彼方の声   作:伊藤 薫

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 永嶋は理沙の手を離さない。仕方なく離してしまう時はある。理沙は自分から繋ぎにいくようなことはしない。永嶋は待っている。早く俺の手を握ってくれ。胸の奥でそう思いながら。

 子どもの頃、永嶋は母親に手を繋いで欲しくてたまらなかった。指の長い柔らかい手を握って歩きたかった。しかし、母は決して手を握らなかった。

 永嶋は理沙の手を引き、廃棄された地下鉄のトンネルを通った。廃棄区画を出てから3日ほど経って、ようやく横河謙の実家の最寄り駅にたどり着いた。2人は夜になるのを待ってから、廃止された駅から地上に出た。夜中に目当ての家を探すのは並大抵のことではない。首都高の高架下は道路に挟まれている。どちらか一方の道路に横河の家は面しているはずだ。

 永嶋は理沙の手をしっかり握ったまま、横河の家を探した。番地からして、住宅の建て込んでいる道路沿いになる。高架下で首都高を車が通過する轟音が響き、永嶋は身の縮む思いに駆られる。死者の声。自分を追ってくる何者かの足音。それらを吸いこむ街の闇は途方もなく深かった。

 横河の表札を見つけた時、永嶋はこれで助かったと思った。インターホンを押すのももどかしく、玄関の引き戸に手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。すんなりと開いた引き戸の奥に向かって、「横河さん」と声を掛けた。

 返事はない。狭い廊下の片側が土間になっている。ペンキの臭いが鼻をついた。父親が塗装業をしていたという。その名残だろう。永嶋は玄関の土間に入り、「横河さん」ともう一度言った。

 玄関で靴を脱ぎ、理沙にもそうするよう小声で言った。理沙は頷き、永嶋の靴の横に並べて置いた。恐る恐る狭い廊下を進む。左側の部屋のドアが開き、廊下に電気が点いた。

 眼の前に、横河の顔が現れた。苛立ちと困惑が入り交じった眼で2人を凝視した。

「永嶋か・・・」横河が低い声で言った。

 永嶋は頭を下げた。

「すみません。一晩泊めて下さい」

「そこの部屋が空いてる」横河は右側にある引き戸に顎をしゃくった。「布団もある」

 永嶋は理沙をその部屋に入れる。それから、横河に「水を一杯ください」と言った。

「この廊下の奥に台所がある。そこで飲め」

 台所に入り、永嶋は明かりを点ける。横河はついて来なかった。この家に来るまでに、横河が金を持っていることを刑務所の中で話していたことを脳裏に思い出していた。湯呑みを探すついでに、軍手を探してそれを右手にはめた。横河が背後から「永嶋」と呼んでいた。永嶋は答えなかった。

「永嶋」横河はもう一度呼んだ。「俺はもう先に寝るから・・・」

 その声を聞きながら、永嶋は湯呑みで水を口に含んだ。ジャンパーの中で、軍手をはめた右手を鑿の柄に当て位置を確かめる。

「横河さん、話がある」

 永嶋は台所の明かりを消して廊下に出た。呼び止められた横河が部屋の入口に立ってこちらを見ていた。

「話って・・・」

「話さ」

 横河の眼が数回しばたたいた。半開きの口がもぐもぐ上下する間、永嶋は横河の前に近づいた。横河が反射的に身を翻す。こちらを向いた男の脇腹に、永嶋は両手で掴んだ鑿を 一気に突き出した。最初、土嚢のような硬さを感じた後、一気に柔らかくなった。

 腹を刺された横河は眼をいっぱいに見開いたまま、一声も挙げずに口から血の混じった泡を噴き出した。永嶋は鑿を引き抜き、倒れかかる男の身体を支え、もう一度正面から刺した。重量が増してかかってくる遺体を部屋の床に転がした。

 背後で息を飲む音がした。永嶋がさっと振り向いた。廊下に理沙が立っていた。その顔から血の気が引いたか思うと、気を失ってその場に倒れた。永嶋は鑿を部屋に放り投げ、理沙の身体を抱き上げて床の間に横たえた。

 永嶋は部屋を物色した。押入れを開ける。積まれていた布団をかき分けると、小さな金庫が見つかった。長い間、動かしていないようだ。理沙と逃げるには金が要る。死んだ横河にはもう金はいらない。

 永嶋は金庫に手を掛けた。

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