ほっぺたの痛みで目が覚めた。
上体を起こし、自分の状態を確認する。服装は作業着、場所は自宅アパートの玄関先。どうやら昨夜、扉を開けた瞬間に眠りに落ちたらしい。床にほっぺたをついて寝ていたんだから痛いのは当たり前か。
腕時計を見ると、四時ちょうどを指している。また五時に事務所に行くので、今から急いでお風呂、身支度、朝ご飯をすませなきゃ。今日は現場を六つ回るよう言われてるんだから、力の付くものにしよう。夜食に買ってきた焼きそばパンでいいだろう。どっこいしょ、と起き上がる。
風呂場への道のりが長い。体が重い。頭が痛い。目がシパシパする。
「働きたくない……」
就職してから一か月。私はもう労働意欲を失っていた。
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初出勤の日に経験した魔法火力大幅アップの謎は翌日には解決した。私の隠れた魔法使いの才能が開花したから――だったら良かったのだけど、実際は魔素だまりの魔素と私の魔法が共鳴していただけだった。
人間が魔法を使う上で燃料にしているのが魔力。魔力の原料となるのが世界中に満ちている魔素だ。人間は魔素を空気と一緒に取り込むことで魔力に変換する。モンスターが発生するほど濃厚な魔素が滞留している魔素だまりは魔法使いにとって、空気中に気化した爆薬が充満していることと同じだ。私の魔法が起爆剤となって大火力が生じる、というわけだ。
この検証結果には失望した。人の近づかない山奥の魔素だまりでだけ最強の魔法使いになったって、誰もほめてくれない。いや、先輩方はほめてくれるか。でも一週間で研修期間が終わったせいで、今は誰もほめてくれない。
そう、研修がもう終わったのだ。私が一人でモンスターを焼き払える最強魔法使いだと勘違いした所長やハゲの先輩が持ち上げたせいで、一人で現場を回らされている。一番多いときで一日に八つの現場に行かされる。どこもかしこも人手が足りてないようで、大阪府全域だけでなく北は京都、滋賀、南は和歌山まで行った。
所長は私が一つの現場にかける時間を把握しているらしく、移動と作業にかかる時間を計算して秒単位のスケジュールを組んでいる。バスを一本逃したり、道を間違えたりしてスケジュールを守れないと、事務所に戻ったときネチネチと説教されてしまう。「こっちは君が動きやすいように長い時間かけて予定を組んでるの。君だって大変だろうけど、人の苦労も考えてよ」って。たしかに秒単位のスケジュールはすごいと思うけどさぁ……。
何が不満かって、現場を八つ回ってる私の給料が、現場を一日一つしか回らない人と同じことだ。なんでよ。こちとらやり手営業マンより一日の移動距離長いのに。魔法だって一回使うのに結構精神力いるんだぞ。
なんて、不満を言う度胸はない。
だって初めて私を必要としてくれたところだから。ふとした拍子に不満ならやめていいよ、と言われるのが怖い。粛々と言われた通りの仕事をこなすしか選択肢はなかった。
でも体力的にしんどいのは事実で、毎日帰宅するたびにつぶやくのだ。「仕事辞めたい」って。
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山奥の廃倉庫。そこかしこに黒いヘドロのようなモンスターが見える。私の存在を認めたらしく、人型、アメーバ型のヘドロが光に集う虫のように集まってきた。
「……」
特に何を言うでもなく、私は魔法を発動させた。敷地内全域を覆う火柱が発生し、倉庫ごとヘドロたちを焼却していく。光のない真っ暗な夜の山々が、昼間のように明るくなった。
目の前の大火力のなんとむなしいことか。見た目だけはゲームやアニメに出てもそん色ない派手さだけど、魔素だまりのあるような人気のない場所でしか使えない。誰も感心してくれない。
杖や呪文の補助なしで魔法を使えるようになった。杖なしで魔法を使うのは実用魔法検定一級の技術だ。呪文の省略に至ってはプロでも難しいとされている。それだけの技術が使えるのも、魔素だまりという局所的な強みがあるからだ。それに、どうせ作業効率が上がっても給料は上がらない。むしろもっとスケジュールが過密にされるだけ。
大好きだった魔法にも、英雄のような大魔法を使えている自分にも、何の感慨も抱けなかった。
「残党なし。魔素の濃度、正常。七つ目の現場、終了……」
現場の写真を撮り、機械で魔素の濃度を記録し、報告書に書き記す。
時刻は午後七時。本日最後の現場が終了した。
後は一時間半かけて事務所に戻り、写真と報告書をパソコンで仕上げてから提出し、帰宅する。もちろん移動にかかる時間は勤務時間に含まれない。
魔法の使い過ぎで頭が重いし、十四連勤で体が重いけど、あとひと踏ん張りだ。明日は待ちに待った休暇なんだから。
久しぶりに魔法研究をしてみよう。あの学者さんが気になる理論を公開していたし、PDFで落として――学生時代に思いついた現代術式と古代魔法の比較研究も――あれ?
そんなことして何になるの? どうせ魔法が上手くなっても仕事がしんどくなるだけなのに。どんなに頭をひねっても社会には認められないのに。なんで貴重な休みを意味のない魔法研究なんかに使うの?
「私は魔法が趣味だから、魔法が好きだから……え、なんで好きなの? こんな中途半端な力のせいで、仕事はつらいし、就活も半端で、……それなのに好き? いや、嫌い。大嫌い……」
口が勝手に動いている。何を言っているのか分からない。自分が誰で、どこにいて、今がいつなのか、何もかもがあいまいになっていく。
感覚が戻ったのは、山のふもとのバス停に到着した頃だった。
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二日後。今日も今日とて労働だ。休日は布団にくるまっていたらいつの間にか終わってた。
申し訳程度に身だしなみを整え重い足取りで家を出る。客とのやり取りは一切ないから外見に気を遣う必要のないことは、この仕事の数少ないいいところだ。
最寄駅から二駅、徒歩で五分の雑居ビル。目をつぶっていてもたどり着けるほど通いなれた愛しの事務所がそこにある。実際、電車の座席で居眠りして気づけば事務所、ということも何度かあった。
ビルの前に見慣れない車が置いてあるのを横目に、ビルへ入っていく。
「おはようございます……」
「おはよう」
「おはようさん」
事務所には所長以外にももう何人かやってきていた。見慣れた顔ぶれだけど、名前と顔は誰一人一致しない。普通は研修期間が終わっても二人以上で現場に向かうのだが、私の場合は例の大火力と過密スケジュールがあるため、誰とも組んだことがないのだ。まあ、下手に魔法に巻き込んで殺人罪を問われる方が厄介なので別にいい。
所長のデスクのプリンターには、今日ぶんの私のスケジュールと現場への地図が印刷しておいてあった。確認してみると現場は四つ。いつもと比べれば少ないし、距離もそう遠くない。ついに供給が需要を上回ったのかな?
なんにせよ、これなら今日は早く帰れそうだ。早く帰ってもやることないけど。
「行ってきまーす」
「待って待って! 君は車の免許持ってたよね?」
さっさと出発しようとすると、所長に呼び止められる。なんだか嫌な予感がする。
「はい、持ってますけど……」
「助かるよ! 実は今日、彼らを現場まで送ってってほしいんだ」
「……は?」
「魔力だまりってどこもかしこもアクセスが悪いだろ? 電車やバスだと時間がかかるし交通費もかさむ。で、よそに掛け合って業務用の車を一台貸してもらったんだ。今日は彼らを送って、君は車で現場を回ってくれ。じゃあそういうことだから」
「ま、待ってください! 免許っていってもほとんどペーパーで――」
「だーいじょうぶさ、オートマなんてしょせんアクセルとブレーキだけ踏んでりゃいいんだから。マ●オカートやる感覚でいいのよ。分かったら行った、行った!」
「ちょ、まだ私は納得してませんって!」
ダメだ。所長はデスクについてパソコンとにらめっこを始めた。一切の不平不満をシャットアウトする貝殻モードだ。こうなると、いくら食い下がっても意味はない。
同僚の人たちが胡乱気に私を見ている。早く送ってくれよ、遅れるだろ、という心の声をひしひし感じる。
「あの、皆さんの中に免許をお持ちの方は」
「更新忘れてそれっきりや」
「自分はまだ高校生なので」
「とっくに返納したわい」
「仮免で落ちて挫折したッス」
どいつもこいつも。そんなだからこんな最底辺の仕事させられるんだよ。一瞬の油断で死ぬような作業を時給換算1000円以下で何時間もさあ。
私は無言でビルを出て、一年ぶりに車のハンドルを握った。
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幸いにも車に最新のナビがついていたので、それぞれの現場の住所を近い順に入力すれば後は簡単だった。だってナビに従って運転すればいいだけだもの。
なんて思ってた時期が私にもありました。
「右折……今!」
「アホ、止まれ人渡っとるやろ!」
右折のタイミングが分からない。
「は、入れないよ~」
「車線変更くらいパッとせぇや!」
車線が変えられない。
『まもなく、斜め左方向です』
「斜め左!? 斜めってどれ、ここ!?」
「道なりでええねん、そこ曲がったら一方通行やろが!」
ナビの指示に混乱する。
同僚を全員どうにか現場に送り届け、自分の現場に着いたときにはもうグロッキーだった。頭が痛い。体に力が入らない。
これが、身分証明書欲しさにとりあえずで免許を取得したペーパードライバーの実力である。事故を起こさなかったのは奇跡に近い。
こんな精神状態で魔法なんて使える気がしないけれど、使わなければスケジュールに遅れる。遅れると怒られ、怒られすぎると首になるだろう。そうしてまた、自分を必要としてくれる誰かを求め、ゾンビみたいに会社間をさまようことになる。それだけは死んでも嫌だ。
嗚呼。
働きたくない。