指先から冷えていくのをぼんやりした感覚でそれとなく知る。どうして、ありえない。こんなこと、想定外だ。睡眠不足でデータの精度が落ちたのが原因か。それとも───……
頭の中を駆け巡った失敗への狼狽や動揺は、次の瞬間には牛島のプレーで消し飛んでいた。冷え込んでいた指先を昂揚の熱が包んでいく。
図らずも牛島のスパイクは桃井の築き上げた分析能力を打ち砕くと共に、天才への憧憬と底無しの向上心を刺激したのだ。
「なんて素晴らしい人……」
あの崩れた助走からの完璧な形を留めたフォームが目に焼き付いて離れない。コート上で誰よりも重力に逆らって跳び体力を消耗しているはずだが、まったく乱れる予兆のない牛島の空中姿勢の虜になった。
いや……それよりも牛島は何故あの場面でスパイクを打とうとしたんだろう。無理をしなくても他のメンバーに任せたほうが確実で安全だった。白鳥沢のセットポイントだったから焦ったのか。
「いきなりトス呼ぶからビビったわ! いつもはあそこで打たねーだろ!?」
「決まったならいいだろう」
「うん、そうね。牛島はほんとに読めねーなぁ」
チームメイトも驚いて騒ぐ。コートチェンジで一旦ベンチに戻ろうとする姿を見つめていると、不意に牛島が桃井を見た。
あの人、どうだって目をしてる。お前には負けないって言ってる。なるほど、桃井の分析結果通りに試合展開が運ぶのは気に食わなかったのだろう。だから意地でも予知した展開を捻じ曲げた。
桃井はなんだか牛島が物凄い負けず嫌いの子どものように思えてきた。あるいは。
「超のつくバレー馬鹿」
いいじゃないか。受けてたとう。桃井は笑顔を浮かべる。どうやら意気消沈するどころか対抗心が増したらしかった。
ところが。
「読み外れちゃったね。でもここまですっごく役に立ってくれたわけだし、もう充分なんじゃない?」
コートチェンジの間、手渡ししたスポドリのお返しの発言に桃井は表情を強張らせる。
「それはどういうことですか……」
「そのまんまだよ? 桃ちゃんの仕事はおしまい。俺たちが勝者になって戻ってくるのをベンチで待っててってだけ」
本当に、いつもと変わらない調子で告げられ、かなりの衝撃を受けた。
そりゃ自分の能力がチームの勝敗を大きく左右していると自惚れていたわけではない。むしろ実践を通して反省点が次々見つかってばかりで自己評価は低くなる一方だ。
それでも期待していると言われ、みんなの支えになるのならとひたむきに彼らのプレーと向き合ってきたのだ。
それなのに、ずっと指導してくれた及川が優しく突き放すような言葉を言い放った。
押し黙る桃井とまったく気にも留めない及川に少しばかり空気が悪くなる。それを予測できないはずはないというのに。何を考えてやがると岩泉は及川を睨んだ。
「最後はさすが牛島と言ったところか。だがそれに集中を途切らすなよ。その凄いヤツに真っ向から戦えているんだからな。最後の最後まで粘れ。優勝は目の前だ」
決定戦に進出した時点で東北大会への道は確定している。しかしそれが北一の目標ではないのだ。
絶対王者たる白鳥沢に勝つ。彼らを奮い立たせるものを口にして監督は選手たちを見送った。
及川も誰も彼もが万全のコンディションで、全力が出せていると実感している。一進一退の攻防は県大会レベルには到底収まりきらない。東北大会への期待が高まる一方で懸念材料が出来てしまった。
隣に座る小柄な少女が選手に劣らぬ気迫で熱心にコートを見つめ、ノートに凄まじい速さで殴り書きをしている。スカウティング中、もしくは練習試合ならばよく見る光景だが、公式試合、それも最終セットで分析しているのは初めてのことだ。
「桃井。お前は何をしている」
思わず直接的に聞いてしまい、しまったと思う。厳格な口調と声音から怒っているように捉えられたかもしれない。しかし桃井は物怖じせずに淡々と言った。
「データ上の数字と実物のズレの修正を。それからパターンの絞り込みです」
「……間に合うのか」
「間に合わせます。それしかないから」
答えたっきりまたガリガリとシャーペンが動く。北一の監督は桃井も立派な戦力だと考えている。彼女の能力を最大限活かすためには自由にやらせるべきだ。
腕を組んでどしんと構えると、好きにやれと任せることにした。
その一方で桃井は及川の意図するところを察しており眉間にしわを作る。あれほど人の扱いに長ける人物はそうそういないだろう。ああもう、なんか腹立つ。
思わず力み、シャーペンの芯が折れた。
及川は選手を完璧に把握する。それはマネージャーも範囲内らしい。
わかっていた。ああ言われたら桃井は必ずやり遂げる。真面目で冷静で大人しそうに見えて、実はかなりの負けず嫌いだから。まぁ普通の人とそのポイントはずれているのだが。
「お前ほんとに気持ち悪いな」
「なんで!?」
ようやく幼馴染の企みがわかった岩泉の言葉に、及川は大袈裟なリアクションを取った後、わざとらしくキリッと表情を変える。
「約束したからね。どんな選手もマネージャーも使いこなしてみせるって。たぶん今頃まんまと及川さんの手のひらで転がされてることに気づいて、腹を立てているんじゃないかな」
放っておいても勝手に行動は起こすだろうがそれでは前回と同じだ。
これ以上の進歩がないのなら、いっそ何もせずただ試合が終わるのを眺めていろ。及川は桃井に遠回しにそう伝えた。
桃井がコートの外で選手をサポートし共に戦っていることに誇りを持っていると見抜いた上での挑発だ。
そして桃井は及川の予想通りにハイスピードで解析し出した。かなりの無茶振りを要求することになるけれど、及川も散々桃井に要求されてきたのでおあいこだろう。
疲労困憊であるのを隠そうとするけなげな後輩への意趣返しですらあった。
「さて、可愛い可愛い後輩ちゃんを焚きつけたんだ。先輩が意地見せないとね」
あの子は必ず勝利の鍵を掴み取る。信頼と確信を持って、及川はボールに触れた。
及川は今大会でサーブはコントロール重視で挑んできた。6人が守るコートの限られた穴を狙い、穿つ。千鳥山の西谷からサービスエースをもぎ取ったその実力は県内ナンバーワンサーバーと呼ぶに相応しいだろう。
決勝戦でも同様に後衛セッターが出てくるところを狙い、スパイクに専念する牛島の動きを邪魔し、リズムを乱す。綺麗にセッターまでボールが返ってこなければトスも単調になり、スパイカーへの選択肢はぐっと狭まる。それでも点数を稼ぐ牛島がどうかしているのであって。
ただ徐々に及川のサーブも上手く捌けるようになったようだ。なら、さらにその上を行く。
手のひらに上下に挟んだボールを回転させ、ブラウンの瞳が冷徹に狙いを定める。笛が鳴って、及川はボールを宙に放った。
───あ、サーブトス。いい感じ。
繰り返し、繰り返し。何度も重ねてきたモーションに沿う。今なら絶対にできるとわかった。
及川から普段強く受ける印象が軽薄そうであるからか、プレーは一段と流麗なイメージを持つ。
ワルツでも踊るような優雅な助走からの力強い跳躍。ぐっと体を反らせ押し出されたボールは流星となってコートを駆け抜けていき、エンドライン際に叩きつけられ、それでも勢いは削がれず二階席まで飛んだ。
「んなっ……!」
慌てて顔面に迫り来るボールをキャッチした白布は顔をひきつらせる。ウシワカも化け物だが、オイカワも化け物だ。なんだこの戦い。
「うおおお! 威力上げやがった!」
「これで何本目だよ、及川のサービスエース!!」
「っしゃ───!」
握り拳を突き上げた及川はそのままビシッとネット越しに牛島を指差した。サーブレシーブに参加することの少ないウシワカに、とれるもんならとってみろと挑発してやった。やつの真顔が崩れている。いいざまだ。
「……ああ」
すっきりした心持ちで深呼吸をする。こんなにも声援って心強かったんだな。会場いっぱいに響くさまざまな思いを込めた応援に、及川は認識を改める。
「もう一本」
力強い岩泉の掛け声に、及川は表情を引き締めて頷いた。
元より及川は自分に厳しい。己が天才でないことは一番理解している。目の前と背後に現れた天才に嫉妬や嫌悪はあっても憧憬は決して抱いてこなかった。
もしあんな才能があったらなんて、死んでも言うものか。それはこれまでの自分や支えてくれた仲間を侮辱することと同義であると、及川は確固たる信念を持っていたのだ。
気高く挑発的な態度はプレーに表れる。基本はスパイカーに合わせるトスだって、スパイカーの意思とはそぐわなくても勝利の為ならば、鷲匠監督の言う“自己主張の強いセッター”を貫く。
捻じ曲がりそうになったのを岩泉が正し、桃井が何倍にも強力にしたそれが、及川の強さ。
天才に打ち勝つ彼の力。
「っ、短い! すまんカバー!」
「だいじょーぶ!」
牛島のスパイクを綺麗に上げきれず悔しげなリベロ。ボールの落下地点を見極めすぐに移動した及川はフォームに入った。
現在の味方と敵のローテーションは頭に入っている。一瞬のアイワークでコート上の情報を選別し、正解を導く。受けた重みが消え去り、スパイクの音が耳に届いた。
「決まった!」
「ナイスナイス!」
ハイタッチの瞬間、びっくりするぐらいの重みと熱が浸透する。手のひらから、腕、肩を通って心臓へと伝わるこの力がどうしようもなく誇らしい。
ああ、コートから出たくないな。そう及川は強く思った。自分が指揮するプレイヤーが生き生きしているのがわかってたまらない。
中学三年生になってようやく掴んだこの感覚をずっと覚えていられるように、体に刻むようにトスを上げる。
試合に勝ちたい。ウシワカを叩き潰したい。けどそれ以上に仲間とひとつになっているこの時間が永遠に続いてしまえばいいなんて思うのだ。
「すごい集中……」
桃井の呟きが聞こえたわけではないだろうが、ふと及川は桃井のほうを見る。
影山や牛島のプレーに爛々と目を輝かせていた少女が実はほんの少し気に入らなかった。そんな彼女が今は及川のサーブやトスに夢中になっていることが、こそばゆいような誇らしいような、そんな心地にさせる。
いけないいけない、集中しないと。
試合展開は及川のサーブで北一の優勢になるかと思われたが、白鳥沢も対抗して猛撃する。いよいよマッチポイントが近づいているが流れはどちらも譲らずデュースとなり、体力勝負にもなってきた。
このままじゃ足りない。あと一押しが欲しい。
そこへラストのタイムアウトを告げる音が耳に届き、ベンチに向かう。興奮して潰してしまったのか、くしゃりとシワのついたノートを片手に桃井は口を開いた。
内容は至極単純だった。それでも騒めきは収まらない中で及川だけが静かに問う。
「その根拠は?」
きょとんとあどけない表情を浮かべた桃井は、やがてくすっと口元に弧を描く。年相応に無邪気な笑顔で、それでいてどこまでも堕ちてしまいそうな妖しさがあった。
「今試合のスパイクの成功率、打ち分けられたコースの選択、選手の身体状況、精神状態、性格、癖、あと色々ありますが……最終的には、女の勘です」
「……ふふっ、ならいい。信じるよ」
二人は温度の低い微笑みを交わしてタイムアウトは終了となった。堂々とコートへ歩む及川に並び、岩泉は尋ねる。
「ここまできたらやるっきゃねぇが……桃井は相当度胸あるな。んで、それを信じるっつったオメーも」
「えー? だって桃ちゃんができるって言ったんだから、それで充分だよ」
及川の顔に優しい色が浮かぶ。
「桃ちゃんはね。入部当初、俺しか自覚していなかった悩みを言い当てたんだよ。出会って数時間の年上の異性にそんな些細なこと言う? 普通よっぽどの根拠がない限りは言い出さないよね。ってことは桃ちゃんの中では明確な理由があったわけだ」
「……まさか女の勘って言ったのかよ」
「御名答」
岩泉は女ってやべーなとしみじみと呟くと、まっすぐコートを見つめ走っていった。その後を追う及川は、その顔に形容しがたい感情を出し好戦的に口角を上げる。
「ほんと、敵じゃなくてよかった」