梅花、百鬼を魁る   作:色付きカルテ

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梅花、百鬼を魁る

 異形と異形の縄張り争い。

 小さな小競り合いや、一対一のような縄張り争いはそれほど珍しくない。

 なにせ多少なりとも知性があるのが異形だ。

 獣のように、自分の縄張りには強い執着を持っているものであるし、それを侵そうとするものは人も同種も関係なく敵となり得る。

 だからこそ、縄張り争い自体は珍しいものでは無い。

 

――――だが今回の、“主”クラスが複数体混じった異形数百規模の縄張り争いなんてものは、滅多なことでは起こりえない。

 

 

「■■■■――――!!!!」

「ゴォォォオオオォオォ!!!!」

「ギャォアアアア!!!!」

 

 

 “島喰”が複数の異形を巨大な胴体で締め上げ、口から漏れ出す大量の毒液を振りまけば、周囲一帯が毒沼へと変わる。

 “破國”が糸を張り巡らせ、高速で周囲の異形をなぎ払えば、黒い人型は液状に拡散させた身体を雨のように降り注ぎ槍の雨を浴びせ辺りを不毛の大地へと誘う。

 特殊な怪物どもがそれぞれの機能を破壊へと傾け暴れ回っている。

 

 様々な適合を遂げた怪物達の戦争に、もはや生者が入り込むような余地が残っていない。

 人間は異形に勝つことが出来ない。

 その言葉を明確に光景とするならば、今のこの光景こそまさにその通りだろう。

 

 

「さあ、ゆくぞ“破國”!」

「■■■■ッ……!」

 

 

 “島喰”が恐ろしい速度で“破國”に肉薄し、その頭上に乗っていた私が接近した“破國”の頭蓋を上からぶん殴る。

 丈夫な頭蓋の骨がねじ曲がり、地面に叩き付けられ、さらに跳ね上がった所を巨大な“島喰”の尾に叩き潰される。

 それでも恐るべき再生力で、直ぐさま全身の傷を再生していく“破國”の姿を眺める。

 このままではキリが無い、そう思った私は再生の暇を与えない攻勢に移ろうと身構えたものの、“島喰”がそれを静止するかのように動き出そうとしていた“破國”をその巨大なアギトで食らい付いた。

 強酸で全身が溶けているのだろう、咥えられた“破國”からは大量の蒸気と“島喰”特有の猛毒液が溢れだしている。

 王水よりも強力な溶解液らしいこの蛇の毒を、私だってまともに受けたくは無い。

 内心“破國”に同情しつつ、“島喰”にこいつの相手を任せることにして、私は他の厄介な奴らを片付けることにする。

 

 ぶくぶくと肥大化した肉塊の異形が、不気味な気体を撒き散らしながら拠点へと向かっているのを視認し、“島喰”の頭上から飛び降り、空中で身体を何度も回転させたギロチンのような踵落としで不気味な異形を二つに裂いた。

 さらに襲ってくる奴らがいるかと思えば、どうやらこちら側の異形どもの勢力が優勢なのか、地下街から飛び出してきた異形に押され、外の異形どもはまともに拠点に向けて突破することが出来ていない。

 

 押し勝っている状況ではあるが、私はもはや油断せず、危険な特性を持つであろうと異形を選別し、優先的に強襲する。

 例えば、先ほどまでの黒い人型や、カマキリを巨大化させ鎌を複数持たせたような怪物、或いは空を飛んできた巨大な蠅と言った、放置すれば戦況が変わってしまうような強力な個体を見繕い、引き千切って蹴散らした。

 

 

「人間どもっ、お前らは建物の中から絶対に出てくるなよ!」

 

 

 この地にいた異形の一体が、建物の中に居る人間に気が付き襲い掛かろうとしたのを、首下を掴んで敵の群れの中へと放り込み阻止する。

 この建物には手を出すなと、手を振ると、それを理解したのかこの地にいた異形どもはそれ以降拠点に向けて攻撃するものはいなくなった。

 

 想像以上にこいつらは私に従順だ。

 この地の異形の中でも、私を除けば最強であろう“島喰”でさえ、過去に半殺しにした私に対して敵意を見せる事は無く、その巨体で外の異形どもだけを潰しており。

 前に必死に命乞いをしてきた巫山戯た猿どもも、なんとか私に良い印象を持たせようとしているのか精力的に働いている。

 少しだけコイツらを使うことに不安もあったが、どうやらなんとかなったようだ。

 

 

「物資を調達するだけのつもりだった地下街の攻略が、まさかこんな形で活用されるなんてな……結果、運が良かったと言う事だが、我ながら下手な博打をしたものだ」

 

 

 梅利としての意識があったあの一年。

 ひたすら食料を集めるために地下街に潜り、襲ってくる異形や死者を返り討ちにし続けた事により、過去の私を知らない異形すらも地下街の“主”として認めるまでになっていた。

 これだけの量の異形がいたにも関わらず、私が襲われることはほとんど無くなるまでに。

 

 幸運だったのは、一時的に不在となったこの地の“主”であったが、それでもここにいた昔ながらの異形どもは変わらず私を“主”と見ていた事だ。

 昔から生き残っている異形は総じて強力な個体が多いが、その中でも特筆するべきは巨大な白蛇の異形“島喰”だ。

 この地へ侵攻した“主”の異形として対峙し、私が勝利した訳だが、奴の美しい白い姿にもったいなさを感じた私は、住処としていた地下街へと奴を引き摺り延命させた。

 忠誠などは無い筈だが、それからは私に対して刃向かうことも無く、地中で大人しく過ごしていた。

 今回のこの地の防衛で協力してくれるとは考えていなかったが、この蛇も少なからずこの地への愛着を抱いていたと考えて良いのだろうか。

 

 幸運だった。

 コイツらが私の望み通りに動くか未知数だったから。

 異形としての攻撃性を、人間どもに向ける事無く、外からの侵略者を迎え撃つ事に尽力してくれる形となってくれて本当に幸運だったのだろう。

 

 

「――――その幸運を活かす為にも、まず貴様はここで殺す」

 

 

 周辺は既に焦土と化している。

 拠点の近くにに集まっていた奴らは大方片付けた。

 目に付いた厄介そうな個体の始末もあらかた終わらせた。

 “破國”の奴はあの蛇に任せるとして、私は後回しにしていた奴の始末を付ける。

 この目の前に現われた、悪臭を放つ不気味な黒い人型を。

 

 

「ヲre我フ滅堕! ki詐マn唖ド!!」

「何の信念も、何の誇りも持たぬ貴様など目障りなだけだ」

 

 

 有無を言わさず、肉薄し頭部を吹き飛ばす。

 だが、その人型も再生など生温い事をせず、頭の無い状態で全身を変形させ襲い掛かってきた。

 腕が数多の鋭い触手となり、千手観音のような圧倒的な手数を作り上げ、囲い込むように切り裂きに来る。

 避けるのは面倒。守りに入るのは愚か。私の場合は正面突破だ。

 

 襲い掛かる手数を正面から突き破る。

 自然界には存在するとは思えない、非常に重い液体の槍の数々を拳と身体で弾き飛ばし、必死になってさらに攻撃を繰り出す黒い人型の眼前に迫る。

 攻撃の効かぬ私に物怖じし後退ったソイツに対し、私は一切の遠慮も無しに掌底を打ち込んだ。

 ボンッ、と腹から背中に掛けて巨大な空洞が出来たソイツの身体に、私の手にあった黒い残火をそっと優しく埋め込んでいく。

 

 

「死悪アアaa亜Ⅰア悪ア――――!!!!????」

「火には弱い、そうだろう? 私のそれは特に熱くて消えないんだ。内側から燃えさかれば、お前という燃料が消えない限り火勢は増すばかり。お前は燃えやすそうだからな、最後は私の役に立って貰おうか」

 

 

 最後にその言葉を贈って、内部から燃え始めた黒い人型をさらに向かってきている異形の群れに放り込んだ。

 しばらく響いていたソイツの絶叫も、最後に起きた巨大な爆発と共に途切れ、もう二度と聞こえることは無なる。

 どれくらい外の異形を巻き添えにしてくれただろうと考えながらも、そろそろ変化があるであろう“破國”と“島喰”の戦いへと向きを変える。

 

 視線を向けたその先の光景に、私は思わず息を止めてしまう。

 巨体同士の戦いには、背丈が大きいとは言えない私では為し得ない派手さがある。

 自己評価が高いと自認している私ですら、思わずそう思ってしまう程に、災害のように周囲を巻き込んだ圧巻の戦いがそこにはあった。

 巨大なだけで、脅威足り得るのだと実感させられる。

 

 大地が砕ける。

 天が裂ける。

 縦横無尽に空を駆ける“破國”とそれを追うだけで周囲に壊滅的な被害をもたらす“島喰”。

 周囲を駆け巡り、生み出した糸で“島喰”を巻き取ろうとした“破國”に対し、レーザーのように毒液を噴射した“島喰”がその全てを溶かしつくす。

 千日手かと思えば、今度は“島喰”が頬を膨らまし毒液を霧のように噴射して、“破國”が飛び回る上空を猛毒の死地へと変化させた。

 “破國”が咄嗟に上空から地面へと避難すれば、それを待ち構えていた白き大蛇が大口を開けて喰らい付く。

 

 これ以上無いほどの激闘だ。

 私は自分が戦うばかりで、こうして他の異形同士が戦っている姿を見ることは無かった。

 だから、これほどまでに拮抗し、これほどまでに他の異形の乱入を許さない戦いを見て、私はある種の感動を覚えてしまう。

 今なお生存のために進化を続ける“破國”に、白磁のような美しい白蛇の“島喰”。

 このまま彼らの戦いを、終わるまで見届けても見たかったがそういう訳にもいかないだろう。

 

 

「良くやった蛇! ここからは私がソイツの相手を貰おうか!!」

 

 

 口に咥えて、戦利品を誇示するように振り回していた“島喰”から“破國”を奪い取る。

 “破國”を振り回し、建物を倒壊させ異形を轢き潰し、そして最後に投げた飛ばした後、自分の腕を裂いて、体液を使った火炎を発生させ辺り一帯を焼き尽くす。

 ミキサーで細切れにしたような、ぐちゃぐちゃになった身体で、それでもなお起き上がった“破國”の耐久性に思わず溜息が漏れるが、半分ほどに減った異形の群れの光景に、そちらは終わりが見えてきたと一安心する。

 

 何か言いたげな目でこちらを見てくる“島喰”の頭を、乱暴にガシガシと撫でる。

 東城の有能さを思えば、もう数分で特効薬が飛んでくる筈だ。

 それがどれだけの効果を誇るのか知らないが、あの藪医者が作ったものが柔なものとは考え辛い。

 “破國”の体力に終わりが見えず、どれだけ奴を叩き潰せば良いのかと困ってしまっているが、特効薬があればアレを倒すことだって難しく無い筈なのだ。

 

 

(……しかし同時に、特効薬が散布された時点で私達もどうなるか。いや、私が命を落とした時点でコイツらが人間どもを襲うのは間違いないのだから、私が命を落とすのならコイツらも確実に息の根を止めて貰わなくてはならないだろう……慕ってくれているコイツらには悪いがな……)

 

 

 どれが正解なのかは分からない。

 無限に進化する“破國”は早急に殺しきる必要があるし、けれど可能ならば特効薬の散布は止めさせたい。

 私が特効薬を直接“破國”に打ち込む事も考えたが、どう考えたって私にも被害が出てしまうだろう。

 もしも、最悪私と“破國”が共倒れになれば、この場にいる異形が人間を襲わない理由が無くなってしまう。

 そうなれば、今は大人しく従っているこいつらがこの場を餌場として、人間どもにとっての地獄が始まるのは目に見えていた。

 

 別に今更この命を捨てることに躊躇など無い。

 人としての部分は強い恐怖を持っているが、異形としての部分が強い今の私に生に対する執着はそれほど無い。

 やりたいことをやれるだけやってきたのだ、まあ、そんなものだろう。

 

 

(目下達成するべきなのは、東城が修繕を完成させるまでの時間稼ぎか。それならばこのまま私は――――……いや、何を考えている。それはつまり私が脆弱な人間を頼ると言っているようなものではないか……)

 

 

 いつの間にか腑抜けた事を考えていた自分自身に思わず笑いが溢れてしまう。

 他の異形を使う事は諦めても、自分よりも圧倒的な下位の存在に、ましてや一度は私に武器を向けた奴らを頼ろうなどと言う自分自身の考えに、心底驚いた。

 だが、そこまで悪い気はしない。

 そう言う心境の変化もありなのだろう。

 

 ズキリとした痛みを感じて視線を向けた腕には、先ほど自分で裂いた傷が再生しきらずに残っている。

 原因は分かっているが、ここまで再生が遅くなっているとは予想していなかった。

 

 

「……ああくそ、腹が減った」

 

 

 悪態を吐き、再生しない腕を無理矢理握り込む。

 私のそんな様子に気が付いたのか、全身が潰れた状態の“破國”は私の腕をじっと観察している。

 この怪我はまだ大丈夫だ、再生が遅いだけでまだ治る。

 だが、次以降はどの程度再生が可能か分からない。少なくともこれ以上の自傷行為は止めた方が賢明だろう。

 

 

「蛇、お前には雑魚を任せる。恐らく私より殲滅力はお前が上な筈だ」

 

 

 相手が理解しているかの確認もせず、それだけ言って私は走り出す。

 ボロボロの“破國”は直ぐさま私を迎え撃つが、傷付いた今のこいつなら素早さでは私が数段上だ。

 ならば私はそれらの攻撃を一撃だって貰いもしない。一方的に“破國”を痛めつける。

 

 私の攻撃がどれもまともに身体に入り、“破國”は牙や角、分厚い毛皮を剥がし、内臓を溢れさせるほどの損傷をまともに負っていく。

 腕がこいつの身体を貫き、上半身と下半身を分断し、攻撃に使っている腕を全てへし折ってなお。

 それでも、“破國”は倒れない。

 

 身体の損傷を再生させ、二つに裂けた身体は同時に動き出し、何の影響も受けていないように再び襲い掛かってくる。

 もはや形を為さない不気味な肉塊として襲い来るそれらの攻撃を全て避け、ひたすら叩き潰し続けた。

 数十、数百、いや、もしかするとさらに多い手数で、地面にこびり付いた汚れのようになるまで“破國”を破壊し尽くした。

 それでも、“破國”は倒れない。

 

 何処までも生存力が高く、そして果てしなく進化を続ける怪物。

 それが“破國”と言う、国を挙げても討伐することの出来なかった化け物だ。

 

 

「ふふ、何時になったら死ぬんだ。潔く消えると言う選択肢がお前には無いのか」

 

 

 あまりのしつこさに笑ってしまう。

 こいつの生命力の高さは理解しているつもりだったが、どうにも認識が甘かったらしい。

 足下で蠢いている“破國”の残骸を踏み潰し、少しだけ乱れた息を整えた。

 一方的に私が嬲っただけの作業だったはずが、結果だけを見れば体力的に追い詰められているような気がしないでも無い。

 

 周囲の様子を見れば、私の言葉を忠実に守った“島喰”が徹底的に異形の群れを叩き潰しており、もはや敵の数は当初よりもずっと少なくなっている。

 だが同時に、私が地下街から出した異形の数も、最初に比べれば随分減ってしまっていた。

 勝利と言っても良いのだろうが、出してしまった犠牲の数もかなり多い。

 人間の命とどちらが上かなんて私は考えたことも無かったが、もう少しやりようがあったのではないかと言う後悔すら、今の私はしているのだ。

 

 

「……だが、それも終わりか」

 

 

 遠くで、何かが打ち上がったのが見える。

 崩れたビルの上から高くへと、私達異形が密集し争っている場所の上空へと飛来したその何かをぼんやりと見上げる。

 それはきっと、人にとっての希望であり私達にとっての終焉。

 狂った荒れ地のような私達の世界の終わりだ。

 でも、それで良いと私は思った。

 

 視野が高い位置にある“島喰”が他の異形よりも早く上空の異変に気付き、その様子を一変させる。

 足の下でグシャグシャになっている“破國”が蠢こうとするのを、踏み潰して阻止する。

 他の異形どもはお互いを喰らい合い争い続ける。

 怪物が怪物を喰らい合う地獄絵図の中で、“ヒプノス”は私達の頭上へと到達した。

 

――――弾けて、混ざる。

 

 一瞬の閃光に目を細める。

 一気に膨れ上がった何かは、そのまま空気に混ざり霧散し広がった。

 その光景は一瞬だけだ。

 だから、上空のその光景に気が付いた異形はきっとほとんどいなかった。

 

 最初に遠くの虫に似た異形が全身から体液を撒き散らして動かなくなった。

 それを皮切りに次々と、体液を撒き散らし、身体を崩れさせ、そして悲鳴すら上げる間もなく消え去っていく。

 ありとあらゆる適応を遂げた異形どもが平等に身体を崩壊させていく。

 全てが灰になる。目の前に現われたのはそんな光景だった。

 

 パキリと頭から、何かが割れるような音がした。

 

 

 こんな状況になってふと思い出すのは、これまで私が生きてきたこと。

 生きてきたこれまでの記憶はどちらも平等である筈なのに、今の私が思い出すのは梅花としての記憶ばかりだった。

 原因の分からない怒りにまかせて暴れ回ったつまらない日々も。

 東城と出会ってから得た知識と人間とふれあった温もりも。

 言葉を介して理解し合おうとして、結局解り合えなかったあの失敗も。

 そっと手を握ってくれた梅利としての自分自身と、最後に向かい合って話すことが出来た事も。

 

 それら全て、自分自身が歩んできた、確かに私を形作ったものだった。

 

 

「――――悪くない、悪くないものだった……。ふ、ふはは……ははは……ああ皐月、私は……少し、眠い」

 

 

 ゴポリと、口から液体が逆流した。

 力が抜けてしまった私はそのまま膝を着いて、でも倒れきることはしたくなくて、近くにある壁に背を預けた。

 そうしてそっと目を閉ざして、眠気に身を任せることにする。

 

――――ああ、そう言えば、花宮梅利が死ぬときも、こんな風に座って死んだんだっけ。

 

 そんなことばかり、私は最後に思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 砕け散った意識の僅かな欠片が一つの音を聞き取った。

 誰かの必死の叫び声を。

 

 もう眠い、もう疲れた。

 そんなことを思っても、その音は耳から離れずやけに頭の中に響き渡る。

 誰かの泣き声が聞こえた。

 誰かの悲鳴が聞こえた。

 誰かが私を……いいや、誰かが俺の名前を呼んだ。

 その声を聞いて、どうしてもこのまま眠ることは出来なくなって、俺は鉛のように重い瞼を動かしていく。

 

 うっすらと開けた視界の先には、滅びきった異形の群れの中心で、今なお息づく一体の異形。

 その一体の異形、“破國”は、必死に辺りで息絶えている異形の死体に喰らい付き、何とか滅び行く身体を維持させようと自身を進化させ続けている。

 そしてそれに対して、攻撃を加え何とか再生を止めようとするのは残り少なくなった戦える生存者達。

 何とか生き残ろうとする“破國”を止めようと必死になっているが、傍目に見てもアイツの再生速度にまるで追い付いていなかった。

 

 意識がはっきりしない。

 霞んだ視界の中で俺を呼んだ誰かを探す。

 誰が俺を呼んだのか、空白となった思考の中で辺りを見渡せば、見知ったあの子が直ぐ近くにいるのが見えた。

 

 

「死鬼、しっかりして下さい! 今この場は“ヒプノス”が散布されました、異形が生きられる様な空間ではありません! 私の肩に掴まってください、直ぐに薬の届いていない場所へ移動します!」

「……ち、こ……ちゃん……」

「――――!? ば、梅利さんですか!? 意識が戻ったんですか!? いえ、喜んでいる時間はありません。今も“ヒプノス”は貴方の身体を蝕んでいるんです、早くこの場を離れましょう!」

「……おれは……どう、なって」

 

 

 知子ちゃんが青白い顔に焦りを浮かべ俺を抱き上げるが、全く動かない俺の腕がダラリと地面へと垂れ下がり、そのままボロボロと砂のように崩れ落ちた。

 顔を引き攣らせた知子ちゃんが、俺の無くなった腕を見詰め、俺の身体がこれ以上崩れないよう掻き抱く。

 

「な、なんで、“破國”はまだ再生能力が拮抗しているのにっ……!?」

「いたく……ないから、だいじょうぶだよ……?」

「そんなのっ……! 大丈夫、大丈夫ですっ……! 私が貴方だけは必ず助けて見せます……絶対に死なせたりなんかしません……! 私に全部任せて下さい。貴方に救われた恩を、ここでしっかりと返して見せますからっ」

「あはは……ちこちゃんは……がんこだからね」

 

 

 どうするっ、そう言って知子ちゃんは必死に周囲を見回している。

 使えるものは無いか、何が崩れゆく俺と生き残っている“破國”との差なのだと考えを巡らせている。

 

 

「ちこちゃん……アイツはなんでいきてるの……?」

「分かりませんっ! アイツだけは崩れきった身体に直接“ヒプノス”が入ったはずなのに、他の異形をああして喰らって生き長らえているんです! 攻撃を加えていますが、恐らくアイツの再生能力の方が早いっ……いいえっ、そんなことはどうでも良いんです! 今は梅利さんの身体を治すことを考えないとっ」

「……ううん。もう……むりだよ。おれはもう、いきられない……かくご、してたんだよ」

「なっ、なんでそんなことを言うんですか!? ふざけないでっ、ふざけないで下さい!!」

 

 

 怒られて、そのことがおかしくて少し笑う。

 大きくなった知子ちゃんは、俺に怒ることなんて滅多に無かったから、こうして噛み付くように怒る姿は、小さな時に頃にそっくりだった。

 何を笑っているんですか、なんて言ってさらに怒りを高める妙なループ。

 昔よく見たその光景に、妙な懐かしさを感じてしまう。

 

 

「……うそ、うそだよ」

「まったくっ、梅利さんは本当にまったくっ! こんな時にそんなおかしな事を言うんですから! ふざけるのは場合を選んで下さい!! もうっ、本当に梅利さんはお兄さんにそっくり――――いえ、そんなことを言っている場合じゃ……!」

「ふ、ふふ……ちこちゃんは、ほんとうに」

 

 

 アウアウと混乱し始めた知子ちゃんを笑いながら見守る。

 頭が良い子だから少し考えれば正解に辿り着くはずなのに、直ぐに精神的に動揺して目を回してしまう。

 前からそうだった、あの公園で話していたときもこんな感じの子だった。

 

 しばらくそうして考えていたけれど、やっぱり知子ちゃんは頭の良い子みたいで、これだけの材料がそろっていれば、答えに辿り着くのはさほど難しく無いようだった。

 しばらくウンウンと唸っていた知子ちゃんが、天恵を得たように目を見開いて顔を上げる。

 

 

「――――そうか死鬼は、異形として万全の状態じゃ無かったんだ……! だって、私とずっと一緒にいたのに、アイツらと違って何もっ、ううん、食べるべきものを食べてないっ……! だから……!」

「……ちこちゃん……?」

 

 

 何かを理解したのか一瞬迷うように視線が動き、知子ちゃんは逡巡する。

 彼女がどんな思考に辿り着いたのかを俺が考える前に、状況が動いた。

 

 爆音が響き渡る。

 ようやく再生を終えて身体を作り直した“破國”が、攻撃を加えていた生存者達への反撃を始めた音だ。

 彩乃達の安否が気になって、必死の力で身をよじりそちらを見ようとしても、抱え込んだ知子ちゃんの力には僅かにも対抗する事が出来ない。

 

 

「ち、ちこちゃん。いま、どうなって……?」

「――――梅利さん、私だけを見て下さい」

 

 

 俺の言葉を遮って、知子ちゃんが服の襟を引き肌を露出させた。

 土の汚れこそ所々にあるものの、きめ細かで美しい白い肌が俺の目の前に押しつけられる。

 目の前の状況を理解できず、目を見開いて動揺する。

 普段なら羞恥で逃げ出すような状況だが、碌な力も出せない今の俺では意味の分からない行動を取る彼女を引き剥がすことも出来はしない。

 

 

「な、にを」

「梅利さん。私を食べて下さい」

 

 

 聞き間違う要素が無いくらいはっきりと、知子ちゃんは言葉を発した。

 驚きで息が詰まり、限界まで見開いた目には知子ちゃんの肌しか映らない。

 彼女の顔は見ることが出来ない、彼女が掻き抱くように俺を抱き締めているからだ。

 それでも、彼女の発言が本気なのだと分かるくらい、俺を抱き締める力はあまりに強い。

 

 

「や、めてっ……なにをいっているか、わからないっ……」

 

 

 必死に抵抗する俺を逃がさないように抱き締めたまま、彼女は微塵も言葉を詰まらせることなく紡いでいく。

 

 

「いいえ、分かるはずです。“破國”と“死鬼”に差なんて無い。あったとしても、“死鬼”が下と言う事は有り得ないんです」

 

 

 知子ちゃんの言葉には動揺がない。

 

 

「私は梅利さんと出会ってから、梅利さんがまともに食事をしているのを見たことが無い。私よりも食が細く、食べているものも人間と変わりなかった。最初は普通だと思っていました、だって私達はよく似ていて、梅利さんの言葉は何一つ、異形を思わせることが無かったからです」

 

 

 もう既に何かを受け入れてしまっているかのような、諦めたようでも無い、むしろ願いが叶うかのような口調で続ける言葉は理路整然としていて、つけいる隙が無かった。

 

 

「――――でも、梅利さんの身体が“死鬼”であり、“死鬼”が過去に異形や人間を喰らっていたことを考えれば、そんな状況はどう考えてもおかしいんです。だから、きっと本当は……梅利さんが人としての精神を持っていたとしても、貴方の身体を維持するためには人や異形を喰らう必要があったんです」

 

 

 だから、そう言い切られてしまった俺は、どうしようもない現実が目の前にあることを理解してしまう。

 

 反論することは出来ない。

 彼女の言葉は確かに的を射ていて、なによりも今の俺は、押しつけられた目の前の彼女の肌がこれ以上無いくらい美しく、柔らかく、そして、美味そうに見えてしまっているのだから。

 

 

「感染菌は確かに人を殺します。けれどそれは、きっと異形にとって感染菌は命を繋ぐ要素であって、それを繁殖させるには何かしらの感染体が必要なんです。そして……“死鬼”の感染菌を増やすのに、これ以上無いくらいの素体があるとするなら。それは僅かながら感染し、人としての要素を多分に残している――――」

 

 

――――誰よりも、何よりも、私が適正なんです。

 

 そう言って彼女は嬉しそうに自らの命を差し出すのだ。

 

 

「――――きっと残さず全部食べて下さい。貴方の命にして下さい」

「いや、だ。ぜったいに、そんなのは、いやだ……!」

「私だって梅利さんが命を失うのを、指を加えて見ていることは出来ません。梅利さんが嫌だというのなら、ナイフで自分の首を切って後に引かせなくすることだってする覚悟です」

「ち、ちこちゃん……?」

「はい、梅利さんに命を救われた、笹原知子です。優しい貴方ばかりが傷付いていくのを間近で見続けた私は、こうしてでも貴方の役に立ちたいと願っているんですよ」

 

 

 やっと俺を離して知子ちゃんは顔を向き合わせる、やっと正面から見ることの出来た彼女の顔は、見たことが無いくらい優しげに緩んでいた。

 引き剥がしきることも、彼女が手に取ったナイフも抑えることが出来ず、中途半端にフラフラとする俺は、きっと何処までも情けない。

 そんな情けないような俺の姿を見ても、知子ちゃんは馬鹿にすることもせず、ゆっくりと語り掛けてくる。

 

 

「私、小さい頃に一人だったんです。家にも、学校にも、何処にも居場所がなくて、一人泣いていた小さな頃に、一緒にいてくれた男の人がいたんです」

「――――それは……」

「気難しくて、気を許そうとしなくて、その癖不満ばかり一人前で、自分で考えても手の掛かる嫌な子供だったんですけど……その人は懲りもせず、公園のベンチに座る私の傍にずっといてくれました」

「……」

「結局勇気の一つ出すことが出来なくて、その人の名前も聞けず仕舞いで、それでもあの一人ぼっちだった時間、ただ隣に居続けてくれたお兄さんは私にとって掛け替えのない人で。今でもあのお兄さんは私の心の支えであり、目標なんです。人は一人きりでなんて、誰もいない場所でなんて生きていけない、だから誰か一人で良い、誰か一人を救えるような人にならないとって」

 

 

 大人が嫌いでした。

 人ととの関わり合いが嫌いでした。

 誰かと馴れ合うのが嫌いでした。

 そしてそれらを強要しようとする周囲全てが嫌いでした。

 凝り固まったそんな私の思考を、否定すること無くほぐしてくれたお兄さんは私の原点なんです。

 

 そう言って、知子ちゃんは懐かしむように目を細めた。

 

 

「梅利さん、私はそのお兄さんを梅利さんに重ねて見ていました。あの不器用で世話焼きでお節介なお兄さんにそっくりな梅利さんを、最初から他人として見ることが出来ていませんでした……最低ですよね」

「……ちこちゃん、おれは……」

 

 

 でも。

 知子ちゃんはそう言葉を紡ぐ。

 

 

「……梅利さんにお兄さんの影を見ていた私は段々と梅利さん自身を見つめれるようになっていった。馬鹿みたいに優しくて、私達が無くしてしまった甘さを抱えていて、それに悩んで、間違いを犯して、それでも足を止めないような梅利さんが、まぶしいくらい掛け替えのない人だと思うようになりました。……梅利さんとの生活は、私に絶望的な日常を、抱えていた悲劇を、重ねて見ていたお兄さんを、忘れてしまうくらい楽しいものでした……」

 

 

 小さな果物ナイフを手にした知子ちゃんはそっと自身の首に添える。

 

 

「悲しいことしかないようなこんな世界で、それでも私は誰か一人を救えるなら……ううん、誰か一人だけしか救えないなら、私は貴方が……梅利さんが良いんです」

 

 

 知子ちゃんは自分の首下に突き付けたナイフを両手で掴んだ。

 絶対に外さない様に、絶対に息絶えるように、彼女はしっかりとナイフを掴む手に力を込めている。

 小さな頃の彼女には無かった決意に満ちたようなそんな姿は、こんな状況にも関わらず俺に思わず美しさを感じさせてしまうほど綺麗だった。

 

 

「一人ぼっちだった私をあの闇の中から救い出してくれた貴方は、私にとっては本当に神様のようでした。……うん……まだ話し足りないけど……もう、良いかな……どうか、生き延びて下さい――――さようなら、梅利さん」

 

 

 彼女は笑った。

 諦めたようになどでは無い、悲しむかのようにでも無い。

 あの地下街へ落ちたときと同じ結末を辿る筈の彼女は、なぜだか幸せそうに笑うのだ。

 

――――幸せそうなその顔は、前に見た彼女の表情にそっくりだった。

 

 ふと思い出す。

 

 

『――――ねえ知子ちゃん、君は俺に、自分なんか何処にも帰る場所が無いと言ったよね? でもさ、通りすがりの俺なんかがこうして君を心配して話し掛けるくらい、誰かを想う人って何処にでもいるんだよ。今はそう思えなくても、君の居場所はいつだってあるし、これから幾らでも作っていけるものなんだ』

『……信じられない。そんな夢ばかり騙って、やっぱりお兄さんは不審者犯罪者です』

『違うよ!? 俺はほらっ、ちょっと目に付いたさみしそうな人が気になっちゃう、心優しく格好いいお兄さんなんだよ!?』

『だからって知らない小さな女の子に話し掛けますか。いきなり隣に座って馴れ馴れしく話し掛けて。私、最初はヤバイ人だなって思っちゃいましたもん』

『知子ちゃん……手厳しすぎてお兄さんは心が持たないよ』

 

 

 毛を逆立てて威嚇する子猫のような女の子に苦慮して、それでも一人でいるこの公園から離れようとしない彼女を置いて何処かに行く事なんて出来なくて、そんな風に話をしていた時。

 俺は彼女に対して言ったことがあった。

 居場所はある、気が付いていないだけできっと直ぐ傍にあって、これから先幾らでも作っていけるものなんだと。

 そんな俺の言葉を小さな知子ちゃんはちっとも納得してくれなくて、俺は自分の口下手さを責めつつも、なんとか彼女を一人でいる場所から連れ出そうと言葉を続けた。

 

 

『まあ、知子ちゃんには俺の格好いいところを少しも見せられて無いもんね……うん、でも期待しててよ! いつか俺が知子ちゃんに、ビックリするくらい格好いいところを見せてあげるからさ!』

『なんですかそれ。急に全然期待できない宣言をされて、今凄くビックリしちゃったんですけど』

『絶対に見せてあげるって! ちゃんと期待してないと、何であのとき信じられなかったんだ、って恥ずかしくなっちゃうよ?』

『……馬鹿なんですか? ……ふふっ、本当にお兄さんはっ……あははっ、馬鹿なんですから……』

 

 

 そうやって、何とか彼女を笑わせようと、慣れない軽口を叩いてふざけて。

 それでようやく見ることの出来た知子ちゃんの小さな笑いは、成長した今になっても面影を残して変わっていなかった。

 

 俺が笑って欲しいと願った少女は、変わっていなかったのだ。

 

 

 

「……きみは、生きるべきだ」

 

 

 パキリと鮮血が舞った。

 知子ちゃんが持っているナイフの先端が、俺の手のひらを貫いて抉った。

 目を見開いた知子ちゃんが目前のそれを理解する前に、俺は知子ちゃんの肩口に喰らい付く。

 以前異形の感染源が体内に入り込み重症になっていた肩口を、今度は治療目的では無く、捕食のために噛み付いた。

 

 

「――――俺は君にかっこ悪いところを見せてばかりだね」

 

 

 一口大に噛み切られた肩口の痛みに顔を歪め、知子ちゃんは自身に突き刺そうとしていたナイフが俺の片手を貫通しているのを確認する。

 何が起きたのか分からなかったのか、動揺しあまりの痛みに涙が目尻に溜まった瞳で俺を見詰める知子ちゃんから、ナイフを奪い取って俺は血塗れの手で彼女を掴んだ。

 

 

「大人らしい所も、男らしい所も見せられない。確かにこれじゃあ、不審者犯罪者の称号は返上出来ないかな」

「梅利、さん?」

 

 

 眼鏡の奥の大きな瞳が揺れる。

 混乱したままの彼女を抱き寄せて、俺が噛み切ってしまった知子ちゃんの肩口を破いた着物の裾で抑える。

 

 ピキピキと、全身に罅が入っていく感覚。

 身体が内側から圧倒的な速度で再生されていくのを感じながら、同時に空気中を支配している“ヒノプス”が俺の身体を削り取っていくのを理解する。

 冗談みたいな痛みだ。手を貫いたナイフの痛みが生温いと感じるほどに、全身が激痛に支配されている。

 でも、彼女の前ではそんな泣き言なんて絶対に言いたくなかった。

 

 ダラリと噛み切られた方の腕を地面に向けて下ろし、知子ちゃんはその場で硬直している。

 

 

「公園で一人ぼっちで座る君を見掛けたとき、俺は君が迷子になってしまったのかと思って声を掛けたんだ。迷子の君を、俺は君の居場所に送り届けたかった。でも、あの時はただ道案内をすればすむような迷子じゃ無くて、それをどうにかするだけの力が俺にはなかった」

「――――……なんで、それは、まるで……」

「結局居るべき場所が見付けられなかった君を、安心できる居場所へ送り届けられなかった俺は、ずっと気掛かりで、ずっと後悔していたんだ。もう少し勇気を出して踏み込んでいれば、もう少し勇気を出して君の家まで押しかけていれば、そんなことを思うくらいに」

「あ、ああっ……嘘、ですよね。それじゃあ、梅利さんは……貴方はっ……」

 

 

 理解をした。

 気が付いた。

 それでも、信じ切れないほどの衝撃を知子ちゃんは受けて、肩の痛みを忘れるほどに声を震わせる。

 

 本当は、過去に会っていたことなんて言うつもりはなかったけれど。

 彼女が過去の俺をそれほどまでに大切に思っていてくれたのならば、明かすべきだろう、彼女に言うべきことがあるだろう、そう思った。

 

 

「――――大きくなったね知子ちゃん……うん、一人でベンチに座っていたあの頃とは見違えるほど大きくなった。君は格好いい大人になれたんだね」

「…………おに、ぃ……さん……?」

 

 

 疑うような、信じられないような声色でそう呟いた知子ちゃんは呆然と俺を見る。

 ボロボロと大粒の涙を流し始めた知子ちゃんの頭を撫でて、俺は彼女を抱き締めた。

 なんで、どうして、そう呟きながら俺の背中に手を回した知子ちゃんが身を寄せてくる。

 

 

「なんでお兄さんが……なんで、ずっと私を……守っていてくれてっ……」

「……ううん違うよ、君は本当に強かった。俺が君を守っていたわけじゃ無い。君が生き足掻いた結果だよ」

「わた、私はっ……必死に頑張ったんですっ……! 必死に生きて、藻掻くように生きて、色んなものを捨ててっ……でも、それでも私はお兄さんに誇れるような人間になれなかったっ……」

 

 

 ボロボロと涙を流す知子ちゃんの頬を撫でる。

 自分の方が小さくなってしまった背丈が、こうして抱き寄せ合うとありありと理解できて、彼女の成長を感じられることが嬉しくて、成長できていない自分自身に悲しくなる。

 それでも、嬉しさが上回るのだから、俺が彼女に抱いている感情が決して小さなもので無いのだと再認識することが出来た。

 

 

「ううん違うよ、俺にとって知子ちゃんは立派に生きる強い人だよ。知子ちゃんがどれだけ頑張っていたのかなんて、一緒にいた期間の短い俺でも分かるくらいだもの。知子ちゃんは良く頑張ったよ、本当に凄いなぁ」

「お兄さんはいつも私を甘やかしてっ……あうう……こんなに姿が変わってしまっていても、お兄さんは私の傍に居てくれていたんですね……」

「……それは当然って言いたいけどね。偶然俺の手が知子ちゃんに届いただけで、何か一つ掛け違いがあれば救うことは出来なかったから、知子ちゃんは俺に感謝は必要ないかな」

「それでも、私を救ってくれたのは梅利さんですっ……梅利さんだけなんです」

 

 

 離さないとでも言う様に掴む力を強めた知子ちゃんにどうすることも出来なくなった俺は、困ったように笑って、ありがとうとだけ言葉を返す。

 

 轟音が響いた。

 再生をある程度終わらせた“破國”が、自身を攻撃してきた者達を片付けようと暴れ回っている音だ。

 武器や対策が無くなった今の生存者達が“破國”に対抗できるはずも無く、数分も必要とせず全滅することは考えなくても分かる。

 行かなくちゃ、そう言った俺に知子ちゃんは抱きつく力をさらに強めた。

 

 

「行かなくて良いんですっ……逃げましょうっ、お兄さん!! お兄さんはもう充分頑張りました! まだこの場の空気中には“ヒプノス”が大量に残っているんです! 私を少し囓っただけのお兄さんの身体では、きっと数分と持たない筈です!」

「うん、そうだろうね。ここにいるだけで身体が痛いし、今にも砕けるんじゃないかと思うくらい身体が脆くなってる。本当に俺は、この場にはいられないんだろうね」

「そうですっ! だからっ、だから……」

 

 

 くしゃくしゃな顔で、縋るような顔で、俺を掴む知子ちゃんは悲痛に叫ぶ。

 

 

「――――……私と一緒に生きて下さい。私の隣にいて下さい……大好きなんです、お兄さん」

 

 

 その言葉は酷く重く、酷く切実な、囁くような言葉。

 濡らした頬は返り血や自身の出血で真っ赤に染まり、土汚ればかりの手足はどれだけ彼女が俺の為に走ったのかよく分かる。

 ここまで誠実に俺の為に尽くしてくれた彼女の懇願を、俺は本当なら叶えるべきだと思うし、叶えたいとも思う。

 

 でも、それはどうしても出来なかった。

 

 

「……ごめん知子ちゃん。そのお願いは聞けない」

「っ、お兄さんっ……」

「俺は、あそこにいる人達を見捨てることが出来ない。あそこにいるこの地の最後の生存者達を切り捨てて、幼馴染の彩乃を見捨ててまで、俺は生きようとなんて思うことは出来ない」

「……お兄さんは、また私を一人にするんですね……」

「そうだね、結果的にそうなっちゃうかな」

 

 

 色を失い、表情を沈ませた知子ちゃんの身体を、力の入るようになった俺はゆっくりと引き剥がしていく。

 膝を着いて俯いてしまった知子ちゃんに、俺は何も言わないまま背を向けて、暴れ狂う“破國”を見据える。

 “ヒプノス”による作用で崩壊が進んでいるものの、多くの異形を取り込んで、さらに強力な生態に進化しているのは簡単に見て取れた。

 今は蜘蛛のような形では無く、牛のような形でも無い。

 既存の生き物に例えることは難しいが、あえて言うならば一番近いのはタコだろうか。

 複数の触手をまとい、巨大な口と牙を持つ捕食に特化した形態へと変わり果てていた。

 先ほどまでの形態で追い詰められていた俺の力を思えば、俺が進化した“破國”に通用するか分からないどころか、生死を彷徨うことになるのは目に見えている。

 

 きっともう、戦いを始めたら後戻りは出来ないだろう。

 でも、後悔するつもりは無かった。

 

 

「知子ちゃん、俺はね。公園に一人ぼっちでいた君を、君の居場所に送り届けたかったんだ」

 

 

 項垂れてしまった知子ちゃんに声を掛ける。

 

 

「あの時は何も出来なかったけれど、今度は君を必ず、君が笑っていられる場所へと送り届けてみせる」

 

 

 約束を果たそう。

 この命に掛けて、全ての約束を。

 

 

「――――目を離さないで、最後まで見届けて。俺の格好良いところをしっかりと見ていて」

 

 

 崩壊した身体は、直ぐに再生を繰り返す。

 皮が剥がれ落ちるかのように、全身から粉末のような真っ赤な粒子が溢れ出す。

 激痛はさらに強く、激しくなっていくが、それでも、俺の背中を見詰めているあの子がいることを思えば、立ち止まる事なんて出来なかった。

 

 片足を踏み込み、腕を振るう。

 大地が砕かれ、辺り一面がまとめて吹き飛んだ。

 その音に気が付いた“破國”が、生存者達へと向けていた攻撃の手を止めてこちらを向いた。

 洞のような真っ暗な奴の目に灯っていた紅い光が、俺を捉えて驚いたように小さくなった。

 

 

「――――待たせたな、さっきの借りは返すぞ怪物」

 

 

 異形達が崩れ、灰となった道を駆ける。

 灰が巻き上がり、火花を散らすように紅い粒子が舞い踊る。

 

 

「■、■■■■――――!!??」

 

 

 吠えて、迎撃しようとした“破國”の首を刈り上げる。

 真っ二つに引き裂いた身体を二つとも掴むと、数メートル引き摺り放り投げた。

 巨大な体躯は重量も、重力も無いかのごとく宙に浮き、幾つもの障害物を丸ごと薙ぎ払う。

 

 直ぐに分かる、異常なまでの自分の力に。

 死に直面していることで、身体がリミッターを外しているのか、それとも知子ちゃんの一部を貰ったことで一時的に身体が強化されているのか、若しくはその両方か。

 どれが理由かは分からないが、どれでも良いかと思考を切り替えた。

 

 

「梅利っ!?」

 

 

 彩乃の声が聞こえた。

 それに返答はせず、片手を軽く振って応えると、俺は体勢を整えようとした“破國”へ肉薄し、再生が完了した腕を振り上げる。

 絵本の中で見るような、真っ赤で骨張った鬼の腕が自分の肩から生えているのに少しだけ驚いたが、それよりも、腕を振り下ろした“破國”、そしてその周囲一帯に巨大なクレーターを作り上げたことに驚愕する。

 

 あまりの威力だ。

 人知を越えている。

 

 

「――――ああ、分かってきた。俺は力の使い方を根本から間違えていたんだ」

 

 

 俺はもう人では無い。

 何度も言っていた言葉だったけど、俺自身その意味を本当に理解していた訳ではなかったのだ。

 何処かこれぐらいしか力が出せないだろうという考えがあった。

 これくらいだろうと言う勝手な解釈が、自分自身の力を無意識に抑え込み、吐き出せなくしていた。

 そんな勝手な制約が、死に直面したこの状況で外されている。

 

 

「……俺はもう人じゃ無い、人間だった俺はとっくの昔に死んだんだ」

 

 

 言い聞かせるように、刻み込むように呟いて、俺は腕を引き絞る。

 

 

「――――だから、俺は命を捨てるんじゃ無い。俺はこの場所に、命を置いていく」

 

 

 “破國”が何処か嬉しそうに好戦的な笑みを浮かべ、大量の触手状の腕を刺突させてくる。

 俺がそれを一つ一つ丁寧に弾き、破壊しながら一息に距離を詰めて腕を振るえば、身の周りに漂っていた紅い粒子に引火して爆発が巻き起こる。

 黒い爆炎と黒い噴煙に呑まれた“破國”が何か行動を起こす前に、その場から引き摺り出し上空へと放った。

 だが、それは悪手だったようで、“破國”は無数に張り巡らされていた自身の糸を足場にして体勢を整えると、その場で変貌させた頭部の角を俺へと向けて狙い澄ます。

 

 アレが来るな。

 まともに受けてしまったあの突進を思い出して、身を沈ませる。

 恐れたのでは無い、逆だ。

 アレを躱してしまうと、後ろにある拠点が跡形も無く消し飛ばされると言う確信があったからだ。

 

 力負けしないように両手を地面に付ける。

 四足歩行の体勢を取り、じっと“破國”を見据えて備え、爆音の様な大音量を残し一気に突っ込んできた怪物の巨体に合わせ、俺の頭から生える双角で迎え撃った。

 

 音が消えた。そう錯覚するほどの衝撃が頭を襲い、視界が揺れ、頭部が吹っ飛ばされたのでは無いかと疑うほどの激痛が首に走る。

 それでも必死に意識を保ち、付けていた手足が恐るべき速度で地面を削り、俺の身体を後ろに押し出していくのを、何とか押しとどめようと力を込めた。

 

 ドロリと、頭から大量の血液が噴き出した。

 チカチカと視界は点滅し、まともに口は動かず歯がカチカチと打ち鳴らされる。

 吹き飛びそうな意識の中で、それでもギリギリで彩乃達がいる拠点まで届かせず“破國”の巨体を押しとどめたのを理解する。

 

 

「……温いぞ、“破國”っ……!」

 

 

 最後の意地で口元を押し上げる。

 目を見開いた怪物を、そのまま双角で押し上げて弾き飛ばし、今度は俺が両手両足を使い地面を蹴り出して、無防備な“破國”の身体に突進を叩き込んだ。

 頭突きが怪物の巨体を突き破り、紅い粒子が高熱の残滓で身体を焼く、だがそれでもコイツが生き絶える事が無いと確信して、飛び出した先にあった糸を足場にさらに“破國”へ向けて飛び掛かった。

 

 赤く鋭い爪が“破國”を引き裂く。

 幾度となく、幾千もの赤い線は巨大な怪物の身体を無数に引き裂いて、それでも細切れになっていく“破國”は再生を止めようとはしない。

 いや、空中にある“ヒプノス”は確かに“破國”を蝕んでいるのだろう。

 先ほどに比べればその再生はあまりに遅く、あまりに稚拙で、このまま攻撃を続ければ殺しきる事も不可能では無いのだろうが、再生能力を削りきる頃には、先に俺の身体が崩壊するのが先となってしまうだろう。

 

 だとすると別の攻め手が必要になってくる。

 そして、俺は既にそれを持っていた。

 

 

「藪医者っ、見ておけよっ……!」

 

 

 あの医者が欠陥品と言って置いていった薬品を握る。

 無駄だったと、何も出来なかったと後悔して死んだ、医者の先輩が残した最後の薬品だ。

 

 

「俺はお前がどんだけ優秀が知っているし、お前が何の効果も無い薬を作るなんて事は無いと知っている!」

 

 

 数年前に使われて、期待した効果が得られなかった欠落品は、この場において、この国の中枢を破壊した異形を殺す一手となり得る。

 俺はそう確信しているのだ。

 

 再生の中核となっている“破國”の頭部に薬品を持った腕ごと突き刺し、その場で薬品を握り潰す。

 溢れ出した薬品がどれだけの効果を及ぼすのか、再生を繰り返す“破國”の能力にどれだけの悪影響を及ぼしてくれるのか分からない。

 だが、絶叫し、埋め込んだ頭部から膨大な蒸気を上げた“破國”の姿を見れば、俺の考えは間違いでは無かったのだと確信した。

 

 

「そうだ!! お前達の歩みは何一つ間違っていない!!」

 

 

 薬品を握り潰した腕が落とした陶器のように砕けた。

 再生能力が失われていくことに気が付いたのか、“破國”は必死になって暴れ出し、“全身から触手の槍を突き出して俺の身体に叩きつけてきた。

 先ほどまでならば、肌を貫くことも無いだろうそんな破れかぶれの攻撃が、今の俺の身体には、人の身に受けるナイフの鋭さのように突き刺さり、身体を食い破る。

 

 

「夢も未来も、希望も無いこの世界で! それでもお前らは無様に足掻いて生き続けろ! 生きて、夢を作り、未来を作り、希望をお前らの手で作り上げて見せろ!!」

 

 

 それでも俺は身体を貫いた無数の触手をそのままに、暴れ回る“破國”を掴んだ。

 動きを抑え、他の異形の亡骸を喰らわせないように押し留め、さらに突き刺してきた“破國”の攻撃を受けながら、そのまま上空へと放り投げる。

 

 

「……俺はお前らが作るその世界が、きっと何より美しいのだと信じてるよ」

 

 

 誰に届くかも分からないそんな言葉を最後に残す。

 

 今度は先ほどのような失敗はしない。

 即座に上空へ舞った“破國”を追い、下から押し上げるような蹴りを叩き込んだ。

 何度も何度も何度も何度も。

 建物を足場に、張り巡らされた糸を足場に、時には発火する自分の血液を推進力として、天高くまで“破國”を蹴り上げ、空に押し上げた。

 そして、街全てが見渡せるほど上空まで押し上げた“破國”を追い越し、さらに上空まで飛んだ俺は、眼下にある怪物を睨み、身体を回転させていく。

 

 地上では出来ない、身体の力全てを使った一撃。

 足場も必要としない、考えるべき被害も無い、ただ破壊力だけを重視した一撃を。

 眼下に写る宿敵を討ち滅ぼす為だけに、作り上げていく。

 

 欠落した腕ではまともに拳を振るえない。

 砕けていく身体では幾つも攻撃を続けることは出来ない。

 

――――だから、この一撃で終わらせると決めた。

 

 それはまるで、真っ赤な流れ星のように。

 天に咲いた花のように、咲き乱れる。

 

 

「■■■■ォォォ――――!!!!!」

 

 

 “破國”が先に俺を潰そうと、宙で身体をちりぢりにしながらも進化させ、幾多もの刃を作り上げ、俺に向けてぶつけてくる。

 幾百もの刃が俺を襲い、幾百もの刃を突破された時のために身体の傍に控えさせる。

 一つ一つでは致命傷にはなり得ずとも、あの量であれば致死に至ると一目で理解できるほどの物量を前に、俺は決死の覚悟を固めた。

 

 強化した足を断頭台の刃の様に振り下ろしながら“破國”目掛けて一気に降下する。

 “破國”まで攻撃を届かせるにはあまりに刃が多すぎる。

 崩壊し、脆弱となった今の俺の身体ではこの一撃一つ奴に届かせることが出来るかどうか。

 

 そんな不安が頭の隅を掠めると同時に、一発の弾丸が“破國”を貫いた。

 体勢が万全な地面ならともかく、不安定な上空で行われた一撃に、攻撃態勢を整えていた“破國”が崩れ、迎撃態勢を作っていた奴の刃が一瞬だけ無防備を晒すことになる。

 

 

「……知子ちゃん、君は本当に……」

 

 

 遙か眼下に見える地上。

 小さくしか見えないであろう地面に、こちらへ向けてライフル銃を構えた知子ちゃんの姿が見えた。

 

 

「――――ッアア!!!」

 

 

 身体をコマのように回転させる。

 刃の様に研ぎ澄ます。

 崩壊する身体から漏れ出す赤い粒子すら破壊力として、空を二つに引き裂いた。

 そしてそれは一筋の流星となって、怪物を貫く。

 

 体勢を立て直すことが出来なかった“破國”は二つに裂ける。

 脳天から尾まで残らず引き裂かれ、赤い粒子が引火し黒い業火に包まれて。

 内側から広がる名前もない欠陥品の薬物と、周囲から蝕む“ヒプノス”に死へと誘われて。

 

――――――――不死の怪物“破國”の息の根は完全に停止する。

 

 

「――――……ふ、ふふふははは……やったっ、やったぞっ、くそ……」

 

 

 振り下ろした足が砕け、そのまま地面に叩き付けられ、転げ回った俺は笑う。

 やってやった、成し遂げて見せた。

 そう思って笑うも、出てくるのは下手くそな笑いばかりで、困ってしまった俺は悪態を吐いて口を噤んだ。

 

 つい先ほどまでは、数え切れないほどの異形に呑まれていたこの地域に、今は静寂が支配する。

 建物のほとんどが壊れ、更地となり、地盤が崩れてしまっている箇所が多くあるが、それでもこの地に蔓延っていた怪物の脅威は消え去っていた。

 束の間の平和を、この地は取り戻すことが出来たのだ。

 

 遠くで、ざわつくような声が聞こえ始める。

 それが、あの拠点にいた生存者達の声なのだと直ぐに気が付く。

 本当にあの“破國”が倒れたのか疑問に思っていたのだろう、だがそれも徐々に大きくなる歓声に掻き消され、次の瞬間には爆発するような喜びの声に染まりきる。

 笑い声が聞こえる。泣き声が聞こえる。興奮したように話す声が聞こえてくる。

 どれもが激情に染まり、今生きていられていることに対する感激に身を震わせているであろうことが直ぐに分かる。

 人々が喜んでいる、自分たちの命が繋がった奇跡のような現実に信じられないと言う様に歓喜の声を上げている。

 

 ……だがそれは、その喜びの喧騒は倒れ伏す今の俺とは関係の無い、遠い何処かで起きているものだ。

 

 

 何とかその騒がしい場所まで行きたくて、どうしたものかと少しだけ考える。

 どうにか身体を起こそうと試みるが、もう一人で立つだけの力すら残っていないのか、ピクリとも身体は動かなかった。

 もう、自分の命の灯火は掻き消える寸前なのだと理解する。

 

 

「……俺は、どこに落ちた……? 彩乃は……知子ちゃんはどこに……?」

 

 

 パリンッ、ともう片方の腕が壊れた。

 砂のようになった自分の腕に驚き、無くなってしまった腕のあった場所からは、前に嫌と言うほど味わった死の冷たさが伝わってくる事に恐怖した。

 

 一人きりで、徐々に死んでいくあの時を思い出す。

 ゆっくりと冷たくなっていく感触に絶望したあの時と、全く一緒の感覚がそこにはあった。

 

 

「……身体が、壊れていく……。だれかっ……、誰かいないの……?」

 

 

 近くにいる誰かに助けを求めてみても、遠くから聞こえる歓声に掻き消されて、俺の声はまともに響くことは無い。

 それが怖くなって、なんとかこの場所から動こうと、残った片足で身体を引き摺ろうとしてみたが、最後に残っていたその足すら砕けて砂に変わっていった。

 

 手足はもう無い。

 動く手段はもう無い。

 俺の声は誰にも届かないのだ。

 

 

「……やだ、やだよ……誰か、彩乃っ、知子ちゃん……誰か俺の傍に……傍にいて……」

 

 

 命を捨てる、いいや、命を置いていく覚悟はしたはずだった。

 この場所の、彩乃や知子ちゃん達が住まうこの地域を守るために、この身を散らす覚悟は決めた筈だった。

 覚悟を決めたはずだと、自分はもう死んでいる存在だと、頭では分かっていてもどうすることも出来ない。

 こうして死を目前にすると、そんな覚悟は最初から無かったかのように、どうしようも無い恐怖に俺は勝つことが出来なかった。

 

 

「寒い、寒い……さむいよ……」

 

 

 パリパリと、肌が剥がれ落ち始めた。

 再生能力はもう無い、知子ちゃんの肩の一部を食べたことで復帰していた再生力は、もう使い切っていた。

 

 視界が徐々に暗くなっていく。

 眼球が壊れ始めたのか、なんて想像して、カチカチと打ち鳴らし始めた歯を止めることは出来なくなった。

 ……自分がこんな風に一人で死んでいくのだろうと言うことを、俺は理解していたはずなのだ。

 

 

「……いや、これ以上を望むのは我が儘か」

 

 

 あの時。

 彩乃を庇って身体の半分ほどを喪失した俺は、彼女の生存だけを望んでいた。

 父親に背負われて去って行く彼女の姿を見送って、どうか幸せになって欲しいと願い続けていた。

 

 見ることが出来ない筈だった、彼女の生き抜いた先の姿。

 

 成長して、大人になった姿を見ることが出来た。

 

 少しだけでも話し、力を貸すことが出来た。

 

 そして、迷子のあの子の手を少しでも引くことが出来たなら、それで充分である筈だろう。

 

 だから、そうであるべきだ。

 

 

「馬鹿が……泣くなよ俺……」

 

 

 もう目はほとんど機能していない。

 俺の目が色を映すことは無い。

 形を認識することは無い。

 それでも最後に残った機能である涙腺だけが、俺の意思に反して涙を流すのだ。

 

 

「……もう、良いか。俺は、幸運だった……」

 

 

 最後にそう言った俺の身体が、急速に崩れ始めた。

 ボロボロと削れていく肌と命の感覚が、何も見えなくなった俺にありありと刻み込んでくる。

 諦めたからだろうか、どこか納得してしまったからだろうか。

 もう再生する兆しも見せない俺の身体が、そのまま他の異形のように灰に変わり初めて。

 

――――そんなとき、誰かが何かを叫びながら走ってくる音が微かに聞こえた。

 

 その誰かは、もう四肢も無い俺の下に辿り着き、震える手で優しく俺に触れた。

 

 そっと抱き寄せて、何かを小さく語り掛けて、壊れていく俺の傍にいてくれる。

 

 そんな温もりだけで……それだけで俺は、もう寒くなくなってしまうのだ。

 

 

「――――……ありがとう」

 

 

 言葉が形になったのかは分からなかった。

 ただ、その人は抱き締める力を少しだけ強くした。




次で最終話です
1時間後くらいに上げたいと思います
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