それからというもの及川先輩のプレーには雑味が混じるようになっていった。もともとオーバーワーク気味でもあったというのに白鳥沢との練習試合が近づくにつれ酷くなり、岩泉先輩が引きずって居残り練を強制的に終わらせる光景も何度か見られた。
練習メニューでこなすミニゲームでもミスがやや目立つようになり、密かに監督やコーチが懸念の声を上げている。チームメイトの先輩がたは及川先輩に、自分たちにできることはないかと積極的に居残りを申し出た。
一方で飛雄ちゃんは好調だ。飛び抜けたセンスは一年でもトップの輝きを放っており彼をレギュラーにしようという動きは既にある。
白鳥沢でも出してみようと早速ユニフォームを与えられ、数日ほど飛雄ちゃんの喜びに付き合ってあげた私は偉いと思う。まあ私も相当嬉しかったけどね。その日はウチと飛雄ちゃん家で集まって騒いだくらいだし。
とはいえ及川先輩が主力の選手であることに変わりはない。けれど彼の表情には見せかけの笑顔すら消えていき、集中力も乱れ始める。
私もどうにかしようと動いてみたがいかんせん自分も一因であるような気がしてならない。だって私と話してると顔が暗いんだよねぇ。
及川先輩はそんな万全とは言えないコンディションのまま当日を迎えることとなった。
「でけぇ! ここが白鳥沢か!」
「飛雄ちゃん。あまりウロチョロしないの」
中高一貫の私立ということもあって敷地はとても広く、部員の案内に従って体育館へと足を踏み入れる。ピリッとした空気が雄弁に語っていた。ここは完全なる敵地であると。
「……なぁ、あの髪ピンクの子マネージャーかな。羨ましい!」
「えっマジじゃん。あいつらずりーよ」
やっぱカラフルな連中が周りにいるならともかく、桃色の髪というのはとても珍しいんだよなぁ。地毛だからね本当に!
男子だらけの空間に女子というのは目立って仕方がなく、普段の何倍もの突き刺さる視線を頑張って無視しながら目的の人物を探す。
「来たか」
精悍な顔立ちに力強い眉とギラついた眼光。強靭な体格は無駄のない筋肉に包まれており、出で立ちからして中学生とは思えない風貌を漂わせている。
怪童牛若。県内最強、ついでに全国にも名を轟かせているトッププレイヤーだ。
「今日こそへこましてやるよ。牛若ちゃん」
「及川。その呼び方はよせと言っている」
及川先輩が好戦的な笑みで言えば、牛島若利さんは淡々と言葉を返した。わぁ、あそこだけ温度が違うなぁ……。
北一は怪童牛若が入学してからの白鳥沢に1セットも取ったことはない。つまりそれだけ彼が強敵であり攻略のキーになるということ。大丈夫、やれることはやってきた。アップを終了し早速練習試合に移るチームを見つめながら、私は資料が挟められたバインダーに目を落とす。
「桃井。わかっているな」
「はい」
コートの真横という特等席で存分に観察できるのだ。絶対に逃すことは許されない。
シャーペンを握る手には力がこもり、試合開始の笛の合図とともに踊るように紙面を滑り出した。
試合開始から数分後、北一は白鳥沢に6点もの差をつけてリードしていた。懸念していた及川先輩の不調は案外杞憂だったようで、しかし弾ける寸前の敵愾心を腹の底に無理やり押し込めているみたいだ。見ていてハラハラします。
対白鳥沢に向けて本格的に起動していた北一は、目に見える形で努力が実ったこともあり押せ押せムード全開。他校の敷地内というアウェーな状況でもパフォーマンスをさほど落としていないのはさすが強豪校と言える。
きた。私は書くのを一時停止して食い入るようにコートを注視する。跳躍と同時に床が揺れ、十二人が動き回るコートに一層の風が吹き込んだ。
「───シッ!」
短い気合いとともに砲撃と見紛うスパイクが堕ちる。そのフォームは緻密な黄金比で仕上げられた彫像のように強かで美しく、この場にいる誰とも一線を画す絶対王者の気配を否応なく意識させられた。
すごく美しい。隔絶した才能を発揮するその姿は、まるで大空を自由に滑空する大鷲のごとき勇壮な迫力だ。
見惚れるとはこのことを言うのだろう。髪が前に流れて耳にかけるとこちらの失点を知らせる笛の音が届く。そこでようやく我に返った。
牛島さんの得点は7点。およそ白鳥沢の得点の半分以上だ。彼にボールを集めれば点が取れる。シンプルな結論は爆発的な攻撃力を誇る白鳥沢にピッタリの方針だった。
だから対策をしてきた。そもそも左利きというのは相当なアドバンテージであり、加えてあのパワー。初見じゃ100%とれない。
とどのつまり慣れるしかないのだ。ブロックを固めてストレートを打たせ、拾うことに特化した選手であるリベロの先輩に触れさせる。あげれば及川先輩が誰かを使って得点につなげた。
とにかく慣れろ。牛島さんを止める方法は残念ながら今の北一にはないからね。
でも、それ以外の選手は徹底的に止めてやる。
「おいおい、前回と違くね? あいつら。めっちゃ戦いづれーんだけど。なぁ牛島」
「そうか?」
「ごめん、聞く相手間違えたわ」
現在北一のセットポイント。あと一点で初めて第1セットを取れるというところでタイムアウトが入った。物理的に流れを切ってきたのだ。
白鳥沢の選手たちの話は続く。
「牛島の得点は決まるけど、ほかの俺らの動きが読まれてる気がする……」
「セッターからスパイクまでの流れとか完璧に見抜かれてたわ。ドシャット食らいまくった」
そりゃあしっかり分析しましたから。私はちらりと資料に視線をやる。
牛島さん以外のスパイカーへのコースの指示、ツーアタックをしてくる確率、各選手の得意分野などなど。挙げればきりがないほどに。加えて及川先輩の経験もあるから精度は跳ね上がっているだろう。
「俺わかったわ。かわいいマネージャーがいるからじゃね!?」
「天才か」
「いや違げーだろ!」
……強豪校といっても根は男子中学生か。ところで先輩がた? ドヤ顔で敵チーム見るのはやめてくださいね?
とまあふざけるのもここまでにして。資料はレギュラー陣に配布してデータを叩き込ませた。練習試合のあとも公式戦で戦うことになるから絶対に無駄にならない。
何より彼らは白鳥沢に勝てるのならばと誰一人として弱音を吐くことはなかった。
「次のサーブは及川からだな。しっかり決めて白鳥沢から1セット勝ち取ってこい」
「はい!」
及川先輩のサーブの調子は良く、何点かサービスエースだってしている。彼の力で実現できればそれはそれは大きな自信になるだろう。
監督の言葉に及川先輩は元気に答えた。
「やはりやつは優秀だな」
なんかやけに耳につく声に顔を上げて周囲を見回すと、ギャラリーからコートを冷静に見下ろすご老人がいた。頭髪は白く、格好も白いジャージ。鋭い目つきで私を見下ろしている。
「あ、あの……あのご老人がこちらを見ている気がするんですけど」
「ん? ああ、鷲匠鍛治監督だな。白鳥沢学園高等部のほうの監督をしていらっしゃる」
「では、今日は来年入学してくる怪童を観に来たということでしょうか」
「そういうことだ。まぁ他にもスカウトするような選手がいるかウォッチングしているんだろう」
監督はそう言うけれどどうにも私の勘違いではないようだ。牛島さんや及川先輩に視線をやり、最後に私を……もっと言えば手元の資料を凝視する。遠すぎて見えないと思うよおじいさん。
「……まさかな」
不吉な呟きは私の耳には届かない。ピッと短く再開の笛が鳴る。
「及川ナイッサー!」
手元のボールを回転させると及川先輩はココア色の瞳を細めて神経を尖らせる。狙いは牛島さん。スパイクの準備に専念する彼を邪魔してやろうという魂胆だ。
フワッと宙に放り上げたボールは、しかし相手コートへと爆進することなくネットに阻まれてしまった。
「……今のは」
動きにキレがない。バテるには早すぎるから、ほぼ間違いなくオーバーワークの影響が足にきたと思われる。あー、岩泉先輩が難しい顔して黙り込んでいるからバレてしまったようだ。
「ッ、ごめん……」
「どんまいどんまい!」
「気にすんなー!」
チーム全員が優しい声をかける。ギリ、と奥歯を噛み締めて及川先輩は悔しげにコートに戻った。
サーブ権が移り白鳥沢のサーブが叩き込まれる。
「任せろ!」
散々牛島さんのスパイクに触れてきたリベロの先輩は、ようやく取りやすいボールがやってきてむしろ嬉しそうに見えた。及川先輩の真上へとしっかりレシーブができているし彼も中々にレベルが高い。
「よし、いくよ───っ!?」
「なっ!?」
及川先輩のトスは岩泉先輩を通り越してしまう。驚愕に陥る二人と動揺が走る北一。先輩が地面すれすれでどうにか拾ったが、一度狂ったリズムがますます及川先輩の精神に揺らぎをかける。
白鳥沢が安定した流れで牛島さんにトスを上げた。強烈なスパイクにリベロの先輩は食らいつく。
「上がった!」
「つなげつなげ!」
今度こそ成功してみせると、及川先輩は苦しげに岩泉先輩にボールを託す。いつもと比べて著しく落ちた精度のトスにいよいよ岩泉先輩も歯を見せるようにして顔を歪めた。
「ぅ……ぁあッ!」
腹の底に溜まった気合いを全て吐き出して渾身のスパイクを打つ。三枚ついていたがかろうじてブロックアウトとなり、北一は初めて白鳥沢に1セットをもぎとった。
「よっしゃあああああ!!」
試合が終わったわけではないのに勝ったように喜ぶ彼らは、こちらにピースでアピールしてくる。思わず破顔するとさらにうるさくなった。
第2セット。一度下がるかと監督が尋ねると及川先輩は食い気味に行けますと答えた。終盤でミスったから巻き返さなければと感じてしまったのだろう。普段はヘラヘラしてたから忘れそうになるけれど及川先輩は責任感の強い人だった。それでいて負けず嫌いなのだ。
しかし見ていて辛くなるほどにその努力は空回りしていった。考えられない数のコンビミス。阿吽の呼吸と呼ばれる片割れの岩泉先輩も引きずられるようにプレーが変調し、北一はあっという間に追い詰められてしまう。
「ごめ、岩ちゃん……」
「謝んな。ブレねぇ試合ができない俺も悪い」
彼らは上手く言葉が噛み合わない。岩泉先輩なりの「お前のせいじゃない」という意味も、平素なら汲み取る及川先輩は気づかずさらに自分を責めてしまう。
コート内で酸素を求めるように不規則な呼吸を繰り返す彼に、監督やコーチがひっそりと呻くようなため息を吐く。
「桃井。影山をこっちへ」
「わかりました」
チョイチョイ。手招きすると飛雄ちゃんはキョロキョロと周りに視線を巡らした。いや他の人じゃないから。5秒くらい経ってから俺? とでも言いたげに自分の顔を指差す。そうだよ、とこくりと頷く。あ、尻尾振りながら走ってくる。喜色満面の飛雄ちゃんが犬に見える幻覚が……。
「影山。選手交代だ。体は冷えていないな?」
「はい!! 大丈夫ッス!」
ウズウズと口元を緩ませた飛雄ちゃんに、練習通りにやってねとか頑張れとかは必要ない。
「待ちに待った晴れ舞台だよ。存分に楽しんでこい!」
「おう!!」
コツンと拳をぶつけ、闘志を分かち合った。
交代してベンチに腰を下ろした及川先輩は話しかけるのを躊躇わせるほどの緊迫感に満ちていた。渡すはずのタオルとスポドリを両手に持った私は狼狽える。
彼が嫌悪する天才が両方コートにいる中で自分は下げられている。己の不調がもたらしたチームの不協和音。思い通りに動かない身体。焦燥と苛立ちでパフォーマンスの質はだだ下がり。悔しくて悔しくてたまらない。
そして追い打ちのように選手交代の際に牛島さんが放った言葉。
『こんなものか。お前の力は』
膝を掴む手が震えている。怒号を擦り切れた理性で止めているみたい。
監督とコーチは飛雄ちゃんの動きの良さに驚いている。今手に持っているものほっぽって分析したい衝動をおさえ、私は及川先輩の前に立った。
「どうしてこんなことになった。そう後悔していますか」
光を失った瞳がぼんやりと私に焦点を当てる。潤んでいるように見えたのは、気のせいということにしてやろう。
そもそも私はそんなに優しい人間じゃないのだ。ありったけの言葉をぶつけてやる。キャプテンだからどうした。年下の男の子なんぞ恐るるに足らん。
「オーバーワークは岩泉先輩が何度も注意してくださっていました。それを無視して無理をしたのは誰ですか。チームメイトが頼ってくれと言っているのに一人で突っ走っているのは誰ですか。……強くなりたいのに、みんなで白鳥沢に勝ちたいのに、仲間の手を払いのけているのは誰ですか」
スポドリを無理やり握らせる。
「自分が一人じゃないことに気づいてください。でないとみんな、悲しいじゃないですか」
タオルを頭にかけて顔を隠してあげる。だって泣きそうになってたからだ。私偉そうだったなと自己反省していると、及川先輩は途切れ途切れの声を絞り出した。
「気づいてない、わけな、いじゃん」
「はい」
「でも、俺は……勝ちたいだけだ」
「ええ。そうですね」
虚勢もまるっとお見通しの私は、それでも穏やかな声色で相槌を打つ。
「これは勝つための試合です。だから、まだ負けたわけじゃない」
飛雄ちゃんがイキイキとボールに触れる光景を眺めながら、私は微笑みを浮かべて独りごちた。
試合終了。第2セットと第3セットをとられ白鳥沢に敗北した北一は感傷もそこそこにバスに乗り込む。帰ってミーティングをして反省点を洗い出し、次に生かさねばならない。
飛雄ちゃんのマシンガントークを食らっていた私は、ねぇと呼びかけられて立ち止まった。及川先輩だ。
「ミーティング終わったら体育館に残ってて」
「あっハイ」
やっべぇ怒られる、調子乗ってんなって絶対怒られる。遠い目をする私は牛島さんの姿が視界に入った。
「及川」
「なんだよ」
顔も見たくないと背中を向ける及川先輩だが牛島さんは特に気にしていない様子だ。それが及川先輩の苛立ちに拍車をかける。
「今日のお前たちとの試合、今までにないほど苦戦を強いられた。研究され尽くしているとチームメイトが言っていたが、俺もそう思う」
少し意外だった。自分のプレーにしか興味のなさそうな人、という印象を勝手に抱いていたから褒めていることが驚きだ。
しかし眼光がギラつき声色が鋭くなる。
「だからお前が成長したのかと考えたが違った。お前は変わってなどいない。ではなぜ北川第一はここまで強くなった?」
これ、褒めてるんじゃない。ただ単に疑問を解消したいだけだこの人……。
及川先輩は冷ややかな声で吐き捨てた。
「黙れ」
この壁を越えるために足掻いてきたというのに、そいつに変わっていないと断じられてしまえば、反応は冷たくなるに決まっている。爆発しなかったのが奇跡だ。
これ以上ここにいれば何をしでかすかわからない。及川先輩はさっさとバスに向かう。はぁ、まだ復活はしないか。宣戦布告しない代わりに嫌に静かなのがその証拠。
ただ言われっぱなしってムカツク。
「あの」
牛島さんはそこで初めて私を見た。ええ、今までまるで目に映っていなかったからね。誰だ? という顔をしていたので自己紹介から始めた。
「マネージャーの桃井さつきです。及川先輩のプレーは以前と変わっていなかった……そうおっしゃっていましたが、本当にそう思うんですか?」
「ああ」
「……それは違います。今日あなたたちのチームを追い詰めたのだって、及川先輩の経験や冷静な観察眼があってこそです。彼は変わろうともがいている。だから、何も知らないのにそう言われるの、端的に言ってカチンときます」
「たとえそれが真実だとしても、試合で発揮できなければ意味はない」
牛島さんの言葉は、重い。実感を伴う発言は私のそれをいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。
それでも私は毅然と胸を張って言い放った。
「及川先輩は確実に強くなってあなたを次の公式戦でボコボコにするので、覚悟しておいてください」
誰が物怖じするか。なんでこんなに腹立つんだろうと思いながら、気づいたら宣戦布告をしていた。
……あっこの人先輩だった。また舐めた口利いちゃったぜ! と心の中でハッチャケても牛島さんの非難する目つきは変わることはない。
「たかがマネージャーに何を言われようと構わん。実際に戦うやつらの言葉のほうがずっと重い」
「……へぇ。では私からも宣戦布告しておきますね!」
にっこり笑顔でドスのきいた声を出す。
「そのたかがマネージャーに分析されまくって手も足も出ない、なんてことにならないようにお気をつけて」
頭にくるとつい強がりな発言をしてしまう。しかし実現してみせると固く心に誓った私は、近くで誰がこの会話を聞いているかとか全くどうでもよかった。
───
華のある可憐な少女が人形のように整った顔で笑顔を見せる。とても愛らしいと感じるのが普通だろうが、牛島は笑顔の裏に潜む得体の知れぬナニカに気を取られていた。
まるであれは捕食者の目だ。そこにあるのはモノからデータを集める機械のように冷徹で、かつ煮えたぎったマグマのように熱意が込められた瞳。
只者ではないと感じ取った牛島は、ふと近づいてくる老人が将来世話になる人物であるとわかった。
「鷲匠監督、見に来ていたんですか」
「ああ。面白い選手がいるかをな」
鷲匠は牛島を見上げて尋ねる。
「お前、北一のマネージャーと話していたな」
「はい」
「何か興味深いことは言っていたか」
牛島は少し考えて、桃井の名前と彼女の宣戦布告の内容を口にした。聞いた時は、何をふざけたことを。選手でもないマネージャーが敵チームのエースに刃向かうなんてと何も感じなかった。
だがあの目。及川と通ずる眼差しに違うことも思っている。結局のところはわからない。牛島にとって桃井はそういうカテゴリーに分類される生き物だ。
「そうか、桃井さつきか……」
鷲匠の考え込む口ぶりを気にせず牛島は体育館へと戻る。その顔には、何やら期待できそうなものが待っているとワクワクする子どもの笑みが浮かんでいた。