及川先輩はすっかり調子を取り戻した。チームへの声かけを笑顔でやって、定められた範囲を超えない程度に練習に参加する。無理をしている様子も、気負いすぎている様子も見受けられない。とてもいいコンディションで中総体を迎えられそうだった。
私はというと及川先輩の本来の力に舌を巻くばかりだ。だがそこで止まっていては白鳥沢には、牛島さんには勝てない。
というわけで。
「では、これを覚えてくださいね」
目の前に置かれた紙の束を視界に入れて及川先輩は引き攣った笑みを浮かべる。
「え、嘘でしょ?」
「嘘じゃありません。監督やコーチからもしばらくはこの方向で伸ばすように言われているので」
「わぁ、桃ちゃんが完全に遠慮しなくなって及川さん嬉しいなぁ」
「尊敬心までなくします?」
さすがに冗談。運動部の縦社会はマネージャーにだって適用される。私がマネージャーの一言で片付けられる存在かどうかは置いといて。
昼休み。向かい合ってテーブルに座り、広げられたノートと資料がいかにもこれから勉強をする感じを出している。図書室でも奥の方に設置された自由スペースは学生の人気がないのでかえって好都合だ。
私の正面に座る及川先輩の背後でふわりとカーテンが揺れ、光の粒子がきらめいた。それは一枚の写真にしたっていいぐらい美しい光景だが、及川先輩の表情が死んでいるので台無しだった。もったいない。
そんなことを思われているとか微塵も考えていないだろう。シャーペンで資料の端っこをペラペラ捲る及川先輩は、内容を想像していた。
「対戦相手のデータとかかな。俺もDVD見て分析するの始めてみたけど、やっぱり上手くいかないや」
「及川先輩は素質あると思いますよ。それに実践での経験値という、マネージャーには絶対に得られない情報を集められるのは、正直羨ましいと感じます」
「そうなの? なんか意外かも」
「やはり客観的な視点とのズレはどうしても生じてしまいますから……そのズレをどう修正していくのかが私の課題でして」
「うんうん。これから時間をかけていけばきっと上手くなるよ」
及川先輩の話し方が思いのほか優しくてつい愚痴ってしまった。だって! 相槌も人の話の聞き方も滑らかなんだよ!
控えめな咳払いをして軌道修正を試みる。
「これは現在のレギュラーメンバーのデータです」
「どこの?」
「ウチの」
及川先輩は急き立てられるように資料に目を通し始めた。内容をじっくり見ることはせずに目次だけ見るのは、中身を信頼してくれている証拠だと嬉しい。
「てっきり他校のやつかと……え、どうして?」
「及川先輩にはチームを完璧に統率してもらおうと考えています」
少しだけ鋭くなった眼差しがこちらを向く。今までの俺ではダメだったのかと言いたげなので丁寧に正していくことにする。
「確かに及川先輩の、チームを理解し展開を組み立てる能力は高いです。が、完璧ではない」
「まだチームメイトを理解しきってないってこと?」
「はい」
ここは遠慮する場面ではない。私も毅然とした態度で断言する。
「牛島さんを意識する余りチームメイトを見る目が曇っていました」
及川先輩がうぐと言葉を詰まらせた。
心当たりありまくりでしょうねぇ、そこ突くに決まってるじゃん。
「セッターに求められるのはゲームを支配する冷静沈着な頭脳。スパイカーにトスを上げるのだから、つまりは攻撃の指示を出す役割を担うわけです。及川先輩はチームメイトへの指示も的確ですし、高度なコンビネーションだって可能にできる。でも、そこにまだ限界が訪れていないとしたらどうでしょう」
この人のチームへの貢献心は凄い。誰よりもバレーに熱中し、誰よりも鍛錬を積む。まぁ行き過ぎてオーバーワークになるのはいけないけれど。
「この資料はあなたの知らない、きっと本人たちも知らない癖などが記されています」
「………ちょっと怖いね」
「そこ言っちゃだめですよ」
ぶっちゃけ私も共感できる。知らないうちに分析されてるって怖いよねー。まあ勝つためにはなんだってするよ。
「及川先輩なら全てのスパイカーを自在に操れる。彼らの奥底で眠っていた力だって引き出せます」
「その眠っている力ってやつがこれってことね」
得心のいった及川先輩がトントン、と資料を叩く。
「どうです、及川先輩。自分の手でチームの底力が何倍にも膨れ上がるんですよ。全員が100パーセントの力を出して試合をするんです。これって、とんでもなく凄いことですよ」
私の言葉に未来を想像したように、及川先輩は瞳に光を湛える。口角が上がっていて彼も乗り気なんだとわかった。
「そのとんでもなく凄ーいことは及川先輩にしかできないんでしょ?」
「はい」
「……ほんとに桃ちゃんは人のやる気を出させるのが上手いね」
小首を傾げて私は問うた。
「だって事実じゃないですか」
すると及川先輩ははぁ〜とため息をついている。なんだよ、本当のことだし。
「あのさぁ、桃ちゃんって……」
「……何ですか」
「はぁ、まぁこのままでいっか。そのほうが面白そうだし引っ掻き回せるし」
不穏な呟きは聞き取れず聞き返そうとした時、こちらのテーブルに近づいてきたのは岩泉先輩だった。うわ、意外。……あっ、別に図書室で本借りるタイプじゃ絶対にないとか考えてたわけじゃないからね? 私ウソつかない。ホントホント。
「及川」
「あ、岩ちゃん。……って何その本」
岩泉先輩がその手に持っていたのは淡水魚の図鑑だ。なんだこの人と思っているとあるページを開いて得意げな顔をする。
嬉しそうにその眉毛が吊り上がっていて、興味をそそられた私は覗き込んでその名前を読み上げた。
「オイカワ……ですね」
そんでこっちは及川、……先輩。微妙な顔になった及川先輩は淡々と言う。
「何を勝ち誇った顔してんのさ」
───
さて、及川先輩はこのまま放っておくことにする。あの人は自分で考えて自己分析する力があるから大丈夫だ。それにわからなくなったらちゃんと言うことができるし。
敵チームの分析にも一役買ってもらった。おかげで昼休みは図書室の奥スペースに、という習慣がついちゃって飛雄ちゃんに付き合っていられないのが申し訳ない。
その分居残り練はやりたいことやらせてあげているから勘弁してほしい。
次は北一エースの岩泉先輩だ。彼が芯の通った精神力の持ち主であることは、先の事件(?)でも証明されている。
あの男気っぷりはカッケェわ。飛雄ちゃんやらっきょ君がよくカッケェと口にしているが、私も心の中では結構言っている。だってカッケェからね、しょうがないねうん。
あの人は試合の命運を分ける大事な一本をちゃんとわかっている。しかもビシッと決めちゃうわけだから、士気を上げるにもってこいなパワー系スパイカー。及川先輩との連携もバッチリだし正直どうすればいいかがわからない。
なら総合力を高めればいい。岩泉先輩のブレない精神力に合わせてブレないプレーをさせる。
特にレシーブに関してはしつこいぐらい練習をしてもらった。厄介なボールを取れるのは武器だ。チームでも大黒柱の岩泉先輩だからこそ特大の効果が期待できる。
北一は強豪校で選手の層は厚い。かといって白鳥沢に勝てるかといえばそうではないのだ。突出した選手がいる……飛雄ちゃんは置いておいて、牛島さんのようなプレイヤーもいない。
だがチームを指揮する能力に長けた及川先輩がいれば、強力なチームワークとスピード、そして緻密なコンビネーションで安定した強さを発揮できる。
ウチの強みをいかに相手チームにゴリ押しするかが勝負の鍵だ。
それからは練習試合と特訓の日々が続いた。強豪校のみっちりした練習メニューはスパルタで、へばっている人も何人かいた。ついていけない人も耐えきれずに吐く人だって。
それでも努力をし続けていけたのは勝って全国に行くんだという強い決意があったからだ。
私だってマネージャーだからと一歩引いたところにいられるわけがない。死に物狂いで分析と研究を重ね、対策を練った。
だから白鳥沢との対戦が待ち遠しいまである。なぜならば公式戦で勝つためにあの練習試合をしたようなものだからだ。とはいえ種明かしは後にすることにして、目の前の一戦一戦を突破できなければそんな大口を叩く権利すらなくなるだろう。
負ける気はサラサラない。チーム全員の調子が良くて完全なコンディションで試合を迎えられそうだ。
当日、静かに燃ゆる闘志を胸に抱き北川第一は会場に赴いた。