その日から飢えをなんとか耐え凌ぐ日々だった。
冷蔵庫にある物はなんでも食べた。それが無くなると今度は調味料にまで手を出して飢えをしのぐ。とにかく何とかしてその日を生き延びなければならない。
リビングにある黒いものから最近酷い匂いがするようになった。
何日経っただろうか、玄関から物音がする。
「とうさん!」
綴は最後の力を振り絞り、玄関へ駆け出した。
だが、玄関が開くとそこに居たのは知らない警察官と祖母だった。
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「ごめんね 、こんなことになるまで気が付かなくて。もう大丈夫、安心して」
「ううん、ありがとう。
あのね、ばあちゃん」
「どうしたの?」
「……ぼくね、父さんをいい子で待ってるって約束したの。いい子で待ってたの、お外にも出なかったよ? だから、父さん、帰って来てくれるんだよね?」」
しかし祖母から返事が返ってくることはなかった。
その日からは祖母がいる村で一緒に住むことになった。祖母は目が悪かったので、綴は祖母の目の代わりをやっていた。
そんなある日だった。彼らがやって来たのは。
「ただいま、おばあちゃん」
そう言って玄関を開けると、着物を着た男や女が祖母と話をしているところだった。
「おかえりなさい。早く部屋へ行きなさい。私はこの人達とお話してるから」
「………うん」
頷いて綴は男と女に会釈をしてから横切る。
横切ろうとした。
「キミが、紬さんの息子だね?」
「つむぎ?」
「キミのお母さんの名前だよ」
「その子と貴方達は関係ないはずです! 帰ってください!」
祖母は焦ったように男に訴えるが、男は聞こえていないかのように話を続ける。
「キミはいつまでここにいるのだ?」
いつまで?
「だって、気が付いているんだろう? 自分が普通じゃないことくらい」
男はとても柔和な笑みを浮かべているが、決してしゃがまず、ずっと綴を見下ろしながら話す。
「我々は甘菜と呼ばれる家のもので、私はその当主代理だ」
「とーしゅって?」
「キミの兄だ。
さ、こんな所にいつまでもいる必要なんて……」
綴はキッと男を睨みつける。
「行かない。ぼく、おばあちゃんとずっといる」
「………そうか。なら1つ覚えておくといい。
キミの力はね、おばあちゃんを不幸にするだろう。下手をすれば紬さんやキミの父親のように死んでしまうかもしれない。
それにだ、キミに選択肢なんてものはないのだよ」
またその日から綴の日常は崩れ去る。
持っていた指が然るべき場所に持って行かれたことには大変安堵したし、そこには自分と同じ人間がいて、非呪術師が沢山いたあの場所よりはだいぶマシな環境ではあった。だが、それ以外の面では何一つ気が休まらない日々だった。
「いいですか、呪力をご自分の意思で操作できるようになるのです」
「何故こんなこともできない?」
「やはり前当主の息子と言えど……」
「しかし呪力量は十分にある」
「鍛えればきっと……」
「型の基礎はできているのに」
「悩みがあるなら兄や姉に聞くといい」
そんな言葉は聞き飽きた。
おばあちゃんの所へ帰りたい。目の悪いおばあちゃんは、いったいこれからどうするのだろう。
こんな人達は家族じゃない。兄弟じゃない。帰りたい帰りたい。
良い子にしていれば帰れるかな?
良い子にしていれば酷いことされないかな?
良い子にしていればまた父さんにあえるかな?
良い子にしていればお兄ちゃんと遊べるのかな?
「綴、今日は呪術高専に行こう。我らの任務のついでだが、そこに呪力操作のヒントがあるかもれん」
そう言われ、手を引かれてやって来たのは東京にある呪術専門高等学校。
そこで綴はずっと俯いていた。何も興味のひとつ湧くことも無い。辛いことが無ければ、自分を化け物扱いする人間がいなければ、無理矢理家族だと言ってくる家の人達がいなければ、なんでも良かった。
「やぁ、
その声に顔を上げると、いつかの日に公園で一緒に遊んだ彼が綴の目線に合わせてしゃがんで笑っていた。
「お兄ちゃん!」
たまらず綴は彼に抱きついたのであった。
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「家族が死んだきっかけになった両面宿儺。例え俺の、不注意で起きた出来事だとしても……憎まないことは、できなかった」
ずっとこんなことにならなければ聞くことのできなかった綴の過去。それは重苦しくて暗いものだった。しかし虎杖はそれに決して目を逸らさなかった。
「でも、悠仁と一緒に任務行ったり、稽古したり、遊んだりしてたらさ「殺したくない」って、「悠仁と関われば変われるんじゃないか」って。「こいつは、両面宿儺とはちがうんだ」って。
お前とやったことも無いことして、食べたことないもの食べて。嬉しかった、もっと早く知れば良かったって思った」
「じぁ、やろうよ、これからも! 俺は、綴先輩に死んで欲しくない! また、一緒に映画見よう! まだまだ楽しいこと、いっぱいあるから!」
虎杖は必至になって目を閉じそうになる綴に声をかけ続ける。そうでもしなければすぐに逝ってしまいそうなくらい弱っているのだ。
「………吉野順平の母親を見殺しにしたおれでも、お前はそう言うのか?」
「え?」
「あの日……嫌な感覚が吉野順平の家にあった。言い訳になってしまうが、敵に騙されたんだ。俺は彼女の命を無視してしまった。
もしもあの時何とかしていれば、吉野順平もまだ生きていたのかもしれない」
「なんで、そんな……っ」
酷い奴だろ、と自嘲する綴が痛々しい。
確かに吉野順平の母親、吉野凪を見殺しにしたという事実は虎杖にショックを与えた。
だが、この人が今まで虎杖や他の人々にもたらしてきたことも事実なのだ。
「虎杖、お前、苦しいところはないか? 目が見えないから、傷の具合もよくわからん」
何も答えない虎杖を綴は気遣う。そんな権利がなかったのだとしても、そうしたかった。
潰れていない右眼をうっすら開けながら尋ねてくる綴に、虎杖は何かが切れた感覚を覚え、思わず怒鳴ってしまう。
「先輩が1番苦しんでんだろ!? 今までも、苦しんで苦しんで苦しんで! ここを死んだら、何一つ報われないじゃないか!? 綴先輩にも、幸せになる権利はあっただろ!?
1人で色んなこと抱えて、悩んで、俺のために命削って……何がしたかったんだよ! あんたの人生って、何だったんだよ!?」
涙が次々に溢れ出てくる。
嫌だ、この人に死んで欲しくないのに。
「ううん、幸せだったさ。十分幸せだ。そんな幸福を与えてくれたお前達が、愛おしい………そんなお前達が生きる、この世界をそれだけで大好きになれる。
そうでも思わないと、俺は……俺で無くなってしまう。それだけが俺の支えだったんだ」
「………っ」
綴が思い浮かべるのは、これまで幸福を与えてくれた人々だった。
「悠仁、お前の頭、何処にある?」
「………ここだよ」
虎杖は綴の腕をそっと掴んで自分の頭の上に置く。その腕のなんと細いことか。はじめて会った時からこんなに細かっただろうか。気にしていなかっただけなのたろうか。
綴はそんなことを考えている虎杖の頭を優しく撫でた。
その雰囲気が、まるで自分の祖父の死の間際のようで………。
「ああ、ここか………悠仁、伏黒もお前達は俺の、
──この人は、ここで死んでしまうんだ。俺のせいで。
「「自分のせいだ」とか思ってんだろお前」
綴はそう言うと虎杖の額を叩く。
「これは俺の判断だ。何が起ころうが俺の自己責任。お前は今まで通り、あほ面でわらってりゃいいんだよ」
「あほ面って……!」
今までで1番弱く、しかしどの時よりも痛い痛みがジンジンと額に広がってくる。
「今から、俺とお前がやるべき事を伝える。いいな?」
「うん!」
綴は呼吸を整えると起き上がる。
血がドバドバと地面に流れ落ちるが、それに対して虎杖も綴も、もう気にすることはなかった。
「俺は、子蜘蛛と呼ばれる呪霊を祓いに行く。お前は
「……うん」
「無茶苦茶だってのは百も承知。だからケリは付けなくてもいい。代わりにお前に1つ、俺のとっておきの呪術を掛けてやる。
いいか、一瞬でも気を抜くなよ」
「うん」
虎杖はゴシゴシと涙を拭いて綴にとびきりの笑顔を向ける。
「先輩」
「なんだ?」
「俺、全部終わったら、会いに行くから。先輩が死ぬまでに絶対に、そんでさ、いっぱい話そう。だから待ってて」
綴はそれに答えるかのように穏やかに笑う。
「…………うん、待ってる」