7月30日。9時30分。予選グループ戦が開始された。
予選グループ戦とは、4チームを1グループとし、第13グループまで構成する。勝者は翌日の決勝トーナメント戦に進み、敗者は敗者復活戦に挑む。各グループから1チームの脱落者を決めるというわけだ。
今日だけで13チームが脱落する。ほとんどのチームが参加するこの大事な初戦に、しかし参加しないチームが4つあった。
それが第1〜第3シード校と、開催地第1代表である。
開催地第1代表とは、その名の通り大会の開催地である富山県予選で優勝したチームである。彼らは無条件で予選グループ戦を免除された。
そして第1〜第3シード校は、主に去年の成績を反映し決定される。
2011年 IH 準決勝【第3位】
2012年 春高 準決勝【第3位】
上記の成績を残した兵庫の稲荷崎高校は、第2シードに入った。
第1シードの井闥山・第3シードの狢坂同様、本日の予選グループ戦には参加せず、翌日のトーナメント戦から出場することとなる。
その為、稲荷崎は会場におらず、現地で借りた体育館にて調整をした。これはシード校の特権であり、彼らは他のチームより1日分練習時間を確保することができる。
「早く試合したいわぁ、練習だけとか焦らしやん」
ウォームアップをしながら、侑はそんなことを呟く。ペアの治が片眉を上げた。
「明日から試合やろ」
「俺らはシードやから、明日は一試合しかできひんやん。強いトコとやれたらええんやけど」
「お前下手くそと戦んの、ホンマ嫌いやからな」
治が侑の代わりに言った。侑は気性が荒く好戦的で、弱いチームとの試合が嫌いだった。つまらないから、らしい。
それを昔から知っている治は、片割れのことを人でなし・ロクでなしと認識している。というかたった今、実際言葉にした。人でなし呼ばわりされた侑が怒るが、もはや通常運転である。
周りも「ほどほどにしとけよー」と言うだけで、特別なことはしない。
こんな感じで、双子を中心として、緊張せずリラックスして練習に集中できているメンバーが多かった。これは強豪校故の慣れだった。
シード校として参戦した経験があり、自分たちは強いと自負しているから。
「うぅ……なんで皆さんあんなに普通にしていられるんですかね。俺はもう……緊張してお腹が……」
しかし、理石のように緊張に苦しむ選手もいた。サッとマネージャーは救急箱から胃薬を出して渡す。
「信介に聞いてみ、緊張しとるかどうか」
「えっ!」
「面白い答えが返ってくると思うで」
そんなことを言われて、理石はますますお腹を痛める。
ただでさえ高校に入って初めての試合が控えているのに、怖い先輩に自ら質問するなんて、どう考えても悪手だ。さらに体調が悪化するに決まっている。
しかし理石は、勇気を振り絞った。彼は一年生で唯一選手登録されている男。桃井と相談し、メンタルトレーニングに励む内、ここぞという胆力がついていたのだ。
「あ、あの。北さん」
「なんや?」
「北さんて、緊張とか、せぇへんのですか」
「せんな」
北はピシャリと冷水のように言い切った。あまりの素っ気なさに理石のお腹がぎゅっとする。薄々なんとなくそうだろうなとは思っていたけど、北は緊張とか不調とかから程遠い人間なのだろう。
ウッとダメージを受けた一年生に気づいて、尾白が会話に加わった。
「俺も信介に全く同じこと聞いたわ。そん時も言っとったな」
「緊張なんかする意味がわからん」
「そうそう。それ聞いて正直、お前機械かなんかなん……って思ったわ」
「あんな、平介。黙っとったけど、信介って実はロボットやねん」
「アホ。緊張しとる後輩を余計混乱させてどないするん」
赤木と大耳も輪の中に入り、北の一強状態から解放された理石はホッと胸を撫で下ろした。
よかった。尾白だけでは、凍てつくような北の正論を緩和しきれない。でも二人も加われば話は別だ。ちょっとだけ胃痛がマシになった気がする。理石が胃薬を大事そうに手のひらで抱えた。
尾白と赤木にロボット呼ばわりされて、北は黙々と言葉を重ねる。
「いつも以上の力を発揮しようとするから緊張するんやろ。だって飯食ったりクソしたり、毎日の事には緊張なんてせんやんか。バレーかて同じやろ。練習でできとる事やったら、緊張なんかせんやろ?」
「……!」
真正面から受けた理石は、沁みるように目をギュッと瞑った。シワシワの顔になる。正論で殴られて、試合が始まってもいないのに、メンタル筋肉痛になりそうだった。
話に耳をそば立てていた角名や銀島も、北さんコワッと目配せで意思疎通する。
そりゃ言ってることは正しいけど、実際できたら苦労しない。
理石はできない側の、普通の人間だ。そういう奴は、厳しい正論でケツを叩くより、優しく甘い言葉でそっと背中を押してあげるほうが良い。
「まっ、無理に真似するモンやないわ。それよりも……あー、桃井は居らんのやった」
赤木はキョロキョロしてから、肩を落とした。彼女にバトンタッチしてもらえば、きっと理石は緊張状態から解消されたに違いない。
しかし桃井は近くにいなかった。というか体育館にすらいなかった。
「さつきは予選グループ戦が終わるまで戻ってこおへんよ。ミーティングでもそう言うたやん」
桃井は情報収集・分析の為に、試合会場にいた。彼女が育て上げた先輩マネージャーや、一年生数名も同行している。リアルタイムで展開される試合を手分けしてビデオ撮影するためだった。
「そうやったな。けど……桃井を行かせてよかったんか?」
「それがさつきの仕事やろ。止める理由、ないと思うけど」
「や、東京で色んな選手と絡んどったらしいやん」
「IH会場なんてウシワカみたいな強い奴がゴロゴロおるし」
「あっちこっち誘惑されてフラフラせんとええけど」
尾白、赤木、大耳がお父さんみたいな心配をした。北は少しだけ沈黙して、珍しく歯切れの悪い返答をする。
「こん前の事は注意したし、大丈夫、やと思う。本人もそう言っとったし……」
「う、牛島さんの迫力やば……!」
全然大丈夫ではなかった。白鳥沢の試合を見て、桃井は目をとろんとさせている。言い方も語尾に「♡」がつくくらい柔らかく蕩けていた。
練習試合よりも洗練された牛島のプレーに、目も心も奪われていたのである。
彼女は目的の試合が開始されるコートへ移動中であり、白鳥沢は彼女のターゲットではない。この試合は他の部員が撮影している。桃井は単なる通りすがりだったのに、牛島のスパイク音が耳に入って、そちらをついつい見てしまったというわけだ。
「牛島さんから"見ていてくれ"ってメール来てたし、本当に見ていたいけど……」
桃井には大役がある。稲荷崎の勝利のため、正気に戻らなければ。
牛島や天童など、気になるプレーを短時間で頭に叩き込み、桃井はものすごい意思の力で誘惑を振り切り、移動を再開した。
鴎台が試合をする予定のコート側に向かったのである。
桃井が観客席に辿り着くと、ちょうどフロアに鴎台が登場した頃だった。前の試合を見ながら、軽く腕を伸ばしたりして身体をほぐす選手たちを、じっと見る。
白と水色のユニフォームは、夏色に非常によく似合っていた。
「星海光来さん。翔陽くんが目標にしていた"小さな巨人"の体現者。取材嫌いで性格面のデータはあまりない。……情報収集させてもらいますね?」
桃井は鴎台の分析を開始した。
全国大会出場校のエースにしては、星海はメディア露出がほとんどなくて、人となりを知るのが難しい。他と比べて情報が少ないので桃井が直接分析しに来たというわけである。
星海は、月バリのような雑誌のみならず、地元のローカル番組・新聞・ラジオ……そういうのに全く出演していなかった。
ここまで徹底的となると、桃井の中にある仮説が生まれる。
彼はとにかく取材嫌いなのではないか、という仮説だ。
あの体躯で高校最高レベルの技術を身につけ、頭ひとつ分違う相手を薙ぎ倒していく様は、さぞ格好いいものだろう。メディアの食いつきもいいはず。
そうすれば、逆境に打ち勝つヒーローに仕立て上げられる。星海を勝手に悲劇の少年として囃し立て、ドラマチックなストーリーをでっち上げる。
メディアとはそういうものだ。桃井も経験があるので、ため息をつくくらい想像できる。
「やっぱりそういうのが嫌なのかも」
最初はお家の事情で避けているのかと思ったが、星海の兄がバスケット選手として受けたインタビュー記事を見つけたので、それは違うとわかる。
であれば別の要因が必ずある。思いつくとすれば、とさまざまな単語が頭の中に浮かんだ。
長身の兄。対して大きくならなかった弟。高さが重要な競技。コンプレックス。小さな巨人。リベロではなくWSを勝ち取った理由。
考える間にも、桃井の分析をする手は止まらなかった。
「ん、あ、あの子……」
「誰すか? ……ああ、桃井さつきちゃん」
「あーあ、稲荷崎行ったかぁ。黒須監督、どんな好条件出したんだろ」
「俺あの子のこと名前だけは知ってんすけど、何がどう有名なんです? ヤバイくらいかわいいとか?」
観客席にいたとあるチームのOBの一人が、桃井の姿を見つけた。彼は大学チームに所属しており、そのチームにはアナリストがいる。
そのアナリストが桃井さつきのことを話すので、よく覚えていたのである。
共に観戦に来ていた後輩が軽薄そうに「アイドルみてぇ」と騒ぐので、コツンと頭を叩いて大人しくさせた。
「俺らのチームにアナリストがいるだろ。アイツがアナリスト育成セミナーに参加した時……つまり桃井が中学生ん時な。その時、初めて会ったらしいんだけど、プロの世界で使う分析ソフトを使ってたって。中学生で、だぞ」
「え……あのわけわからんヤツですか」
それは非常に高価なソフトであり、使いこなすには専門的なトレーニングが必要となる。故にプロや大学の世界で導入されていても、高校レベルでは予算や人材の制約から、ほとんど使われていなかった。
使用したとしても専門のスタッフがいる。高校生レベルで扱えるソフトではないのだ。
これを一介の中学生に与えた北川第一の監督は、先見の明があるというか、無謀なことをしたというか。
ともかく結果は大成功。桃井は本を読みネットを調べ、次第に使いこなせるようになっていった。
「あとなんだっけ……セミナーだとどんくらい分析できるかテストとか受けるらしいんだけど、あの子は大学生と遜色ない成績を出したらしい。つまり、彼女のアナリストとしての実力は、中学生時点で大学レベルだってことだ」
これは、選手に当てはめて考えるとわかりやすい。
中学生が大学生に勝るとも劣らないということは、凄まじい才能を待つだけでは到底足りない。生活を犠牲にするくらいの果てしない努力、途方もない時間。
そういう人間離れした狂気がなければ、辿り着けない領域なのだ。
ここまでの才能、滅多に現れるものではない。
「ウチで獲れなかったの、相当悔しいですね〜! 絶対欲しかったのに……」
観客席にいる桃井を発見して、彼女をスカウトして断られた強豪校のコーチが嘆くと、隣に座る監督が深々と頷く。
中学生の頃から桃井は優秀だった。北川第一が三年連続で全国大会出場を果たしたのは、彼女の能力によるところが大きい。桃井の影響力の強さ・話題性から、チームのセッターである影山さえ目立たないほどだった。
彼女が二年生の頃は、まだソフトを完全には扱いきれなくて、当時宮兄弟がいた野狐に負けていた。
三年生になる頃には、技術を身につけて再び台頭してくると思ったが……結果は初戦敗退だった。
桃井の能力が頭打ちとなったと噂が出回ったりしたが、それでも"欲しい"と全国の強豪校が彼女に声をかけたのだ。
「ああ。それに、稲荷崎の部員が会場に散って試合を撮影していたね。分析らしいことをする子もいた。情報戦において、稲荷崎は我々の遙か先を行くということだ」
監督が厳しい目をして言った。
桃井加入のおかげで、各校の試合前の熾烈な情報戦から、稲荷崎は一抜けた! と先に進んだのだ。我々はこの先ずっと稲荷崎の背中を追いかけることになる。
とてもマズイ状況だった。
しかし、話はそこで終わらない。桃井を獲得するメリットはまだまだあった。
強豪校であれば、選手らにあらゆる恩恵を与えることができる。
設備の良さ・練習試合のツテ・卒業生OBの人脈・資金……選手たちを成長させるため、色んな強みを活かすことができる。
それは稲荷崎とて同じだ。
けれど、今年の彼らは"桃井さつき"を獲得した。
これはつまり、"分析という面において、プロと同じ環境で練習・試合ができる"ということだ。
プロの世界で使用される分析ソフトを完璧に扱える人間がいるというのは、それだけ部員たちの意識が磨かれるということ。稲荷崎の選手たちは、ひと足先にプロの世界を体感できるのだ。
分析に慣れた選手……それだけでスカウトの価値が発生する。
「しかも彼女、ソフトの使い方を教えているようだから……稲荷崎は彼女が卒業した後も、データ分析を持ち出してくるだろうね」
さらに、桃井は自身の技術を周囲に積極的に教え込んでいる。これにより、稲荷崎にはアナリスト分野で優秀な人材が増えつつあった。
実際、稲荷崎には桃井からソフトの使い方を徹底的に学んだマネージャーたちがいる。彼らは高校を卒業して大学生になっても、アナリストとしてチームを支えられるだろう。
一般的に、大学生レベルで分析ソフトを完璧に使いこなすのは簡単ではない。しかし、稲荷崎のOBたちは例外だ。この経験が彼らに大きな利益をもたらしている。
ああ本当に桃井を獲得できなかったのが惜しい。
他校の監督とコーチが唸るように黙り込む。
「えーっ! じゃ、稲荷崎やばいじゃないっすか! もともとめっちゃ強えのに、反則級のアナリストいるとか」
「そ。今までは井闥山とか狢坂とか……稲荷崎より上のチームはいるし、挑戦者っつーイメージが強かった。てか今大会もそうなると思う。……でも、桃井さつきがいる」
話を聞いた大学チームの後輩が叫んで、先輩が難しい顔で語った。
「彼女の存在で、高校バレー界の勢力図がひっくり返った。パワーバランスが崩れたんだよ。今年の、いや、今年から、稲荷崎は挑戦者じゃなくなるかもしれない」
語り継がれる伝説が始まろうとしている。そんな空気を感じとって、先輩はごくりと唾を飲み込んだ。
「現代の高校バレーには分析がつきものだ。相手を知り、最適を予測し、効率的に動く。この場の誰もがやっている。……けれど、彼女の存在によって、高校バレー界の分析の概念が打ち崩された。今後はより深く、より濃密に、ソフトを使用する分析がスタンダードとなっていくかもしれない」
全日本男子代表チーム監督・雲雀田が、眩しそうに目を細めている。
彼は三年前にも桃井の才能を見抜き、異色の天才・前代未聞の才能を褒め称えた。
当時の彼女はまだ分析ソフトと出会っていなかったが、今の桃井は、そのままプロチームのスタッフとなっても十分活躍が期待できるほどのスキルを備えている。
三年前でも恐ろしいくらいの能力を最大値まで伸ばしてきたのだ。
「いつの時代も、常識を変えていくのはそういう天才たちだった」
雲雀田が瞼を閉じると、脳裏にはこれまで見守ってきた世界中の天才たちの姿が浮かび上がってくる。桃井もそのうちの一人だった。
選手でない人物がそこに加わるのは、雲雀田には初めてのことだった。
『バレーボールに新しい風が吹くだろう』
三年前に雲雀田が唄った言葉。
この先、バレーボールが進化していく過程で、高校バレーにも変革が起こる。
桃井はその先駆者となるかもしれない。そんな予感があった。
現時点で、高校バレーで分析ソフトを導入することに関しての規定はない。
当然である。プロの道具を扱える学生がいるなんて、誰も思いもしなかった。
コート外の人間がここまで試合に影響を及ぼすことを、想定できる人間は一人としていなかった。
前例がないから、ルールがないのだ。
新時代を担う天才は、常にそういう固定観念を打ち崩していく。
彼らの顕現は、バレーボールのルールを変え、規制を生み、新たな歴史を紡ぎ上げる礎となる。
「実力も、覚悟も……彼女は高校生の枠に収まらないね」
桃井はスカウトされて稲荷崎に入学した。そして突きつけた条件通り、高額な分析ソフトを導入してもらった。
それを駆使してチームを勝利に導くアナリストとしての活躍を、見ず知らずの人にも期待されている。
つまり、"お金をかけてもらって勝つ試合をする"側なのだ。
選手とスポンサーの関係と全く同じ。いわば、プロの世界と同じ立場にいる人間だ。
それ故に、彼女の覚悟は大人びていて壮絶だった。
見える世界も期待される重圧も、そこらの選手の比にならないものを背負っている。普通なら潰れてしまわないかと心配になるくらいだ。
しかし雲雀田はさほど不安にはならなかった。
分析をする横顔が、あまりにキラキラしているので。
「でも、楽しんでやってるなら大丈夫かな。あの計画にも支障はないだろう」
桃井は分析とバレーボールの虜になっている。それが伝わってくるから、雲雀田はニコニコ笑って、輝かしい未来を想像した。
公益財団法人日本バレーボール協会において、世界を見越したとあるプロジェクトが水面下で始動していた。
その中心人物となる桃井が今大会で結果を残すことができなければ、全ては水の泡となる。プロジェクトに携わる多くの大人の時間と金と労力が、徒労に消えるだろう。
しかし、桃井さつきは爪痕を残すという確信があった。
雲雀田はグッと背筋を伸ばして、今まさに試合を繰り広げる若き優駿たちを見つめる。彼らの一部は、そのプロジェクトに深く関係してくるだろうから、一瞬たりとも見逃せなかった。