せっかくの黒バス要素を入れてみようと思って描いた話です。
ほわほわと立ち昇った湯気が夜景を白く濁らせ、橙色の照明がぼんやり水面を照らす。満月から降りてくる月光が白い肌を神秘的に浮かび上がらせ、手のひらを素肌に滑らすと柔らかな感触がやんわりと押し返した。ここの温泉の効能って何だろう。やや不明瞭な視界の中でそれが書かれた札を探す。
烏野高校排球部マネージャー、清水潔子。彼女は今、誰もいない露天風呂をひとり堪能していた。
春高出場が決まった烏野高校排球部は毎日毎日練習に励んでいた。日程が近づくにつれて熱を上げる選手たちだが、マネージャーの二人もそうだ。選手を全力でサポートするべく一生懸命支えてきた。
清水も朝早くから夜遅くまで部活に参加している。どうすればみんなの為になるのか……考えて考えて、部室の肥やしになっていた旗を使用できるよう洗濯し、後輩マネージャーの谷地仁花を勧誘し、セカンドユニフォームを修繕し、とにかくよく働いた。
中学の陸上部では自分は選手だった。でも、今は違う。彼らと同じ舞台に立てることはないけれど、自分なりの最前線で戦うことができる。ああ、なんと誇らしいことか。三年の清水にとっては最後の大会だからさらに力が入る。
清水の両親はそんな働き詰めの彼女を心配し、ここに連れてきたのだ。露天風呂にでも入って身も心もリラックスして欲しいという願いに、清水も断ることができずにこうしてゆっくりしている。
明日からも練習がギッチリ詰まっているわけで、だったら甘えてもいいかなと吐息をつく。
「どうせなら仁花ちゃんと来たかったな……」
合宿で同じお風呂に入る時でさえも初めは『いいいぃぃえそんなっ! 清水先輩と同じお湯に浸かるなど畏れ多くてできません!! 貧相な私めには構わず! 一番風呂どうぞ!!』と言って中々慣れてくれなかったが、今ではすっかりガールズトークに花を咲かせることもできるようになった。
それに清水にとってここまで仲良くなれた後輩はいない。引退が近づいている今、もっとお話ししたいと思うのは当然のこと。
そんなことを考えていると、カラカラと引き戸が動く音が響いた。ペタペタと足音が近づいて、清水しかいなかった空間に新たな人影がやってきたと知る。
「隣、いいですか?」
「どうぞ」
返事をしつつ少し距離を取ろうかなと湯船から身を起こし……鮮やかな桃色が目に入って、中途半端な姿勢で固まる。
しっとり濡れた桃髪に目を見張るほど豊満な体つき。シミひとつない透き通った肌をゆっくりお湯に浸らせ、桃井さつきは大きく伸びをした。
「んんっ………はぁ、気持ちいい………」
清水は彼女のことを一方的に知っていた。月バリに特集されたのを部員たちが騒いでいたし、清水がバレーについて調べる中でもネット検索にヒットしたこともあるからだ。高校バレー界に於いて知らない人はいないだろう有名人に、清水はその顔をガン見してしまう。
「……あの?」
「あ、すみません。人の顔をジロジロと……」
垂れ目気味の大きな瞳をばちくりさせて小首を傾げる様子に、清水はもともと座っていた位置に居座り直す。
まさかこんなところで出会うとは。こちらが一方的に知っている分気まずさもあって、顔を正面に向けた。しかし今度は桃井からの視線が突き刺さる。
「人違いだったらごめんなさい。……清水潔子さんでしょうか?」
「え、ええ。そうだけど……」
驚きつつ肯定すると、桃井はパアアッと顔を綻ばせた。
「やっぱり。私、桃井さつきといいます。実はあなたのこと……というか烏野高校のことは、影山くんから聞いてまして」
「影山から? どうして………あ、そっか。あなた、北川第一出身だよね」
「はい。今日は久しぶりに帰省してたんです。明日になったら向こうに帰らなくちゃいけなくて」
こんなところで烏野の方とお会いできるとは思っていませんでした、と呑気に笑う桃井に、それはこっちの台詞……と思いながら意外だと感じていた。
影山は基本的にお喋りをしない。というかできない。バレーしか見てないから、昨日のバラエティ番組がどうとか好きなアーティストはとか、そういう高校生らしい会話をしているのを清水は見たことがなかった。
バレーに関してはよく話すが、その他のことは大体イエスかノーで会話を終了させる。自分もワイワイ話すのは苦手だが、影山よりはマシだと清水は思う。
影山の過去の話はなんとなく知っているが本人の口から聞いたことはない。だから自分のことを話すのが不得意な男なんだろう。そう、思っていたのだが。
「……意外。影山がそういう話をするんだ」
「しますよ? 結構普通に。まあこっちから聞かない限り話そうとしませんけどね」
男の子ってそういうトコありますよねー。桃井は口の端で笑う。
「アイツ烏野でちゃんとやってます? 友達作れてますか?」
元チームメイトにしてはグイグイ来る。それに口ぶりは友人というよりも母親に近い印象があり、清水はガールズトークの単語を頭にぼんやり浮かべつつ答えた。
「友達は知らない。多分いないと思う」
「ああ、やっぱり……」
「でも、部活の時……バレーしてる間は、凄いと思う。烏野にいる限り大丈夫なんじゃないかな」
ユース合宿から帰ってきた影山は、対伊達校の試合で王様節を爆発させた。でも烏野の面々がまるっと受け止め、または正面からぶつかり、彼の存在を肯定した。あの吹っ切れた顔に、コートの外側にいながらも清水は安心したのを今でも思い出す。
「そうですか。上手くやれているようで安心しました。烏野に行くって聞いた時、不安だったんですよ」
「どうして?」
「だって烏野、ここ数年実績を残せていませんし、指導環境は劣悪でしょう? 影山くんの才能が埋もれてしまうのではないかって、気が気じゃなかったですよ」
一瞬、本当に彼女がそんな言葉を口にしたのかと自分の耳を疑った。
「あなた……本気で言っているの?」
「はい。宮城県内の高校のバレー部、調べ尽くしましたから。あの烏野に行くくらいならいっそ県外に出たら? って進言したんですけど、アイツ聞かなくて」
「……やめて。それ以上、ウチの部を悪く言うの、やめてくれる」
可愛らしい音を奏でる唇が意地悪く吊り上がった。
「事実でしょう?」
「……たしかに去年まで、監督もコーチもいなかった。でもみんな最善を尽くして頑張ってきた。烏養前監督が時間を見つけて指導してくださったこともある。武田先生だって初心者ながらに試合を取り付けてくれたり、コーチを探してくれたし、そのコーチも精一杯やれることをやってくれた」
清水はマネージャーに成り立ての頃、バレーに詳しくなかったとはいえ、不遇の時代を彼らと共に過ごしてきた。憧れとの乖離。己ではどうすることもできない理不尽に晒されてきて、だから今ここまで頼もしくなったチームメイトを支えてきた。
同輩だけではない。うるさくて騒がしくて静かでかわいい後輩たちにも恵まれた。みんなの努力を知らないのに、ただの数字しか見ていない彼女に腹が立った。
「ふふ。なら、実際に戦って証明するしかないようですね。どちらがコートに長く立つにふさわしいかを」
何を言っている。実際に戦う?
徐々に記憶が蘇ってきた。……そうだ、部室で月バリを投げ捨てんばかりの勢いで騒ぎ立てていた彼らの言葉。桃井の姿があったページの特集名。関西のある高校の名前だ。
「私が所属する稲荷崎高校。シード校なので二回戦からの出場になるのですが……もし烏野が一回戦に勝利した場合、ウチと衝突することになります」
「なんですって……!」
ばしゃり。波紋が揺らぐ。
「影山くんのことは大好きです。だからこそ……絶対に手は抜きません」
「……。こっちだって、ただ負けるわけにはいかないから。それに烏野が影山だけだと思わないで。全員が光る武器を持ってるの。優秀な囮だっている」
「日向翔陽くん、ですよね。烏野の攻撃力を何倍にも高くする、最強の囮。烏野には小さな巨人に憧れて入学したのでしょう?」
「!」
何故それを、と目を見開いて驚く。動揺する清水を知ってか知らずか、桃井は構わず高圧的な台詞を並べた。
「囮が囮でいられるのは、影山くんの天才的なセットアップがあってこそ。シンクロ攻撃もそうです。逆を言えば、彼を攻略すれば烏野は解体したもの同然ですよ」
清水は詳しく彼女のことを知らない。ただ優秀なアナリストだということしかわからない。
しかしほんの少し会話しただけで、こちらの戦力や武器を見抜いていると理解せざるを得ない状況に、額から浮き出た汗が頬を伝って滑り落ちた。
強敵なんてものじゃない。彼女もまた、烏野が散々戦ってきた化け物たちの一角なのだ。
「せっかく白鳥沢を倒して五年ぶりに出場したのに。あなたたちには残念ですけれど……」
桃井は湯船から立ち上がり、膝に両手をついてこちらに微笑んだ。柔らかな弧を口元に描き、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべている。完全に見下ろしていた。
「イイ試合、しましょうね」
「……あまりナメないでもらえる」
清水も対抗して勢いよく立ち上がる。あまりに距離が近かったため、ぶつかった二人の胸がむにゅりと形を変えた。
「首洗って待っていて。……必ずあなたたちを倒してみせるから」
儚げな容姿とは裏腹に、凛とした声色で宣言してみせる。
元からあった『みんなと勝ちたい』気持ちが更に燃え上がった瞬間だった。
「……元陸上部、清水潔子さん。思った以上に情熱的な人だったな」
一人きりになった露天風呂で、桃井は長い足を伸ばして、さっきは失敗したなと苦笑いした。
すごく失礼なことを言ってしまった。謝る暇もなく湯船からあがっていったから相当怒らせてしまったと反省する。
後で謝罪しないと。でもあんな生意気な口をきいたから、そんな機会を与えてくれるだろうか。
「……すごい美人さんだったなぁ。もう一人のマネージャーさんも可愛い系だし、あの二人がいるのって、なんか、ちょっと」
影山はバレーボールにしか興味ないし、色恋沙汰に関心が全くないのはわかっている。わかっているけれど、そばで見ていられない分、不安になるのは仕方のないことだった。
いや別にアイツに彼女できてもふーんだけど。むしろ彼女さんが可哀想(だってバレーにしか興味ないから)で、そんな人がいて欲しくないから心配しているのであって、嫉妬とかそんなんじゃないけど。
誰かに弁明するでもなく桃井は悶々とした気持ちを抱える。
それに、桃井は知ってしまった。
烏野が影山を完全に吹っ切らせたのだと。
中学三年の、あの一度のプレーは影山の心に大きな傷跡を残した。自分の手で彼の足を引っ張ったことを認めきれなくて、弱かった自分は全てを投げ出し、違う高校を選んだ。
それでも影山がどうしても気になって、連絡を取り合うようになり、自分のいない環境でもちゃんとやれているのか知ろうとした。
その結果、影山は生涯の相棒とも呼べる相手や、頼りになる先輩たちに囲まれてバレーボールに夢中になっていることを知った。
「だめだめ。そのことはもう考えないって決めたのに」
自分がいなくても、否、自分がいないから、影山がぐんぐん成長しているのだと突きつけられて、胸が苦しくなる。
やっぱり私がそばにいちゃ、アイツを苦しめるだけだったんだとわかってしまう。
桃井にはそれがどうしようもなく恐ろしくて、同時に訳のわからない歓喜の念が確かにあって、結局のところ濁った感情がドロドロ溶けているのを、じっと耐えるしかなかったのである。
だが、それももう少しの話だ。
もう少ししたら、春高が始まる。
烏野と試合をし、勝敗を決すれば、否が応でも感情にケリがつく。そうしたら、今度こそ。
そこまで考えたところでのぼせそうになって、桃井は慌てて湯船からあがった。
「気合い入っとんな〜〜」
「! チワッス」
「飛雄くん元気にしとったー?」
「ハイ」
春高第二試合を控え、サブアリーナにてウォーミングアップをする烏野と稲荷崎。
仕切りギリギリに接近し、影山に話しかけたのは宮侑だ。
「
「? 何がっスか」
「んー……飛雄くんを完璧に分析して、烏野の攻撃を完封する策を立てたこと。せっかくの試合なのに、楽しませることができなくて申し訳ないって」
勿論桃井はそんなことは言っていない。侑が思いつきでついた嘘である。影山を焚き付け、ついでに烏野勢にも圧がかかればいいなと思って口にしたのである。
向こうでは案の定顔を強張らせる烏野の面々がいる。直接試合をした経験がないとはいえ、桃井の脅威は耳にタコができるくらい聞かされてきたからだ。
なお稲荷崎側では、治が「またアイツ桃井に怒られるわ」とぼんやり思い、角名は「後輩の女子にガチで怒られてるとこ撮っとこ」なんて考えた。
そんな中、桃井の強さを一番理解しているであろう影山は、彼女が自分を攻略するべく力を入れているとわかって……心の底からワクワクソワソワした。
なんせ影山は桃井が認める一番のバレー馬鹿なので。
「俺はあいつみたいに、誰よりもあいつのことを理解してるとは言いません。でもあいつと一番長くいた自信があるので。大丈夫です」
気づけば、彼女は自分の先をずっと歩いていた。暗闇の道を明るく照らし、進むべき目標を示していた。
けれど進学先が別れ、初めて桃井のそばを離れた時。影山は進むべき道標も頼るべき相棒も失って、光のない真っ暗な世界を、ただがむしゃらに駆け抜けた。
そして、暗闇の中みんなの先頭に立って教え導く桃井の強さを、尊敬と共に胸に刻んだのである。
「あいつに……さつきに勝ちたいです。だから今日は、負けません」
今は、進むべき道標も頼るべき相棒も、この手の中にある。
力強く静かに言い切った影山を見下ろして、侑はニィと不気味に笑んだ。