彼方の声   作:伊藤 薫

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 戸部の狭い額にうっすらと汗がにじんでいる。

「永嶋真弓さんについて、詳しく教えてくれませんかね?」速水が言った。「息子の話を含めて。なぜ息子じゃなくてあなたに金を遺す気になったのか?それが知りたい」

 リビングのソファに3人で腰を下ろすと、戸部は重い口を開いた。

「真弓さんは、若い頃から息子のことでは迷惑ばかり掛けられたと、口癖のように言ってました。親なら誰でもそうでしょ?少年院と刑務所の世話になってばかりの息子に愛想が尽きるのは当然ですよ。葬式にもホームレスのような恰好で来たんですからね」

「母親は我が子を憎むほど、嫌ってた?」

「そこまでは知りませんが、最初から望まない子どもだったとは言ってました」

「父親の名前は?」

「いえ、それだけは絶対に言いませんでした。あいだに入った人間がヤクザだったから、口にしたら殺されると言って、ボケてからも怖がってました」

「金はどうやって貯めたんですか?」

「息子の父親から金を出してもらって、スナックを始めたらしいです。その店で稼いだようです」

「息子と最後に会ったのはいつか、知ってますか?」

「刑務所から出て来た時に、真弓さんが住んでた大宮まで来たそうです。これでは縁が切れないと思って、居所をくらますために引っ越したようです。息子の父親から手切れ金をもらったのも同じ頃だと言ってました」

「もう10年以上前の話になりますね。それ以来、1回も会ってないんですか?」

「そのようです」

「ひどい母親だな。息子がグレてもしょうがない」

「大人なんですから、自分のことは自分でやるのが当たり前を違いますか。僕もまともな両親には恵まれませんでしたけど、自力でここまでやってきましたからね」

速水はせせら笑った。

「自力か」

「あなた達は公務員です。僕らの育った環境と違う」

「税金で飼い殺されるのも、死にかけのババアの金で食ってくのも大して変わらないね」

 速水はそう言うなり、ソファから立ち上がった。成瀬川も急いで立った。戸部は安堵したように息をついた。立ち去り際に、速水が口を開いた。

「なぜ、永嶋に村田の住所を教えたんです?その訳を聞かせてもらいましょう。ただ何となくとは言わせない」

「行くとは思ってなかったんです。真弓さんと会った時に、妹が死んだというから、その葬儀に出かけたことがあったんです。それで何となく・・・」

「アンタのその一言が、人の命を奪うことになるとは思わなかったのか」

「何か、あったんですか?」

「何かあることを願って、口にしたのと違いますか」

 速水は口調に怒りを漲らせていた。最後に委縮する戸部を睨みつけ、女物の靴を蹴散らして玄関を出た。路地に出るなり、速水は成瀬川に怒鳴った。

「ぐずぐすするな。次、行くぞ」

「どこへ行くんですか?」

「深洲地区」

「あそこは廃棄区画ですよ」

「だからこそ、行くんだよ。永嶋が潜伏してる可能性がある」

「ですが・・・」

 深洲地区は東京東部に広がる海抜ゼロメートル地帯で、昨今の地球温暖化でほとんどが水没しているが、わずかに残された土地に〈シビュラ〉社会から省かれた人々が暮らしているスラムが形成されている。その端にある埋立地は建築廃材から娼婦の切り刻まれた死体まで、あらゆるゴミが不法投棄され、昼間から女が連れ込まれてレイプされるような場所でもある。警察官でさえ何をされるか分からない。

「今は無理です。拳銃さえないんですから」

「拳銃ならある」

 速水から手渡されたのはベレッタ97Fだった。銃把に搭載されている指紋認証からセイフティが解除される音がする。慌てて管理番号を確認する。2913。3年前に紛失したはずの自分の制式拳銃。なぜ速水が持っているのか。

「お前のことはよく知ってるつもりだ」速水が言った。「3年前の一件から」

《そうだろうとも》

 成瀬川は思わず心奥に感じた。彼方から呼ぶ声の主が眼の前に現れていた。

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