えてしまう人物というのは多くない。少なくともこのロアナプラにはいない人間だ。
そして、上層部はココ・ヘクマティアルの暗殺を決定した。
私が再び人民解放軍のスパイに流した情報によって、三合会のスパイはラグーン商会にいるココ・ヘクマティアルを襲撃した。
しかし、残念なことに彼らの襲撃は失敗に終わった。
彼らはラグーン商会のレヴィとココ・ヘクマティアルの私兵に阻まれ、その命を散らす結果となったのだ。
三合会に所属していた彼らはその正体を無様に死体としてさらすことになったと、すでに街の噂になっている。
さすがは「死の商人」だ、と私は思った。
死を招く商品を売るだけでなく、自らも死をばら撒くのだから。
そんなことを考えながら、私は真っ暗になった教会の中で一人、タバコに火をつける。
シスター帽を取り、自分の長い金髪を下ろしながら、タバコの煙を肺に入れた。
不意に私の携帯の着信音が、教会内に鳴り響く。
私はタバコの煙を吐き出してから、その電話にでた。
「やあ、始めましてエダくん。いや、今はイディス・ブラックウォータと呼ぶべきかな?」
私は聞き覚え名の無いその声に戸惑った。
電話口からは野太い男の笑い声が無遠慮に響く。
「なぜ、この番号を知っている。貴様は何者だ?」
私は低く唸る。
私の素性を知る人間はCIA内部でも少ない。もちろん、このロアナプラではシスターヨランダ以外は私のもう一つの名も、その存在を知る人間はいないはずだ。
「私の名前はいろいろある。ブックマン、アディーブ、ブラッティナイオ。好きな名前を呼ぶと言い」
「あなたがブックマンですか。NCSのお偉いさんがただの工作員である私に直接電話されるとは意外です」
ブックマンがなぜ――?
CIA本部のヨーロッパ部門の課長である、本名ジョージ・ブラック。人形を操る人形氏のように人を言葉巧みに操ることからブラッティナイオ〈人形遣い〉とも呼ばれる彼の名は私も聞いたことがあった。というか、有名だった。
しかし、本部で作戦指揮をとるデスクワークのお偉いさんがなぜ現場仕事をする、しかも別の部署である私に電話をよこしたのか。関係があるとするならばココ・ヘクマティアルの暗殺か――。
私は顔をしかめた。嫌な予感がしたからだ。
「なぜ、私が君に電話したのか理解に苦しんでいるようだね……」
「ええ、まったく検討がつきません」
私は皮肉を込めて言った。
同じCIAといっても部署が違えば考え方も違う。もちろん共通しているのはアメリカ本国への忠誠だけだ。
思想も、思考も違う相手は一歩間違えばこちらの敵ともなる、たとえ同じCIA内部だとしてもお互いの思惑の相違の結果で秘密裏に殺し合いになることも、無くはない。
「話は簡単だ。ココ・ヘクマティアルの取引の邪魔をするな」
ブックマンの声色が変わる。
やはりココ・ヘクマティアルか。
私は残り少なくなったタバコの煙を肺に入れる。
「君が今やろうとしていることは、私の計画の邪魔だ。ココ・ヘクマティアルに手を出すことは許さん」
「許さん……?」私は自分の眉間にシワがよるのがわかった。
ほとんど灰になったタバコをハイヒールで踏み消すと、新しいタバコに火をつけた。
「何様のつもりだ、貴様。第一貴様と私の部署は関係ないはずだ!」
私の怒号が教会中に響く。
「君には悪いが、すでに君の上司には了解をとっている。それにそれぐらいの貸しは君たちの部署にはいくらでもある」
思わず私は怒りで咥えていたタバコを噛み千切りそうになった。
いくら縦割り構造のCIAであったとしても、自分が労力をかけて進めていた計画を電話一本でおじゃんにされるのは気に入らない。
しかも、私の標的とする相手が大物でその喉下にナイフを突き立てられる距離にいるのに、永遠にお預けを食らわせられるのは、屈辱以外の何物でもない。
「君の返答しだいだが。邪魔をするというのであれば君の上司は少々めんどうなことになる。もちろん君も」
「それで脅しているつもりか!」
私は叫んだ。
「どう思おうと君の勝手だ。しかし、これもアメリカのためであり、世界のためだ」
「世界の……?」
何を言っているのだ、この男は。
「私はただアメリカの国益のためにだけ動いているのではないのだよ。世界のためにはココ・ヘクマティアルを利用する必要がある――と言っても君はわからないかもしれないが」
「アンダーシャフト……?」
自分でもなぜその言葉が出たのかわからなかった。
しかし、ブックマンと繋がる言葉はそれだけだと思った。
「私の計画もずいぶんと有名になったものだ……」
電話の向こうでブックマンが笑ったのがわかった。
できることなら、今すぐその横面に一撃お見舞いしてやりたい、そう私は思った。
「武器商人を本気で鹵獲できると?」
私は皮肉な笑みを電話口のブックマンにもわかるように言った。
「ああ、現にココ・ヘクマティアルとは現在良好な関係を続けている」
ブックマンが「良好」の部分に力を入れた。
「武器商人をコントロールするのがプロジェクト・アンダーシャフトでしたわね……」
私は記憶の片隅にあるブックマンとアンダーシャフトという言葉を結びつける。
噂に聞いたことがあった。ジョージ・ブラックが武器商人を子飼いにしようとしていると。
その作戦の名は確かアンダーシャフトと言う名前だったことだけは覚えていた。
しかし、その全容を知るものは私の知り合いにはおらず、それに関係ないことだと思い、私はその作戦に関心を持たなかった。
「ああ」とブックマンは短く笑う。
その余裕のある声に私は生理的嫌悪感を覚えた。
「私も一応、武器商人ですのよ」
「確かに」私の心中を察してか、ブックマンは小さく笑う。
「なら取引と行こう」
「取引ですって?」
この男の話し方は気に入らない――。
私は声が怒りでうわずるのを感じて、わざと声を低く出す。
「君はココ・ヘクマティアルから手を引く。その代わり――」
「その代わり――?」
「君たちが命じた。ラブレス家党首暗殺のことは明日の朝刊には掲載らない」
「それでは脅しではないか!」
私は怒りを抑えられず声を荒げた。
すでにことは交渉ではなく、ブックマンから我々への恫喝へと変わりつつあった。
南米十三家の一つ、ラブレス家の当時の党首の暗殺を命令し、南米の社会主義運動の妨害をしたことが私が所属する機関の妨害工作ということがわかれば、世界的にアメリカの立場が危うくなる。
しかも、それが何者かによってマスコミにリークされたとなれば、私が所属する機関の情報漏えいということになり、私の上司の首が飛ぶだけではすまなくなる。
最悪の場合、私が所属する機関はCIA内部で潰されることになりかねない。
「CIA全体に汚名を着せる気か。貴様は!」
私はブックマンがそれほどまでにココ・ヘクマティアルに入れ込む理由を考える。
たかが一人の武器商人の命がCIAの名誉を傷つけることよりも優先される――という事がどうしても私には理解ができない。
そうまでしてココ・ヘクマティアルを守る理由は何だ?
「どうだい、答えは決まったかな?」
先ほどまでと変わらぬ声色でブックマンは言う。
「どうしてそこまでココ・ヘクマティアルにこだわるのでしょうか?」
ブックマンは私の質問を鼻で笑い「君が知る必要はないことだ」と冷たく言い放った。
「私はこれでも妥協をしているのだよ。開放革命軍のことについては、そちらの好きにするといい。しかし、ココ・ヘクマティアルに手を出すことだけは許さん」
私は怒りで震えている自分の身体を抱きしめる。
この場にブックマンがいれば、その脳天に銃弾を打ち込んでやるのに――。
私はブックマンにわからぬよう、唇を噛んだ。
「さあ、どうする――?」
ブックマンは平然と私に答えを求める。
私がなんと返事をするのか分かっているくせに!
「すでに私の上司にも了解を得ているのですよね?」
私は唇から流れ出てきた血を舌で舐めとる。
「ああ、君に連絡したのは念のためさ」
こうなることは分かっていた、といわんばかりのブックマンの態度に私は「嫌な男だ」という言葉を飲み込んで「分かりました」と返事をした。
「ほどなくして、君の上司からも知らせがくるだろう。そのときは、まあよろしく頼むよ」
ピザの注文を終えたかのように、最後まで飄々とした物言いをして、ブックマンは電話を切った。
私は「ツーツー」という電話が切れた音を聞きながら、怒りで沸騰した頭をどうやって冷やそうかと考えていた。
「イエローフラッグにでも飲みにいくか……」
私がアタシに戻る――。
アタシは重苦しい修道服を脱ぎ捨てながら、裸になっていく。
肌に触れる夜風が怒りで火照った身体を慰めてくれる。
気に食わない男だ――。
アタシは教会の中を裸で歩きながら自分の部屋へと向かう。
レヴィにあったらロックとの事を散々からかってから酒をおごらせよう。そう心の中でつぶやいた。
今夜のことはバカルディでも飲んで忘れてしまおう――。
私が上司から作戦の中止を直接言い渡されたのは、イエローフラッグで大金が入ってかご機嫌だったレヴィにたらふくバカルディをストレートでおごらせた数時間後のことだった。