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日曜日。成瀬川は麻布の聖パトリック大学総合病院に来ていた。
聖パトリックは精神に障害を抱えた者の守護聖人であるらしく、ここの総合病院は精神加療センターが併設されていた。高い塀に四方を囲まれ、白を基調とした清潔な病棟が広い敷地のあちこちに建ち並んでいる。
廊下ですれ違う医師と看護師は、誰もが整った顔をしている。患者の色相に影響を与えないよう、整形手術によって『医師や看護師としてふさわしい顔立ち』にされているという噂を聞いたことがあった。
3か月に一度の定期健診を受けた後、成瀬川は病院に隣接する多目的ホールに入り、空いていた中程の席に座る。これから寄付を募るためのチャリティーコンサートが開かれる会場にいる聴衆は少なかった。患者の保護者や家族、来賓の関係者ぐらいしかいないからだろう。
誰もがフォーマルな服装をしている。成瀬川は一瞬、自分がいま着ている安物の背広を恥ずかしく思えた。裕福な家庭環境であれば、こういう病院で加療もできる。それが出来なければ、シビュラ社会では矯正施設に行くしかない。最悪の場合、廃棄区画しか行き場はない。
舞台の照明が落とされる。深紅のドレスに身を包んだ女性が登場し、一礼してピアノに向かう。女性が弾き出したのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻第1番。ハ長調の前奏曲。バッハらしい規則正しい音形とコードの移ろい。その連なりに豊かなニュアンスが含まれていることに聴衆は気付かされる。成瀬川も耳を澄まし、陶然となる。
演奏が終わり、拍手が起こる。舞台に立つ女性が再び礼をする。去り際にホールで独り座っている成瀬川に気付いたのか、女性がウィンクする。
コンサートが終了すると、成瀬川はロビーで手近のソファに腰かけた。携帯端末を確認すると、着信が1件入っていた。液晶画面に表示された電話番号は村田の家だった。成瀬川が電話をかけると、村田の低い声が耳朶を打った。
《何か分かったか?刑事さん》
成瀬川が「すいません、まだです」と答える。途端に通話はプツンと切れた。
「彼女から電話?」
神城史絵が柔らかい笑みを浮かべて、眼の前に立っていた。成瀬川の隣に腰かけると、スカートから覗く形のいい脚が露わになった。舞台ではヒールを履いていたが、足元はスリッパに変わっている。ドレスの上は白衣。
「そんなんじゃない」
成瀬川はそう言って、ついさっき自販機で買った缶コーヒーを神城に差し出す。
「何よ、このしけた餞別は」
「聴きに来ただけでも、ありがたく思え」
神城はこの総合病院で法医学教室を預かっている医師だが、趣味で弾いているピアノを今日のようなコンサートで時どき披露している。今は白衣のポケットからタバコを取り出して弄んでいる。
「病院は禁煙だろ。タバコ、いい加減やめろよ」
神城とは大学で知り合って5年くらいの付き合いになるが、成瀬川が初めて会った時から1日で最低2箱は吸うヘビースモーカーであり、いまだ止めるつもりはないらしい。
「分かってるけどね」神城はタバコをしまい、缶コーヒーを開けた。ひと口飲むと、ほっそりした白い喉が露わになる。「誰だって悪癖はあるでしょう?」
「上司につっかかる癖とか」
「分かってるじゃない」
神城はニヤりと笑った。邪悪な心根を感じさせるような笑みを浮かべたか思うと、「そういえば」と話し出す。
「昨日、麻美さん、退院したのよ」
「麻美さん?」
「ホラ、アンタが3年前に救った誘拐された女の子よ。白崎麻美」
白崎麻美は3年前に性的暴行と薬物注射を受けて加療中とは聞いていたが、精神治療が必要な状態にまで追い込まれていたとは知らなかった。
「予後はいいのか」
「アタシは主治医じゃないから、詳しいことは知らないけど」神城が神妙な表情を見せる。「退院するちょっと前に、公安局の刑事さんが来たのよ。麻美さんに会いに」
「公安局が?」成瀬川は驚いて言った。「何の用で?」
「さあ、ウチの院長はおろおろしてたけど。何かあったの?」
「いや・・・」
成瀬川は自分の携帯端末が震え出すのを感じた。画面を見ると、「蔵前署」の電話番号が表示されている。
「呼び出しだ。もう行かないと」
「忙しいのね」
「警官が忙しくても、誰も気にしちゃいないさ」
「あら、私が気にしてるかもしれないわよ」
神城が身体を斜めにして成瀬川の顔を覗きこんだ。肩まである黒髪がはらりと落ちて、顔の左半分を隠す。何故だか妙に色っぽい仕草だった。大学の頃から周囲に「男前」と妙な褒められ方をされていた女にはふさわしくない。
「からかうなよ」
2人はソファから立ち上がった。別れ際、神城が歌うような口調で言った。
「『私はまた、主の言われる声を聞いた。私は誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか』」
「『そのとき、私は言った。ここに私がおります。私をお遣わし下さい』」
「憶えてたのね?」
「イザヤ書の第6章」
神城が成瀬川の肩に手を置いた。友人を励ます仕草としては、ほんの少し手に力が入り過ぎていた。