館広美、高校野球の世界でこの名前を知らない人間はいないだろう。春の甲子園で優勝したエースで、打線でもクリンナップを任せられると桐生の中核ともいえる選手だ。しかし、この輝かしい高校生時代から考えれば、中学時代の彼は全く想像もつかないだろう。
身長はあったが体の線は細く、何よりも自信を持っていなかった。彼らが中学三年生の頃、未だあの怪物たちは無名の存在で、そんな彼らに手も足も出なかった自分たちが本当に強豪校である桐生に来ても良いのかと戸惑いすら見せていた。そしてそれは館だけではなかった。この世代の新入生は皆そうだったのだ。そんな彼らがとったからこそあの優勝には意味があるのだ。
大阪の誇る名将、松本監督は後にこう語る。
「あの子らはほんまによう頑張りました。……正直ね、あの子らの代はもうあかんなて……さじを投げとったんですわ」
一度はさじを投げられながら、それでも立ち上がった。その先頭に立っていた男こそが館広美だった。
マウンドに向かう館に声をかけようとしたマネジャー、泉を片手を挙げることで止めた松本は館にたった一言を送った。
「いっぺん後ろ見てみい、館」
前を見て、ただ進むことでチームを引っ張ってきたエースにとってこの言葉も、監督の態度も全く理解できるものではなかった。これまで徹底してしんどい練習をやらされてきた。怪物一年生がやってきても、このチームの核はお前だの一言で……一度も後ろを振り返ることなんて許されなかった。
「エースが揺らげばチームが揺らぐぞ」
この言葉を胸に刻みやってきた。だから彼は気づかなかったのかもしれない。
彼の後ろには七人の味方がいて、目の前には頼れる相棒がいて、スタメンの座を後輩に奪われても、一度も試合に出たことがなくてもベンチから声を出してくれる仲間が居るのだ。当たり前のことなのだ、ただこの当たり前のことに気づかないほどに視野が狭くなっていた。水木と戦えるつもりになっていた、エース争いをするつもりになっていたのだ。
(あほらしい、ほんまに俺はどうしようもない)
思わず顔に笑みが浮かぶ。そこに浮かんでいるのは自嘲の笑みか……それは本人にしかわからないが
(急にそんな満面の笑みを浮かべられてもなぁ)
水木からすれば楽しくて仕方ない、そんな笑みに見えた。
バッターボックス上でゆらゆらと不規則なリズムをバットで刻む水木に対して、桐生ベンチは守備シフトを大きく変えてきた。水木のバッティングの特徴はそのタイミング、キャッチャーがからぶったと感じてからやってくるバット、それを可能にするスイングスピード。ボールの内側を強くたたく関係上ほとんどの打球が流し打ちになる。それを考慮しての守備シフトまるでメジャーリーグのような異様なシフトをしいた。
(引っ張り打てと言わんばかりだね……ああ、やだやだ。泉の手のひらの上ですか)
館の初球、アウトローに決まったストレートを見逃して大きく息を吐く。二球目も同じくアウトコースに投じられたが、球種が直球ではなくスライダーで変化に対応できずバットが空を切る。わずか二球で追い込まれる。
この状況で追い込んでいるのは館だが、ここには大きな駆け引きがあった。あえて大きく守備に穴を開けた桐生、あえてそこを狙い撃つことを示した水木。この駆け引きのひりついた空気の中、桐生は笑みはさらに大きくなっていく。
(今俺はあの水木と駆け引きをしとる、俺が……俺は俺や、俺が桐生のエースや)
インハイに投げ込まれた直球、うなりを上げて迫るそのボールに水木の反応が僅かに遅れる。体をひねり何とかバットに当てようとする水木をあざ笑うかのようにボールはミットに突き刺さった。
「クソッ」
小さくつぶやかれたその言葉は館広美の心からの雄叫びに打ち消された。
「おいおい、ピンチでも何でもない場面で九番バッターを打ち取った。……それだけだろうがよ」
一番バッターは俺だ、青道の切り込み隊長は俺だと覇気をみなぎらせる倉持に対してもシフトを敷いた。俊足対策の前進守備、この前進守備は館の重いボールと相性がよかった。
二球目のインコースへのシュートが内野ゴロに終わった。
そして二番の小湊に対しては多少の甘さは許容し、徹底してストライクゾーンでの勝負。ボールを運ぶ力もなく、倉持のような足もない小湊に対してこの攻め方、ここに来て研究の内容が生かされてきていた。
五回の裏、クリスという捕手にとって水木という投手は初めて会ったときからなにも変わらない、尊敬する投手だ。
あの頃の自分はスタメンの座を勝ち取り、調子に乗っていた。そんなときやってきたこの男は今プロの世界で戦う東と戦い、その東を三振に切ってとり不敵に笑って見せたのだ。
東が卒業するときに笑いながら話していたのを覚えている。
「多分やけどなぁ、アン時の水木相手やったら十回やったら七回勝てる。後にも先にもあいつから三振とられたのはあの一回だけや。……せやけどあいつはそれをあの場面でやってみせる、それができる男や。お前も大変やなぁ、あいつとバッテリー組まなあかんとは」
クリスが思うに、水木は俗に言う持っている選手なんだろう。怪我に直面しながらでも必死に前を向き、そして進む。その姿は多くの人の心を打ち、会場の空気を変えてしまえる選手だ。だが水木を怪我させるまで追い込んでしまったのは俺たち今の三年生なんだろう。だからこそ自分たちがしっかりしないといけない。
優秀な投手におんぶに抱っこな捕手はいらない。この試合中に見せた明確な拒絶の意思、それを出させてはいけないのだ。この男の相棒である以上、リードや駆け引きなんて言う戦いは俺が受け持つ。俺が引っ張るそれぐらいの気持ちが必要なのだ。
(さぁ怪物退治だ)
初球、アウトローへと投げ込まれたカットボール。手元で鋭く曲がるこの球を岩崎は振り抜いた。
打球は上がりこそしなかったがすさまじい勢いで一二塁間を破ると、その勢いを保持したままライトの白州の元まで転がってきた。
あまりの打球の速さに白州がライトゴロを狙う。割ときわどいタイミングだったが判定はセーフ。この試合桐生、初ヒットがでた。
その初ヒットは周囲をざわつかせるのに十分な打球だった。
クリスがマウンド上に声をかけに行く。
「すまん、少し軽率な配球だったな」
「まぁスタンドに入らなかっただけもうけでしょ。……大丈夫ですよ、ここは負けても良い場面です。次の館さんを抑えましょう」
思ったよりも冷静な態度に違和感を覚えつつも、この先への影響は少ないと見たクリスは一声かけて戻ることにした。
「次は抑えるぞ」
「当たり前じゃないですか」
打てば響くように帰ってくるその言葉が、この男が本当はびっくりするほど負けず嫌いなことを表していた。
そんな負けず嫌いがさっきの打席で三振に取られた投手を相手になにも思わないはずもなく、初球からクリスのリードに首を横に振った。
初球はアウトコースに直球、二球目も同じところに同じボールを、ここまでわかりやすくやられると館も気づく。これはさっきの自分のリードをそのままやり返そうとしている。そう思いインハイの直球一点張りになってしまった館は責められないだろう。
実はみんな忘れがちだが水木はひねくれているのだ。やられたらやり返したいが、そっくりそのままやり返すのは芸がない。やるなら完全に手のひらの上で踊らせてやる、そう考える人間なのだ。
三球目はここまでと全く同じアウトローへ、逆をつかれてはバットに当てることすら困難。館のバットは空を切り、水木の顔に悪そうな笑みが刻まれる。
うまくはめられたことに気づいた館の顔に青筋が浮かぶ。青道のメンバーからはあきれているような雰囲気が出ていた。
ランナーが出ると投手はフォームを変える必要がある。盗塁をさせないために、クイックと呼ばれる投げ方にすることによりランナーの動きを封じる、しかしそのクイックは野球の進化に併せてランナー対策の域を脱し、打者のタイミングを外すものにもなっていた。
水木のクイックは左手の使い方に工夫が隠されており、打者のタイミングを外させるものになっていた。勝負はよーいドンで始まるわけではない。桐生の打者は見事にタイミングを外された。これまで積み上げてきた経験が枷になる、水木が負けないエースになりつつある理由はピンチでの強さだ。
桐生はこの回ヒットこそ出したがそこから先に進むことはできなかった。
青道高校の打線では三番クリスと、四番の結城この二人は文字通りレベルが違う。
予選では2人とも敬遠するというのが作戦の一つとして成り立つレベルの打者だが、ここで逃げるような投手がなれるほど桐生のエースの座は甘くない。
館の初球はインコースへのシュート、鋭く食い込んでいく変化がバットの芯を外す。勢いのない打球はファールゾーンへと落ちる。
館の笑みを見てクリスも笑みを浮かべる。
多くの打者はリードを読むという技術を求められる。これはここまでのリードや相手の癖、守備位置などから相手の配球を読む。これを最も得意とするのがキャッチャー、何せそれが彼らの主戦場。
館の二球目、フォーク。このボールをクリスのボールがすくい上げる、打球は内野の頭を越えてクリスが出塁する。
ここで打席が回るのが結城、四番打者としての風格をまといつつあるこの打者を相手に館も覚悟を決める。
館自身が感じていた、目の前に居る男は未だ未熟とはいえ岩崎の領域に片足を踏み込んでいることに。自然と入る力を意識して抜く。
無意識にその笑みがさらに深くなる。
館広美、この試合渾身の一球。絶対の自信を込めて投じられたインコースへのシュート。
結城の反応もこの試合で最もよいモノだった。この勝負という意味では結城は勝利をつかんだ、それでも桐生がチームとして勝利をつかんだ。三遊間を突き破りそうな打球を三塁手の岩崎が止める。初ヒットにゲッツー、試合の流れは完全に桐生の元に流れつつあった。
ノーアウトでランナーを出しながらゲッツーという結果の主砲。
「すまん、次は打つ」
普段であれば覇気をみなぎらせるその言葉にはいつものように覇気がみなぎることはなく、様々な感情がごちゃ混ぜになっていた。
「大丈夫ですよ、この試合は完封するんで」
「……俺はお前にふさわしい四番なのか、主将になれているのか?」
周りの選手にも監督にも聞こえないほどのつぶやきは確実に本音だった。
もとより自分のことを主将などにふさわしい器だと思ったことはない。そこにこんなエースまでいるのだ。
そんなつぶやきもどうやらこのエースの耳には届いていたらしい。
「ふさわしくはないでしょ……なんていう冗談がほしいわけじゃなさそうなんで本気で答えるなら、あほらしってとこですかね。俺は結城さんに東さんみたいなキャプテンシーを求めてるわけでも、結果を求めてるわけでもないんで」
「だが俺じゃなくて、クリスの方が……」
「俺は結城さんだから戻ってこれたと思いますよ。秋大会で、大事なところで怪我ででれない投手をかばうような人だから、別にキャプテンに求められるのは一つじゃないでしょ。らしさが大切なんですよ、らしさが。結城さんらしさって何でしょう?」
グラウンドでは増子が内野ゴロに倒れて審判が交代を告げていた。
立ち上がる水木に決意を
「……水木、俺にはまだまだ実力が足りない。東さんのようにみんなを引っ張っていくことも、支えることもどうすれば良いのか皆目見当もつかない。だから俺にできることだけを言おう、俺に任せろ、次は打つ」
照れて顔を隠す水木、そんな雰囲気とは別に試合の流れは変わりつつある。
その流れを決定づけるために桐生は切り札の一枚をきる決断をした。
「さぁ、出番だよ」
桐生の秘密兵器、同じ地区の相手には見せたくないジョーカーがついに放たれた。