煤が舞う。炎が広がる。
鉄火の大地が広がり続け、今も終わる様相を見せはしない。
銃撃音がそこかしこから鳴り響く。その度に何かが砕ける音がして、何かが終わるのだ。
それはもしかしたら命かもしれない。それはもしかしたら命ではないかもしれない。
走る。走る。ただひたすらに。乾ききった喉を酷使して、休憩を求める身体を無視して、生存の二字を求めて戦火の下を彼は走り続けた。
「何だってんだよ……ッ」
思わず出てきた悪態は銃撃音にかき消される。
必死に逃げ出すその様は正に必死で、そして滑稽だ。もしも今の彼の姿を見れば、先ず間違いなく簡単に射殺されることだろう。
ジーンズに、白いシャツ。黒の上着は辛うじて闇の中で姿を潜められるかもしれないが、それでも場違いと言う他にない。
それに肉体も決して頑強という訳ではなかった。極めて一般的な範疇を出ず、持っている物も何も無い。
銃撃鳴り響く場所とくれば戦場というのが相場だ。にも関わらず、彼は拳銃の一つも所持していなかったのである。これを普通と処理する者は誰も居ないだろう。
まるで
そう表現しても何ら不思議でもなく、そしてその言葉は的外れではなかった。
見渡す限り、彼はこのかつて街だった場所を知らない。生で銃撃音を聞いた事も生まれた頃から一度とて無く、彼自身はただの一般人だったのだ。
仕事に次ぐ仕事。疲労が溜まりながらも漸く二か月振りの休暇を手にし、寝転がれば即座に深い眠りに落ちていく。
今日はどれだけ寝ようと許される。正に至福の時間也と、笑みを浮かべながら彼は意識を早々に手放した。
そして次に目覚めた時、彼はいきなり戦火の下で立っていたのだ。
「はぁッ……はぁッ……何なんだよ本当に」
銃撃音はそこまで近い訳ではない。寧ろ段々と離れていっているだろう。
つまり彼の逃げる先は音の無い場所になっていくのだが、それでもまるで安心出来る訳ではない。
何せまるで訳の分からない場所に居るのだ。
誘拐されたにしては何の拘束されておらず、日本だと思うにはその場所はあまりに戦場と呼ぶに相応し過ぎる。
さながら異世界。一般的生活を送っていた彼にとって、この鉄火場は真に正しく異世界だった。
そんな場所にはいられない。こんな場所には居たくない。
一秒でも速く遠くへ。一秒でも速く安全な場所へ。後の事など考える余裕も無く――されどそれでも、戦場に慈悲は舞い降りない。
『――』
撃。
壁の一部にめり込む弾丸は、正しく彼の真横で発生した。
今までにない距離の着弾音に足は強制的に止まり、せり上がる吐き気が襲い掛かる。それでも吐く姿を無様に見せることだけはしない。
何せ、その撃った相手が彼の視界の中に居たのだ。距離はそれなりに離れているとはいえ、僅かに見えた反射するレンズの光が此方に向いていたのである。
第二射は直ぐに来る。半ば無意識で巡った思考は、今まで見せた事が無い程の速さで身体を動かす事に成功させていた。
飛び込んだ廃屋。そして彼が居た場所に襲い掛かる複数の銃弾。
相手は一人だけではなかったのだと背筋には悪寒が流れ、撃たれたという事実に絶望を抱く。
確実に相手は此方を見ていたのだ。そして二射目の場所からそれが威嚇射撃ではないというのを教えられた。
間違いなく殺す気なのだ。自身の知らぬ所属は諸共全員敵という判断を下しているのか、そこに一片も容赦の文字は存在しなかった。
どうすると、脳は加速を始める。
一先ず廃屋に飛び込んだ段階で相手は撃つ事を止めていた。つまり相手の保有する武器の中には廃屋諸共破壊する兵器は備えてはいない。
それに相手は一度確かに攻撃を外した。一直線に走っていた彼を撃ち抜くのは、練習を重ねていた物であればそれほど難しくはないだろう。新人でもなければ胴体に命中させてもおかしくなかった筈だ。
可能性としては三つ。
一つ、今回の相手が新人である。
一つ、狙撃武器ではなく近・中距離武器である。
一つ、銃器そのものに異常が発生して逸れた。
周りは砂嵐のような異常気象は発生していない。気温も高過ぎることは無く、極めて過ごしやすい状態だ。
彼自身の熱が引けばさぞかし過ごしやすいと感想を零すだろう。
己が何故このような場所に居るのかは分からない。
夢であるのではないかという事実は早々に放棄した。風が頬を撫でる感覚を完全に再現するのは不可能であり、彼自身そもそもからして夢を見るような体質ではない。
一度寝れば何も見ずに朝に起きるタイプなのだ。であるからこそ、此処はリアルであるとより気持ちを重くした。
今の彼はオカルトに巻き込まれた人間だ。
迷惑以外の何ものでもなく、もしも運んだ存在がいれば彼は怒りと共に鉄拳を叩き付けていたに違いない。
神に唾を吐く真似をする人間の気持ちが彼には嫌という程理解させられた。
同時に、何者かの足音に目を見開く。
狙撃された距離から考えれば足音が聞こえる訳も無い。となれば別の者が居る。
それが狙撃をする者の敵であるかは不明であるものの、どちらにせよ彼からすれば変わらない。
違いがあるとすれば容赦の無い敵か容赦のある敵かだけだ。
「…………」
あまり期待する事は出来ないだろう。
それならばと、廃屋に転がる物に視線を彷徨わせる。元々は工場系の施設だったのか、パイプの類は山のように転がっている。
銃器を持っている時点でまともな手合いではない。抵抗するだけ無駄なのも当然だ。
万に一つ。億に一つ。奇跡じみた確率を引かなければ、まったくもって残酷な未来が待ち受けているだろう。
素直に死んだ方がマシだ。大人しくするのがらしい末路だ。
だが、それでもと彼は足音の鳴る方向へ構える。
音の方向は廃屋の歪んだ扉の先。手に持つのはあまりにも頼りない鉄パイプ。奇襲出来るのは一回限りであり、その一回に全力を賭ける。
――歪んだ扉が、無理矢理に開かれた。
「――ッ!!」
金属の軋む不快音に一瞬眉も歪む。
同時に見えた白い何か。全体は不明であるが、そんなことは彼にとってどうでもいい。
どんな部位でも構わない。
その後に再度狙う。二度目を狙うチャンスを何とか掴み取り、強引に意識を持っていく。
握り締めた手に痛みが走る。死ぬ気の動作に身体がついていけていないのだろう。腰を捩じり、遠心力が多大に乗った一撃は、正しく
鈍い音が廃屋に響く。全身全霊を傾けた最後の攻撃は、彼にとっては正に史上最大だったろう。
これなら殺せる。そう確信出来るからこそ……目に映る光景を信じられなかった。
鉄パイプは確かに白に命中していた。彼が当てた場所は手であり、通常であればその手は折れていても不思議ではない。
しかしその手は、今確かに鉄パイプを掴んでいる。
彼の全力を容易く受け止め、更に掴んだ鉄パイプ自体がその人物によって潰されていた。
――嘘だろ。
「嘘ではないわ」
僅かに横から聞こえた声に、彼は首を横に動かす。
そこにはハイライトの無い目があった。そこには戦場に似合わぬ微笑を浮かべる顔があった。
桃色の髪に、全身を白で統一したが如き制服。その一部を煤で汚れさせた状態で、反対の手には巨大な一つの鉄の塊を持っていた。
馬鹿げている。阿呆だろ。何だこれは。
現実的ではない状況に遭遇した。現実的ではない攻撃にも遭遇した。
その極めつけが、巨大な銃器を片手で持つ女の子。まったく全体どういうことだと、最早彼には笑うことしか出来なかった。
拙者、ネゲヴ殿に膝枕されたい者で候。