スパイクの音が轟き、井闥山の得点を知らせる音が鳴る。また点差は広がった。隣で監督やコーチの息を飲む音がして、観客席からの喜びや悔しさに満ちた声が沸き立つ。
静かに溢れ出した一筋の涙が、汗と一緒に落ちてズボンにしみをつくる。
───どくっ
顔を上げた先に広がる現実は、桃井の祈りを嘲笑った。
なぜ……なぜ彼らは私の予測の先にいる!?
井闥山の選手たちのプレーにただ目を見開くことしかできなかった。
これまでは予測の範疇で暴れていたのに。ここにきて全員が牛島さんのような成長を? いや、そんなはずは。でも今目の前で起こる光景は幻なんかじゃない。まさか、ウチの選手たちに触発されたとでもいうのか。
普段なら素直に喜び感動できたかもしれない。しかし現在は心の余裕が全くなく、誇りをズタズタにされた気分になる。
何度も予測を外し何度も先輩方に迷惑をかけた。次はないと自分に課してそれでもまた失敗した。許されない。なんて役立たずなんだろう。
桃井は自分を責めた。茹だるような熱気が渦巻き、吸い込んだ空気は燃えるように熱い。からからに乾いた口内と喉に絡みつき、激しく咳をする。
「げほっ、は、は……」
詰めていた息をどうにか吐き出した拍子にシャープペンシルは地面に転がる。その硬質な音が耳に届いた瞬間、世界は音を置き去りにした。
───どくっ、どくっ
煩わしい心音と血液が激しく流れる音だけが響いている。
桃井は自覚していなかった。
頭脳と身体に溜まりにたまった疲労がピークを迎え、多大なストレスが背負いきれない負荷となったことを。チームメイト、そして監督やコーチの信頼を寄せられ、今や見知らぬ人からも期待されることが重圧となっていたことを。
『あなたが桃井さつきさんですね。卓越した分析能力で相手チームを翻弄する手腕、とても素晴らしい。ぜひ特集を組ませてください』
『まだ中学1年生だし、早い話になるが……ウチの高校のこと、考えてくれないかな』
肉体と精神の膨大な消耗は、常人より遥かに広い桃井のキャパシティを限界まで追い詰める。
少しずつ、少しずつ。本人も意識できないうちに、思考は狭まっていた。周囲にはそれでも優秀と思わせたまま、才能は真に発揮されることなく未だ無自覚に蓋をされている。
そうすることでギリギリのところで踏みとどまり、本能は身体を守っていた。そうしなければ倒れていた。本人はまだ大丈夫と無理を重ね、どんどん能力は劣化するという悪循環を抱える。
このままいけば、ねじれ、歪み、取り返しがつかなくなっていたかもしれない。誰も知らないところでその輝きは鈍っていく。
───そして、桃井の才能は覚醒することなく、眠り続ける。
はずだった。
「俺にッ……来おおおおおおい!!」
無音の世界に割り込んできたのは岩泉の叫びだ。頬を引っ叩かれたような衝撃が走り、突如として音を取り戻した世界を正しく捉える瞳に映る、その人影。
スパイクモーションはお世辞にも美しいとは言えなかった。無理に跳躍したせいで辛うじて型は保てている、その程度だ。いつもの厳格に定まった岩泉の姿とかけ離れている。
それでも。格好悪くても、どれだけ醜かろうと、岩泉は床を精一杯踏みしめて跳んだ。それが俺の使命だと言わんばかりの迫力を放ちながら。
全国大会、もっといえば世界選手権などの映像で美しく力強いスパイクフォームは散々目にしてきた。なのに、……なのに。
その
「無駄だ!」
また高い壁がずらりと並びやがる。岩泉の忌々しげに鋭くした目が答えを探す。見つけた。前に突き出たブロッカーの指先。そこだ、と腕を振り抜く。
「んぬぁッ!」
ボールは上手いことリバウンドし、返ってくる。
「及川、もう一度だ!」
「わかってる、決まるまで!」
『何度でも!!』
選手たちの心が揃ったかのように、シンクロした声が響き渡った。
ああ、そうか。実力差とか、諦めることとか、考える余裕もないっていうか。考えることすら思いつかないというか。ただボールを落とさないことだけが頭にあるのかな。
スタミナが尽きかけたこの場面でも、先輩方は勝つことを信じている。
負ける可能性なんて眼中にない。
それに比べて私はどうだ?
パシィ!! 突然自分の頰を両手でぶっ叩きさっさとシャープペンシルを拾う桃井に、監督とコーチは目を開く。
私は何を思った。汗を垂らして必死な先輩方も見ないで、負けると思った。井闥山学院の選手たちのほうが強いと信じた。なんて失礼。今も私のデータを信じて戦っている彼らに合わせる顔はない。このまま何もせずのうのうと終わりを迎えるなど言語道断!
取り戻すんだ。余計なことは考えるな。
集中しろ。集中───!
もっともっと、全てを見透せ!!
岩泉を始めとした北川第一の選手たちのプレーは、桃井に力をもたらす。
この後のことは考えない。今、目の前の敵を倒すことだけを目標にする。強い意志は守りに入っていた本能を解き放つこととなった。
その結果、自ら無意識に定めていた限界を突破した。くしくも蓄積された肉体的精神的ダメージと、自分がどうなっても構わないほどに責めたことが、蓋をほとんど無力化させていた。そしてとどめの一撃となった岩泉の猛攻が、桃井の壁をぶち破ったのだ。
彼女は自力で能力を覚醒させた。
眩いライトに照らされた煌びやかなコートが、いつもと違った美しさを持って鮮烈に描き出されていく。
あれほど賑やかだった歓声や声援が遠ざかると、バレーの音色がよく聞こえた。シューズの踏切音、誰かの荒々しい呼吸、ボールに触れたときのわずかな音。実際はそんなはずがないけれど、桃井が疑問に思うことはなかった。
不快感はない。むしろ穏やかな幸福が優しく体を包んでいき、味わったことのない感覚に身を委ねることに躊躇いなどなかった。全身を駆け巡る冴え冴えとした神経が静かに胸を昂らせてくれる。
一瞬で通り抜けていくはずのあらゆる情報はゆっくりと流れ、その全てが脳に通達。恐ろしい速さで回転する思考は最適解を導く。
この時の桃井は自らが無自覚に蓋をしていた才能をこじ開けたことにより、本来の力、100%の実力を発揮していた。
言うなればこれまでは99%であれほどの結果を出している。そこからたった1%。されど、自分の意思で自分の力を不足なく使えることは多大な満足感や爽快感を彼女に与える。
それは、99%の予測から100%の予知に変わるほどの大きな変化をもたらした。
動け、動け、動いてくれ。あと一歩。あと一度、跳ばせてくれ。
終わりにしたくないんだ。終わりにできないんだ。コートに立たなかった仲間の想いにも、応援してくれる人たちの熱意にも、報いるには俺たちしかいないから。
今すべきことは圧倒的な戦力差に嘆くことじゃない。俺たちにできることを精一杯やることだ。そうすれば必ず君は答えを掴み取るから。他の誰でもない、オンリーワンの才能を発揮して度々チームを救ってくれた桃ちゃんだから、絶対的信頼を置ける。
それでも点差は開き続けた。18ー24。あと1点取られたら、負け。終わり。そんなことは許さない。
「ハァ、ハッ……は、ふぅー。お前ら、まだ動けるね」
「おまっ……はぁあ、動けるわクソ!」
滴る汗を乱暴にぬぐい、俺は及川に返事をする。
エースとして、男として、音をあげるわけにはいかない。女は根性と強気に笑うマネージャーの笑顔が思い出される。そういう曖昧な言葉をあえて使ってぼかしてはいたが、根性だけではどうにもできない量の仕事を任せてしまっていた。まあ、及川が手伝ってはいたようだし大丈夫とは思うのだが。
冷静さを奪う熱に舌打ちして、ネット越しに相手を睨むようにする。体力は限界もいいとこだが相手はまだ余裕がありそうだ。
タイムアウトは残っている。それがなかなか使われないとなると俺たちには共通認識が生まれ、それが心の支えとなっていた。
つまり、タイムアウトの使い時は今ではないということ。
もう後がないのにと周りは騒つくが、特に驚きはしなかった。桃井がそうするというのなら信じてやるのが先輩ってもんだ。
それに、桃井も俺たちを信じてくれている。
ここで終わるはずがないと。
崖っぷちに立たされたとあって仲間は集中しようとのめり込んだ。そこに掻き乱すような鬱々とした声が這う。
「……たしかまだタイムアウト残ってましたよね。ここで使わないのはなんでですか?」
「まだ使うべきじゃないって判断なんだよ」
「は? これで終わるのに? 頭ん中花畑ですか、そっちのマネージャー」
佐久早だけでなく井闥山の選手も衝撃を受けたようで、嘘だろ……と声を震わせる。
「あの子見かけによらず鬼畜かよ……」
「いやまあ練られた戦略からして性格悪そうなのは察してたけども」
研ぎ澄まされた集中が殺意に変わる瞬間を初めて感じた。俺以外からの圧がやばい。あいつすげえなと思いつつ、岩泉はひくりと口角を吊り上げる。
「さあな。まあ、以前こういう場面に出した指示の理由が、女の勘って時もあったし」
「うわ…….」
今のは完全に素らしい。汗で張り付いた前髪から覗く瞳には軽蔑の色が浮かんでいた。
岩泉が真っ先に思ったのは怒りでもなんでもなく、ああそれが普通の反応かもしれないなという感想だ。たしかに勘だと言い切る桃井、それを信じる俺たちのほうが変なのだろう。あとは単純に佐久早と桃井は一方的にソリが合わないらしい。
「それでも、俺たちはいいんだよ。俺たちには」
一か八かの勝負しようぜ。
高揚した気持ちを前面に押し出して言うと佐久早は顔を歪める。
「どいつもこいつも気持ち悪……」
破裂する寸前まで膨らんだ応援歌がぶつかってくる。吸う空気は火傷しそうなぐらいに熱かった。
敵は、どういう経由でどこを狙う。やはりエースの佐久早か、ほかのやつらか。守備の形は最善を保ってはいるがどうしても穴は存在する。それを補強するための戦略でもやつらは僅かな隙を逃さない。
執念深く、確実に、圧倒的な力で手段を殺す。
手足が震える。今になって、チームで一番駆け回ったツケが回ってきやがった。あとは、多分、プレッシャー。決めるのはお前しかいないだろという想いが、背中にのしかかってくる。今までにないくらいの圧だ。初めて息苦しさを覚えた。そして、そのことを嫌悪した。
息を整えろ。雑念は捨て置け。エースならばこのくらいのこと───
「岩ちゃーん、ちょっと力んでないー?」
「……あ?」
「待って待って怖い怖い、そんな顔しないで!」
感情を巧妙に隠し、へらへらした笑顔の及川は揶揄うように告げる。
「1対1で佐久早に勝てるの、ウチにはいないよ。でも、バレーはコートに6人なんでしょ?」
どこかで聞いたことのある台詞に呆気にとられた。及川は相変わらず愉快な笑みで自分のポジションに戻っていく。
そして溜まりに溜まった怒りを孕む低い声音が、チームメイトの耳に届いた。
「6人で強いのは、俺たちだ」
それはセッターである及川の誇りが凝縮された一言だった。信頼とも脅迫ともとれる威圧がコートに広がる。仲間は即座に思う。これに応えなければ、と。疑問も批判も頭に浮かんでこなかった。
電流が流れたように、一瞬ピリッとした何かが身体中を巡り、混濁した思考がクリアになる。
井闥山のサーブだ。鋭利な角度をしたボールの軌道は桃井が言っていた通りのもの。ただ、対応する力がなかった俺たちにはずっと苦しい一球だった。
拾え。キレイに上げるとか無理だから、触れ。そしたらアイツがセカンドタッチで───あれ?
「ふんぬっ」
「おお!」
やっぱしここぐらいに来るって思ったわ。なんでかわからないけど味方の動きがやけに見える。アイツなら、コイツなら、こういう行動を取るって。半信半疑じゃなくて、確信できる。
「わりぃ、ラスト頼む!」
「はい!」
サーブレシーブの瞬間から駆け出していた脚で、思いっきり跳ぶ。ここに跳んだら、ボールはやはり手のひらに収まった。無意識か、あるいは。
打ち出したスパイクは拾われたが、今までにない感触で乱すことができた。それでも美しく暴力的な攻撃となって返ってくる。
「ブロック1.5枚!」
「ブチ抜け!」
「っぁああああ!」
井闥山の選手は獣の唸りを上げてスパイクを打つ。ブロックの腕をかすめ進路を変えたボールすら待ち構えていた選手が上げてみせた。
───なんだこの、連携の滑らかさは。動きに迷いがない。アクシデントすら予測していたようにプレーの一部に組み込んでいる。
予測、まさか。視界の端にある桃色に意識がそれた。佐久早はすぐに試合に集中するも、激しい攻防の刹那の間隙を敵は逃さない。
ドガカッ!!
「……ッくそが」
「っし」
悪態をつくと、点を取った岩泉を見やる。ガッツポーズをするヤツの目は爛々と輝いていた。得点は19ー24。未だこちらが有利だ。なのに点差をひっくり返されそうな嫌な空気を感じる。
お前のせいだ、と桃色を睨む。
「なあなあなんかさあ! 俺なんかわかっちゃったんだけど!」
「お前もか! ビビッてきたよな! ビビッて!」
「え? なにそれ? まあなんとなく、お前らの動き見えたけど」
なにやら大はしゃぎの北一は点を取ったことよりも別のことに驚き、喜んでいる。なんなんだコイツら。
最後のタイムアウトを告げる音がした。
すなわち、彼らは桃井の引いたラインを越えたということに他ならなかった。
北川第一はもともと選手の力を最大限に発揮させる及川によって、高度な連携を得意とするチームだった。そこに桃井が加わることでより深く、より濃密に計算された連携を武器に進化した。
それとは別に、大幅に強化されたものがある。
予測だ。敵味方関係なく相手の次の手を読むことにおいて、スペシャリストの桃井が数ヶ月に渡って徹底的に仕上げたもの。そのほとんどの場合は敵に対してのみ発動していた。
しかし現在は味方にも適用される。味方の動きを予測することで、さらなる速さを追求できた。
3年間積み重ねた努力や絆が織りなす奇跡だ。あまたの強敵と戦うことで各々の極限状態での選択肢を知り、パターンに当てはめれば、自ずと答えは出る。桃井に伝えられ、及川に指揮される試合を度々経験したからできたことだ。
そして奇跡を起こすトリガーとなった及川が、この事実に気づかないはずがなかった。
言い知れぬ幸福が身体を包む。拳を胸に当て、胸元のユニフォームをぎゅっと掴んだ。深呼吸をして目を開くと、弾けるような笑顔で愛しい少女の待つベンチに駆け寄った。
お久しぶりです。またまた気づいたらもう6月です。あまりに忙しく更新する暇がありませんでした……。
今年はずっとこの調子かもしれません。来年になったら多少は落ち着くと思いますので、待ってくださると嬉しいです。