「試合終了! ストレート勝ち!」
「去年やられたOBチーム相手に!」
「やったったなお前らーっ」
完全にギャラリーと化した部員たちの野太い歓声で、治はようやく試合が終了したことに気づいた。はっ、はっ、と短く息を切らして独り言を呟く。
「……え、もう?」
「北さん入ってから一瞬やったよな……」
「実はまだもうワンセット残ってるとかない?」
えっ? と現実味がない顔で口走る一年生たちの会話にフッと低く笑い、監督は言った。
「ドッキリちゃうで。得点板見てみ」
そこには確かに『20-25』と得点が示されている。見事なストレート勝ち。ネットの向こうでは何が起こったと唖然とするOBチーム。対するこちらも全員似たような顔だ。肩で息をしながら、信じられないという表情でお互いを見ている。
「………」
「、は」
「はは、」
堪え切れず溢れ出したかのような笑い声。伝播していくそれは自然と喉からあふれたような変な笑い方だった。
だって笑うしかない。
全員がそれぞれのプレーに集中していった結果、時間や点数を忘れて夢中になってしまったのだから。
「や……ばかったなぁ」
「俺スパイク何本打ったんやろ」
「絶好調だったな。俺も含めて、全員が」
尾白を始め二年生の彼らも、口の端をへにょりと曲げて小さく笑う。
どっとのしかかる疲労は肉体よりも頭脳の方が深刻だった。過密的な集中状態から急に解き放たれ、2セットしかしていないのにコートに座り込んだ。
凄まじかった。桃井の作成した資料に沿った結果、驚く暇もないほど全てが予測通りで。ジンと鳥肌が立った最初のワンプレーが遠い昔のようだ。
「ちゃんとしとるなぁ」
北は眩しそうにしている。
こんなバレーボールがあるなんて知らなかった。今まで北が見ていたバレーはまだまだ表面的なものだったのだろう。的確な指示を出してきたつもりだが、彼女のそれとは天と地ほどの差がある。
その先があると知れて、北は己のことを幸福者やと認識をアップデートした。
この時点で、稲荷崎バレー部の全員が桃井に対する評価を新たなものにした。
年下の、東北で何やら有名人らしい中学生の女の子から。
優れた観察眼と頭脳で"正解を導き出す"コート外の天才へ。
今日活躍した選手たちの、衝撃をどう処理すれば良いかわからないという困惑と動揺を包んだ笑いは、やがて他の部員たちにも届いていく。
人は光り輝く才能を持つ天才と対峙した時、賞賛するでも絶望するでもなく、ただ思考が停止するのだと知った。
資料を渡された時のように周りが様子見して変な空気が固まりつつあった時。
「ッやっぱりそうや!」
一人の選手が飛び出した。体育館のライトにキラリと光る金髪が、鮮やかな桃色に猛接近している。
「桃井ーッ」
セッターとしてずっとボールを操ってきた侑は、桃井の両肩を掴んでグッと顔を近づけた。
「こんっな気持ちエエバレーできたのいつぶりやろ! ありがとうな!」
「え!?」
お礼を言ったのである。
気に食わないとあれば先輩だろうと構わず嫌味ったらしく噛みつく男が。
部員たちは驚愕し、桃井も澄まし顔を一気に崩した。
「すっごいなぁ、ようわかったなぁ! な!」
「わっ」
「ぜぇんぶお前の予測通りや! 何食ったらあんなんなんの!? 頭ん中どないなっとんねん!」
「ぅ、……ぁ、えと」
「出た、侑の精神年齢下がるやつ」
「試合外になってるところ初めて見たな」
「アカン桃井が混乱しとる」
晴れ渡った無邪気な笑顔で捲し立てる侑に、周りの部員たちは「まーた侑の癖が出たわ」と言う。
そして「ああこういう反応して良いんや」強張りを解いて、なぁんだと穏やかに笑っている。
そりゃそうか。すごいモンには賞賛を。今まで俺らそうやって来たやん。
尾白のエースとしての誇りも、侑のスパイカーへの真摯さも、チームメイトながら、同世代ながら、すげえ奴にはすげえと尊敬を伝えてきた。
なら桃井にもそうすればよかったんだ。
年下とかアナリストとか、そういうの取っ払って真っ直ぐに「すごいな」って言えたらよかったんだ。多分そう言ったら桃井は真顔で「いえ」と終わらせてしまうんだろうけど。
「あ、ありがとうございます……」
しかし両肩を掴まれて揺さぶられる桃井は、ずっと体育館で見せていた静かな表情ではなく、僅かに紅潮した微笑を見せていた。
その姿に部員たちは「おや?」となる。てっきり桃井は角名みたいな真顔をのっぺり張ってるのかと。
しかし視線に気づいた桃井が笑顔を引っ込めて侑に抵抗し始めたので、幻覚かな?とも思った。
「これからはお前が味方なんやもんな……そっか、そうなんやなぁ!」
侑は感動していた。何にかと言えば、桃井の天才的なバレーボールへの洞察力にである。
彼女の厄介さは重々承知していたつもりだったが、ミーティングで資料を渡された時に己の認識の甘さを痛感したのだ。中学の試合と比較して精密度が段違いだった。
そりゃ敵だった中学時代と、味方となり資料から作戦まで全てを提示された今は、桃井の才能の見え方が違うのは当然のことだけれど。
今回の試合が始まってから終わるまで、侑の全身に心地よい痺れがあった。ゾクゾクした。プレー中の自分の思考が、試合前の桃井の言葉に完全に重なる。動きがシンクロする。生まれて初めての感覚。
つまるところ、一目惚れに近い衝動だった。
初めて戦った中学二年の試合の記憶を上回る衝撃である。
「早くインターハイ始まらんかな! 強い奴と戦いたくてしゃーないわ!」
「侑、ストップ」
「ハイ北さんッ」
「なんや早いな」
「助かりました……」
いつの間にか背後に立っていた北に驚き、ピャッと素早く両腕を胴にくっつける侑。桃井は呆れた様子で崩れた髪を直した。
「まあ侑の気持ちもわかるけどな」
「信介もか?」
「ああ。他校のチームが驚く顔、早う見たなった」
「わかるわ。今ならストレートで勝てる気がする」
「それは言い過ぎ……って言えないところがやべえわマジ」
気づけば北の他にも、試合に出ていたメンバーがゾロゾロと桃井の周りを囲っていた。はたから見ればかなり圧がある光景だが、慣れっこの桃井は静かに北の言葉の続きを待っている。
北は桃井を真っ直ぐに見ていた。一年には「迫力があって怖い」と不評の眼差しは、逸らされることのない桃色の瞳にしっかり届く。
「慢心とは違う……ああ、自信やな。お前は俺たちに正しい道を示してくれる。だから信じて進めば間違いないって。そう思った」
「……たった一試合しただけで、そう思ってくださるんですか」
「充分やろ。それともまだ不服か?」
桃井はぱちりと大きくまばたきをして、ぐるりと周りに視線を向けた。
「桃井。最初はどうしたらええかわからんかったけど、今なら言える。お前の資料めっちゃわかりやすくて助かったわ!」
「ここまでの精度は初めて見る。が、よく馴染んだわ。もしかしてその辺りも調整してくれたんか?」
「中学の試合ん時と別人やな。隙がないっちゅーか」
「おかげでブロックやりやすかった」
な。と北のアイコンタクトに、桃井はたまらない気持ちになった。ああ充分だ。もらい過ぎてる。胸元に当てた拳をぎゅっと握り、震えを抑えた声色は彼女の感情の昂りを表していた。
「ありがとうございます。調整は、はい。おっしゃる通り、皆さんがすぐ成果が出せるように……というか調整しないとデータそのものは使い物にならないので」
「へー。そういうもんなんや」
「俺らの分析、怖いくらい当たっててすげーってなったし、コエーっとも思ったわ。全然喋ったことないやろ」
「喋ってなくてもわかんねん、コイツは」
「なんで侑が得意げ? お前桃井の何なん」
「全国の選手の中からNo. 1に選ばれた男やけど? 俺のおかげで桃井はココ選んだし」
「自意識過剰」
「そうなん桃井?」
「いえ全く」
「冷たっ」
これまでの壁はなんだったんだろうというレベルであっという間に稲荷崎の輪に溶けこんだ桃井。
未だ表情は固く凛とした態度を保っているが、類稀なる才能を100%自分たちに注ぎ込んでくれるという信頼が上回り、彼女に対する部員たちの接し方は格段に柔らかくなった。
「監督はこれが狙い目だったんで?」
「そうやな。言葉でアレコレ言うても聞かんやろ、アイツら。特に一年」
「はは、確かに」
その輪を少し離れたところから監督とコーチが見守っている。
「桃井をアナリストとして起用すれば、今までと全く違うバレーボールになるのは確定や。でもアイツらには関係ない。気に入らんかったり認められんかったら反発するのは目に見えとる」
「そうなればチームが崩壊してもおかしくない。……だからって実力で黙らせるなんて、思い切ったことしますねぇ」
桃井の冷たい振る舞いと部員たちの困惑した反応から、今後このチームは上手く回るだろうかと気を揉んでいたコーチだが、監督はそうではなかったらしい。
「そら一番の懸念要素やった侑が桃井を心底認めとったからな。北もミーティングの段階で受け入れとったし、不安なんてあるはずがないやろ」
「言われてみれば」
すっかり和気藹々とした雰囲気になったチームを見る。桃井という異物は完全に受け入れられた。侑の言葉に乗っかるのは悔しいが、監督としても早くインターハイを迎えて全国一位を掻っ攫いたいと思ってしまう。
「照れ隠しせんでええのにー」
「いやホントに侑先輩を選んだとかじゃないです勘違いしないでください」
「侑、現実見た方がええで」
「何やと!」
「その辺にしとき。まだ挨拶が済んどらんやろ」
北に言われてしまえば誰も口を挟めない。しかし挨拶とは。彼らが考える間に北はネットの向こう側、敗北したOBチームへ体を向けていた。
「北。……初めて試合出れてええ気持ちやったやろ」
「……はい。おかげさまでいつも通りのプレーができました」
相手はムッとした表情を隠せない。大人の余裕が完全になくなったOBチームの選手に頭を下げ、北は半身を少しだけ逸らした。手を自分たちのチームに広げ、ほんの少しだけ口角を上げる。
「これが新生稲荷崎男子バレー部です。よろしゅう頼んます」
あれは完全に自慢やった、と後に尾白は語った。
初めて試合に出れたからテンション上がってたんやろな、と大耳も答えた。
「───反省点としてはこのくらいでしょうか。修正します」
「……おん」
また言ってしまった。部員たちは乗り越えたというのに。
その日の練習を終え、体育教官室にて改めて監督・コーチ・主将・アナリストで一日の試合の見直しをすれば、すぐさま桃井が全ての答えを出し切った。そして「選手たちの感覚が薄れる前に……明日、は厳しいので明後日に提出します」とまで言われてしまい、このスピード感に慣れていない監督とコーチは上手く返答できなかった。
しまった、と思った時には。
「早いな。あのクオリティの資料やったらもうちょい時間かかると思ったけど」
「春休み期間ですから」
「あ、そうやな。まだ桃井入学しとらんわ」
なんて北との会話に移るので、次から気をつけようと大人組は思うのだった。咳払いを一つ落とし、監督は口を開く。
「そうやな。桃井はまだ正式な部員やない。でも初仕事を完璧にこなしてくれた。ようやった」
「ありがとうございます」
「で! こっからが本題や。ウチのチームの横断幕、なんていうか言ってみぃ」
「"思い出なんかいらん"、です。過去を振り返るよりも前を見て進む。常に挑戦者で在り続ける覚悟を示す素晴らしいメッセージだと思います」
桃井は間髪入れず答えた。メディア向けかと思うくらい100点満点の回答である。流石やなと監督は頷いて、以前から感じていたことをぶつけた。
「桃井は挑戦して失敗した選手を笑うか?」
「いいえ。挑戦したことを誇るべきだと思います」
「それはお前もや」
「!」
カッと目を開いた桃井。監督が真剣に伝える隣で、コーチは桃井が提出した完璧な資料をちらと見る。
「お前は今回の試合に向けて100点満点のものを出してきよった。今のアイツらに寸分違わずフィットする作戦をな。けど、ただ求められるまま正解を出したって、自分の能力を100%発揮するだけで終わったらアカンねん」
挑戦者とは、失敗を恐れず果敢に戦う者のこと。
そういう意味では桃井は挑戦者ではない。彼女の分析や資料に失敗は存在しないからだ。
それを壊せと監督は告げる。
「まずは120点目指してやってみること。それで大コケして赤点出してもええ」
ミーティングや今日の反省会でも痛感したことだが、桃井は発言を恐れない。相手が先輩でも主将でも監督でもコーチでも、違うと思えば根拠を出して反論してくる。
遠慮してしまう弱さを持たない子だった。さらにそこから一歩踏み出せたら、桃井はもう一段階進化する。
「稲荷崎はそういうチームや」
ジン、と鳥肌が立った。桃井の頭の中の思考の枠が壊れ、無尽蔵のイメージが湧いてくる。制限していた作戦が、今のままだと不可能だと諦めた未来が、全身の末端まで行き届いた。
……ワクワクする。どうしようもなく。だって、ずっと抑えてきたんだから。
いきなり桃井はダン! と監督の机を両手で叩いた。後ろで北が驚いている。
「もっと厳しくしていいってことですか!?」
「おっ? おん、」
「良かった! このチームならもっともっと複雑な指示でもいけるって思うんです! 例のソフトもそろそろ手に入りますし、本格的にレベルを上げていきますね! ああ楽しみ……。となると時間がかかってしまい提出が遅れてしまうのですが、一週間程時間、を……」
急にめちゃくちゃ早口だった。別人レベルで明るい声と朗らかな笑顔を見せていた桃井の動きがピタリと止まる。やってしまった、とでも言うように。
「……そっちが素なんやな」
静かになった部屋に北の確信した声が響く。
「何のことでしょう」
「もう隠せへんよ。薄々勘づいとったし」
「え! ……いつからです」
取り繕うことを止めてコロコロと表情が変わる彼女は、部員たちに見せる澄ましたいつもの姿とはまるで違う普通の女の子のようだ。あまりの変化に……少し意地悪したくなる。
「さぁな。他の奴らは、元々知り合いの双子はわからんけど……誰も気づいてないから、気にせんでええよ」
「き、気にします。もっと上手くやらなくちゃいけないのに」
「なんで冷たくしとんの。別に優しくせえとも言わんけど」
監督とコーチは驚きはしたものの、あんまり深く突っ込まないほうがいいんじゃないかとハラハラしながら二人の様子を見ている。いつか北の正論パンチが飛んでくるのではないかとビクビクしながら。
「だって、私と北先輩で、コートの内外でチームの空気を引き締めるって方針ですよね」
「そうやな」
「ですから、私自身がナメられたら終わりなんです。見下す相手にどんな指示を出されたってどうだっていいでしょう? だからナメられないように、厳しくしようって……」
そうだったのか、と北は心なしか小さく見える桃井を見下ろした。
あれだけの強さを示した彼女をナメてかかる人間なんて、稲荷崎には存在しないというのに。バレーボールと真剣に向き合っている人種ほど、桃井が生み出す全てにのめり込んでしまうのは想像に難くないが、それにしたって。
「それで高校デビューか。子どもらしい背伸びやな」
「からかってます?」
「いや。でもやるんなら最後まで貫かんと意味ないやろ。隙を見せたら終わりやで、その外面」
「う……」
北の正論パンチである。
桃井の厳しくする姿勢はナメられたら一巻の終わりという認識のもとで成立している。であれば一瞬でも下に見られたら意味がなくなるものであり、三年間もの長い時をそうやって過ごすのは北には不可能に感じられた。
実際今もう瓦解しているし。
「そもそも、今日の試合で桃井はアイツらからの信頼を得とるし大丈夫や。仲間の言葉を軽んじる連中とちゃうで」
「そう……ですね。それだけだったら、私もあんな風に取り繕っていないんですけど」
「なんや、まだあるんか」
「………」
言いづらいです、と顔にまるまると書かれている。意外と表情豊かなんやな桃井って。北はそんなことを思い───ついに白状した二つ目の理由に笑ってしまうのだった。
「えらいかわいい理由やったな」
「そうですね。あれは確かに、部員たちに伝えるのはまだ早そうだ」
桃井と北が退室した後の空気は和やかなものだった。涼しげに佇む紅一点がまさかの背伸びした結果だというので、ついおじさんたちはデレデレしてしまうのである。もちろん彼女がいる時はおくびにも出さなかったが。
「しかしまぁ、もっとレベルを上げる、ね。彼女に技術的な指導ができる人間って、全国でどれくらいいるんでしょうね」
「桃井自身のレベルはとっくに高校生を超えとるからなぁ。今まで中学のレベル……といっても全国クラスで十分すごいけど、そこで燻っとったからな。いきなり高校、しかも優勝候補レベルに引き上げられて、難なくついていくどころか更に上を当然のように出せる」
わかってはいたが、とてつもない才能だと思う。
「逆に俺らが桃井についていくことになるやろうな。でも、指導者として指導する立場を投げ出すわけにはいかん」
まだ彼女は幼い。たった15歳の子どもだというのに
桃井はいずれ日の丸を背負う人間になる。失敗が許されない立場に自ら立とうとしている。
そうなる前に伸び伸びと挑戦する経験を積んでほしいと、そう考えてしまうのだ。
「そうですね。選手たちもより一層の前進が求められそうです」
「ははは。やろうな。こっからの稲荷崎は一味違うで」
そろそろ入学式がやってくる。新入部員がわんさか入り、1ヶ月後には半分以下になっているだろう。今の一年は二年に、二年は三年に進級して真新しいチームに変わる。
毎年経験していることなのにそれでも今年は違うと思うのは、やはり桃井の存在が大きい。けれど懸念はなかった。
『桃井がどんな無茶苦茶をやっても、俺がいるから大丈夫です』
頼もしい主将の言葉がいつも通りの調子だったから。