ピリピリとした肌を刺す空気に俺は思わずは今いるホテルのホールから逃げ出したくなった。
はり詰めた空気の原因はただ一つ――。
張率いる三合会、その最大の商売敵である『ホテルモスクワ』の女首領バラライカが部下を一人引き連れ、俺たちが泊まっている三合会のホテルに乗り込んできたからだ。
三合会からすれば自分達の縄張りを土足で荒らされているようなものである。もしも、相手がただの下っ端であったならば、すでにその身体は一瞬のうちに鉛弾で体重を二、三倍にされて棺おけに放り込まれていることだろう。
しかし、縄張りに踏み込んでくる相手がトップなら話は変わる。
敵対する組織の上層に位置する相手であるがこそ、その扱いを誤ればお互いに血みどろの殺し合いになる。存外に扱うのも相手がトップなら相手の部下が黙っていない。
今、三合会の配下のホテルにバラライカがいるということは、それを三合会のトップである張が黙認させたということだ。
お互いに面倒ごとはさけたい、という張からの無言のメッセージなのである。それをバラライカも理解しているからこそ、自分の腹心の部下を一人だけ連れ、武器を振り回すこともなくおとなしくしているのだ。
これにもココ・ヘクマティアルが絡んでいるのか――?
俺は緊張感漂うホテルのロビーで一人優雅にコーヒーを飲んでいるココ・ヘクマティアルに目をやった。
「さすがは武器商人だな」俺はこんな状況にも動じないココ・ヘクマティアルを眺めながら誰にも聞こえないようにつぶやいた。
そんな俺の視線に気がついたのか、ココ・ヘクマティアルが顔を上げる。不意に俺と彼女の視線が交わる。
「ロックさん!」とココ・ヘクマティアルがいたずらっ子のようにニヤリと楽しげに笑って大声で手を振りながら俺を呼んだ。
この状況でわざと俺の名前を!
「おや、ロック。あなたもここにいるとは思っていなかったわ」
メリハリのきいた女性を主張する身体を赤いスーツで包み、常に肩に軍服を引っ掛けて葉巻の煙を漂わせて闊歩する女首領、バラライカ。本来ならば、出るところは出て、引っ込むべきところは引っ込んでいるモデルのようなスタイルに目がいくのだろうが、ほとんどの人間は彼女の顔を見て震え上がるだろう。
「火傷顔〈フライフェイス〉」と恐れられる彼女の顔にはあだ名どおり、顔から胸にかけて拷問の後と思われる大きな火傷の跡が残っているからだ。その火傷の跡を隠すことなく堂々と振舞う彼女の姿は一人の女性というよりも、歴戦の戦士そのものだ。
元々、彼女は旧ソビエト連邦時代に第三次世界大戦で戦い抜くことを想定されて設立された部隊の隊長であり。ソビエト連邦崩壊後、ロシアマフィアとしてロアナプラでもその統率力と軍事力を背景に一大勢力として幅を利かせている組織の一つである。
彼女が率いるホテルモスクワの戦闘力は他の組織のそれを凌ぐものがあり、よほどの馬鹿でない限り、バラライカ――ホテルモスクワに手を出すものはいない。
「悪いけどロック。あちらの女性を紹介してくれないかしら?」
バラライカは俺の返事などはなからきく気などない様子でハイヒールで甲高い音を立てながらある女性の方へと向かう。
「あなたが開放革命軍のミセス・フーか始めまして」
バラライカは驚いたことにココ・ヘクマティアルを素通りして同じフロアにいた開放革命軍のフーに手を差し出した。
「あいにくまだミス、ですの」
握手を求められたフーは一瞬、バラライカの火傷の跡に目をやって何事も無いような顔をして、求められた握手に応えた。
あの火傷跡を見てなんとも思わないのか。
俺は単身ラグーン商会へ援護に来たフーの事を改めて、侮れないと思った。
「わざわざ俺のキレイな顔を見に来たのかバラライカ?」
周りの空気が弛緩する。ホテルの奥からサングラスをかけ、首にマフラーを垂らした男――三合会の首領である張が部下を押しのけ姿を現す。
「相変わらずジョークのセンスは最悪だな、張」
バラライカは呆れたように口をへの字にまげた。
「そいつは心外だ」とバラライカの言葉に傷ついたと言わんばかりに顔をしかめて見せる。
「まさか、わざわざ我々のホテルに泊まりに来たわけじゃないだろう?」
「顔を見に来たのさ。張、お前じゃなくこちらのお嬢さんとあちらのお嬢さんの」
バラライカがココ・ヘクマティアルに視線を向ける。
当のココ・ヘクマティアルは「私ですか?」と素っ頓狂な声を出す。
「ええ、あなたのお父上にはずいぶんとお世話になりました。色々と」
バラライカは「色々と」の部分を強調して、何かを思い出すように目を細めた。
「それは光栄ですわ……」
ココ・ヘクマティアルはにっこりと笑ってバラライカの前に立つ。バラライカの火傷の跡に臆することなく笑顔で接する彼女に俺は「武器商人の仕事も大変なんだな」と同情した。
「武器が必要でしたらいつでもご連絡を」
ココ・ヘクマティアルが丁寧に名刺を渡す。
「それなら、カタログを送ってくださるかしら?」
バラライカが笑いながら名刺を受け取り。
「いい商品が揃ってますよ」
フーが二人に合いの手を入れた。
談笑している彼女らの姿を遠目から見れば美女三人の井戸端会議に見えるだろう。俺も光景だけなら日本で見たことがある。しかし、彼女たちの話題の商品はその容姿には似つかわしくない『武器』だ。
「ことわざに『三人寄ればかしましい』とあるがあの三人じゃ『三人寄って恐ろしい』だな」といつの間にか俺の横にいた張が笑って言う。俺は「その通りだ」と声にださず大きく頷いてみせた。
「それでは私はそろそろ帰るとしよう。軍曹、車の用意を」
バラライカは凛とした声で隣にいる部下に指示を出した。
「お早いお帰りだな、バラライカ。いい中国茶が入ったんだ、なんなら土産に持って帰るといい」
飄々とした態度で張が部下に目配せをして見せるが「結構だ」とバラライカに断られた。
バラライカの甲高いヒールの音がホテルのホールに響く。
「そうそう」バラライカが思い出したように振り向いて、フーの顔を見て言った。
「香港の奴らが信用できないなら、ミス・フーうちに来るといい。我々はお前たちなら歓迎しよう」
バラライカが車に乗り込みホテルから見えなくなると、ほぼ全員が同時にため息を吐いた。それが安堵のため息だということを俺も含めた全員が自覚したことだろう。
そんな様子を一人、タバコを吸いながら眺めていた張が「ココ・ヘクマティアルの観光案内は任せたぞ」と俺の肩を叩いてどこかへ姿を消した。
ホールに集まっていた三合会の人間も張がいなくなると自分たちの持ち場にもどったのか、次々にいなくなっていった。
「いつもこんな調子なんですか?」
フーが俺の顔を覗きこむ。
「まあ、たまに」俺はフーにあいまいに答えた。というか、どう答えていいのか分からなかった。
バラライカがわざわざここに来た理由はおそらく、フーが所属する開放革命軍に関係することだろう。
俺はラグーン商会から三合会のホテルに向かうまでにフーが打倒中国共産党を目的とした開放革命軍の戦士だと言うことを聞いた。
彼女が女だてらに幾多の戦場を渡り歩いて来たことは、京劇の仮面を被った男たちとやりあったことからも明らかだった。
「あのロシア人の火傷の女性が来られたのは私たちが原因でしょう?」
「さあ、どうでしょう」俺はフーの鋭い観察眼に舌を巻いた。きっと彼女の中ですでに回答は出ているに違いない。
わざわざ三合会のホテルにバラライカが乗り込んできたのはフーに「ロシアマフィアは敵ではない」というメッセージを伝えるため、だったのだろう。
もともと旧ソ連と中国自体の関係は良好とはいえなかった。バラライカが戦場で闊歩していた時代は冷戦の真っ只中ということもあり、欧米諸国との対立ばかりが話題になっていたが国境線を共にする旧ソ連と中国も対立していたのである。
現在、崩壊してしまったソビエト連邦に成り代わり対立していた中国がアジアでその軍事力を背景に勢力を伸ばしつつある。
ソ連軍の退役軍人やロシアスパイ「KGB」が多く所属するロシアマフィアとしては中国がデカイ顔をしているのは気に入らないのだろう。
いや、気に食わないのだ。
だからこそ、バラライカが乗り込んできた。そして、フーにメッセージを伝え、三合会に彼女の開放革命軍の邪魔立てをするなという警告もした。
もちろん、開放革命軍はロアナプラには関るな、という意味でもあったのだろう……。
俺の考えを読んだのか、フーは俺の顔をまじまじと見ながら「ロアナプラに長居はしませんよ?」と言って俺の視界から消えた。
「やっぱりロアナプラって噂通り物騒なところなんですね。ミスター・ロック」
ココ・ヘクマティアルが笑いながら俺にハンカチを手渡す。
フーの次はココ・ヘクマティアルか、美人に囲まれてうれしい限りだ。涙が出そうなほどに。
俺は彼女から手渡されたハンカチに戸惑っていると「汗、すごいですよ」と俺の目を見た。
俺は自分でも気づかないうちに額に汗を浮かべていたようだった。もちろんバラライカと張のやり取りでかいた冷や汗だ。
「どういう噂かは知りませんが。たぶんその通りだと思います」
ココ・ヘクマティアルに手渡されたハンカチで汗を拭いながら答えた。
「それはそうと。昨日のことがあった後で申し訳ないのですが、お願いしたものは準備できそうですか?」
下から俺を見上げるその瞳は、整った顔立ちも相成って男を引き込む魅力を感じた。彼女を武器商人と知らない男ならその瞳に無条件に誘惑されてしまうことだろう。
年上のおじさまという年齢の男性であったなら誠心誠意、貢物を彼女に渡すのかもしれないな、と俺は密かに思った。
「ほとんど昨日の夜の時点で注文は終了しています。いくつかは分かりませんが、ほとんどお渡しした見積書通りの金額で今日の夕方にはそろうでしょう。すでに私の同僚が動いていますし……」
「さすがです!」
ココ・ヘクマティアルはその笑みを深めて安堵のため息を吐いてから
「こんなところに埋もれさせるには惜しい人材ですよ」と嘘とも本気ともつかない口調で言った。
「光栄ですが、遠慮しておきます」
俺は顔に日本のサラリーマン時代に見につけた営業スマイルを彼女に向ける。俺は自分の心のうちに言いようの無い怒りが彼女に湧き上がってくるのを感じて戸惑う。
いや、俺は実はずっと彼女に怒りを抱いていたのだ。ただ、それを今まで我慢していたに過ぎない。
「今日、ヨナくんは?」
俺は知らず知らずのうちに出た自分の言葉に驚いた。
俺の言葉にココ・ヘクマティアルは「ええ、無事ですよ?」と不思議そうに首をかしげる。
「この街は子供が来るようなところじゃありません」
俺は自制の聞かない自分の口に嫌気がさした。俺の心中をべらべらとしゃべる己が口が未だに癒えずにいる自分の心の傷を誰彼かまわずさらけ出そうとしているのが気に食わなかった。
俺はあの子たちに同情できるほど立派な人間じゃない!
不意に俺の脳裏に「かわいそうな双子」の顔が浮かぶ――。
「この街の光景をヨナにも見せたかったんです」
ココ・ヘクマティアルが小声で俺にささやいた。その言葉はまるで自分の心を吐露するように俺には思えた。
「きっと、この街はヨナが今まで見た中でも最悪でしょう」
「……」
俺は黙って彼女の言葉を聞く。
彼女のほどの財力があればヨナよりももっと優秀な兵隊を雇うことは容易なはずだ。ココ・ヘクマティアルがヨナを側に置いておく理由が俺には気になった。
なぜ豊富な資金を持つHCLI社の実子、ココ・ヘクマティアルがわざわざ少年兵を連れているのか――?
そういう『趣味』の人間もロアナプラで嫌というほど見てきた。しかし、俺は彼女がそんな人間ではないという、確信めいたものを俺は感じていた。
「ミスター・ロック。私はヨナに色々な世界を見せてあげたいのだよ」
ココ・ヘクマティアルの口調が変わる。常に顔に貼り付けている笑みが不気味に歪んだ気がした。
「金、女、権力、薬、暴力。この街は銃弾をばら撒くだけの戦争の『穢れ』とは異なる世界だ。それこそ人間が原始のころから抑えてきた欲望を抑えきれなかった世界の結果の一つといっても過言ではない――」
ココ・ヘクマティアルが俺の顔を覗き込む。俺は彼女の瞳の奥にくすぶる黒い炎を感じて後ずさる。
「平和の国で過ごしてきたミスター・ロックなら理解していただけるかもしれない。この世は美しくなんかないと」
俺は彼女から感じる異様な空気に圧倒されて、ただ黙ることしかできない。
「私はこの世界をヨナがどう感じるかに興味があるのです」
「俺は……」
俺は何を言うべきなのだろう。
「あなたも世界に絶望したことがある――。そうでしょうミスター・ロック?」
ココ・ヘクマティアル――一体何を考えている。いや、何を企んでいる?
俺は彼女の言葉の奥に潜む思惑を一瞬、垣間見た気がした。
「私としたことがとんだ失礼なことを……」
さっとココ・ヘクマティアルの歪んだ笑みが消える。
「さっき言ったことは忘れてください」ココ・ヘクマティアルはバツが悪そうに舌を出す。周りの空気がガラリと変わる。まるで部屋の電球を古いものから新しいものに換えるぐらいに明るく華やかに。
「ココ、どうしたの?」
ヨナが心配そうな顔をしてココ・ヘクマティアルに駆け寄る。
その姿は親を慕う子供のように俺には見えた。
「では、後ほど……」
二人の姿にいたたまれなくなって、俺は逃げるようにその場から立ち去る。
ゆっくりとした歩調が徐々に早足になっていく。
俺は今すぐ信頼しあうように寄り添う二人から離れたかった。
俺には二人の光景は神聖なもののように感じられた。ココ・ヘクマティアルの真意はともかくとして、彼女に寄り添うヨナの真心をココ・ヘクマティアルを心配する表情から読み取ることが出来た。
傭兵と雇い主の関係であるにも関らず、二人の関係はずっと温かみのあるもののように俺には感じた。
しかし、俺の中のもう一人の俺は「子供を戦わせるなんて許せない」といきまいている。人の命が軽々しく扱われるロアナプラであってもこの劣悪な環境以外の選択肢を与えられなかった子供たちが苦しむのを俺は見たくなかった。
それはココ・ヘクマティアルの私兵であるヨナとて、俺にとっては同じだった。