成瀬川は蔵前署を出た。腕時計を見ると、午後11時を回っていた。夜から営業を開始するバーやクラブへの聞き込みをやっていたせいで、こんな時間になってしまった。携帯端末に、留守電が1件入っている。精神病院に勤務する知り合いの医師からだった。
《仕事が忙しいのは分かるけど、たまには顔見せなさい。今度のアンタの検診日、あたしピアノ弾くから聞きに来なさいよ》
成瀬川は重い息を吐いた。思い返してみれば、3年前に自分も精神病院に入れられて、隔離されていたかもしれない。そう思うと、今でも背筋に冷たいものを感じる。
あの陽炎のゆれる初夏の日、玉川署の交番勤務についていた21歳の成瀬川はエリアストレスの警報を受け、自転車で現場に向かった。管理番号2913の制式拳銃ベレッタ97Fを携行していった。
エリアストレスは、あるエリアで精神衛生を損なう兆候が確認された場合に発令される警報のようなものだ。刑事や警察官といった特定の職務の従事者でもない限り、これが発令されている地域への立ち入りは忌避されるのが通例となっている。
現場は廃屋だった。以前は、ある企業の経営者夫婦が住んでいた邸宅だった。母屋の方から激しい物音がする。成瀬川は自転車から降りて、庭に踏み込んだ。ガラスの破片が散乱し、庭に面した大きな窓が破られていた。
若いスキンヘッドの男が家のリビングで金属バットを振って、冷蔵庫を叩き壊していた。冷蔵庫は原型をとどめないまでに壊れていた。若者は唸り、口汚く罵り、金属バットを振るい続けている。手を緩める気配がいっさいない。
若者の異様な雰囲気に、成瀬川がおぞましいものを感じた。その時、銃声が背後から轟いて左肩に痛みが走った。振り向くと、もう1人の若い金髪の男が拳銃を構えていた。その男が放った2発目は、成瀬川の頬をかすめて縁側の窓を撃ち砕いた。
成瀬川は恐怖にかられてベレッタを抜いた。リビングからスキンヘッドの男が庭に飛び出して、バットで襲いかかってくるのを感じた。成瀬川は弾倉が空になるまで撃った。スキンヘッドの男に3発、拳銃を持った金髪男に5発、九ミリ・パラベラム弾が命中した。
成瀬川はスライドが後退したベレッタを持ったまま、その場に呆然と立ち尽くした。地面に転がった2人の男から、赤黒い血が流れ出てじわりと広がっていく。ようやく応援か救急車を呼ぼうとして、肩の痛みに呻きながら無線を手にした時だった。
家の中から物音がした。
成瀬川は勇気を振り絞って、庭からリビングに足を踏み入れた。何か音が聞こえる。成瀬川は仄暗い廊下を進んだ。ドアの隙間から明かりが漏れている。ドアノブとカンヌキがねじ曲がっている。震えた声で言った。
「誰かいるのか?」
返事はなかった。成瀬川はドアをゆっくりと押し開いた。ピアノの音色が大音量で流されている。ダブルベッドに制服姿の少女が横たわり、垂れた前髪の影から眠たげな視線を成瀬川に投げた。胸元に無残に浮き出た鎖骨と肋骨。ベッドから垂れた華奢すぎる左腕が、ベッドの傍にあるラジオを掴んでいた。床に散乱した青い錠剤。嘔吐の痕跡。
成瀬川はベレッタを腰に差し、二歩でベッドに到達した。ラジオを止める。少女がゆるりと顔を上げた。
「もう大丈夫」成瀬川は親友に呼びかける声で言った。
少女が笑ったように見えた。栗色の髪をかき上げると、光る眼が見返した。成瀬川が抱き上げても、少女は抵抗しなかった。肉の薄さと骨の細さに、成瀬川は胸を締めつけられた。廊下へ出て、リビングへ向かった。
庭で中年の男が待ち構えていた。近所に住んでいる警察官で橋爪と名乗った。成瀬川が玉川署の者ですかと訊くと、勤務先は蔵前署でたまたま発砲音を聞きつけたのだという。まだ陽が高い庭に出ると、少女が成瀬川の胸でかすかに動いた。華奢な二本の腕を、成瀬川の身体にからみつかせた。
その日の夜、玉川署で署長の記者会見が開かれた。
まず成瀬川の発砲事案について、1名の腹部に2発、もう1名は胸に1発と右大腿部に1発が命中して両名ともに失血によるショック死と虚偽の報告がなされた。次いで、廃屋から助け出された少女には、1か月前に成城署に捜索願が出されていた。少女は撃たれた男2人に誘拐され、性的暴行と薬物注射を受けたと証言した。現在、加療中で取材不可。
犯人2名を射殺した巡査も救出された少女も取材できない不満もあって、警官の過剰防衛が非難する声がマスコミの一部に上がった。警視庁は動じず、運よくというべきか凶悪犯罪が連続して発生し、その事件はたちまち忘れられた。
成瀬川は署で事情聴取を受けた後、制式拳銃のベレッタを紛失したことに気付いた。拳銃の銃把には指紋認証がついており、たとえ拾ったとしても指紋を登録した成瀬川の他の人間に使用できないことは分かっていた。上司に報告すると、「始末書を書いて提出するように」の一言で済んだ。
事件から3か月後、成瀬川は《サイコ=パス》の検診を受けた。検診の結果は、色相も犯罪係数も正常値の範囲内というものだった。担当のカウンセラーは朗らかに笑った。
「〈シビュラ〉から選ばれたみたいですね」
成瀬川は未だ、その理由が分からずにいる。