「よし、あとはゆっくり休め。明日に備えておくといい」
夕食と入浴を済ました俺たちは例のごとく最終確認と気合入れを終え、解散となった。
あとは監督の言葉通りに今日の疲れを癒すだけだ。苛烈を極めた試合を思い返せばずしりと身体中の重みを感じる。
「小学生でも寝ない時間なのに岩泉もう寝てる」
「まあスパイクの本数は一番多いからなぁ。そりゃ疲れも溜まってんだろ」
チームメイトが白雪姫の小人よろしく岩ちゃんを囲んで囁くのを見ていると、俺も大きな欠伸が出た。
「及川もオネムかよ。さっさと寝たほうがいいぞ」
「牛島にわざわざ勝つって言われてんだからな。まずはその舞台に立たなきゃだ」
「うん、その前にちょっと」
財布とスマホを持って部屋を出る準備をすれば、チームメイトは何を思ったか1人はニヤリと笑い、1人は頭を抱える。
「アレか、男女でひっそり会うやつか! 鬼の監督に見つかんねぇように気をつけろよ」
「くそっ、桃井とホニャララな関係までいってたのかよ! 許すまじ!! でも及川なら許す!」
「どっちだよ」
思わず口を挟む。
「何なのホニャララって」
「言葉にしたら実現しそうだからぼかした」
「あ、そうだ及川。ついでに飲みもん買ってきてくれ」
「んじゃ俺も頼むわ」
こいつらと出会って3年目だけど未だにテンションの高低差を把握できない……。
「ハイハイ、好きに言ってろ。飲み物はなんでもいいよね」
呆れ顔でドアを閉める。カチリとオートロックがかかった音がして、しんとした空気が身体を包んだ。
さて、動画はスマホに入れてるし、どっか落ち着ける場所でもないかな。
そんな気持ちでフンヌフーンと鼻歌交じりに廊下を歩き、端っこのほうにある休憩スペースに辿り着くと、俺は足を止めた。
ピッとボタンが押されて、ガコンと飲み物が出される。けれど自動販売機の前に立つ少女は、腕を力なく下げるとそのまま佇んだ。
無機質な青白い光に照らされた横顔は、息を呑むほどに美しいのに、表情を削ぎ落としたような冷徹な美貌で飾られている。
ああ、あの子は初めはこうだったなと、ふと思い出した。気づけば優しげな微笑みを浮かべていたから忘れてしまっていたけれど。もしかしたらこちらのほうが彼女の本質なのかもしれない。
「お疲れ様、桃ちゃん。休憩中?」
「……及川先輩。……はい、そんなところです」
すぐに微笑を湛え、桃ちゃんはしゃがむと取り出し口からペットボトルを掴んだ。そばに設置されたベンチに座ると一口飲む。
「さっきまで部屋で井闥山学院などの試合映像を確認していたんです。明日には仕上げてきますね」
こともなく言ってのけるその表情には隠しきれない疲労が浮かび、限界がすぐそこまで近づいていると目に見えていた。
だが俺たちが勝つ為には桃ちゃんの能力は必須で、これまで頼りきりになってしまっているのが現状だ。
どうにかしたいとは思っていたけれど、結局全てを任せてしまった。それなのに桃ちゃんは任せてくださいと健気に笑う。
少し前までは、そんなことしなくていい。もう十分やってくれているじゃないかと言えたのに、全国優勝がかかっている今は制止できるわけがない。
だから俺はせめて負担にならないように願って、当たり障りのない言葉を吐く。
「そっか。頑張ってくれてありがとう」
「いえ……私にできることは、最大限やっておきたいので」
お金を入れて購入ボタンを押す手が止まる。息を吸った瞬間、桃ちゃんは口早に続けた。
「及川先輩はまだ起きていていいんですか。部屋で休んでいたほうがいいのでは?」
「まだ9時にもなってないんだよ? ヘーキヘーキ」
「わかっていらっしゃるでしょうが、自覚している以上に相当疲労が溜まっています。どうか無理をしないでください」
どの口が言う。腑に落ちない。でも桃ちゃんの考えも理解できるから、頷くだけに留めた。
たしかにさっきまでは疲れを意識していたんだけど、今はどっかいっちゃった。肉体よりも精神のほうが緊張しているくらいだ。
苦心してペットボトルを取り出し、滑らかな動作を心がけて喉を潤す。
「隣、座ってもいい?」
「どうぞ。……ああ」
スマホをかざせば用件を察したようで立ち上がる。
「ノートを持ってきます。追加がありまして」
「ん、よろしくね」
一旦部屋に戻る桃ちゃんと入れ替わるようにベンチに座り、息を吐くと膝元で組んだ指に視線を落とした。
うん。いつも通りの振る舞いだ。正しい先輩と後輩の距離感。
先に示されたように、線を越えない限り桃ちゃんはいつもと同じでいてくれる。今日のアレは警告だ。この先を進めば「なかったこと」では済ませないという。
でも責める気は毛頭なかった。その予防線が桃ちゃんを守ってきた最たるものだろうから。
今から行うのは作戦会議。秘め事めいた2人きりの図書室ではなく、味気ないホテルの片隅での。違いはそれだけ? ううん、そうじゃない。
俺は、彼女に向ける気持ちを、どうすればいいのかわからなくなってしまっている。他ならぬ彼女の手によって。
決して少なくはない量の想いが溜まりに溜まって、あの微笑みで爆発したというか。ともかく、俺が桃ちゃんを好きになる理由はそこかしこにあって、必定だった気がする。
いつ好きになったのかは定かじゃない。ただ、いつのまにか当然のように胸の内にあった感情が時々表に出ていただけだ。
天才に屈して折れてしまいそうだった俺を支えてくれた。俺のバレーを肯定し、強くしてくれた。
天才たちに向ける、尊敬と憧憬、それからたくさんの愛情を込めた目で、凡庸な俺を見てくれた。
入部当初は飛雄しか見ていなかったのに。
『飛雄ちゃんがどこまでいけるのかを見たくなったんです』
長い睫毛で縁取られた瞼を閉じ、まるで祈るように言葉を紡いだ横顔は、とてもきれいだった。
驚いた。こんなにも純粋にバレーに愛を捧げる子がいるのかと。しかも飛雄も同じくらいバレーに全てを注いでいるものだから、もうどうしようもないと打ちのめされた。
あんなの、ズルイ。初めから不毛だとわかっていたのに、なんで好きになっちゃったんだろう。
でも今、桃ちゃんが見ている「唯一」はなくなり、多くの対象へと変化したから、俺の中のブレーキは壊れてしまった。チャンスが転がり込んできて、もしかしたらと希望を持った。
「お待たせしました」
「いーよ。じゃ、始めよっか」
だから、俺だけを見てくれると勘違いをした。
告白ですらない質問の返答は、残酷なくらい遠回しで明け透けな拒絶だった。
バレー馬鹿はここでも発揮してくれて、分析をしている間はゴチャゴチャ考えずに済んだ。桃ちゃんが持ってきてくれたビデオをもとにノートに書き込みをして散々話し合い、いち段落ついた頃にはいい時間帯で。
「もうこんな時間……そろそろ解散しましょう」
「待って」
口をついて出た言葉に俺も困惑する。なんでそんなことを言ったのかわからないのに、腕を中途半端に伸ばす。細い腕に触れないまま、隣を指差した。
「ちょっとだけ、いい?」
「……はい」
おずおずと警戒しながらも座り直すと背筋を伸ばして正面を向いた。
「あのさ、俺、夢を見てるんじゃないかって思うんだよね」
「……まさか今ここにいることを、ですか?」
「うん」
桃ちゃんがええ……と脱力したのが気配でわかり、苦笑する。でも本当のことだから、するりと本心が溶け出した。
「だってついこの間まで白鳥沢に勝てない県ナンバーツーだったんだよ? それが今や全国ベスト4。チームメイトも試合に出てるやつほどフワフワしてんだろうね」
死に物狂いで試合に出場している時は頭も体もいっぱいいっぱいで、解放されたと思ったら取材や調整であまり気は抜けず、すぐに次の試合だ。息つく暇もなかった。
夢みたい。その一言に尽きる。
あんな苦しくて最高の思い、夢のはずがないんだけど。
「それにさ、桃ちゃんがチームにいるの、なんかすごいなーって」
マネージャーだけじゃなくアナライザーとしても優秀で。最近はコーチのように選手のプレーや特訓も見てくれるようになっていた。八面六臂の大活躍がなければ俺たちはここには来ていない。
桃ちゃんが俺たちに全力を注いでくれていることに感謝しよう。その恩恵がもたらすものは計り知れない。
全国を舞台に戦うチームでも1人いるかいないかという天才が、形を変えて俺たちのそばにいる。
そして誰もが認めるように、他のセッターじゃなくて、俺のバレーと相性がいいとか、都合のいい作り話みたい。
君は俺にとって、奇跡そのものだと思うんだ。
夢のように甘くて、愛おしくて、守りたくなる。そんな感じの。
でも現実は想いまでは都合よくしてくれないし、同時に怖くもある。桃ちゃんがいなくなったら、俺はどこまでやれるのだろうという不安。
「気づかない人は、ウチの強さイコール俺のゲームメイク能力だと褒めた。素晴らしいセッターって言う人もいたよ。でも、気づく人は桃ちゃんを素晴らしい才覚だと讃えた。ちょくちょく話しかけられたでしょ」
「ええ、まぁ、その。はい。そうですね、色んな、人から……」
遠い目をすると言葉を濁す。……マジでどんな人たちに絡まれたのこの子。ま、それをするだけの価値がある。能力を知ったら放っておく理由はない。
さらに能力を磨いていけば世界を相手にしても通用する。
この子は、桃井さつきはいつか日本バレーボール界の至宝とさえ呼ばれるだろう。
「でさ、いつか……数年後ぐらいに、テレビとか雑誌とかで桃ちゃん見て、俺あの子と同じチームだったんだって思う日が来るんじゃないかなー」
桃ちゃんは有能性を証明した。気づく人はそれだけバレーや観察眼に精通しており、全国的にも有名な強豪校の監督やコーチをしているだろう。もしくは協会の関係者とか。
つまり勧誘もリアリティがいっそう増す。まあ県内最強の白鳥沢高等部から既に言われている時点で異常なんだけど……。
「それ、私も言えるセリフですし……何より突拍子もないですね」
「でもありえなくないじゃん?」
というか絶対現実になる。
ところが桃ちゃんは口元に手を当てて唸った。
「うーーん……そこまで考えてないです」
「え、なんで?」
「なんで? だって、私が一番大事にしているのは、自分がどうこうなるっていうよりも、誰がどう変わるか、なんですもん」
足をプラプラ揺らして浮かべた年相応の笑顔は、やっぱり眩しいくらいに輝いている。
「競技だってたまたま飛雄ちゃんがやろうって言ったバレーってだけで、バスケとかでも可能性はありましたよ」
「桃ちゃんがバスケ? 全然想像できない」
バスケットボールを持った姿を想像するけど似合わないと思う。桃ちゃんはきょとんと目を丸くして、そして背中を丸めて笑った。
「あはは! はぁ……ふっ、そうですね、私も、今そう思います」
「なんで笑うのかなー?」
「いっいえ、なんでもないです。なんでも」
肩を揺らし、柔らかい雰囲気を醸し出すと、リラックスした体勢で小首を傾げる。
「では、及川先輩はどうなんですか? 将来自分がどうなっているかとか、想像つきます?」
「うーーん、つかない」
「そういうものでしょう」
明日のことさえ不明瞭で、勝敗も結末も、誰にもわからないのだから。
どうなるかとかじゃなくて、どうなりたいか。その目標はあるし達成する気もある。その道を辿っていつのまにか今の自分に帰結するだけで、その道中の光景はまだ知らない。
「でも、及川先輩の少し先のことなら想像できますよ」
「へぇ、どんな?」
「佐久早さんも牛島さんも倒して全国優勝。優秀選手に選ばれて、冬のJOC……全国都道府県対抗中学大会に出場。で、また全国優勝。とりあえずそんなところです」
とりあえずそんなところでさらっと流された俺の未来よ。
桃ちゃんはぐいっとサクランボジュースを飲み、不敵に笑う。
「あなたの中学でのバレーは終わってません。だからまだ引退しないでくださいね。及川先輩のバレーをもっと見ていたい」
もっとも、他の先輩方にも言えることですが。
なんてつけなかったら完璧だったよ全く。
それでも濡れて艶めいた唇から告げられる言葉は、俺が欲しかったものをくれた。
たとえ「唯一」でなくても、桃ちゃんがマネージャーである理由の一部にはなれたのだから。
たとえ俺と彼女の関係が有限でも、終わりまで見てくれることを宣言してくれたのだから。
多分これが桃ちゃんにできる最大限の譲歩だ。
ならば俺も、歩み寄り、答えを出さなくてはならない。
そう直感したんだけど、口から出てくるのは震えた吐息ばかりだ。言葉にしようにも適切なものなんて浮かばない。
桃ちゃんは元から返答を求めていないようで、では失礼します、と軽快な足取りで歩いていく。
1人取り残された俺は伸ばした手を何度も開いては閉じを繰り返し、ベンチに浅く座り直し、背もたれに体を預ける。それはもう深い深いため息を吐いて、笑い声を上げた。
「敵わないなあ、もう………」
気持ちをリセットなんてできるはずがない。だが保留する選択肢を選ばせることで、自然に風化するのを待つつもりだろうか。
全部知っていて、納得のいく結末はないとわかっていて、穏便に決着がつく可能性にかけた。わざわざ指摘しなければこの気持ちはないも同然だからだ。
そこまでするほど、迷惑なのかな。
ああ、でもわかるよ。俺が、及川徹が誰かを好きになるって、そういう意味だよね。恋愛が暴走して複雑怪奇になりやすい学生なら尚更。
だとしても、初めからなかったことにされた上に否定されるのは、キツイ。
「ホントに悪い子」
明日、佐久早とウシワカのチームに勝ったら、言えるだろうか。
なかったことにしないでとか。少しでいいから考えてとか。
「あ、そもそも告白もしてないじゃん」
好きの二文字も言えないで、あの子にそこまで求めるのは傲慢か。はぁ、やめやめ。考えちゃダメ。ドツボにはまる。プレーに支障をきたす。それこそ最も避けるべき展開だ。
ぬるくなった液体を胃に流し込んで、よし! と勢いよく立ち上がると、意識的に笑顔を見せる。
まずは最高のパフォーマンスを披露して優勝する。それ以外に答えはないように思えた。この微妙な距離感も、ぐずぐずの想いも、どうにかするのはその後。
気持ちを切り替えろ。
キレイな恋心は蓋もされないで、心の奥底で優しく光っていた。
ここの話は何度も書いて消して書いて消してを繰り返しました。及川の心情難しいです。そもそも恋愛描写死ぬほど難しい。作家さん本当に尊敬します。みなさん天才ですか。
いつもコメントを書いていただきありがとうございます。コメントから着想を得ることがよくありまして、「そんな見方もあるのか」、「その展開おいしいな」とか色々妄想、もとい考察させてもらっております。
閲覧してくださっているだけでこの作品のエネルギーです。これからもよろしくお願いします。