彼方の声   作:伊藤 薫

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第1部
[1]


 3日前―。

「23の孫が、殺される」

 署内の相談窓口で、老人がしつこく訴えていた。昨日も一昨日も見かけたが、窓口の係員は適当にあしらっているようだった。

 成瀬川は無視して通り過ぎようとした。

「頼むわ」

 いきなり背中にしがみつかれた。酒臭い息が鼻をつき、思わず突き飛ばしていた。

 老人は仰向きに倒れた。成瀬川は動転した。新聞に『新人刑事、酔った老人に怪我を負わす』などと書かれたらたまらない。大急ぎで抱き起こし、成瀬川は謝った。老人は酔っ払っているせいか、痛みを訴えない。酒臭い息を吐きながら、「理沙が、死んだ嫁の甥からひどい目に遭ってる。あんたらが何とかしてくれないと、ワシでは埒が明かん」と訴え続ける。前歯が無いせいで大声の割に迫力がない。

 成瀬川は相談窓口に立つ係員に事情を聴いた。

 係員は渋い表情を顔に浮かべ、吐き捨てるように言った。

「当節、知らんぷりをして問題になった事件は山ほどある。だから、家にも行ったし、本人にも会ってる」

 定年で退官間近の係員は成瀬川より階級も上だろう。

「だいたい、この爺さんは酔っ払うと、こうやって署に来てぶちぶちと文句を言う」

「ワシが昔、ヤクザだったせいで、真面目に取り合ってくれんのや」

「さっさと帰って、大人しく寝てなさい」係員は邪険に言った。

 成瀬川は老人を表玄関まで送り出した。《蔵前署刑事課強行犯係》と書かれた名刺の裏に自分の携帯端末番号を書いて渡した。もしあの老人の具合が悪くなった時、自分の過失になるかもしれないと思ったからだ。一瞬、家まで送ろうかと思ったが、着任して2週間と間もない。遅刻して叱責されることは避けたかった。

 階段を上がり、2階の薄暗い廊下に出る。毎朝決まったように胸が締めつけられるような緊張感に襲われる。突き当たりの刑事課室のドアは開けっ放しだった。

「おはようございます」

 強行犯係長の橋爪はすでに席に着いていた。

「早い出勤だな。俺が新米の頃は、朝イチに来たもんだ」

 成瀬川は「すみません」と小さく言って、自分の席に着いた。

 刑事講習を修了した成瀬川は玉川署の交番勤務から今春、4月1日付けで蔵前署の刑事課に就いた。

 ここ蔵前署は規模が小さく、殺人や強盗を担当する刑事課の強行犯係も橋爪と成瀬川の2人しかいない。警視庁も昨今の組織改革により、どの部署でも人員を大幅に削らされた上で、厚生省公安局に合併されていた。

「さあ、今日も聞き込みだ。このヤマ、何とかしてケリをつけなきゃな」

 橋爪はそう言って席を立つ。成瀬川も後に続いた。

「胸糞悪いヤマっていうのは、このことだろうな」

 表玄関へ階段を下りながら、橋爪は愚痴った。

 橋爪が『このヤマ』、『胸糞悪いヤマ』というのは、3か月前に蔵前署管内で発生した清掃人材派遣会社社長殺人事件のことだった。

 事件の概要は年明けの1月14日午前8時5分、出勤してきた女性社員が社長室で、同社社長の岩本岳夫が首から血を流して床に倒れているのを発見した。

 通報を受けて、蔵前署から刑事課長と橋爪、公安局刑事課から庶務担当管理官と検屍官が現場に急行した。死亡推定時刻は、前日13日の午後8時ごろ。死因は失血死。被害者は首を横一直線に割かれ、血の海に沈んでいた。

 殺人事件が発生すると、公安局の庶務担当管理官が事件の重大性から刑事課の派遣の有無を決定する。管理官は現場を見るなり、すぐに被疑者を特定できるだろうと確信して蔵前署に捜査を任せた。被害者と争った際の犯人と思われる足痕が見つかり、金庫の現金には手がつけられていないことから、物盗りではなく怨恨。被害者は金への執着が強く身内からも恨まれる人間であったこともあり、指紋のひとつでも出れば容疑者を割り出せるはずだと、管理官は目論んでいたようだ。

 一見、捜査しやすい事件のように思われたが、手掛かりは一向に出てこなかった。未だ凶器の発見はおろか、特定すら出来ない。人通りの多い時間帯であったことから、聞き込みにより有力な情報が得られると期待されたが、これといった目撃証言もない。

 折しも、署長から橋爪に「そろそろ公安局に回しては」と打診があったと聞く。臨場した刑事課の庶務担当管理官の意向らしい。署長に対して、橋爪は「被疑者が特定したらまかせます」と粘ったという。

 交番勤務だったころの経験で、事件の大半は解決されるものだと成瀬川は信じていた。ましてや今の時代、実際に罪を犯したか否かではなく、罪を犯そうと思考するだけで〈シビュラ〉によって社会から隔離されてしまうのだ。

「独りで何でも出来るのが一人前の刑事だ」

「自分の見立てと捜査結果を比較して、想像力を豊かにしていくことが大切だ」

 聞き込みの最中、橋爪は歩きながら成瀬川にこんな話をした。

この事件についても、成瀬川は自分なりに犯人像をプロファイリングしている。人を殺すには動機がいる。犯人の心奥を推し量ることは容易ではないが、金銭目的でないとするなら衝動的な犯行が考えられる。

 親類縁者と知人を中心に怨恨の線で進めてはいるが、この時期まで思い当たった人物は一人も出てこない。成瀬川は考えを変えていた。犯人は人を傷つけることに慣れているか、ひとかけらの罪悪感もない可能性がある。

 成瀬川がそうした自らの考えを話してみるが、橋爪はむしろ嗜めてみせる。

「犯罪者の心理を理解しようとするな。色相を悪くする」

「大丈夫ですよ。自分の《サイコ=パス》、濁りにくいんです」

 成瀬川がそう答えた時、橋爪は一抹の寂寥を表情に浮かべた。


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