二人がいる準備室は少し暑い。夏服に移行し始めた季節なので、冷房を効かせたり空気の入れ替えをせずとも、まだ耐えられる時期だった。
裁縫するのに時間はそうかからないだろうから、特に窓を開けることもせず、二人とも横並びに置いた丸椅子に座る。
ボタンを縫い付ける作業は、北にはとても簡単なことだった。
家庭科の授業で習うし、家でもやったことがある。こんな簡単なことも桃井はできないのか? と疑問に思ったが、中学の頃にクラスメイトの男子が針に糸を通せないほど不器用だったのを思い出した。
人の得手不得手を指摘するのは良くない。縋りたいくらい不安になって頼み込んできたのかもしれないのに、北が突き放すのは酷いことだ。
桃井は事故とはいえ、柔肌と下着を男の先輩に見られたのだ。パニックになってもおかしくない。……あまりそんな素振りはなかったが。
加えて追い込まれた状況のせいで、自分と二人きりの空間に押し込まれ、制服を脱ぐことを強要されたようなものだ。……そんなに抵抗しなかったが。
トドメに先輩が一日中着用した制服を渡されて、ほとほと困り果てただろう。断ったらどんな仕返しが待っているかわからないから、彼女は着るしかなかったのだ。……少しも嫌がる様子はなかったが。
「………」
北は今になって、自分が全く冷静ではなかったと気づいた。
ここには誰も来ないのだから、二人きりになる必要はない。部屋を出てさっさとボタンをつけ、制服だけ返せばよかったのだ。
手元を自分の制服を着た桃井に覗き込まれながら、作業に集中する。今更言い出せない空気だった。
我ながら情けない。数日ぶりに部活外で桃井に会えて、浮かれているのが伝わってしまわないか、不安になった。
ボタンが弾け飛んだ時、バッチリ見えたあの光景を胸にしまい込んでいるのがバレそうで、怖くなった。
人気のない放課後の準備室に二人きりで。
後輩の女の子の制服のボタンを縫って。
しかもその子は自分の制服を着ている、いわば彼シャツ状態。
この特殊な状況に、北は普通にドキドキしていた。
階段の踊り場でも、「胸の大きい人が好きですか?」とか聞かれたし。
受け取った制服は先程まで桃井が着用していたもので、まだぬくもりがあった。広げると、柔軟剤の甘い香りに桃井自身の香りが混ざって……正直言って、興奮したのだ。
二人きりに押し込んできた男が、自分を性的に見ているとわかればものすごい恐怖だろうから、北はそれらを顔や態度に出さないよう徹底的に意識した。
やがてボタンの縫い付けが終わる。
「できたわ」
「ありがとうございます。手際いいですね、さすがです」
「このくらい普通やろ」
「あ……でも、他の部分も緩くなってるみたいです。ホラ」
桃井が指差した先、胸元周りのいくつかのボタンがゆるくなっていた。このままでは、他の部分もいつ弾けてしまうかわからない。
「お手数かけて申し訳ないのですが、そこも直してもらえませんか? もし着替えて、またボタンが取れてしまったら、すごく困るので」
「……仕方ないな」
ここまできたら一個直すのも数個直すのも同じ手間だ。それに桃井の言う通り、外でまたもやボタンが弾け飛んだら大事故だろう。何としても防がなければ。
それにしても何故ピンポイントで胸元辺りだけボタンが緩くなっているのだろう。いや、普通に胸を張るだけで生地が引っ張られるから、その箇所だけ負担がかかるのも理解できる。というかよくあのサイズがシャツに収まって…………これ以上はよそう。
北は考えるのをやめて、律儀に作業を続けた。
準備室には裁縫の音だけがしている。
「………」
「………」
お互いに無言だった。ドキドキする心臓の音が相手に聞こえないか、それがものすごく気かがりである。
さて、もうお分かりだと思うが、桃井はこの状況において、この部屋から北を逃すまいとしていた。
今の彼女の頭の中にあるのは、北をどうやって巨乳派に鞍替えさせようか、それだけである。
そのための作戦がズダダダーッと脳内に蘇っており、とにかく時間を稼いで、二人きりの時間を引き延ばしていた。
なんせボタンが弾け飛びやすいように仕掛けたのは、桃井自身なのだから。教室なんかで暴発したら困るので、放課後になった瞬間にトイレでボタンを緩めた制服に着替えるほどの執念である。
よって鞄の中には体操服だけでなく、普通に制服もあった。桃井は大嘘つきだった。
つまり北が桃井の胸元を目撃したのは、事故でも何でもなかった。
ただの故意である。彼は巻き込まれたのだ。
北は自分のことを加害者だと思っているが、本当は被害者だった。
まさか彼女が自分を性的にガッツリ見ており、恋人にしたい・えっちなことがしたい・巨乳派に変えたいと思われていると、気付かなかった。というか普通は気づけない。
桃井は北の制服を着る喜びと、この悪事がバレないかヒヤヒヤして、ドキドキしていた。それでも心の中は万雷の拍手で満たされていて、スタンディングオベーション中である。
これはかなり理想的な流れだ。
後輩の窮地を放っておけない北は、「着替えがない」「ボタンが縫えない」と言えば、スッカリ信じた。しかも白シャツを脱いで貸してくれた。桃井はブラジャー姿でいる気満々だったのに。
チャンスがあれば襲う気だった。多分今ならいけると桃井は思っていた。
「……あの、」
「おう」
「さっき、その。ボタンが弾け飛んだ時……」
「………」
「み。見えました?」
早速仕掛けた。主語はないが、伝わるだろう。
下着と胸を見ましたか? と答えづらい・異性として意識せざるを得ない質問をしたのである。
普段ならブラジャーとキャミソールを着ているが、北に見せつけるためにわざわざキャミソールだけ脱いだから、意識してくれるといいのだが。
ここで北が巨乳に嫌悪感を見せたなら、もう貧乳に勝てないと諦めるつもりだった。
あとごめんなさいと謝ろうとも思う。だって普通にセクハラだし。
「……見、た」
「! ……」
見えた、と言えばいいのに。北は「見た」と言った。そこには能動的な意味が生じる。
偶然? 意図していない? それとも正直に言った?
どうしようもない事故で「見えた」のではなく。
女の子のおっぱいを「見た」と、そう言ったのか?
「すまんかった」
北は頭を下げた。これだけなら、言葉の意図は読み解けない。
しかし桃井の意識は別の場所に向いていた。
彼はこちらを見なかった。シャツに触れる手元に視線を落としたまま、謝罪の言葉を述べたのである。
普通なら相手の目をしっかり見て言う場面なのに、北はそうしなかった。
何かを堪えるように目を閉じる横顔を桃井はジッ……と見つめて、やがて目線はわずかに動く。
白黒の髪の隙間から覗く耳が、とても赤かった。
「っお、」
桃井は北の耳に、指先でちょんと触れた。びっくりした顔で上半身を仰け反らせ、北は片耳を手でパシッと覆う。
「な。なん、してんの」
「つい……」
「勝手に人の身体触ったらアカンやろ」
「ごめんなさい……」
怒られた。触れた指先は、ちょっぴり湿っていて熱い。北は汗をかいていたのである。よく見れば首筋にもうっすらと汗が浮かんでいた。
「でも」
「?」
「どうして目を見て言ってくれないんですか?」
「……、」
「もしかして」
桃井は北が座る丸椅子に手を置いて、身を寄せた。勝手に人の身体を触ってはいけないと怒られたので、絶対に触れないように気をつける。
そのまま耳元で悪戯事を囁こうと思ったのだが。
「ぅ」
北が小さく呻いた。桃井の上体が彼の右半身に接近し、大きく膨らんだ胸が、その右腕を撫でたのである。桃井は前に突き出た乳と身体の距離感を見誤っていた。
豊かな双丘に挟まれるような形で肘の辺りを撫で上げられて、北の産毛が立った。筋肉が緊張したのが自分でもわかる。全身に力を込めてしまって、意識して脱力しなければならなくなった。
息を呑んだし、耳どころか首元まで熱が伝染した。
「あ。すみません。わざとじゃないです」
「オウ」
「勝手に触れてはいけませんね」
「……針とか鋏とかあるから、気ィつけな」
「はい」
確かに裁縫道具の近くでちょっかいを出すのは危ないな……と思って、桃井は元の位置に座った。別に派手なことをするつもりはないのだけど。
そのまま沈黙してしまうので、北は「あ……」と少しだけ名残惜しい気持ちになりつつも、作業を再開する。
「もしかして」の続きを聞きたいような、聞きたくないような。
というか桃井は今何をしようとした? 耳元に口を近づけようとしていた気がする。接近する必要があったのか? 聞きたいことがあれば、今のようにきちんと座った状態で話せばいいのに。
北が悶々とする一方で、桃井の心の中は大変賑やかだった。
今の彼の反応は、胸が触れてしまって申し訳ない、という感じじゃなかった。明らかに異性として意識しているリアクションだった。
それに耳も首も赤いし、何事もハッキリとした物言いをする北には考えられないくらい、どもっていた。
間違いなく彼は動揺及び興奮している。
「見た」というのは、本当に見たのだろう。自発的におっぱいに視線を向けたということである。もはや自白だった。
北は貧乳派ではない、と桃井は確信する。少なくとも巨乳への嫌悪感はない。彼シャツも効果がありそうだ。
勝ち目がぐんぐん増大して、彼女の自信は天を突き抜け宙まで届いた。
セクハラしましたごめんなさいと謝る予定は、たった今消えたのである。
最後のボタンを縫い付けて、鋏で糸を断つ。他に緩みがないかを確認して、北は小さく息を吐いた。
「今度こそ終わりやな」
「本当にありがとうございます」
北が全部を縫い終えるまで、それほど時間はかからなかった。しかし途中から無言だったから、体が石になるくらい緊張している。
肩をほぐす動きをしながら、北は裁縫道具を片付けて棚に戻した。
桃井は制服を受け取って、ぺこりとお礼を言う。
「じゃあ、その、着替えるので……」
「! 出るわ」
「ああ、いえ、そんな。その姿の先輩を外に出すわけにはいかないので」
「俺は気にせん。どうせ誰も来んよ」
「私が気になります。制服を繕ってくれた先輩の服を奪取した挙句自分のものにして、恩人を追いやる真似なんてとてもできません」
桃井はなんとか北を準備室に留めておきたくて、必死だった。
しかし北は「な、なぜこんなに俺が退室するのを嫌がるんや……?」と困惑している。それに、北の制服は北のものであり、桃井のものではないのだが……とも思った。
だとしても桃井が着替えをする空間に、自分がいるわけにはいかない。きちんと断ろうと口を開いた時。
「ホンマにここ誰も来おへんのー?」
「!」
「っ、」
ガララと隣の部屋の扉が開かれて、近くから女子生徒の声が聞こえた。壁の向こうからだ。
被服室に誰かが入ってきた……。桃井と北が同時に出入り口の扉をバッと見る。
「来んて。前も来たけど、最後まで誰にも邪魔されんかったし」
「えー? ウチの他にも連れ込んどるん?」
男女だ。声色も会話の内容もどことなくチャラい。多分あまりよろしくない目的でここに来ている。
二人は凄まじい速度で長机に体を隠すように身をかがめた。お互いの顔を見れば、焦りと緊張でどちらも強張っている。
今の状況は非常にまずい。
桃井は北の白シャツを着ているし、北の上半身はインナーだけだ。見られたら誤解されてもおかしくない格好である。
「ど、どうしましょう……」
「ひとまずバレんように静かにしよか。アイツらもすぐどっか行くやろ」
「でも、最後まで邪魔されない、とか言ってましたよ」
「……最後って」
「そりゃ、その……」
小さな声で言い合って、最後に桃井は言い淀む。恐らく北と全く同じ行為を頭に思い描いているが、直接的に言えるほど羞恥心は捨てていない。
準備室の扉を一枚隔てた先、被服室では、男女の話し声が続いていた。会話の内容もはっきり聞こえてくる。そのペアはとても親密な関係で……イチャイチャし始めて……密やかな笑い声とか、戯れる声がしていた。
すぐにどこかへ行く素振りは全然なかった。
「で、出ていく気配ないですよ?」
「こっちには来んみたいやけど、困ったな」
「あ。そうです、何か音を出して、人がいることを知らせたらどうでしょう?」
名案です! と桃井は閃いたが、北が頭を張る。
「もしそれで準備室を見に来たらどないする」
「う……」
「その、今の格好を見られたら、マズイやろ。お互い」
見られても誤解を解けばいい、なんて無責任なことを北は言えなかった。
あの手の男女は決まって口が軽く、学校の花である桃井のスキャンダルを嬉々として言いふらして回るだろう。
彼女を守るためには、奴らに見つからないことが絶対条件だ。
北はそう考えている。
「なら、見られても問題がない格好ならいいですか」
「は?」
しかし、桃井は別の考えだった。
見つかるのが怖くて隠れるのなら、見つかっても問題がないようにしてしまえばいい。
あくまで二人は準備室にいただけで、やましいことは何もないと胸を張って言えればいいのだ。桃井の話はとても簡潔で、隙だらけなのに、不遜なほど自信に満ち溢れている。
「見られても問題ないって、」
「着替えます。今、ここで。私がすぐに自分のシャツを着るので、脱いだ北先輩の服をお返しします。そしてあなたがすぐに着替える。あのカップルが事を起こす前にやってしまえばいい」
桃井は早口でまくしたてた。その目は一切揺れることはなく、絶対的な正しさを含んでいるように、北には見えた。
彼女の判断力は素晴らしい。バレーを通して散々感じてきたことだ。つまり今回においてもその通りである、と半ば思考を放棄するような形で、納得する。
桃井を信用しているからこそ起こる、致命的な判断ミスだ。
非日常のシチュエーションと、連続して起こったすけべなハプニング。窓を閉め切って暑い部屋。二人とも汗をかいていて、とっくに冷静な判断を下せる状況ではなかった。
扉の向こうには、甘い声を出し始めた女と楽しそうに笑う男の二人。奴らが行為を始める前に、二人の着替えを終わらせなければ、絶望的な状態は続く。
この局面をとにかく抜け出したくて、北は桃井の選択に同意した。
……のだが。
「まずは、私からですね」
桃井は、部屋からの脱出とかバレないようにとか、もうどうでも良くなっていた。
流石に男女が被服室に入ってきた時は心の底から焦ったが……どうやら彼らはイチャイチャするのに夢中なようで、こちらに気づく余裕はないみたいだ。
じゃあ、利用しよう! と単純明快に思ったのである。
「理由があって脱ぐ必要がある状況に持っていけるな……」と判断したから、その通りに動いただけだった。
そこには理性も冷静も道理も校則も秩序も存在しない。
宙まで届いた自信というのは非常に厄介で、桃井を無謀で底なしにふしだらな女にした。
「……、わかっ、た。俺、あっち向いとくから……」
心臓が早鐘を打つ。北が音を立てないよう慎重に体の向きを変える。桃井を視界に入れないよう、壁の方を見ることにしたのだ。
しかし、そのおかげで真っ赤な耳も、じっとりと汗をかいた首筋も、桃井には丸見えである。
呼吸のたびに小さく上下する背中がたまらなくて、そこから生々しくも匂い立つようで、彼女の目がとろんと細められた。
「あの二人にバレないように、音、出しちゃダメですからね……♡」
プチ、と指先でひっかいて、まずは一つ目のボタンを外した。
多分この後北さん食われますね
当初予定していた汗だく麦茶セックス(未遂)の麦茶抜きが始まるかもしれません
なんでこうなった
続きです(※リンク先は成人向けです)
https://syosetu.org/novel/238432/4.html