ゲーム開始の笛の音が鳴り、私は目を凝らす。影山くんの性格上あんなことを言われて真っ先に牛島さんを使わないはずがないからだ。強力なサーブを放った彼の名は瀬見英太さん……中学の頃から優秀なセッターとして有名だったから覚えている。そんな彼のサーブは若干の乱れと共に打ち上げられた。
「すまんっカバー!」
しかし影山くんは即座に落下点に入ると、一糸乱れぬ姿勢のままトスモーションを開始する。王様と呼ばれようが仲間に無言の反発をされようが、その真摯な動作に変わりはなかった。
ネットの向こう側は影山くんの正確性に驚くと同時に牛島さんを警戒していた。天童さんが爛々と目を光らせている。牛島さんはマークされているのをちらと確認して高く高く跳躍した。
私の中で大きな存在となっている二人のファーストセットはどうなるのか。期待と不安で揺れる胸に手を当てて、じっと見つめる。
………ぽんっ。そんな軽い音がした。その正体はボールが牛島さんの頭にヒットした音だった。痛いくらいの静寂がコートを包み込み、やがて影山くんの小さな声と天童さんの堪えきれなくなった笑い声した。
「す、すみません……」
「プッくくくくくあっはっは!!! ポンッて! 若利くんの頭に、当たっ、ひっ! あはっ! アヒャヒャヒャ!!」
「コラ天童! そこまで笑ってやるなって、可哀想だろ、…………くくっ」
「セミセミも笑ってんじゃーん」
その二人を皮切りに周囲の選手たちも若干リラックスした表情で笑い声を上げており、影山くんが居た堪れなさそうに、再び小さく謝罪をした。
王様と化した影山くんが初めて自分のせいでミスをしたのだとわかっている。それを悪いと思い、声に出して謝罪をし、次をどうするのか考えている。私はそんな彼を初めて見た。……ああ、相手次第って、そういうこと。
「……影山くん、こっち」
左利きの選手のスパイクは回転のかかり方が変わるから、普段右利きの選手のスパイクに慣れているレシーバーにとっては取りづらいものになる。ブロックだって一人で跳ぶとなると相手の利き腕の正面に跳ぶから、右利きとは肩一個分ズレが生じるため難しい。同じようなことがトスのセットアップでも言える。
現在の北川第一にサウスポーはいない。つまり影山くんはこれまで右利きの選手にしかトスを上げたことがなかった。加えて、初めて合わせる左利きの選手は超高校級の牛島若利その人だ。高さとパワーで全てをねじ伏せる圧倒的な大エース様。
互いに信頼関係なんて微塵もない二人のセットをこのゲーム内に仕上げるなんて、とんでもなく難しいのである。
影山くんを呼びつけてそんなことを口にする。牛島さんの中学の頃のデータを今のデータとすり合わせ、ドンピシャな位置を把握し、伝えた。
「いい? まずは相手に合わせることを意識すること。それに牛島さんの打点は高いから正確な位置を素早く把握するの」
「………」
「牛島さんならブロックもお構いなしに点が取れる。速さに拘らず、一本一本丁寧なトスを上げるように。わかった?」
「……ああ」
こくん、と頷く影山くん。彼は『ブロックに捕まらない速さ』に拘泥している。自分のトスが正しいのだと信じているから味方の意思など聞いちゃいないのだ。
しかし、今の影山くんは『左利きの牛島さんに合わせた高い打点にボールを届ける』ように意識を向けている。これだけで物凄い進歩だ。
……ま、それは相手に合わせた方が正しいのだと判断したからだろう。牛島さんが強く、北川第一のみんなが弱いと考えている。そうなんでしょ?
あと隣の鷲匠監督と白布さんがすごい怖い顔してるのでなるべく早くトスを修正して欲しい。めっっっちゃ怖い。などと思っていると。
「影山、次やったらコート出ろ」
鷲匠監督は影山くんに目も向けずに冷たく言い放つ。二度目はないというわかりやすい宣告に、影山くんは息を呑んで返事をした。
ゲームが進行し、影山くんが牛島さんにトスを上げる。そのボールの軌道は先程までと違って、彼に合わせようという意図が明確に感じられるものだった。
それでもやはり打ち辛いのだろう、牛島さんは僅かに顔を歪めて無理やり打ち切るもアウトとなってしまう。
「すんません、もう少しゆっくりですね」
「……ああ」
感覚を反芻する影山くんに、何かを考え込んでいる牛島さんは返事をした。
ゲームは牛島さんのスパイク以外至って順調。影山くんのムチャブリトスは、牛島さんと合わせるのに伴って徐々に修正されていき、今や普通にめちゃくちゃ打ちやすいトスに変わっていた。長くも短くもない丁度いい滞空時間を経て落ちてくるボールに、悔しいけど感動する、と思わずといった風に呟いたのは瀬見さんだ。
「……あの一回以来、影山のトスの精度が格段に良くなっていく」
そのトスをじっと冷たく見据える鷲匠監督が言葉をこぼす。その通りだと思う。久しぶりに見るあのトスは、荒々しさや苛立ちを孕まず、静謐な水面に吸い込まれるような美しさがあった。本人の集中力も研ぎ澄まされていっているのがわかる。影山くんは静かな眼差しでコートを見つめていた。
「……あれより大人しくなったら、ウチでとってやってもいいかもな」
「ほ、本当ですか!?」
さっきはコート出ろなんて言ったのに!?
「あくまで自分の意思を徹底的に殺すなら、だ。んな甘っちょろくねえんだよ」
「です、よね……」
浮かせたお尻をすごすごと戻す。あの影山くんがどんなに大人しくなっても自分の意思を込めたトスを封印するはずがない。王様じゃなかった頃の彼でさえ、負けず嫌いで強気なトス回しに才能と努力が滲み出ていたのだ。
それでも別枠……例えばアタッカーとかでも採用されないかなと考えてみるが、セッターじゃない影山くんなんてありえないので即座に消した。そんなの辞退するのが目に見えている。
「……いや、自己主張が悪いんじゃねえ。それがウチの強さに合うかどうかだ」
「そして、影山くんは合わないと?」
「今の奴も昔の奴もプレースタイルは一貫して、自分のセットアップで点を取ることにこだわっている。……ここに来たって幸せじゃねえべ」
流石、よく見ている。私も同意見だ。影山くんのセッターとしての矜持の種類が変わらないことには、白鳥沢へ進学したところで満足のいくバレーはできないだろう。
私がこの練習会に望むのは王様からの脱却のきっかけとなる変化だ。合格できたらいいけれど、変化されあればそれはどうだっていい。でも、影山くんが心の底から望むのなら、白鳥沢の道もありだと思っている。
だから、私の答えはこれだ。
「幸せかどうかを決めるのは貴方ではありません。影山くん自身です。もし彼が白鳥沢の環境を不幸せだと感じるのなら、そんな環境、私が変えてみせますよ」
彼の往く先が見たいという願いは変わらない。その為ならどんな努力も惜しまない。それが私の意義であり、バレーを続ける理由となる。
「何だと?」
「以前にもお話しした通り、私は各世代ごとに適した戦略を練るべきだと考えます。ならば当然、影山くんが白鳥沢に進学した場合、チームが最も強くなる方針は彼の実力を発揮させることです。……私なら、必ず実現できます」
「お前は影山にこだわるが、今の奴にそこまでの価値があるとは思えんな。セッターとしちゃ優秀なのは認めよう。だがお前なら影山を抜いたチームでも十分戦える術を見つけられるはずだ。……北川第一の現状が、お前の言う最たる強さが間違いだという証拠だろう」
ぎゅっと心臓を掴まれた様な、そんな痛みがした。露骨に目を伏せて押し黙る私を横目に、鷲匠監督はゲームへと意識を戻した。
本当に、凄い人だ。
この人の言う通りなのだから、言葉も出ない。
私なら、影山飛雄がいないチームでも、有効な道筋を見つけられる。実際、作戦や指導内容が頭の中で仕上がっているのだ。その時が来たら影山飛雄のいないチームでも対抗できる事実を生み出せるようにしてあった。
確実に勝てるとは言えないが、影山くんがいなくても……否、いないからこそ機能するルートは存在する。暴虐の王様に支配されようと、独立して戦える強さを彼らはそれぞれ持っていた。……強くなって欲しいと願って私が2年間も指導してきたのだから。
誰だって触れずとも爆発する地雷と同じコートに居たくないだろう。自己中心的で、横暴で、迷惑の塊のような奴と、……仲間だなんて到底思えない選手と、同じチームでいたくないだろう。
『桃井さんなら思いついてるんじゃないの? アイツがいなくても勝てる方法』
『それが俺らにとって一番いいしさ。……正直、自己中の王様がチームにいるのすげー迷惑なんだよ』
チームメイトのことを思えば、それが一番正しかった。どれだけ私が胸を引き裂かれる想いでいようと彼らにとっては関係ない。
……でも。それでも、私は。
『お願いします。彼に、影山くんにチャンスをください』
監督に頭を下げてそう言ったのは、散々だった春季大会の後のことだった。
『……顔を上げろ。それはお前が言うべきことではない』
『監督が承諾するまで動きません』
『……………………。あんな試合があったにも関わらず、そう言うのか』
深いため息をついた監督は厳格な眼差しで私を見下ろしているのだろう。視界には爪先しか映っていなかったが、肌を刺す様な厳しい視線を感じとり、私は決意を露わにする。
『中総体の試合で彼はきっと変わります。それまで試合に出させて欲しいのです』
『それを他のセッター志望の奴らに言えるのか? ……影山はスタメンから下げる。場合によっては出場登録からも外す。それが周りの連中の望みだ』
やっぱり言われていたか。舌打ちしたくなるほど都合の悪い展開に、頭を下げたまま歯噛みする。
私に直接言って、それでもダメだったから監督に直談判したんだろう。言い出したのは金田一くんか国見くんか……他の人もあり得る。影山くんが試合に出ているのを喜ばしく感じている人なんて私の他には誰一人としていないのだから。
『しかし、これまで影山くんがチームにいる前提で作戦や練習メニューを組んできました。突然変えたところで、中総体までに仕上がるかどうか……』
『だからこそ今変えるんだ。中総体の後ではとても東北大会や全国大会には間に合わない。春季大会を終えたこのタイミングしかないだろう』
影山をセッターから下ろすなら。監督は重苦しい声音でそう言った。
監督の判断は正しいのだと思う。今まで冷静に勝利を導いてきた理性が肯定する。しかし感情が嫌だと叫んでいた。
どうして影山くんがコートに立つべきなのか、それなりのことは言えるだろう。だが「いなくてはならない理由」は組み上がっていなかった。仮に言ってみたところで誰もが詭弁だと感じてしまうから意味はない。
頭を下げたまま、お願いしますと再び口にした。
『……どうしてそこまでする。何か確証があるのか』
確証がないから現状がああなのだと言外に告げてくる。返答次第では考えてくれるらしいとわかり、私はふっと息を吐いた。
確証に足る根拠が、これまで積み重ねられた揺るがないデータだったら、試合を勝利に導いてくれた勘だったなら、どれほどよかっただろう。でも今の私には心に決めた一つの誓いと想いだけだった。
すっと滑らかな動作で顔を上げると、監督の瞳をレンズ越しにしかと捉えて、力強く笑った。この気持ちだけは嘘偽りがないと私が一番知っている。
『影山くんを信じているからです』
やはりか、と監督は呆れたように眉を動かして、少ししてから『わかった。チャンスをやろう』と言ってくれた。
そんなことがあったとはつゆ知らず、影山くんは王様として君臨している。監督があまり手出ししないのはそれがあったからだ。まあ元より選手たちのトラブルは彼らにまずは任せて様子を見るのが監督の流儀なのだけど。
影山くんには試合に集中して欲しいから伝える気はない。余計なことすんなって怒られるだろうし。もちろん他の選手たちにも。誰も知らない、監督と私だけの秘密。
ただ、誰にも言えない秘密を抱えすぎた責任が両肩にのしかかり、酷く重かった。
だからその瞬間が来た時、私は瞬きするのも忘れて夢中になっていた。
「牛島さん!」
影山くんの正確無比なトス回しから繰り出されたボールが、牛島さんの手のひらに吸い込まれるように駆け抜け、激しい音を立てて豪快なスパイクが決まる。
自分の手のひらを見つめる影山くんと、静かに彼を観察する牛島さんのコンビは、天才と天才が組み合わさった最強に相応しいプレーを見せた。胸が高鳴り、口角が知らず知らずのうちに上がってしまうのを抑えられない。
「影山くんナイス! 次もその調子でね!」
にっこり笑って声をかけると影山くんは静かに顎を引いて首肯する。その穏やかな表情は目が覚めるような冷気に包まれており、彼の集中状態が極限まで高まっているとわかってドキドキした。
稀に影山くんは試合中や練習中にああなることがあって、結果はいつも良いものだったので、私は確信に近い気持ちでその後の展開に期待することができた。
「ほほぉ〜〜〜まさかこのゲーム中に合わせられちゃうとは。噂には聞いてたけど、本物見るとやっぱ……ゾクゾクしちゃうネ」
そして試合中に異質な動きを見せていた天童さんは、ぎょろりと眼球を動かしてうっそりと笑った。
終わらなかった……まだ続きます……。